リレー小説 〜Infinity〜


Pidepiper's Flute


 それ自身には、もはや自我というものが残されていないのか、ハーメルンの鳩は一片の疑問すら抱かぬまま、燃え盛るファイアウォールへと飛び込んでいった。
 そして、遂には全ての鳩が黒炭へと変貌した。
 留美はその様子を悲痛な面持ちで、無言で眺めていた。
「酷な言い方やけど、弱肉強食ってやつやね……」
 口調こそ同情の色を含んでいるものの、真冬の表情は硬い。
 その鋭い視線はファイアウォールの先──いつの間にか無人となった公園の彼方を見据えている。
「でも、どうしてこんな……」
 炭化した哀れなそれを両手でそっと包み込むように持ち上げる。
 そして一言、「ひどい」と呟いた。
 真冬はそんな留美に慰めの言葉の一つもかけてあげたかったが、どうやら事態はそれを許してはくれないらしい。
「姉ちゃん。ハーメルンのおっちゃんや」
 その言葉に顔を上げた留美が見たのは、色褪せた緑色のコートにくたびれたワイシャツをだらしなく着た男。
 それは紛れもなく、先程、彼女に鳩の餌やりを頼んで去っていった中年男性であった。
 男は表情こそは変わらず無気力であったが、その眼には恐ろしく剣呑な光を湛えている。
「ふむ、”笛”で強化したとはいえ、所詮は下等なモノよ」
 そう呟く男──ハーメルンは眼前の真冬達を意に介した風でもなく、淡々とその様子を分析しているかのようであった。
「おっちゃんがハーメルンやな? 自分、なんで姉ちゃんにこんな事するん?」
 相変わらず威勢のいい真冬の台詞に、ハーメルンはまるで空耳でも聴いたかの様に小首を傾げる。
 そして、横目でちらりと見ると、まるで侮蔑するかの如く鼻を鳴らした。
 その態度は自分にとっては真冬程度の術者など、相手にすらならない……そう物語っていた。
「うわ…めっさ気分悪いわ、自分」
 口を尖らせて、苦々しく呟く真冬。
 留美に至っては現状すら把握できていないのか、ただただ唖然としている。
 すると、ハーメルンは不意に真冬達に視線を移し、小声で独りごちた。
「どれ、魔剱争奪の前哨戦といくか……」

 刹那、ハーメルンの手元に黒い獣皮の装丁の古めかしい本が現れる。
 何処かに隠し持っていて、それを取り出したわけではない。
 本当に虚空から突如、出現したのである。
 本はハーメルンが手を触れずとも、風すら吹いていないというのに、自然にパラパラとそのページを繰っていく。
 そこには、ひどく背徳的な”ニオイ”が漂っていた。
「マズ…おっちゃん、”笛”を使う気やわ」
 叫ぶや否や、真冬はファイアウォールとは別のプログラムの起動を始めた。
 如何に強力な電霊を用いた術式とはいえ、相手は伝説にまでなった”ハーメルンの笛吹き男”なのだ。
 しかもその手元には人心を惑わす魔性の笛──魔道書Pidepiper’s Fluteが開かれているのである。
 もはや一刻の猶予すらない。
 戦闘用の攻性プログラムを急いで立ち上げる。
 ハーメルンの第一波が襲い掛かったのはそれと同時であった。
 ファイアウォール全体に微量のスパークが発生するや否や、音もなく瞬時に砕け散った。
 それはまるで、無声映画で硝子が割れたかのような光景であった。
 これにはさすがの真冬も内心、驚きを隠せずにいた。
 それもそのはず。
 いくら汎用性の高い基本プログラムとはいえ、ファイアウォールは並大抵の術であれば大抵は無効化する事ができる。
 そうでないとしても、幾らかの時間稼ぎはできるはずだった。
 それが、どうだ。
 わずか一度の攻撃であっさりと突破され、あまつさえプログラム自体が破壊されたのだ。
 戦闘用プログラムの起動が一瞬でも遅れていたなら、間違いなく彼女らも洒落にならない痛手を被っていた事であろう。
 だが、この攻撃によって、相手の魔術特性の片鱗は窺い知る事ができた。
 おそらくは、強弱様々な”電気”を操っているのだろう。
 過剰電圧によってプログラムを、その根幹から破壊することしかり。
 微弱な脳内電流を操作し、対象の生物を意のままに操ることしかり。
 この推測が正しければ、電子戦闘に特化した攻性プログラムといえど、あの”笛”の前には無力であろう。
 それまで明るくにこやかであった真冬の表情に、一片の陰が落ちる。
「アカン。カンペキに相性が悪い相手や……」
 そんな真冬の心情を知ってか、ハーメルンは静かに一歩を踏み出した。
 その動きを牽制するかのように、狭間に実体化した奇形の節足動物──攻性プログラムが行く手を遮る。
 だが、ハーメルンは顔色一つ変える事なく、手にした”笛”を正面に掲げると、たった一言だけ言霊を紡ぐ。
 それはエノク語と呼ばれる、高次領域世界に於いて用いられる魔術言語であった。
 ”笛”は所持者の呼びかけに応え、その力の片鱗を解放した。

 空気が変わる。
 その瞬間、笛吹きの手によって確かに”何か”が起きはじめている。
 異変の正体に真冬は漠然とではあるが、いち早く気がついた
 大気中に含まれる組成分子の組換え。
 魔道書によってもたらされた邪悪なる秘儀は、そこに高電圧の塊を瞬間的に生み出したのだ。
 それは虚空に於いて一瞬だけ青く輝き、そして弾けて消えていった。
 既にそこには、真冬達を護るべき実体化した電霊の姿は無く、気付けば青白く輝くプラズマ塊が2つ、3つと浮遊していた。
「……アドナイ・メレク・ナーメン」
 薄く目を閉じ、笛吹きがそう呟いた。
 危機的状況。
 場の状況が完全には理解できなかろうと、その雰囲気から留美はそう感じていた
 そして、万策尽きて立ち竦む真冬をぎゅっと抱きしめると、自らも固くその瞼を閉じる。

「……助けて、稔」

 


 

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