日本を近代国家に生まれ変わらせた明治維新ののろしを上げた萩藩
の城下町をそのまま残す萩市。明治維新の原動力は、松下村塾で吉
田松陰から教えを受けた下級武士たちでした。かれらの多くは脱藩し、
旧弊に縛られず、命をかけて革命を引き起こしました。そこここの白い
土塀や板塀のなかからふと、志士たちが出てきそうな気がします。日
本海に臨んだ美しい枝振りの松と萩と夏みかんの街、しっとりと旅人
を迎えてくれる人情、美味しい海鮮料理、空と海は飽くまで澄んでい
ます。
いま日本は世界のGDPの16パーセントを占めるG8の一国として、
明治維新に匹敵する革命的変身を迫られています。目を見開き、明
治維新の原点「萩」の史跡をめぐってみるのも、良いことではないでし
ょうか。
関が原の合戦に敗れ、領地を削られた毛利の殿様がゼロから築いた萩の城下町
日本海に臨む山紫水明の城下町
毛利の殿様輝元(毛利家の創始者元就の孫)は、天下分け目の関が
原の合戦のとき、豊臣側の総大将として敗れたために、徳川家康から
中国地方全域と九州北部8カ国に及んだ領有地を防府、長門の二カ国
に削られ、それまでの居城を萩に移さなければなりませんでした。その
石高は36万石で、それまでの150万石余には遠く及びません。この領
有地は、長州藩と呼ばれることになりました。萩は、阿武川のデルタ地
帯に、輝元が4年の歳月をかけてゼロから築き上げた日本海に臨む
城下町です。東西と南を松本川、橋本川、阿武川に囲まれた碁盤縞
の路に沿って武家屋敷が続いています。上級武士の住んだ区域には
近頃珍しい白壁の塀が長々と続くのを見ることができます。
藩主の住んでいた萩城は、萩港を背にした入江から橋本川の河口
までを掘り割った堀で島状になった突端に145メートルの指月山を背
にして建っていたのですが、明治政府の廃城政策によって惜しくも取
り壊され、いまでは巨大な石垣だけが残っています。明治政府の三傑
の一人として支柱であった木戸孝允(たかみつ)の声がかりで解体され
たといわれます。禄高の高い武士ほど、城に近いところに住んでいまし
た。ですから中には城の建っている島状の区域に住んでいる格式の高
い重臣もいました。
JR山陰本線萩駅が萩市の中心街に面した賑やかなところと思って萩
を訪れたのですが、事実は違っていました。もう暗くなってから萩駅に
列車が滑り込んだからかもしれませんが、駅のまわりは街の灯りも
まばらで、淋しい様子でした。私ども夫婦の目的地は、次の東萩駅
です。ここは駅に降り立つと、すぐ目の前に萩ロイヤル・ホテルが旅
人を迎えてくれます。
しかし、10月は絶好の観光の月。このホテルは、すでにあき部屋
はなく、ほかのホテルや旅館もすでに満員の状況。急に萩行きを
思い立った私どもは、駅のすぐ脇の萩リバーサイド・ホテルに電話
をかけ、やっと2泊の予約を取ることができたのでした。
萩リバーサイド・ホテルは、その名のとおり松本川の河口近くの
萩橋の東萩駅側の橋のたもとに建っている素泊まりホテルです。
対岸には見事な姿の松が幾本も並び、穏やかな川面では絶えず
大きな魚が跳ねています。朝ご飯をいただくときに、「あれは何と言
う魚ですか?」と聞くと、お座敷のお膳を運んでくれるおばさんは、
少し考えてから「ボラでしょうね」と答えてくれました。翌日の朝ご
飯は、もちろん昨日とは違った海産物中心の心のこもった家庭料理
でした(写真1:同ホテルから望む萩市の眺望)
。
写真1:萩リバー・サイドホテルから望む萩市の眺望。遠方の山を背にかつては萩城がありました。 |
松下村塾、伊藤博文旧宅がある東萩側の下級武
士の住居区域
萩市のマップに描かれているように、身分の低い下級武士たち
の住居は、松本川を隔てた山々の麓に位置していました。ここに
は松下村塾と吉田松陰歴史館を境内に抱く松陰神社、明治の元
勲の一人で日本の初代総理大臣を勤めた伊藤博文が、9歳から
14歳まで両親とともに住んでいた藁葺きの家があります。またその
すぐそばには、博文が功なり名を遂げてから東京品川に建てた和
洋折衷の邸宅が移築され、一般に公開されています。
吉田松陰の生涯は、安政の大獄によって数え年わずか30歳で刑
死するという短さでしたが、松陰が与えた影響は絶大で、日本を封
建時代の眠りから近代日本へと変革させる原動力になったことは
私がここで述べるまでもありません。木戸孝允、高杉晋作、久坂玄
