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永禄三年五月(1560)、駿河、遠江、三河のニ万五千の大軍を擁し今川義元は西上の途についた。義元西上の真の意図は何か。
下天メーリングリクトの論議を通して明らかにされる。
それは、一通のメールから始まった。
この文章は「下天メーリングリスト」より転載したものです。
URL:http://www.geocities.co.jp/Berkeley/2500/
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◆<1998/12/21/13:35> 狸で御座います。
今年もいよいよ大詰めとなりました。よせていただいてから半年 ほど、皆様にいろいろとご指導ご鞭撻いただき、深くお礼を申し 上げます。 次々にご紹介いただいた名将百選の候補もさることながら、 例えば長篠合戦の武田軍の実態など非常に興味深いこともご教示 いただき、感謝しております。
で、甘えついでに、今年の最後に、以前から疑問に思っていた ことをお尋ねしたい、と思います。もし、ご存じの方、ご意見を お持ちの方がいらっしゃったら是非お教え下さい。
それは桶狭間の合戦のことです。 私にはこれについて上洛途上の今川義元の軍勢が大休止を取って いるのを察知した信長が長駆奇襲を行って義元を討ち、そのため 今川軍は総崩れになって退却した、というものです。
しかし、これについていくつかどうにも納得できない点がある のです。
(1)今川義元は本当に上洛戦の途上だったのか。途中尾張以降 東海道を取っても東山道を取っても同盟国とは言えない群雄を 蹴散らして上洛し、そこから例えば管領として諸侯に号令を かけることが本当に可能だったとはあまり思えないのです。
(2)そこで実際の目的を当面の敵である尾張の織田のせん滅に あったとすると、何故敵地に入った桶狭間で不用意な大休止を 取ったのか。目的が上洛であったとしても疑問だが、対織田戦が 目的ならほとんど考えられない行動ではないか。
そもそも、桶狭間の合戦を今川方から描いたものがあるので しょうか。なんかまるで今川義元は信長に名をなさしめるために のこのこと出てきて「海道一の弓取り」らしからぬあっけない 最期を遂げ、絵に描いたようなぼんくらが後継ぎになって 今川家臣団はいつのまにか消滅・・・なんてあんまりだと 思うのです。
皆様、どうぞご教示下さいませ。
◆<1998/12/21/14:49> ども、かない@中野サンプラザです。(^з^)゛
そうですね。一番、感謝、感服、感激、雨あられしているのはこの私でしょ う。これから もごひいきのほどを、よろしくお願いします。
( それは桶狭間の合戦のことです。)
私にはこれについて上洛途上の今川義元の軍勢が大休止を取って いるのを察知した信長が長駆奇襲を行って義元を討ち、そのため 今川軍は総崩れになって退却した、というものです。
(1)近年は尾張平定戦というのが定説になっているようです。武田信玄や織 田信長と違って、事前に畿内大名に通告していない(上洛の戦略が不鮮 明)というのが最大の理由でしょうか。
ただ、それ以前に大内義興が単 独で将軍を補佐していたので、若干疑問が残るところでもあります。
(2)私が中学生だった頃、某ローカルテレビでおもしろ日本史(?)みたい な番組(司会は確か桂文珍)を放送していたのですが、桶狭間の回で信 長が小休止するように仕向けたとありました。
あまりの内容に驚愕した のですが、その方法はというと、、、
(1)農民を動員して、あらかじめ行軍してくる道々に、糧食と一緒 に今川軍をもてなして恭順の意を示し、進軍を遅らせ、かつ油 断させた。
(2)各砦には一切の援軍を送らず、かといって撤退命令も出さずに 玉砕するにまかせ(事実上玉砕命令)、敵を疲れさせた。 これで集中した兵力で本陣を直接討つ、と。
これを見たときは、戦いとはナルホド、こうするものか、と非常に感銘 を受けたため、記憶に残っています。
ちなみにこの番組はドラマではな く、一応日本史全般の史実を放送していたように記憶しています。
史実に合致していないでしょうが、あくまでも参考意見として頂ければ、幸 いに思います。ご批判等あれば、何なりと。
(そもそも、桶狭間の合戦を今川方から描いたものがあるので しょうか。)
確かこのMLに今川ファンがいたような気がします。その方ならお詳しいかも しれません。カミング・アウトっす!!
