糟地蔵

その4

 向こう岸に降り立ったお里は、飛ぶようにして家へかけつけました。
 裏口から台所へ入って酒がめを見たとき、あっと驚きました。何と、かめのそばに、酒をしぼった糟がうず高く積まれているではありませんか。
(あれれっ、これはどういうことだろう。だれが、だれが酒をしぼってくれたの。でも、かんじんのお酒がどこにも見当たらないはどういうわけだろう。………さては、あの甚吉おじさんがしぼってくれたのかも知れない。)
お里は、あわてて甚吉の家へかけこみました。
「なに、お里ちゃん、一体どこに行ってたんだよ。お前がいない間に、青い帽子をかぶった小さな男の人が来てな、
『おいしいお酒だよ。買ってくれ』
っていうのじゃ。試しに飲んでみると、うまいの何のじゃない。この近所の人もみんな買ったということだよ。何でもお里ちゃんが作った酒だといっていたがのう……なに、お里ちゃんが知らねえということになると、こりゃあ、不思議だなあ。」
お里は、狐につままれた思いで家に戻りました。酒糟の山を見ながら、
(甚吉おじさんでないとすると、だれがやってくれたのか。)
半ば呆然としながら、へたへたとその場へすわり込んでしまったお里は、見るともなく仏壇の方へ目を移しました。
「おやっ」
仏壇のなかに、何やら光る物が見えたのです。びっくりして近づいてみると、それは、何枚とも数え切れぬ程のお金だったのです。
(青い帽子をかぶった小さな男の人。そんな人は見たこともない。一体だれなの。)
お里は、あわてて家を出ていました。足は、すでに、地蔵堂に向かっていたのです。
 地蔵堂に入ったお里の足は、そこに釘づけとなりました。地蔵さまは、青い帽子をかぶっているではありませんか。
 しばらくの間、身動きもできなかったお里は、やがて地蔵さまに近づき、その手を見たとき、驚きの余り、大きな声を上げました。
 「この手にまみれているのは、糟、糟だ。あのかめのそばにあった酒糟と同じだ。それでは、わたしに代わって、酒をしぼってくれたのはこのお地蔵さん。ああ、ありがたい。」
お里は、ただ湧き起こる感謝の心を抑えることができず、地蔵さまの前にひれ伏して、涙を流していました。
 お里は、家に帰って仏壇に手を合わせると、ようやく落ち着きを取り戻しました。そこで気にかけていた法事の支度を始めたのです。
「お里ちゃん、手伝いにきたよ。」
「おぜんなど、貸してあげるよ。」
親切な村人は、だれかれとなく法事の支度を手伝ってくれます。
 その法事の日、沼津宿の伯母さんも来てくれました。
 身寄りのほとんどないお里だったのですが、近所の人が大勢出てくれました。
 法事が滞りなく終わって、村の人たちが帰ったあと、お里と伯母は、かたく手を握り合っていました。お里の目にも、伯母の目にも涙がきらりと光っていたのです。
 その後、お里は、また酒を造りました。
「お酒はいかが。お酒はいかが。」
売り歩くお里の声を聞くと、人々は、みな買い求めてくれました。
「香貫のお里という娘の造る酒はうまいそうじゃ。」
「いや、その旨味といったら、口では表しきれぬわ。」
香貫ばかりか沼津の宿まで、評判が広がって、造るのが間に合わないほどよく売れました。
 そんなとき、甚吉が、お里の家へ訪ねてきました。
「お里ちゃんも、造り酒が飛ぶように売れて、ほんとにもう安心じゃ。これもお地蔵さまのおかげじゃのう。所で物は相談じゃ。いい婿殿がいるのだが、迎える気はないじゃろうか。婿殿がきて、赤子ができれば、死んだ父っあんも、おっかさんも草葉の陰でさぞ喜ぶことじゃろうに。」
甚吉は、熱心に語りかけました。
 お里は、甚吉の言葉を聞き、死んだ父、母のことを考え、深くうなずいていました。
 やがて話がまとまり、めでたく祝言をすることになりました。
 その日、大勢の村人がお祝いにきてくれました。やがて宴たけなわとなるうちに、だれが唄い出すともなく、
 「めでた、めでたのお祝言
 お里の酒はうまかろが
 お里の酒はうまかろが
 末代までのめでたさよ」
お里の造った酒に、身も心も酔いながら、村人たちの唄声は、いつまでも夜空に響き渡っていくのでした。
 その後も、お里夫婦は、酒造りを続けましたが、味の良さ、香りの妙が、ますます評判となり、近郷近在からの客は引きも切らず、繁盛の上にも繁盛したということです。
 それからというもの、いつとはなしに、この地蔵さまを、
「糟地蔵」
「孝行者のお里を助けた糟地蔵」と呼ぶようになったということです。
 この「糟地蔵」は、現在、門池北の三明寺に安置されており、近くは勿論、遠く県外からも多く信者が訪れ、多くの人々の信仰を集めています。