瑞、入江九一、吉田稔麿、前原一誠、品川弥次郎、野村靖、山田
顕義、松浦松洞、伊藤博文、井上薫、山縣有朋、松本鼎らは、松
陰に師事し命をかけて近代化へ向けて日本の舵を切り換え、薩摩
と手を結んで奇跡の革命を成し遂げたのでした。
萩市のマップ 萩の城下町は、毛利の殿様が阿武川のデルタ地帯にゼロから築きました。 |
松陰は、海外密航を企ててペリー提督の軍艦へ密かに漕ぎ寄せ
願いを拒否されるなど、その燃えるような憂国の情と行動力は並
ぶ者がありませんでした。のちに江戸幕府の老中暗殺を計画し失
敗して自首し、「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちるとも、留めおかま
し大和魂」という有名な辞世を残し刑死したことは、後に残された
下級武士たちを奮い立たせました。
刑死するときの松陰の礼儀正しさ、潔さは斬首役人と立会い役
人に深い感銘を与えたと伝えられます。吉田松陰歴史館は、等身
大の蝋人形70余体によって松陰のこの短く激しい一生を再現して
います。松陰を祭る松陰神社(写真2)は明治23年に創建されまし
た。
写真2 松陰を祭る松陰神社は、明治23年に創建されました。 |
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写真3 松下村塾のあまりの小ささに観光客は、一様に驚きの声をあげています。ここで学んだ人々が明治維新成功の糸口をつくったのです。最初に建っていた8畳の間。 |
あまりに小さい松下村塾に驚く
境内にはあの有名な松下村塾(写真3)がありますが、全国から
やってくる観光客は、そのあまりの小ささ、貧弱さに驚きの声をあ
げています。松陰の叔父玉木文之進は、私塾を開き「松下村塾」と
名づけました。次いで久保五郎左衛門が、これを引き継ぎました。
そして、松陰が安政4年(1857年)にこれを引き継ぐことになり、士
分の子も、足軽の子も分け隔てない、憂国の人間教育を行ないま
した。教える者も学ぶ者も、互いに尊敬し合い、内憂外患をいかに
解決していくべきかを教えた松陰の教育は、若い学生たちの心を燃
やさせ、深い感動と実行力を与えました。松陰が彼らを教えたのは
海外渡航を企てて失敗し、捕らえられ江戸から萩の野山獄に移され
さらに実家に預けられていたときのわずか1年間でした。
松下村塾の建物は、最初8畳一間の粗末な木造瓦葺でしたが、
のちに松陰は学生たちと一緒に10畳半の間を建て増ししました。私
ども夫婦がここを見学しているときに、ちょうど熊本県からの修学
旅行の中学生がメモをとっていました。「こんな小さい塾で勉強した
武士たちが、日本を変えたんだから、ビックリするね」と話しかけると
中学生たちはコックリとうなずき、目を輝かせていていました。
上に述べましたように、松陰が教えたのはわずか1年間にすぎま
せんでした。にもかかわらず、松陰は不朽の影響を与え、明治維
新の成功に結びついたのでした。
伊藤博文の歩んだ道
伊藤博文が少年期に暮らした家と明治の元勲と
して建てた東京品川の別邸
伊藤博文は、梅子夫人、友人たちにあてた手紙や、メモ類、講演
録を多く残しているので、その業績と人柄を分析した本や小説がい
ろいろな人によってものされています。それは膨大な量でした。実
に残念なことに、あの関東大震災のとき、政府は東京虎ノ門にあっ
た伊藤公資料保存室で資料を調査中でしたが、それが焼けてしま
ったのです。けれども伊藤公が残したその他の資料は膨大で、
明治維新を描いた本や、伊藤公自身の人物像をまとめた分析本、
小説など、歴史を知るうえでの非常に貴重な資料になっています。
武士の時代は生死にかかわる事件がいつ起こるかわからなかっ
たからでしょうか、一生のうちに何回も名前を変えたり、家系保存
のために養子縁組が盛んに行なわれました。博文は、山口県の太
平洋岸側の熊毛郡東荷村(いまのJR山陽本線岩田駅近傍の大和
町)の百姓林十蔵、妻琴子の長男(姉がいました)として生まれま
したが、萩藩の仲間伊藤直右衛門に仕えるうちにその職務への精
励ぶりが見込まれ、両親に連れられ、一家をあげて伊藤家に養子
入りしました。
博文は、幼名を利助、利介、利輔、舜輔、春輔、俊輔と変えてい
ます。その後は、伊藤俊輔、越智斧太郎、花山春輔、花山春太郎
吉村荘蔵、林宇一、伊藤俊介、デポナー(英国から急に帰国したと
