山口県篇:
日本を変えた明治維新
の原点「萩」をゆく

日本を近代国家に生まれ変わらせた明治維新ののろしを上げた萩藩
の城下町をそのまま残す萩市。明治維新の原動力は、松下村塾で吉
田松陰から教えを受けた下級武士たちでした。かれらの多くは脱藩し、
旧弊に縛られず、命をかけて革命を引き起こしました。そこここの白い
土塀や板塀のなかからふと、志士たちが出てきそうな気がします。日
本海に臨んだ美しい枝振りの松と萩と夏みかんの街、しっとりと旅人
を迎えてくれる人情、美味しい海鮮料理、空と海は飽くまで澄んでい
ます。
 いま日本は世界のGDPの16パーセントを占めるG8の一国として、
明治維新に匹敵する革命的変身を迫られています。目を見開き、明
治維新の原点「萩」の史跡をめぐってみるのも、良いことではないでし
ょうか。


関が原の合戦に敗れ、領地を削られた毛利の殿様がゼロから築いた萩の城下町


日本海に臨む山紫水明の城下町


 毛利の殿様輝元(毛利家の創始者元就の孫)は、天下分け目の関が
原の合戦のとき、豊臣側の総大将として敗れたために、徳川家康から
中国地方全域と九州北部8カ国に及んだ領有地を防府、長門の二カ国
に削られ、それまでの居城を萩に移さなければなりませんでした。その
石高は36万石で、それまでの150万石余には遠く及びません。この領
有地は、長州藩と呼ばれることになりました。萩は、阿武川のデルタ地
帯に、輝元が4年の歳月をかけてゼロから築き上げた日本海に臨む
城下町です。東西と南を松本川、橋本川、阿武川に囲まれた碁盤縞
の路に沿って武家屋敷が続いています。上級武士の住んだ区域には
近頃珍しい白壁の塀が長々と続くのを見ることができます。 
 藩主の住んでいた萩城は、萩港を背にした入江から橋本川の河口
までを掘り割った堀で島状になった突端に145メートルの指月山を背
にして建っていたのですが、明治政府の廃城政策によって惜しくも取
り壊され、いまでは巨大な石垣だけが残っています。明治政府の三傑
の一人として支柱であった木戸孝允(たかみつ)の声がかりで解体され
たといわれます。禄高の高い武士ほど、城に近いところに住んでいまし
た。ですから中には城の建っている島状の区域に住んでいる格式の高
い重臣もいました。
 JR山陰本線萩駅が萩市の中心街に面した賑やかなところと思って萩
を訪れたのですが、事実は違っていました。もう暗くなってから萩駅に
列車が滑り込んだからかもしれませんが、駅のまわりは街の灯りも
まばらで、淋しい様子でした。私ども夫婦の目的地は、次の東萩駅
です。ここは駅に降り立つと、すぐ目の前に萩ロイヤル・ホテルが旅
人を迎えてくれます。
 しかし、10月は絶好の観光の月。このホテルは、すでにあき部屋
はなく、ほかのホテルや旅館もすでに満員の状況。急に萩行きを
思い立った私どもは、駅のすぐ脇の萩リバーサイド・ホテルに電話
をかけ、やっと2泊の予約を取ることができたのでした。
 萩リバーサイド・ホテルは、その名のとおり松本川の河口近くの
萩橋の東萩駅側の橋のたもとに建っている素泊まりホテルです。
対岸には見事な姿の松が幾本も並び、穏やかな川面では絶えず
大きな魚が跳ねています。朝ご飯をいただくときに、「あれは何と言
う魚ですか?」と聞くと、お座敷のお膳を運んでくれるおばさんは、
少し考えてから「ボラでしょうね」と答えてくれました。翌日の朝ご
飯は、もちろん昨日とは違った海産物中心の心のこもった家庭料理
でした
(写真1:同ホテルから望む萩市の眺望)

