鉄道 思い出話・むかし話

男は、子供の頃は総じて鉄道(電車)が好きだと思う。ノーベル化学賞を受賞した田○さんは「子供の頃の夢は電車の運転手になることでした」と話していたのを聞いて分かる気がした。 大抵の人は大きくなるにつれて興味がなくなっていくのだが、その興味を持続した人達が「鉄ちゃん」「鉄道ファン」「鉄道マニヤ」「鉄道オタク」等と呼ばれるようになっていく。 一口に「鉄道に興味がある」と言っても興味のある分野(範囲)はそれぞれ。楽しみ方は千差万別である。私の場合は何だろう。時刻表や鉄道に関する書物を読むのが好き。もちろん、乗ることも好きです。
しかし、考えてみると鉄道による旅行は車やバイクに比べて時間もお金もかかって、実は大変贅沢なんですよね


鉄道に関する作者の思い出話・むかし話しを書いてみました。また思い出したらその都度追加していきます。
現在と昔ではずいぶん変わっていますので「そんなことはないだろう」と思うことがあってもご容赦ください。
(掲載の写真は『懐想 石川の鉄道』様から転載させていただきました。ありがとうございました)

きっかけ
踏切のベル
ポイント
線路の向こうは
釜清水
小松線
飛び降り
鉄板
金津

追加しました!
踏切事故
踏切無視
バス路線
金石線
北陸本線

1.きっかけ
好きになるためには乗る見る等、鉄道とふれ合える機会がなければ無理である。
私の場合は北陸鉄道(北鉄)能美線沿線に住んでいたことが大きな要因であろう。金沢へは能美線から石川線へ乗り換えて行った。また、正月とお盆になると母の里へ能美線、北陸線、七尾線と乗り継いで行った。 能美線は電車、北陸線は電気機関車が引っ張る客車、そして七尾線は気動車(ディーゼル)。3種類の鉄道が楽しめるのである。この環境に揉まれたことにより鉄道から興味が失せることはなかった。 戻る

単行
ありし日の能美線。現在の能美市を東西に走っていた

2.踏切のベル
小学校高学年の時、新聞配達をしていた。早朝、最寄りの湯谷石子駅まで配達する新聞を取りに行かなければならない。新聞は本寺井駅で決まった電車に積み込まれる。電車が到着すると車内に乗り込んで新聞の束を取り出した。
湯谷石子駅で町道が交差しているので踏切がある。現在のような警報器ではなく電車が近づくとベルを鳴らすようになっていた。駅員(駅長さん)がホームのスイッチを操作するのである。毎日通っているので駅員とは当然顔見知りになる。 その内、その操作を私にやらせてくれるようになった。電車が踏切に近づいて、そろそろ危ないなあと思ったらベルのスイッチを入れ、通過したら切るのである。小学生の私にはこの操作がとても嬉しかった。あのベルの音は今でも忘れません。 戻る

3.ポイント
電車は1時間に1本しか来ないので駅は子供の格好の遊び場であった。小学生の頃の湯谷石子駅は貨物を扱っていたので貨物用に側線が1本あった。そこから某硬質陶器会社までトロッコが敷かれていた。側線があればポイントがあり、ポイント切替器がある。円盤型の錘の付いた手動式のタイプである。 重いので1人では無理でも2〜3人なら持ち上げて切り替えることができた。それが楽しくてやっていたら流石に「こら〜!」と大声で怒られた。
その後、貨物の取扱いが廃止となって側線が取り外された。それでも交換駅であったが、晩年は朝夜だけの運転になり、交換駅でなくなってしまった。ポイント無しの本線1本の駅だけになった時は、言葉では言いようのない寂しさを感じました。 戻る

駅
晩年の湯谷石子駅。この手前が踏切。警報器があった

4.線路の向こうは
金沢へ行く場合は能美線に乗り、鶴来で石川線に乗り換えた。天狗山トンネルを抜け、手取川に架かる鉄橋を渡ると右手から線路が近づいて並行する。金名線である。この線路を見るたび、この線路の向こうには何があるのかな、行ってみたいなと思ったものだった。
その機会は小学校の遠足の時にやってきた。もっとも加賀一の宮までだった。勘のいい方だったらお判りでしょう、ロープウェイに乗って獅子吼高原へ行くためです。たったふた駅でも金名線に乗れるは嬉しかった。 戻る

5.釜清水
金沢では白菊町駅を利用した。野町で市電に乗り換えることはほとんどなかった。白菊町駅の時刻表は華やかだった。急行、準急、普通は色分けされていた。行き先もいろいろであって賑やかである。本数も多かった。
その行き先の中に釜清水という駅名を見た時は衝撃だった。「白山下」や「加賀一の宮」という駅名は知っていたが釜清水は知らなかったからである。どんな所だろうと思った。区間運転の発着駅ならそれなりに大きいのだろうか。 その釜清水に初めて行ったのは小学校高学年のやはり遠足の時であった。とても嬉しかった。 戻る

6.小松線
小松線と能美線がつながっている地図を見たことがある。実際にはつながっていないので変だなあと思った。しかし最近知ったのであるが、終点の鵜川遊泉寺から能美線の加賀佐野までつなぐ計画があった。実際に一部着工したようである。その地図は予定線を書き込んでしまったのだろうか。
実際につながっていても結局は全て廃止されたと思うが、鵜川遊泉寺と加賀佐野は近いので実現してほしかったと思う。構想だけなら鵜川遊泉寺から金名線の釜清水まで延長する話しもあったかもしれない。それよりははるかに現実的である。 戻る