き)などと名乗っています。そして明治元年9月ごろから伊藤博文
(ひろぶみ)を名乗るようになったといわれます。
萩に移るまでの博文の生家は、いまもそのまま大和町に建てら
れた伊藤博文公資料館と伊藤公記念館のかたわらに保存されて
います。というよりも、その生家のそばに資料館と記念館が建てら
れたというほうが当っているでしょう(両館については、あとでふれ
ます)。
博文は、明治の三傑といわれた木戸孝允(病死)、西郷隆盛(西
南戦争に敗れ自刃)、大久保利通(暗殺により不慮の死)が短期
間に相次いで逝去したあと、初代総理大臣に就任、さらにそのあと
三度にわたって内閣を組閣し、明治憲法の調査・制定の中心人物
になるなど、明治新政府確立の重鎮となりました。その後は貴族
院議長、韓国初代統監、枢密院議長を歴任したのち、旧満州視察
の旅の途中、ハルビン駅頭で安重根の撃った凶弾に倒れ帰らぬ人
となりました。時に享年68歳でした。
写真4 伊藤博文は、6歳のときに父林十蔵と母 琴子に連れられ一家ごと、萩藩の中間伊藤家に養子縁組しました。これはそのときに住んでいた家です。 |
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写真5 伊藤博文は、明治の元勲になってから東京品川に和洋折衷の別邸を建てました。それを萩に移築したものです。 |
写真4は、博文が伊藤姓になってから両親とともに住んでいた萩
の家で、萱葺き27坪の粗末な家です。6歳から両親とともに住んで
いましたが、少年期を含め幕末の騒乱のなかで東奔西走し、ほと
んど家にいることはありませんでした。博文の勉強部屋も残されて
います。
伊藤博文(幼名利助)は、天保12年(1841年)9月の生まれです。
父・林十蔵は、熊毛郡で庄屋に次ぐ農民でしたが、家は貧しく萩へ
働きに出たほどでした。前述のように利助は、6歳のとき父母に連
れられ萩の伊藤家に一家ごと養子入りしました。8歳のとき、寺子
屋で読書習字を始め、10歳のとき萩の法光院(現在の円政寺)に預
けられ、約1年半、雑用や勉強をしました。そして、嘉永5年(1852
年)には家老級の重臣福原・児玉・井原の3家で若党奉公をし、翌
6年(1853年)1月に初めて毛利家に召し出されました。
アメリカのペリー提督が4隻の軍艦を率いて浦賀にやってきて、
「蒸気船 たった四はいで 夜も眠れず」(高級煎茶正喜撰(しょうき
せん)をもじった狂歌)と歌われたのはこの年の7月でした。
利助は安政3年(1856年)に長州藩が幕府によって警備を割り当
てられた相州(神奈川)の警備に出るよう任命され、作事吟味役来
原良蔵の従者になりました。来原は、先を読める傑出した人物で、
利助の資質を見抜き松下村塾の吉田松陰に紹介したのです。それ
からあと、伊藤俊介は、松下村塾の学生たちと交わり、桂小五郎
の従者になり、高杉晋作の尊王攘夷の実行計画に加わり、英国
へ留学して目を開かれ文明開化に転じ、井上聞多と共に急遽帰国
馬関戦争を止めさそうと萩藩首脳を説き(これは失敗し、結局、戦
争の火蓋は切られました)、戊辰戦争時とその後には西南戦争、
日清戦争、日露戦争を経験しました。
写真5は、明治の元勲となってから東京品川に建てた和洋折衷
の別宅ですが、和室のひとつにはテーブルの上に伊藤博文公の
旧満州国訪問時、韓国統監時代の写真を含む珍しい写真を貼った
アルバムを自由に見ることができます。
なお、伊藤博文旧宅から徒歩7分のところに、これも藁葺きの小
さな玉木文之進旧宅が保存されています。文之進は松陰の叔父で
松陰も幼少の頃ここで学んだということです。
東萩側には、広大な敷地をもつリゾート・ホテル「萩本陣」がありま
す。また、その上方に建っている東光寺は、毛利家の奇数代の藩
主5人の菩提寺で、500基の灯篭が藩主たちの墓を守っています。
東光寺に対して萩駅に近い大照院は、偶数代の藩主の菩提寺で
す。
歴史ロマンを色濃く残す
木戸孝允の旧宅と高杉晋作の旧宅
阿武川のデルタ地帯の上は、明治維新という壮大な歴史ロマンを色
濃く残す萩の旧城下町です。中央公園の近くには木戸孝允と高杉晋作
の旧宅があります。
萩藩の勤皇志士のまとめ役の器量人だった木戸孝允は、藩医和田
晶景の次男として生まれ、幼名を小五郎といいました。しかし、隣家で
実父の友人だった藩士桂九郎兵衛(禄高90石)に請われ同家の養子