写真1:萩リバー・サイドホテルから望む萩市の眺望。遠方の山を背にかつては萩城がありました。

 
松下村塾、伊藤博文旧宅がある東萩側の下級武
士の住居区域

 萩市のマップに描かれているように、身分の低い下級武士たち
の住居は、松本川を隔てた山々の麓に位置していました。ここに
は松下村塾と吉田松陰歴史館を境内に抱く松陰神社、明治の元
勲の一人で日本の初代総理大臣を勤めた伊藤博文が、9歳から
14歳まで両親とともに住んでいた藁葺きの家があります。またその
すぐそばには、博文が功なり名を遂げてから東京品川に建てた和
洋折衷の邸宅が移築され、一般に公開されています。
 吉田松陰の生涯は、安政の大獄によって数え年わずか30歳で刑
死するという短さでしたが、松陰が与えた影響は絶大で、日本を封
建時代の眠りから近代日本へと変革させる原動力になったことは
私がここで述べるまでもありません。木戸孝允、高杉晋作、久坂玄
瑞、入江九一、吉田稔麿、前原一誠、品川弥次郎、野村靖、山田
顕義、松浦松洞、伊藤博文、井上薫、山縣有朋、松本鼎らは、松
陰に師事し命をかけて近代化へ向けて日本の舵を切り換え、薩摩
と手を結んで奇跡の革命を成し遂げたのでした。


萩市のマップ
萩の城下町は、毛利の殿様が阿武川のデルタ地帯にゼロから築きました。


 松陰は、海外密航を企ててペリー提督の軍艦へ密かに漕ぎ寄せ
願いを拒否されるなど、その燃えるような憂国の情と行動力は並
ぶ者がありませんでした。のちに江戸幕府の老中暗殺を計画し失
敗して自首し、「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留めおかま
し大和魂」という有名な辞世を残し刑死したことは、後に残された
下級武士たちを奮い立たせました。
 刑死するときの松陰の礼儀正しさ、潔さは斬首役人と立会い役
人に深い感銘を与えたと伝えられます。吉田松陰歴史館は、等身
大の蝋人形70余体によって松陰のこの短く激しい一生を再現して
います。松陰を祭る松陰神社
(写真2)は明治23年に創建されまし
た。

写真2
松陰を祭る松陰神社は、明治23年に創建されました。
写真3
松下村塾のあまりの小ささに観光客は、一様に驚きの声をあげています。ここで学んだ人々が明治維新成功の糸口をつくったのです。最初に建っていた8畳の間。


あまりに小さい松下村塾に驚く


 境内にはあの有名な松下村塾
(写真3)がありますが、全国から
やってくる観光客は、そのあまりの小ささ、貧弱さに驚きの声をあ
げています。松陰の叔父玉木文之進は、私塾を開き「松下村塾」と
名づけました。次いで久保五郎左衛門が、これを引き継ぎました。
そして、松陰が安政4年(1857年)にこれを引き継ぐことになり、士
分の子も、足軽の子も分け隔てない、憂国の人間教育を行ないま
した。教える者も学ぶ者も、互いに尊敬し合い、内憂外患をいかに
解決していくべきかを教えた松陰の教育は、若い学生たちの心を燃
やさせ、深い感動と実行力を与えました。松陰が彼らを教えたのは
海外渡航を企てて失敗し、捕らえられ江戸から萩の野山獄に移され
さらに実家に預けられていたときのわずか1年間でした。
 松下村塾の建物は、最初8畳一間の粗末な木造瓦葺でしたが、
のちに松陰は学生たちと一緒に10畳半の間を建て増ししました。私
ども夫婦がここを見学しているときに、ちょうど熊本県からの修学
旅行の中学生がメモをとっていました。「こんな小さい塾で勉強した
武士たちが、日本を変えたんだから、ビックリするね」と話しかけると
中学生たちはコックリとうなずき、目を輝かせていていました。
 上に述べましたように、松陰が教えたのはわずか1年間にすぎま
せんでした。にもかかわらず、松陰は不朽の影響を与え、明治維
新の成功に結びついたのでした。