7.飛び降り
母の里は七尾線沿線である。かつて金沢駅に七尾線専用のホームがあった。1番線と2番線である(その後、0A,0Bとなったとか)。北陸線から乗り換えるのだが、面倒なのでいつも最初の車両、つまり最後尾に乗っていた。 その頃は2両が輪島、2両が能登線方面、4両が七尾で切り離しの8両編成が多かったと思う。
ところが最寄りの駅では、8両編成の場合はホームから1両はみ出てしまうのである。結局、駅に到着するといつも飛び降りていた。1両先に乗ればそんなことはしなくてもいいのにいつもそうだった。 今思うと馬鹿げた話しです。現在ではホームからはみ出る場合はドアは開かないようになっているからこんなことはできないでしょう。 戻る

8.鉄板
最寄り駅の思い出をもうひとつ。下りホームから駅の改札口へ行くためには線路を渡らなければならなった。そのため、ホームの一部が階段(2〜3段?)になっていた。しかし普段は危険なので鉄板がかぶせてあった。 列車が出発すると駅員がその鉄板を「よっこらしょ」と持ち上げるのである。当然上りホーム側にもあり同じ作業が必要であった。
こんな駅は他にもあったのだろうか。陸橋ができた頃には七尾線を利用して行くことがなくなっていた。 戻る

9.金津
だいぶ前に芦原温泉駅と改称されてしまったが、金津という駅名には懐かしい思い出がある。
小学生の時、中学生の姉と二人で大阪のおじさんの家に遊びに行ったことがある。小松駅から乗ったのは急行「立山」。電車ではなく客車である。車内は混んでいて座れなかった。「大阪まで立っていくのかな」、たぶんそう思ったろう(想像)。
二人で立った前の座席に家族連れが座っていた。おかあさんとおぼしき女性が「どこまで行くの?」と聞いてきた。姉は「大阪です」と答えた。すると「私達は金津で下りるからそのあと座るといいよ」と教えてくれた。 小松から金津は近い。座席が確保できた時はうれしかった。もうそれからは初めてみる車窓の景色にワクワクであった。それ以来、金津という駅名はずっと脳裏に焼き付いている。 戻る

10.踏切事故
能美線はT町で国道8号線と交差していた。踏切では車は一旦停車していた。中学生の 時、トラックと電車が衝突する事故があった。踏切に気付くのが遅かったのが原因 だったと思う。その事故がきっかけで踏切が信号式になった。信号式になると車は一 旦停車しなくてもよい。ところがこれによって車の流れが早くなり、踏切付近では国道 を横断するのが危なくなった。自転車通学の中学生や高校生が毎日横断している。私 もその1人だった。その為、間もなく国道8号線を横断する道路にも信号機が設置さ れた。私にとって身近に設置された信号機の第1号だった。今でこそ当たり前 の信号機も車が少なかった当時は珍しかった。 戻る

踏切
事故があった踏切。信号式になっている

11.踏切無視
踏切ネタをもうひとつ。これは苦い思い出である。 能美線は昭和45年4月(たぶん)から朝夕だけの運転となり昼間は電車が走らなく なった。 年末に帰省した時のことである。大晦日、姉から「友達の家にお祝いのお返しを持っ ていきたいので車で送ってくれ」と言われた。二つ返事で了解して車で出掛けた。在 所内の能美線の踏切が見えてきた。その時、悪魔が耳元で「昼間は電車が来ないよ」、とささ やいた。一旦停止することなく踏切を通過した。「どうせ昼間は電車が来ないから停 まることもないさ」と車の中で自慢げに話したその時である。車の右側にカブが見え てきた。乗っている人がこちらに向かって手で合図をしている。何だろうなあと思っ ていたらどうも停まれと言っているようであった。何と!警察官であった。「昼間 は電車が来ない」という言い訳が通用するわけがない。お正月を目前にして5000 円の逆お年玉を頂戴してしまった。その足で郵便局へ行き、納付した。姉の友達は 「罰金を払ってまで訪ねてくれて気の毒な」と慰めてくれた。ずっと車とバイクに乗っているが、交通違反で反則金を納めたのは今のところこの1回だけである。
ちなみに姉の友達は同級生のお姉さんなのでお互い皆知り合いである。このところ続けて同級生と再会している。 戻る

12.バス路線
小学校低学年の時、在所から小松までバス路線が新設された。その最初のバスが来た 時は、みんなで小旗を振って歓迎した。県下第2の市へバス1本で行けるようになっ たので校下の住民には画期的な出来事だったのである。能美線が朝夕運転になるまでの数年間が 公共交通機関の便が一番よかった期間だと思う。就職が決まって、いよいよ上 京する時、両親と姉がバス停で見送ってくれた。そのバス路線も今や廃止同然であ る。 戻る

13.金石線
とんと縁のない鉄道であったが一度だけ乗ったことがある。専光寺の健民海浜公園で 学校の行事があったからである。その後、観音堂にバイク免許の試験を受けに行っ た時はすでに廃止されていたから滑り込みセーフだったようだ。浅野川線がいまも健在であ ることを考えると残念である。 戻る

14.北陸本線
私の生まれ育った町には北陸本線が通っていなかった。蒸気機関車が通ったら火の粉で田んぼがだめになると当時の人達が反対したためだと小学生のときに教えられた。北陸本線を利用する機会が増えたとき、それを恨んだものである。 戻る

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