になり、長じて藩命により姓を木戸に改めました。水戸藩の講道館と
並ぶ有名藩校「明倫館」では、吉田松陰から兵学を学びました。剣道
は、江戸のに出て神道無念流の斎藤弥九郎に師事、塾頭に出世する
ほどの剣豪でしたが、「逃げの木戸」といわれたように安政の大獄下で
新撰組などにつけ狙われ、何度も危ない目にあいながら一度も人を斬
ったことはありません。「剣の極意は、戦わずして制すること」を地でい
ったのです。
西郷隆盛、大久保利通とともに明治の三傑と呼ばれましたが、惜しい
ことに44歳の若さで病死しました。明治新政府の参与、参議を務め、藩
籍奉還・廃藩置県を実現しました。
写真6 高杉晋作の旧宅の近くには木造 白壁の塀が続いています。 |
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写真7 高杉晋作、伊藤博文が少年時代に 遊んだ金毘羅神社。 |
高杉晋作略伝 名は春風 字は暢夫 晋作は通称でありますが、最も広く知られて います。また谷梅之助、谷潜蔵の変名もあり、東行、西海一狂生、東 生一狂生などと号していました。 天保十年(1839年)八月二十日萩 藩士高杉小忠太、室道子(大西氏の出)の長男としてここ萩菊谷横丁 の宅で生まれました。幼少の頃私塾に学を習いやや長じて明倫館に 文武を学び、また松下村塾に入り松陰の指導を受けました。 文久元年(1861年)藩主世子の小姓役に抜擢せられ翌二年、幕使に 随行して上海に渡航する機会に恵まれて海外諸情勢をつかみ帰朝 後攘夷の急先鋒として活躍しました。 文久三年馬関外国船攻撃にあたり自ら奇兵隊を組織し、同隊総監 を命ぜられました。奇兵隊は、日本でははじめての士農工商を問わ ない国民的軍隊で、のちこれにならうもの続出して、長州藩の反幕府 勢力軍事的基盤として、明治維新戦争に大きな働きをしました。つい で一時脱藩し罪をえて野山獄に入りましたが、元治元年の四国連合 艦隊の馬関来襲にあたり許されて再起用され、講和条約の正使とな って堂々と交渉して国土の危急を救いました。 禁門変後藩首脳は、俗論党により占められたため、晋作は九州に 亡命しましたが、時至ってふたたび奇兵隊を指揮し、長府功山寺に軍 を起こし、疾風の勢いで諸地に転戦し、俗論党を一掃いたしました。 第二回長州征伐を前に薩長同盟に尽力し、慶応ニ年第二回征長 軍を迎えて、全藩を指揮し、みずからは小倉口を攻めて、縦横の機 略を駆使して連戦連勝しましたが、翌三年四月十四日、享年二十九 歳で赤馬関に病死し、下関市吉田清水に葬られました。 明治二十四年生前の功労に対して正四位を贈られました。 この旧宅について この旧宅は、家禄二百石を受けていた父高杉小忠太宅で、現存す る当時の建物は座敷(六畳床間付)次の間(六畳)居間に(六、四、 五畳)小室(三畳)のほかに玄関、台所があります。土蔵、納屋もあ りましたが、現存しておりません。庭園に鎮守、裏庭には井戸がそ のまま残っております。 萩市内の関係史跡 一、高杉暢夫墓(遺髪墓) ニ、明倫館跡 江向 三、松下村塾 椿東区松本 四、萩城跡 (備考)なお萩市以外の主な関係としては、高杉晋作墓(下関吉田 清水山国指定史跡)、奇兵隊挙兵地(下関市長府功山寺)、 大田絵堂戦跡(美称郡美東町)などがあります。 |
写真8 熊谷家は萩藩御用達の豪商として大を成し、多くの美術品も収集しました。建物も国指定重要文化財です。4代目義比はシーボルトと親交があり、現存する日本最古のピアノを贈られました。 |
写真9:伊藤博文公が生まれた家で、利助(幼名)は6歳までここに住んでいました。 |
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写真10:大和町が建てた伊藤公資料館。数々の質素な遺品から伊藤公の人柄が偲ばれます。 |
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写真11:伊藤公記念館。林一族の400年祭法要を行った後、公民館や図書館として使うため寄贈するつもりで、公自らの指示で建てられましたが、ハルビン駅頭で狙撃され完成を見ずに帰らぬ人となりました。 |
作者
栗田 昭平
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