伊藤博文の歩んだ道


伊藤博文が少年期に暮らした家と明治の元勲と
して建てた東京品川の別邸


 伊藤博文は、梅子夫人、友人たちにあてた手紙や、メモ類、講演
録を多く残しているので、その業績と人柄を分析した本や小説がい
ろいろな人によってものされています。それは膨大な量でした。実
に残念なことに、あの関東大震災のとき、政府は東京虎ノ門にあっ
た伊藤公資料保存室で資料を調査中でしたが、それが焼けてしま
ったのです。けれども伊藤公が残したその他の資料は膨大で、
明治維新を描いた本や、伊藤公自身の人物像をまとめた分析本、
小説など、歴史を知るうえでの非常に貴重な資料になっています。
 武士の時代は生死にかかわる事件がいつ起こるかわからなかっ
たからでしょうか、一生のうちに何回も名前を変えたり、家系保存
のために養子縁組が盛んに行なわれました。博文は、山口県の太
平洋岸側の熊毛郡東荷村(いまのJR山陽本線岩田駅近傍の大和
町)の百姓林十蔵、妻琴子の長男(姉がいました)として生まれま
したが、萩藩の仲間伊藤直右衛門に仕えるうちにその職務への精
励ぶりが見込まれ、両親に連れられ、一家をあげて伊藤家に養子
入りしました。
 博文は、幼名を利助、利介、利輔、舜輔、春輔、俊輔と変えてい
ます。その後は、伊藤俊輔、越智斧太郎、花山春輔、花山春太郎
吉村荘蔵、林宇一、伊藤俊介、デポナー(英国から急に帰国したと
き)などと名乗っています。そして明治元年9月ごろから伊藤博文
(ひろぶみ)を名乗るようになったといわれます。
 萩に移るまでの博文の生家は、いまもそのまま大和町に建てら
れた伊藤博文公資料館と伊藤公記念館のかたわらに保存されて
います。というよりも、その生家のそばに資料館と記念館が建てら
れたというほうが当っているでしょう(両館については、あとでふれ
ます)。
 博文は、明治の三傑といわれた木戸孝允(病死)、西郷隆盛(西
南戦争に敗れ自刃)、大久保利通(暗殺により不慮の死)が短期
間に相次いで逝去したあと、初代総理大臣に就任、さらにそのあと
三度にわたって内閣を組閣し、明治憲法の調査・制定の中心人物
になるなど、明治新政府確立の重鎮となりました。その後は貴族
院議長、韓国初代統監、枢密院議長を歴任したのち、旧満州視察
の旅の途中、ハルビン駅頭で安重根の撃った凶弾に倒れ帰らぬ人
となりました。時に享年68歳でした。 
 
 

写真4
伊藤博文は、6歳のときに父林十蔵と母
琴子に連れられ一家ごと、萩藩の中間伊藤家に養子縁組しました。これはそのときに住んでいた家です。
写真5
伊藤博文は、明治の元勲になってから東京品川に和洋折衷の別邸を建てました。それを萩に移築したものです。


