第二章 治水の苦しみ〜先人の歩み〜……………………

巴川は水源から河口まで高低差7メートルという特異な川である。また上流の山は、糸魚川静岡構造線沿いの破砕帯であり、もろい土砂層からなる。

このため大雨ともなれば、支流の長尾川などから流失する土砂は、巴川をふさいで沿岸は浸水し、水田は一面の湖沼と化す。

「田植え前に部落民総出で川堀りをしました。長尾川や吉田川の合流点には、膨大な土砂が堆積されるので、そこまで堀りにいきました。男は、16才になると課役(かやく)の任を負されたのです。」

巴川の治水の歩みは、様々あるが、ここでは先人の「壮大な提案」を取り上げ、治水の苦しみと試みを振り返ってみる。

<彰徳碑(上土・水天宮境内)>

「巴川ハ……土砂ノ流失益々甚シク……改修ノ急務……長橋・佐藤両氏ノ如キ…常ニ寝食ヲ忘レテ…・・東西ニ奔走シ……・・。負担金20余万円ノ支出ト県費20余万円ノ補助トヲ得……………大正14年8月建立」(碑中長橋佐藤とあるのは、麻機村長・長橋愛吉氏、佐藤半左衛門氏)



<治水富国基(麻機・竹林寺墓地)>

「……年々逆水氾濫シ……農民の苦慮心痛一方ナラザリキ………谷川権佐門ノ義侠………諸氏ト相計リ…日夜苦慮努力セシモ時到ラズ……家産ノ全部事業ノ犠牲トシテ費消シ……・大正15年9月建立」


巴川治水に献身した谷川氏の功績は、今なお語り継がれ、地区の人々の鎮魂・敬慕の催しがある。筆者が訪れたとき、碑の前に生花が供えられており、かたわらに咲く木蓮の花が印象的だった。






梅雨出水
人群れ頭上大鴉

細見綾子
(俳句歳時記・角川書店)