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やれやれ・・・ありましたよ、写真が。

もう20年も前のものだけど、こうして見ると昨日の事のようです・・・。

北アルプス「野口五郎岳山頂」 1978年


この時は北アルプス裏銀座ルートを歩きました。歌手の野口五郎さんはこの山から

芸名を取ったそうです。(山に人名がある時って、たいていその土地の有能な案内人や

ルート開拓者の名前がつけられているんです。)

 

※2006年加筆

「〜五郎」という地名は、岩がゴロゴロしている様への当て字で、呼称としては古くからあるようです。沢筋でも「ゴーロ」といえば流出巨岩が多いところを指しますし、黒部五郎など多くの五郎山頂には、露出岩石が転がっています。従って人名ではないようです。 失礼いたしました。



私は写真記録係をよくやっていたので、あまり自分の写真がないんですよ。

当時はカメラ全般に興味があって、重いけど「8ミリカメラ」も持ち歩いて記録してました。

いいですか、8ミリビデオじゃないですよ。「カメラ」です。

だから現像に出して戻ってくるまで見れないんです。フィルムを使ってましたからね。

フジカ「シングルエイト」など、よく知り合いの写真屋さんに借りて持って行きました。


下の写真は男女合同で北アルプス「上高地:かみこうち」を遡上し、

女子は表銀座へ、 男子は裏銀座へと展開した時の物です。

 

合同で一枚 河童橋 1978

奥穂高岳 1978

 


表銀座は、いわゆる信州「安曇野:あずみの」の背景としてよく出てくる風景で、

「蝶ヶ岳:ちょうがたけ」「常念:じょうねん」「燕:つばくろ」などの起伏に富んだ山々が

連なります。で、男子の裏銀座は

「槍ヶ岳:やりがたけ」「樅沢:もみさわ」「三俣蓮華:みつまたれんげ」「烏帽子:えぼし」など、

一日の徒歩量の多いのが特徴の、けっこうきついコースでしたねー。

尾根への出発を前に、大型キスリングを置いて一休み。
キャンプには人の営み・文明がある。
1978年撮影

北アルプス裏銀座を歩く男子部員たち。
自分の装備と知識以外は全て自然の法則に従う世界。 1978

 

この時は雷さんの恐ろしさも堪能できましたねぇ〜。

槍ヶ岳付近では、突然激しい雷雲が発生して追いかけられました。

山は2500mを超えると人間より背丈のある木なんて無いので、私たち剥き出しなんです。

装備品には金属も多用されてますし、隠れようにも隠れる場所がありません。

「ここに居ては危険だ、走れー!」避雷針のある小屋まであと15分ほどでしたので、

30キロ近い荷物を背負ってる事も忘れて走りましたねー。

そして、必死に逃げる私たちの目の前に「ドーン!」

青白い火柱が立ったときには、次は自分に落ちるのではという恐怖がわきましたね。

なんとか小屋にたどり着いて、あとはおさまるのを待つばかりになって人心地つきました。


それにしても稲妻の衝撃とか光りは凄まじいんですよ。

音じゃないです、風圧です。

一瞬目が見えなくなったかと思うと、体が何センチか後ろに押される感じがして、

それから「ドーン!」という感じと共に「・・・ああ、今のは稲妻だったんだ・・・」と

他人事のように感じるんです。あとから足がすくみましたね、あれは。

2010年11月の山岳部OB会にて、
雷に追いかけられたのは「槍ヶ岳周辺」ではなく、
「三俣蓮華岳〜三俣山荘」の稜線である事が判明しました。
落雷で記憶回路がとんでいた模様。

ルート概要を20万地図(カシミール2010現在)に書き込み

1978年当時、下山ルートにある高瀬〜大町ダム群は未完成で、
出来たばかりの七倉ロックフィルを見ながら葛温泉まで歩きました。
南アでは見慣れたダム湖を、ここでは一つも見なかったので、
当時歩いた道は湖底に沈んでいるものと推定します。


NHSAC 夏山合宿 1978年
テント縦走
「通称:北アルプス裏銀座(男子)、表銀座(女子)」 

 

29日
(下山)
烏帽子幕営地
ブナ立て尾根

葛温泉(下山)
信濃大町〜沼津

 ↑ 

28日
三俣幕営地
水晶小屋
野口五郎岳
烏帽子岳往復
烏帽子小屋(テン場)

 ↑ 

27日
(以下、男子コース)
殺生ヒュッテ
西鎌尾根
三俣蓮華岳
三俣小屋幕営地

 ↑ 

26日
横尾山荘
槍沢
殺生ヒュッテ
槍ヶ岳往復
殺生ヒュッテ(テン場)

↑ 

25日
横尾山荘
涸沢
奥穂高岳往復:ザイテングラート
横尾山荘(テン場)

↑ 

7月24日
(入山)
沼津〜松本〜新島々〜上高地(入山)
横尾山荘(テン場)

 2011年 4月24日編集


カシミール3D

 

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