第二章 治水の苦しみ〜先人の歩み〜……………………
巴川は水源から河口まで高低差7メートルという特異な川である。また上流の山は、糸魚川静岡構造線沿いの破砕帯であり、もろい土砂層からなる。
このため大雨ともなれば、支流の長尾川などから流失する土砂は、巴川をふさいで沿岸は浸水し、水田は一面の湖沼と化す。
「田植え前に部落民総出で川堀りをしました。長尾川や吉田川の合流点には、膨大な土砂が堆積されるので、そこまで堀りにいきました。男は、16才になると課役(かやく)の任を負されたのです。」
巴川の治水の歩みは、様々あるが、ここでは先人の「壮大な提案」を取り上げ、治水の苦しみと試みを振り返ってみる。
- 寛政8年(1796年)巴川改修願人・佐野源衛門の願書。「長尾川の水を、田ヶ谷よりトンネルを掘り、浅畑沼に引き、沼の排水促進と巴川の氾濫防止を図る。」時の駿河代官は却下。
- 羽鳥村名主・石上藤兵衛の構想「安倍川の水を遠藤新田でせきとめ鯨ヶ池にいれ、桜峠を切り割り、水を浅畑沼に落とす。堰で水の無くなった下流の河川敷は、開墾して田とする。」石上氏、寛政3年(1791年)逝去で実施されず。
- 天保14年(1843年)時の老中・水野忠邦の下知による大改修工事。「清水湊より巴川経由で、静岡横内町までの通船路の開削。」
しかし3日間掘割りしとき、江戸より御用状が来て中止となる。
- 明治14年(1881年)帝大出の工学士・佐分利一嗣 氏(26才といわれる)が調査と報告をした。「第一案:長尾川の氾濫対策として、現在の橘高校の裏の辺りから、川を真っ直ぐにして突き当たる山にトンネルを掘って水を浅畑沼に落とす。トンネル長は、167メートルという。」「第二案:長尾川の合流点を、下に伸ばし巴川と平行させ、落差をつくり巴川上流の水はけを良くする。」
- 第二案が採用され、明治40年(1907年)より5年の歳月、40余万円の巨費をかけ延長3,950間余の大改修が行われた。
<彰徳碑(上土・水天宮境内)>
「巴川ハ……土砂ノ流失益々甚シク……改修ノ急務……長橋・佐藤両氏ノ如キ…常ニ寝食ヲ忘レテ…・・東西ニ奔走シ……・・。負担金20余万円ノ支出ト県費20余万円ノ補助トヲ得……………大正14年8月建立」(碑中長橋佐藤とあるのは、麻機村長・長橋愛吉氏、佐藤半左衛門氏)
<治水富国基(麻機・竹林寺墓地)>
「……年々逆水氾濫シ……農民の苦慮心痛一方ナラザリキ………谷川権佐門ノ義侠………諸氏ト相計リ…日夜苦慮努力セシモ時到ラズ……家産ノ全部事業ノ犠牲トシテ費消シ……・大正15年9月建立」
巴川治水に献身した谷川氏の功績は、今なお語り継がれ、地区の人々の鎮魂・敬慕の催しがある。筆者が訪れたとき、碑の前に生花が供えられており、かたわらに咲く木蓮の花が印象的だった。
梅雨出水
人群れ頭上大鴉
細見綾子
(俳句歳時記・角川書店)