 
写真4は、博文が伊藤姓になってから両親とともに住んでいた萩
の家で、萱葺き27坪の粗末な家です。6歳から両親とともに住んで
いましたが、少年期を含め幕末の騒乱のなかで東奔西走し、ほと
んど家にいることはありませんでした。博文の勉強部屋も残されて
います。
 伊藤博文(幼名利助)は、天保12年(1841年)9月の生まれです。
父・林十蔵は、熊毛郡で庄屋に次ぐ農民でしたが、家は貧しく萩へ
働きに出たほどでした。前述のように利助は、6歳のとき父母に連
れられ萩の伊藤家に一家ごと養子入りしました。8歳のとき、寺子
屋で読書習字を始め、10歳のとき萩の法光院(現在の円政寺)に預
けられ、約1年半、雑用や勉強をしました。そして、嘉永5年(1852
年)には家老級の重臣福原・児玉・井原の3家で若党奉公をし、翌
6年(1853年)1月に初めて毛利家に召し出されました。
 アメリカのペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀にやってきて、
「蒸気船 たった四はいで 夜も眠れず」(高級煎茶正喜撰(しょうき
せん)をもじった狂歌)と歌われたのはこの年の7月でした。
 利助は安政3年(1856年)に長州藩が幕府によって警備を割り当
てられた相州(神奈川)の警備に出るよう任命され、作事吟味役来
原良蔵の従者になりました。来原は、先を読める傑出した人物で、
利助の資質を見抜き松下村塾の吉田松陰に紹介したのです。それ
からあと、伊藤俊介は、松下村塾の学生たちと交わり、桂小五郎
の従者になり、高杉晋作の尊王攘夷の実行計画に加わり、英国
へ留学して目を開かれ文明開化に転じ、井上聞多と共に急遽帰国
馬関戦争を止めさそうと萩藩首脳を説き(これは失敗し、結局、戦
争の火蓋は切られました)、戊辰戦争時とその後には西南戦争、
日清戦争、日露戦争を経験しました。
 
写真5は、明治の元勲となってから東京品川に建てた和洋折衷
の別宅ですが、和室のひとつにはテーブルの上に伊藤博文公の
旧満州国訪問時、韓国統監時代の写真を含む珍しい写真を貼った
アルバムを自由に見ることができます。
 なお、伊藤博文旧宅から徒歩7分のところに、これも藁葺きの小
さな玉木文之進旧宅が保存されています。文之進は松陰の叔父で
松陰も幼少の頃ここで学んだということです。
 東萩側には、広大な敷地をもつリゾート・ホテル「萩本陣」がありま
す。また、その上方に建っている東光寺は、毛利家の奇数代の藩
主5人の菩提寺で、500基の灯篭が藩主たちの墓を守っています。
東光寺に対して萩駅に近い大照院は、偶数代の藩主の菩提寺で
す。


歴史ロマンを色濃く残す


木戸孝允の旧宅と高杉晋作の旧宅


 阿武川のデルタ地帯の上は、明治維新という壮大な歴史ロマンを色
濃く残す萩の旧城下町です。中央公園の近くには木戸孝允と高杉晋作
の旧宅があります。
 萩藩の勤皇志士のまとめ役の器量人だった木戸孝允は、藩医和田
晶景の次男として生まれ、幼名を小五郎といいました。しかし、隣家で
実父の友人だった藩士桂九郎兵衛(禄高90石)に請われ同家の養子
になり、長じて藩命により姓を木戸に改めました。水戸藩の講道館と
並ぶ有名藩校「明倫館」では、吉田松陰から兵学を学びました。剣道
は、江戸のに出て神道無念流の斎藤弥九郎に師事、塾頭に出世する
ほどの剣豪でしたが、「逃げの木戸」といわれたように安政の大獄下で
新撰組などにつけ狙われ、何度も危ない目にあいながら一度も人を斬
ったことはありません。「剣の極意は、戦わずして制すること」を地でい
ったのです。
 西郷隆盛、大久保利通とともに明治の三傑と呼ばれましたが、惜しい
ことに44歳の若さで病死しました。明治新政府の参与、参議を務め、藩
籍奉還・廃藩置県を実現しました。

写真6
高杉晋作の旧宅の近くには木造
白壁の塀が続いています。
写真7
高杉晋作、伊藤博文が少年時代に
遊んだ金毘羅神社。


  高杉晋作は、いまで言う肺結核のために惜しいことに数え年29歳の
若さで病死しましたが、その行動力と豪胆さ、先見性、現実を把握する
目と知略は抜群で、おまけに柔軟性を兼ね備え、剣の腕は柳生真陰
流免許皆伝でした。発すれば疾風のように動き、憂国の下級武士たち
に大きな影響を与え、維新の革命の命運を決定するほどの足跡を残し
ました。もし彼が長生きしたら、明治新政府の政治にさらなる大きな偉
業を残したに違いありません。晋作の旧宅には、次ぎのような説明板
が掲示してあります。