◆<1998/12/21/23:41>下総介にござります。
狸殿、かない殿、某もお仲間に入れてくださりませ(^_^)。
(今川義元は本当に上洛戦の途上だったのか。)
これは、かない殿が示した最近の定説「尾張平定戦だった」に賛成 です。
事前に畿内大名に通告していないのは不自然ですよね。また 打ち破ってゆくにしては陣容が心許ないですし。兵数は史料によっ てまちまちのようですが、兵站を確保しながら、立ちふさがる敵を 粉砕して上洛を実現するのは、いずれにせよつらそうですよね。
(何故敵地に入った桶狭間で不用意な大休止を 取ったのか。)
この辺の話は難しくて、某もまだ考えがまとまらないのですが、 藤本正行著『信長の戦国軍事学』なども参考になるかもしれません。
その本には、義元はそれほど迂闊だったわけでもなく、信長も それほど奇をてらった訳ではないという主旨の内容が記述されていた と記憶しております。特に著者の藤本氏は、奇襲作戦ではないという ことを強調されておりました。
織田勢は普通に進軍して、普通に小休止していた(織田方への備え もしていた)今川勢にぶつかって勝ったのだと。義元まで討ち取れ たのは嬉しい誤算だったと。
藤本氏の説は主に『信長公記』によっているようで、『信長公記』を 忠実に解読すると、前述のようになるようです。
奇襲作戦の認識が広 まったのは、小瀬甫庵(藤本氏に言わせると小説家)の『信長記』が 世に出回ったためとされていました。
某は現在、大方、藤本氏の説にかたむきつつあります(^_^;)。 興味を持たれた方は、『信長の戦国軍事学』を参照なさって下さい。
もっとも、本MLに参加されている方の中には、既にお持ちの方も 多いかもしれませんね(^_^)。
(そもそも、桶狭間の合戦を今川方から描いたものがあるので しょうか。)
興味ありますねえ(^_^)。 某も是非知りたいです。
◆<1998/12/22/0:37>狸さん、かない@中野サンプラザさん、こんばんは。 自己紹介以来の成谷です。
私もかない@中野サンプラザさんに賛成です。
時の将軍義輝は三好長慶との和が成り、永禄元年に二度目の帰洛を果たして います。
その後の長慶とはある程度友好関係にあり、永禄三年時点でも安定 期と言って良いと思われます。
永禄二年の信長上洛も長慶に邪魔された形跡 もありませんし。その義輝が義元に上洛せよと言い、またそれを真に受ける 義元も間抜けな感じがします。
(農民を動員して、あらかじめ行軍してくる道々に、糧食と一緒 に今川軍をもてなして恭順の意を示し、進軍を遅らせ、かつ油 断させた。)
「武功夜話」に蜂須賀小六などが仕組んだとあります。それに似ていますね。
(そもそも、桶狭間の合戦を今川方から描いたものがあるので しょうか。)
強いていえば「三河物語」でしょうか。松平元康は今川陣営ですし。これに よると、長評定をしている間に討ち取られています。
◆<1998/12/22/0:56>下総介です。
あ、成谷さんもこちらのMLに参加されていたのですね。 でしたら、ご自分のHPを紹介されたら良いのに(^_^)。 きっとご自分では紹介しにくいのだと思いますので、 余計なおせっかいかもしれませぬが、某が紹介致します。
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信長・友の会 http://plaza2.mbn.or.jp/~nari/ ===成谷 透===
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こちらのFAQ21-8や、その他で、桶狭間に関する興味深い 議論が展開されていますので、ご覧になったことのない方 は是非ご覧になってください。
◆<1998/12/22/1:00>大島渚でございます。
今川義元に関しては私も少々考える事が 多いので、ちょっとお話に加えさせてくださいね(^^)
私も上洛戦であったかどうかは少々疑問です。
しかし、大規模な兵力の集中を行い、親父の代から 何かとうるさい尾張を平定し、余勢を駆っていけるとこまで 行こう、周囲の大名に多いに今川ありをアピールした上で 管領等の室町体制での顕職を欲していたのではないでしょうか?
