夢は叶う


 三百人の拍手を聞きながら、ステージを後にして舞台袖を通り抜け、楽屋への通路へ出ると、「歌ってくれて有難う」と声をかけられた。

声をかけてくれたのは、元オフコースの鈴木康博さん。

四十年前にアルバム「ワインの匂い」を聴いてから、ずっと追い続けてきた私のアイドル。

その、雲の上の人が目の前にいる。

 十年ほど前からお世話になっている加戸先生の焼津文化会館ギター教室が菊川文化会館に移って三年目。

今年は発表会が拡大されて、元オフコースの鈴木さんの前座を生徒みんなでやることになり、間借りなりにも鈴木さんと同じ舞台の上に立てるという夢が叶ったのだ。

この日は、刻まれていく一秒一秒すべてが幸せで、至福の一日を過ごすことができた。


音楽活動というものがあるとはっきり意識したのは、焼津東小の鼓笛隊に入った小学校四年生の時。

当時は、というより、後々スポーツ都市宣言をする焼津市では、スポーツが上手なことが何よりも大事で、花形は学校代表の陸上選手やサッカー選手だった。

私もスポーツができることに憧れていたが、生まれもったものはいかんともしがたく、何をやってもだめ。

先生に「選ばれてないけれど陸上の練習に参加させてほしい」とお願いして無理やり練習に参加したが、三日目には「邪魔だから明日からは来ないでくれ」と言われる始末。

こんな私を受け入れてくれたのは、鼓笛隊だけだった。

スポーツほどではないが、焼津東小の当時の鼓笛隊は、静岡祭り、浜松のマーチングバンドフェスティバルに遠征するほど活動が盛んで、市内の陸上大会でも毎年開会式の演奏をする目立つ部活だった。

 運動ができないから鼓笛隊にはいったのだが、運動ができない分、音楽ができるかといえば、そんなことはないわけで、運動神経は音楽にも大きく影響し、友達がレギュラーポジションをとっていくのに、僕は補欠のまま。

でも、神様は気紛れに微笑んでくれるもので、ある日、レギュラーの友達が次の大会に出られなくなり補欠軍団の中から一人が補充されるというチャンスがやってきた。

 数日後のテストまでに手の皮が剥けるまで練習をしてきたのは私だけだったようで、初めて太鼓とユニフォームが与えられた。

スポーツだけではなく、音楽というものをやっても人から認めてもらえるのだと初めて知り、自分には音楽の才能があるのではないかと勘違いした。

 中学校に入ると、すぐに吹奏楽部に入部した。

音楽は楽しかったが、どうも居心地が悪い。

男子部員は三年生一人、二年生一人と新入生の私。他は全員女子。

引っ越しの関係で、全く誰も知らない大富中学校に入学した身としては、このままでは男の友達ができない、と焦る毎日。

そこで、クラスの友達が誘ってくれた卓球部に転部することにした。

卓球なら運動神経のない自分でも、怪我をしないだろうという簡単な理由だ。

当時の吹奏楽部の先生は、大変お怒りになり必死で僕の転部を止めようとした。

文字通り体育館の裏に呼び出されて長い説教をされた。

今でこそ焼津市には音楽の花がたくさん咲いているし、中学校ではクラス合唱も盛んで、男女関係なく音楽に携わる人が生き生きと輝いているが、当時は音楽をやる男子は、それほど珍しい存在だったということだ。

 卓球部と受験勉強に大きく時間を取られたが、音楽が好きなことに変わりはなく、叔父からもらったギターが私の音楽の頼りの綱になった。

しかし、周りにギターを弾く人はおらず、雑誌を見ては一人夜中に練習する毎日。

同様に密かにギターを練習していた人が同じ学年にいることを知ったのは、なんと三年生になってから。

当時の焼津では、音楽を聞くのが好きだという人はたくさんいても、音楽を「する」というのは、それほどマイナーな、公の場では話題にならないことだった。

高校入学を機に今度こそ音楽活動を、と思ったのだが、中学校の時の卓球のライバルだった島田の友達に「当然、卓球部だよね」と手を引かれ、そのまま卓球を続けることになってしまった。