 
                高杉晋作略伝
 名は春風 字は暢夫 晋作は通称でありますが、最も広く知られて
います。また谷梅之助、谷潜蔵の変名もあり、東行、西海一狂生、東
生一狂生などと号していました。 天保十年(1839年)八月二十日萩
藩士高杉小忠太、室道子(大西氏の出)の長男としてここ萩菊谷横丁
の宅で生まれました。幼少の頃私塾に学を習いやや長じて明倫館に
文武を学び、また松下村塾に入り松陰の指導を受けました。
 文久元年(1861年)藩主世子の小姓役に抜擢せられ翌二年、幕使に
随行して上海に渡航する機会に恵まれて海外諸情勢をつかみ帰朝
後攘夷の急先鋒として活躍しました。
 文久三年馬関外国船攻撃にあたり自ら奇兵隊を組織し、同隊総監
を命ぜられました。奇兵隊は、日本でははじめての士農工商を問わ
ない国民的軍隊で、のちこれにならうもの続出して、長州藩の反幕府
勢力軍事的基盤として、明治維新戦争に大きな働きをしました。つい
で一時脱藩し罪をえて野山獄に入りましたが、元治元年の四国連合
艦隊の馬関来襲にあたり許されて再起用され、講和条約の正使とな
って堂々と交渉して国土の危急を救いました。
 禁門変後藩首脳は、俗論党により占められたため、晋作は九州に
亡命しましたが、時至ってふたたび奇兵隊を指揮し、長府功山寺に軍
を起こし、疾風の勢いで諸地に転戦し、俗論党を一掃いたしました。
 第二回長州征伐を前に薩長同盟に尽力し、慶応ニ年第二回征長
軍を迎えて、全藩を指揮し、みずからは小倉口を攻めて、縦横の機
略を駆使して連戦連勝しましたが、翌三年四月十四日、享年二十九
歳で赤馬関に病死し、下関市吉田清水に葬られました。
 明治二十四年生前の功労に対して正四位を贈られました。
        この旧宅について
 この旧宅は、家禄二百石を受けていた父高杉小忠太宅で、現存す
る当時の建物は座敷(六畳床間付)次の間(六畳)居間に(六、四、
五畳)小室(三畳)のほかに玄関、台所があります。土蔵、納屋もあ
りましたが、現存しておりません。庭園に鎮守、裏庭には井戸がそ
のまま残っております。
   萩市内の関係史跡
 一、高杉暢夫墓(遺髪墓)
 ニ、明倫館跡 江向
 三、松下村塾 椿東区松本
 四、萩城跡
 (備考)なお萩市以外の主な関係としては、高杉晋作墓(下関吉田
      清水山国指定史跡)、奇兵隊挙兵地(下関市長府功山寺)、
      大田絵堂戦跡(美称郡美東町)などがあります。