幕府権威が失墜したと言っても、謙信のように、関東管領職を 有りがたがる人間の方が依然多かったのではないでしょうか?
( 各砦には一切の援軍を送らず、かといって撤退命令も出さ ずに 玉砕するにまかせ(事実上玉砕命令)、敵を疲れさせた。)
これは、山岡宗八の織田信長でも採用しているお話ですね(^^)
若干でき過ぎなような気もしますが、信長が玉砕するにまかせ 前線の佐久間大学らを見殺しにしたのは事実であり、梁田綱政 の情報を待って、奇襲のタイミングを必死になって待っていた。
というのは、そんなに無理のない話であると思います。 義元にすると、田楽狭間での休息は油断ではあったかと 思うのですが、この点はそんなに無理のない話ではないで しょうか?
この点で狸さんは義元がそんなにまぬけかな? と疑問を呈されてますが、私は油断はあったでしょうが、 既に、鷲津、丸根の両砦を落とし、敵先鋒の大将も討ち取り 信長からの援軍もなかった。
以上の状況で、大雨、ここまで条件がそろえば、油断も仕方 ないのかな?っと。・・・・ 別に義元が特別ぼんくらっていうよりは、やはり、ぎりぎりまで 「我慢」した信長を誉めるべきではないでしょうか?
総兵力において圧倒的寡兵を持ってあの戦に勝利するには 奇襲による、本陣突破しかない。そして、その為には糾合できる 全軍を持って叩く兵力の集中、という用兵の基本を見事に具現 してみせた信長会心の戦だったのではないでしょうか?
まぁシンプルでつまらないですが、そんな感想です。
あと、太原雪斎の死も今川家の軍組織の怠惰を生んだ遠因の 一つだと思います。 まぁそんなわけで私は比較的今に伝わる桶狭間の姿は史実 からそう遠く離れてるのではないと感じているところです。
実際義元が一人で軍配を取った初めてに近い戦だった のではないでしょうか??
◆<1998/12/22/2:17>ども、らきゅです。
私も桶狭間の合戦については 藤本説でよろしい(というか「通説」がおかしすぎる)かと。
(1)上洛説 桶狭間の合戦にも、最近はやりの後詰決戦理論をあてはめてよいかと。 今川側が調略で取った鳴海・大高・沓掛の各城に、 織田側が丸根・鷲津などの付城(というか砦)を 構えて(封鎖をはかっ)たので、それを打破すべく 義元自ら出陣したととらえるべきでしょう。
(これだと尾張平定戦ですらなく、尾張国内における 今川・織田の境界線争いとなるでしょうか)
義元は勢力拡大に非常に慎重で、 上洛途上の後背(武田・北条)、三河・尾張の政情不安を 考えれば上洛しようとは思わなかったかと。
織田側が尾張国内の城に籠城すればさらに時間がかかって・・・ というこの話は、そもそもそれ以前の付城の議論を なおざりにしていますね、はい。
(2)義元の行動 義元が陣を置いていた場所として、 いいかげん『信長公記』の「おけはざま山」が 浸透してもいいわけですが(^^;;
(でも桶「狭間」の戦いですしね、通りのいい名前は)
信長に奇襲の意志がないのは『信長公記』に見える いくつかの記述からも明らかで、 信長の指示としては「敵は疲れているがこちらは新手である。 敵が攻撃してきたら退いて、後退したら追撃しろ」 と言っているわけです。
(別に狙うは義元の首一つ、などということはない)
今川方から見た戦闘の記録として『三河物語』がありますが、 (詳しい記述は省きますが)そこでは今川方が織田軍より 高所にいたこと、今川方の旗本が最初に攻撃されたのではない ことが読みとれます。
