第一章 源流をたずねて 〜奥山一件〜…………………

旧麻機村誌によれば「龍爪山系、通称滝谷、才光寺山麓ヨリノ細流ヲ合セ……一川アリ」、また駿府巡見帳(元禄16年、1703年)では「川水渦巻テ、巴ノ如シ。ヨッテ巴川トイヘルヨシ……」と記録しているように、特異な川であった。 源流

源流は、現在茶畑が広がる静かな山里であるが、百数十年にわたる紛争の地だった。
原因は「秣場(まぐさば)」である。秣場は田畑の肥料にする草刈り場、燃料柴の採取地で各村の「入会山」である。

  • 享保17年(1732年)、「入会山管理者・北村の開墾、焼き畑づくりで、川が濁る」と南の五カ村が訴状。
  • 天保12年(1841年)、「六カ村が、徒党を組み山木を不法に伐採」と北村が訴状。
  • 慶応元年(1865年)、焼畑計画でもつれ。
  • 慶応4年(1868年)、入会山の境界で紛糾。
  • 明治元年(1868年)、北村が、新政府に提訴。
  • 明治10年(1877年)、静岡裁判所、北村に勝訴判決。
  • 六カ村、東京上等裁判所に上訴。
  • 明治14年(1881年)判決に不服で、北村は大審院(今の最高裁)に提訴。
  • 明治16年(1883年)、旧小島藩主瀧脇信敏氏の仲裁で和解するも、明治18年、再び争う。
  • 明治24年(1891年)、当時の警察部長の仲裁で契約調印。(南の六カ村は、池谷、南、有永、羽高、東、柳新田)

記録に残っているだけでも、百数十年にわたる争い「奥山一件」は、ここに終結した。

その各村の「共有地」も、時とともに役目を終え、しだいに民有地に変貌していき紛争も忘れ去られていった。
今は、源流近くまで住宅ができ、新しい住民は昔の苦難の道を知らない。