第三章あばれ水〜巴川暴動事件〜…………………………

巴川の歴史は、川浚いの歴史といっても過言ではない。沿岸農民は、川浚い(主として長尾川、吉田川の流出土砂の取除き)、州留、築堤を毎年苦しみながらつづけていた。このなかで起きた巴川暴動事件を時間とともに追ってみた。

明治37年:
安倍郡、庵原郡の11ヶ村で「巴川水害予防組合」を設立。組合費は、水害の少ない土地(地価は高い)が安く、被害の多い低地の賦課金が多いことから不満がでた。

明治37年11月:
組合設立で静岡県知事の認可が下りた。

明治38年6月:
組合は、19万余円の巨費を投じ3年計画で工事することを決議した。しかし、瀬替えの場所に土地を持つ大地主等から不満の声があがる。また低地の千代田村・麻機村が有利と下流の村民から反対の動きがでる。

明治38年11月1日:
静岡県は総工費の10分の6を補助する議案を県議会に上程した。反対地主側に政友会、組合側に進歩党がつき政争となる。

明治38年11月15日:
反対地主は工事反対の政談演説会開催(16日有度村、17日江尻町、18日豊田村)を静岡新報に発表。

明治38年11月16日:
熱望派の麻機、千代田、西奈、高部の4ヶ村の住民数百人は、当夜の演説会場、教福寺に押しかけ妨害し中止させた。

明治38年11月17日:
4ヶ村の住民八百人は、江尻町の栄寿座に押しかけたが演説会は取りやめになっていた。
そこで指導者の大塩儀作(22才)は「反対派の親玉望月金太郎、栗田孝太郎の両家に押しかけ打ち壊をしよう」と馬上から演説をブッた。群集は両家に乱入し建物、建具などを壊し爆発物を室内に投じ破裂させた。そして「撃てや殺せや孝太郎」と歌いながら引き揚げたという。

数日後:警察は参加者の検挙を始める。

明治39年2月28日:
静岡地方裁判所の予審が決定した。「大塩儀作ら4名は重罪公判、16名は軽罪公判、40名は免訴される。」

<関係者の横顔>

  • 大塩儀作:当時の目撃者は「乗馬で群集を指揮した姿は立派だった。彼は当時、自由民権思想を抱いていた。」という。
  • 栗田孝太郎:前年まで有度村の村長。「切れる人物で、地主の私利私欲ばかりでなく、当時百軒余あつた沿岸の瓦工場の人たちの反対もあった。」といわれている。

<「忘れられた歴史」の著者漆畑弥一氏の結語>

「今日、楠の所で曲がっている巴川は、地主の横暴を語るものであり、醜を後世に伝えるともに、この事件を無言に語る農民の碑(いしぶみ)であろう」