以上、主に参照したのは、 『別冊歴史読本増刊 織田信長 その激越なる生涯』中の 「真説・桶狭間合戦」 藤本正行
◆<1998/12/22/3:37>かず@川崎です。ちょいと脱線します。
(各砦には一切の援軍を送らず、かといって撤退命令も出さずに 玉砕するにまかせ(事実上玉砕命令)、敵を疲れさせた。 これは、山岡宗八の織田信長でも採用しているお話ですね(^^))
これは私も読みました。(^^; 秀吉の「味噌帳簿」の話でしたっけ。
というのは、そんなに無理のない話であると思います。 ただし、山岡荘八さんの小説は話を盛り上げる為に 胡散臭い話が多々入っています。
これもありえる話のような気はするものの、 私は無いと思いますよ。
(^^; 元は成谷さんご指摘の「武功夜話」で、 あれって、確か史実を書き換えるような 逸話が多いようでして、、、(^^; -- 秀吉は村長の子であったとか、
桶狭間の作戦は生駒屋敷で練ったとか、、、 (お、面白い、、、(^^;;; )
◆<1998/12/22/17:11> ども、かない@中野サンプラザです。(^з^)゛
( 時の将軍義輝は三好長慶との和が成り、永禄元年に二度目の帰洛を果たして (ザックリ略))
あ、脱線してしまいますが、私は戦国で義輝が結構好きな方です。
1.自分の名前の字を高く売りつけたり、
2.年号が変わったのに将軍独り蚊帳の外だったり、
3.三好氏とケンカするくらいに剛毅だったり、
4.大名間の争いに頼まれなくても口を出したり、
5.最後には刺客に対して自ら抜刀、将軍となって死に華を咲かせたり、 特に刀が折れるまで闘った死に様はカッコいいです。
戦国での壮絶な死に方 をした武将ベスト3(な、長い)を作ならば、文句なく入るでしょう。
ところで、もし義輝が生き延びていたら、信長の台頭もなかった(室町幕府 を滅亡させられなかった)ように思われますが、皆さまは如何でしょうか。
◆<1998/12/22/18:41>狸で御座います。
かないさん、上総介さん、成谷さん、大島渚さん、らきゅさん、 かずさん、石久保さん、桶狭間(「おけはざま」と表記すべき なのでしょうか)についていろいろとご教示いただきありがとう ございました。
まず、出陣の目的がおおむね尾張平定戦であったとのご指摘、 やはりそうですか。
もし尾張平定戦であれば確かに納得できますね。 かないさんの大内義興の例については、私の記憶では大内勢は 海路上洛したかと思いますので、もしそうなら陸路の今川とは 必ずしも同じには扱えないのではないでしょうか。
一方、戦闘の状況についてはどうやら単純に油断して大休止して いた今川勢の本陣を信長が奇襲して、というのではないようですね。
かないさんにご紹介いただいた作戦ですが、はっきり言いまして 「いやになるくらい信長!」ですね・・・。
確かに兵員を単なる 消耗品としか考えない作戦は信長しか考えないという気がするの ではありますが、同時に、では一体本当の作戦はどうだったのだ、 という疑問が残ります。
本当に漸減作戦で出血を強いておいて、 好機を見て決戦、であったのか。大雨も大休止も偶然の好機で あって、前もって予定できるものではないでしょうから、では 信長は一体どのような防衛方針を持っていたのか、はやっぱり 疑問として残ります。
いずれにせよ、いろいろとどうもありがとうございました。また、 ほかにもあればどうかお教え下さいませ。
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