村岡素一郎は、多年家康公に関係する地方に職を奉じたことから、旧蹟、秘録、社記などその伝記に対する批判の材料を集め、考察を行った。

村岡素一郎




村岡は、徳川家康公の伝記に対する真偽の考察に当たって、まず、わが国の歴史に現れた自然の大きな法則「上下階級の顛倒(貴賎交替の思想)」があり、これが歴史の自然法であったと説くことからはじめた。



<上下階級の顛倒>

  1. 蘇我氏が倒れ藤原氏が興った。祖の鎌足は河内の人というが常陸国の生まれともいう。
  2. 平清盛は地下人(昇殿を許されない小役人)から興り太政大臣まで登りつめた。
  3. 鎌倉幕府を引き継いだ北条時政は、伊豆の賎民で青少年期には六十六部(喜捨を求め歩く巡礼)となり、諸国を行脚した。
  4. 明治維新で権力の中心は、下層階級から身を起こした者の手に握られた。


村岡は、徳川家康公の威徳を欽仰することでは、あえて人に譲らないとしながらも家康出生・成長の中に「貴賎交替の思想」があると正史に疑問を投げかけている。

  1. 家康公の肖像の中で貴人の相でないものがある。
  2. 武州多摩郡府中の竹林から世良田徳阿弥親氏の墓碑が発掘された。史伝には有親、親氏の親子(松平、徳川の祖)は諸国巡歴のあと参河に入り酒井氏、松平氏の養子になったというが疑わしい。

  3. 江戸の柳営(幕府の異称)では、正月元旦に「兎の羹(あつもの・野菜や魚鳥肉の汁物)」を食べる吉例があった。そのいわれは「祖先の親氏が諸国放浪の時、元旦に兎の羹を勧められたが、その年から武運が開けた」という縁起によるという。村岡は、これは家康公の経験であったと断じている。
  4. 家康公の正室築山殿は、嫉妬深く気の強い妻で、武田勝頼と内通して夫の家康殺害を謀ったことが露見したため殺され、嫡子信康も自刃させらたという。村岡は「夫婦、親子の愛情は天倫である。築山殿と勝頼の内通の事実はあやしい。家康公と築山殿は夫婦ではなかったと推測する(後述)」

  5. 「駿府政事録(家康が駿府に引退した後の日記・記録)」に、家康が若き日のことを述懐したことが書かれている。「幼少のとき、又右衛門なる者に銭五貫をもって売られ、九才の時から十八、九才まで駿府にいた。この話は近習の者らが皆聞いた」と記されている。家康公は、松平氏の世子(跡継ぎ)で、幼名を竹千代といい、史実と自己告白とは矛盾する。
  6. 「一富士、二鷹、三茄子(なすび)・・・」この言葉、吉夢は、家康公が駿府の風景、人情を愛好し他国には無いものじゃと仰せられた言葉が基といわれている。村岡は「なすび」が絶品であるというのは、疑問であり、家康公が幼時、貧しく茄子を食べつけていた習慣があったためと説明している。
  7. 家康公の晩年、公の幼少の頃世話になったと感謝するため、駿府の八幡に住む老翁の家を訪ねたことがある。その時、家康は老翁の面を上げさせずに対話したというが、これは威厳を保つためでなく人に自分の童顔を見破られるのを恐れたためと推測している。
  8. 「廓山和尚供奉記」によれば、家康公は駿府を隠居所にした理由を次の五つにあげている。

    *  幼年の時、この土地に住み故郷という感じだ

    *  北に富士の群峰が連なり、冬暖かい

    *  米の風味が他国より勝っている

    *  南西に大井川、安倍川の二長流がある。北東に箱根、富士川の堅めで要害堅固である

    *  江戸への参勤の大小名が機嫌伺いに立ち寄るのに好都合である

村岡は、家康公は幼時に駿府では人質として住んでいたのであり、みだりに外出はできなかったはずである、この五つは自由な身で山川を駆け巡っていた者のような表現だと見ている。
また、家康公が祖先歴代の墳墓の地であった三河、岡崎をきれいさっぱり捨て去ったのに、疑問を抱いている。

戻る  |  次へ