疾風の晋作を示す五つの実話


 肺結核を押して戦いに望んだ高杉晋作は、萩藩の全軍を指揮し、幕
府による第二回長州征伐の大軍を海陸兩戦において破り、明治維新
の成功を決定的にした直後に力尽きて床に臥し、帰らぬ人となりまし
た。晋作の事績の節目を述べれば、次の五つがあげられるでしょう。
 1862年、22歳のときに幕使に随行して上海に行き、列強諸国の横暴
ぶりを目撃した晋作は、帰国後尊皇攘夷論の急先鋒になり、横浜の
英国公使館焼き討ちを計画し、下級武士を指揮して実行しました。そ
のなかには伊藤博文や、山縣有朋も入っていました。
 天皇の許しを得ずに開国した江戸幕府を擁護する佐幕開国論者と
尊皇攘夷論者が対立し、世の中が騒然となったなかで、晋作は士農
工商の別を無視した最初の軍隊として奇兵隊を組織して、武士からな
る軍隊を凌駕する力を得ました。
 1863年、尊王攘夷の藩是を信奉する長州は、遂に外国船を2回にわ
たって砲撃しました。その翌月、列強諸国は長州勢を圧倒する装備と
兵器を持った兵力の反撃に遭い、長州は敗れてしまいました。
 さらに1864年には、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの4国連合
艦隊が来襲するという馬関戦争が起こり、長州藩は大敗し、講和条約
を締結することになりました。
 晋作は、この時長州藩の正使に任命され、連合艦隊旗艦へ乗りこ
み、あまりの若さに(晋作は24歳でした)いぶかる相手を煙に巻き、要
求の一つであった彦島の租借を徹底的に拒否しとおし、遂に諦めさせ
ました。彦島は神様のものだから、貸すわけにはいかないという相手
を呑んだ理由でした。晋作の大きさを表す面目躍如たる実話ではあり
ませんか。もし貸していたら、上海の列強の租借地のようになっていた
でしょう。日本を救ったのです。この時目を白黒させながら通訳を務め
たのは、無謀な馬関戦争をやめさせようと、ロンドンから井上聞多とと
もに急遽帰国したばかりの伊藤博文でした。
 江戸幕府は、孝明天皇の妹和宮を徳川14代将軍家茂の正室に迎
え、公武合体政策をとりつつありました。そこで公武合体派、尊皇攘
夷派、佐幕派、三つ巴の血みどろの暗殺で世の中はますます騒然とし
てきました。同じ1864年7月には、公武合体派と尊王攘夷派の睨み合
いをめぐって政変が起こり、御所警護をしていた長州藩の任が解か
れ、会津藩に京都守護の任務が与えられ、公明天皇は長州は撤退
せよとの勅を発されました。
 これが引き金となって禁門の変(世に言う蛤御門の変)が起こりまし
た。長州藩は天皇に勅を反古にするよう強訴しようと、会津軍を砲撃、初めは会津を圧倒していたのですが、公武合体派の薩摩藩が会津
方に加わったために戦況は逆転し長州藩は敗れ、逸材の久坂玄瑞らは自刃に追い込まれました。この戦いで京都の3分の1が焼け野が原になりました。幕府は第1回長州征伐軍を起こしました。こうして長州
藩の俗論党が藩是を主導することとなり、多くの有能な進歩派が処刑に会い、正義派の家老周布政之助らは自刃しました。当然桂小五郎、高杉晋作にも危険が迫り、晋作は九州に亡命、桂も身を隠しました。
晋作の機敏さを示しています。
 五つ目は、晋作の逆襲です。晋作は、1864年12月15日、九州より
帰国し、奇兵隊員に呼びかけ功山寺で挙兵、遊撃隊、力士隊わずか
80名で馬関の萩本藩会所を急襲、占拠しました。また、藩の軍艦3隻を
奪って制海権を握りました。伊藤俊輔も最初の挙兵に参加しました。こ
れを見てぞくぞく正義派が参集、隊員は見る見る2,000人に膨らみまし
た。クーデターは、1ヵ月半後の1865年2月2日には成功し、藩是は再
び尊王論に固まりましたが、ここから長州藩はいままでの素朴な尊皇
攘夷論から、尊王開国へと大きく舵を切りました。翌1866年には坂本
竜馬の斡旋で、積年の恨みを越えての薩長同盟が成立しました。ここ
からあとは、晋作は大活躍、藩主より藩全軍をゆだねられた(といっ
ても3,000人ですが)晋作は、第2回長州征伐の大軍を蹴散らし、連戦
連勝しました。見事な戦い振りでした。
 7月には将軍家茂が急逝、慶喜が15代将軍になりました。その直後
に晋作の病が悪化し、1867年4月、高杉晋作は風のように疾駆した短
い一生を閉じました。それから約6ヵ月後には、徳川慶喜が天皇に大政
を奉還、時代は大きく展開したのです。