中学校で卓球をやめてしまっていたら、卓球が私の生涯スポーツにはならなかっただろうから、彼には感謝しているが、音楽活動に時間をとれる生活は、また、3年先に延びた。

 大学に入ると、また、卓球部に誘われたが、今度こそ、その誘惑の手を振り切って、フォークソング同好会のドアを叩いた。

先輩たちは優しく、四十年近く経った今でも仲良くしていただいているが、本格的に音楽をやろうとした瞬間、困ったことが起こった。

あれだけ憧れていた音楽漬けの生活を始めたら、改めて、自分に音楽の才能がないことがはっきりしたのだ。

ギターは同好会の中で一番下手。

他にできる楽器もない。

歌えば声は悪いし、アドリブでハモることもできない。

同期の友達が先輩たちのバンドにどんどん誘われていくのに、私一人だけ、どのバンドにも入れてもらえない。

結局、優しい先輩のロックバンドがタンバリンを叩かせてくれて、一緒に色々なステージを体験するという四年間になった。

 好きなことを仕事にしたいと誰もが夢に見るだろうが、自分の才能を冷静に見ることも大事だ。

音楽をずっとやっていきたいという気持ちはあったけれど、自分にはそれを仕事にする才能がないときっぱりあきらめることができた。

文学や言葉の勉強をしたくて大学を選んだら、たまたま教育学部の国語科で、教員免許が手に入ったので、とりあえず小学校で働くことにした。

とりあえず、とか、仕方なくなどと言ったら、今、教員を目指して頑張っている若い人たちに怒られてしまう。

でも、当時はバブル絶頂期。

銀行に入った同級生に教員の給与明細を見せたら驚いて、「これでは家族を養えない。これは、男が一生やる仕事じゃない。何年でやめるつもりだ。」と本気で心配するほど、給料は少なく、人気のない職業だった。

作詞は学生時代から何度か賞をもらっていたので、いつか歌が売れたらすぐ教員をやめようと思っていた。

 ところが、4年目に担任した6年生のA君の行動が、そんな私に雷を落としてくれた。

 ある日、B君が私の所に「A君たちにいじめられているので何とかしてほしい。」と相談に来た。

いじめてくる相手は自分より強い者なのだから、「A君と話し合いの場を設けてやるから、自分で気持ちを伝えなさい。」と応じた私の指導は、今思えば、何の配慮もないものだったが、B君は、そうしてほしいと答えた。B君の勇気にも驚かされたが、A君の行動は、さらに私に衝撃を与えた。

 A君を呼んで事情を話すと、自分はB君をいじめているつもりはないと言う。

「嘘でも謝れば、解決するだろう」という私のつまらない指導には耳を貸さない。

結局、翌日、みんなの前で互いの主張をすることになった。 

翌日、みんなの前で、B君は自分の気持ちを泣きながら話した。

A君に「言うことはないか」と促すと「自分はいじめたつもりはない」という返事。

感情がはちきれたB君はA君に殴り掛かっていった。

その瞬間、A君は私の予想できない行動をとった。

後ろに腕を組んだのだ。

そして、B君のパンチを腹で受け止め続けた。

 自分はいじめたつもりはない。

でも、自分がしたことでB君が苦しんだのなら、B君が気の済むようにすればいい。

自分が殴り返せば自分が勝ってしまうに決まっている。

だから、B君が何をしても、自分は背中の後ろで手を組んでいよう。

これが、一晩考えたA君の答えだった。

人間のこんなにかっこいい姿を、これまで目の当たりにしたことがなかった。

私がこれまで教えていたのは「子ども」ではなく、自分よりレベルの高い「人」だった。

それをA君は教えてくれたのだ。

自分の持っているすべての力を使わなければ、教育のプロにはなれない。

それが、よくわかった。

音楽を続ける夢は後回しでも無くなってもいいから、まず、この仕事を全力でやろうと家でギターを持つのをやめた。

 ところが、世界の仕組みは私の予想を遥かに越えていた。

音楽第一で仕事に身が入らなかった頃は音楽が一向に前に進まなかったのに、音楽を二の次にして仕事を一所懸命やり始めたら、音楽も動き出したのだ。

私の作った歌を子どもたちが歌ってくれて、それを保護者が応援してくれる。

そういうことを聞きつけた仕事仲間が他の音楽活動に誘ってくれて、仕事とは別の世界の音楽仲間と出会える。

音楽優先か仕事優先かを迷っていた時代が嘘のように、仕事が僕の音楽の夢を支えてくれるようになっていた。

 全く音信不通だったA君から突然電話がかかってきたのは、卒業してから二十五年経った時だった。

驚いている私にA君は「だって、先生、卒業する時、一人前の男になるまで連絡するなって言ったでしょ。今、やっと一人前に仕事も軌道に乗って家族もできたから連絡したんだよ」と再会に乾杯してくれた。

その後、A君家族は、遠くは浜松までも、何度も私のライブを見に来てくれている。

今年、大きな夢の一つが叶ったけれど、実は、こんなふうに、音楽と共に生きるという夢は、自分に与えられた仕事を懸命にすることによって、ずっと叶え続けられていたのだ。

 教員生活も、この三月で定年退職となる。

最後の年は六年生担任。

六年生には一年かけて「夢を叶える」という授業をする。

夢が叶うというのは、やりたい職業に就くことではない。

夢は一生、叶え続けられるのだと伝えて、卒業式の日、校門を送り出してやりたいと思う。



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