往時の暮らし向きを示す家老級武士邸の長屋門

 萩の城下町には往時の高級武士の暮らし向きを偲ばせる長屋門が
そこここに保存されています。高杉晋作らの尊王開国派をバックアップ
して、なにかと藩の台所から資金を捻出した、進歩派の周布政之助の
本家の周布家長屋門、家老に準ずる寄り組をつとめた口羽家長屋門、
同じく寄り組の児玉家長屋門、藩政の改革を行なった村田清風別宅
の長屋門がそれです。
 そして島状の萩城区画内には、厚狭(あさ)毛利家の家臣たちが住ん
だ長屋があります。この建物は、国指定文化財として保存されていま
す。ここは拝観料(萩城との共通券)が必要です。ここで配っているパン
フレットは、冒頭で旧毛利家萩屋敷長屋をこう解説しています。
 「厚狭毛利家は、毛利元就の八男元康を始祖とする毛利氏の一門で
ある。総石高8,371石余のうち、主として厚狭(現在、山口県厚狭郡山
陽町)に知行地を持ち、ここに居館を構えていたので、厚狭毛利と呼ば
れた。
 厚狭毛利家の萩の本屋敷は、萩城の大手門の南100メートルの要地
にあり、面積約1万5,500平方メートル(約4,700坪)の広大なものであっ
た。屋敷地にあった主屋や庭園などは、明治維新前後に解体されてこ
の長屋のみが残った」
 長屋は、全長51.5メートルという長いもので、中間部屋もある代表的
な武家屋敷長屋だということです。


萩藩の豪商熊谷家が残した文化財

 旧周布家長屋門の近くには、熊谷美術館(入館料700円、子供400
円)がありますが、ここの沿革は次ぎのとおりです。
 7代藩主毛利重就は、藩の財政立て直しの一環として宝歴4年(1754
年)に城下の商人のなかから熊谷五右衛門芳充を抜擢し、藩の御用
商人を命じました。初代は、1768年に広大な敷地に主屋と多数の蔵
からなる住宅を建てましたが、以後、熊谷家は代々、現在の10代目
五右衛門幸三氏まで230年間にわたりここに住んでいて、建物は国指
定重要文化財になっています。住宅のうち蔵は、代々収集した美術品
を並べて一般に開放しています。
 
写真8
熊谷家は萩藩御用達の豪商として大を成し、多くの美術品も収集しました。建物も国指定重要文化財です。4代目義比はシーボルトと親交があり、現存する日本最古のピアノを贈られました。

熊毛郡大和町の伊藤博文の
生家と資料館を見る



 すでに述べましたように、伊藤博文の生家は、山口県熊毛郡大和
町大字束荷2250番地の1にあり、その周辺は伊藤公記念公園が造
営されていて、そのなかに伊藤公資料館と、洋館の別邸が建ってい
ます。この別邸は、いまは伊藤公記念館として一般に公開されてい
ます。
 
大和町にある三つの建物のうち記念館の建物は、伊藤公が晩年
の明治42年に満州旅行に発つ直前に、林一族を集めて公の遠い祖
先林淡路守道起の400年祭法要を行なおうと考えて帰国するまでに
完成するよう指示して建てたものでした。ところが、公は同年10月26
日ハルビン駅頭で狙撃され、帰らぬ人となってしまいました。公は法
要を行なったあと地元に寄付して、図書館や公民館として使ってもら
おうと考えていたということです。遺族は、翌年この建物を完成させ、
法要を行ったあと、大和町に寄贈したということです。

写真9:伊藤博文公が生まれた家で、利助(幼名)は6歳までここに住んでいました。
写真10:大和町が建てた伊藤公資料館。数々の質素な遺品から伊藤公の人柄が偲ばれます。
写真11:伊藤公記念館。林一族の400年祭法要を行った後、公民館や図書館として使うため寄贈するつもりで、公自らの指示で建てられましたが、ハルビン駅頭で狙撃され完成を見ずに帰らぬ人となりました。


生後6歳まで暮らした生家

 写真9は、伊藤博文の生家です。公はここで6歳まで暮らしました。
残念ながら当時の家は、1850年の暴風雨で倒壊したので、1919年
(大正8年)と1991年(平成3年)に復元・修復が行なわれたということ
です。なかには当時の一家の暮らし振りを再現した蝋人形が展示さ
れています。藁葺き屋根のこの家は、萩の藁葺き屋根の家より一段
と小さく見えました。
 

伊藤公の遺品を展示した伊藤公資料館

 伊藤公資料館
(写真10)には、伊藤公の使用していた机と事務用
品やベッド、椅子、ダイニング・テーブル、接客テーブル・セット、身の
回り品、韓国の初代統監時代の正装衣類などのほか、書やおかか
と呼んでいた梅子夫人や友人に宛てたレター類が整然と展示されて
います。幕末から明治にかけてのさまざまな時代の公を大きく引き伸
ばした写真も多く展示されています。映写ホールでは、李王朝の皇太
子李王垠殿下と伊藤公、梅子夫人ほかが大磯海岸でくつろぐシーン
など、めったに見られない映画を見ることができます。
 伊藤公記念館は、私ども夫婦が行ったときは、折悪しく建物を大規
模に修復中で、残念ながら中を見られませんでした。
 ここは、明治維新と明治史を知るうえできわめて貴重な情報を提供
してくれます。萩と合わせてぜひ訪れたいところです。

先見の明を実行した伊藤公の隠れた功績

 最後に伊藤公にまつわる逸話を2題書き加えておきたいと思います。
第一番目は、次の隠れた功績です。伊藤公は日露戦争に反対でした。
だから戦争が始まるとすぐにアメリカのハーバード大学に留学したと
きに、後のロバート・ルーズベルト大統領と親友になった金子健太郎
に多額の機密費を持たせて派米し、日本の立場をPRし、タイミングを
みはからって仲裁してくれるよう働きかけさせました。これが奏功奏し
同大統領は日露の講和を斡旋してくれたのです。日本国民は大勝利
に酔っていましたが、ロシアはまだ戦争を続けるつもりでいたし、明治
政府の要人は国力を使い果たしたことを知っていました。明治天皇は
心配で食事が喉を通らなかったことが、太平洋戦争の敗戦後解禁に
なった資料をもとに書かれた本に示されています。
 
大政奉還は徳川慶喜が自分で決めた

 熊毛郡の資料館には、参観者が持ち帰り可能の資料が置いてあり
ます。その中に次のような逸話を発見しました。
 伊藤公がハルビン駅頭で狙撃された数年前のことでした。その頃來
日した欧州のある皇族を有栖川宮殿下が招待され、伊藤公と徳川慶
喜公(元徳川15代将軍)も招かれました。貴族の人たちが退出する間
二人は別室で待っていました。ふと伊藤公は、慶喜公に向かって、「前
から機会があったらお尋ねしたいと思っていましたが、あなたが大政
奉還をされたのはいかにも突然で、これほどの大事をご決行になる
には余りに思い切ったご態度でした。当時、おそばであの断然たる処
置を進言したのは、果たして誰だったのでしょうか」と聞きました。する
と、慶喜公はこう即答したということです。「私は、私の信ずるところに
従って、何人の知恵も借りず、断固として決心したのです。私は亡父
・烈公(徳川斉昭)から常に教訓されておりました。−後略」
 このような大事をズバリと質問する伊藤公のすごさ、何も隠すことな
く即答した慶喜公の大きさを感じませんか

萩焼の三輪清雅堂が明治維新特別企画

 なお、萩市で一番古くから萩焼の卸・小売を営んでいる三輪清雅堂では、明治維新の大ロマンに関する現地ならではの史実(たとえば高杉晋作の恋)と、もちろん萩焼の真髄を解説したホームページを開設しているので、ご興味のある読者はアクセスされたらよいと思います。現在、「明治維新特別企画」を展開中です。

三輪清雅堂の明治維新特別企画


2004年11月16日更新
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作者
栗田 昭平


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