ほのぼのとした小粋さが
漂う小江戸「川越」を歩く
埼玉県編:
                作者 栗田 昭平

東京・池袋から東武鉄道の「東上線」池袋駅から急行で約30分、普
通電車で約40分,JR川越線で45分(通勤快速の場合)のところに、小
江戸と呼ばれる小粋な川越市があります。江戸時代には江戸から
ここまで運河が通じていて、農産物を供給し、江戸からは直接、幕府
の都の文化が流入していたことから、その小粋さが生まれたのでしょ
う。それどころか、室町時代末期にさかのぼると、江戸はむしろ淋し
い未開地の景観を呈していたのに対して、川越はすでに太田資清
(仏道入信名:道真)、資長(道灌)父子によって川越城が築かれてい
ました。道灌はさらに江戸城を築き、江戸へ川越の文化を移したとい
われます。つまり、川越は江戸の先輩だったのです。このことはあま
り知られていません。
 川越は、薩摩芋を使った高級なお菓子の名産地です。人口33万人
余の垢抜けした観光都市です。三島市の人口が11万人、沼津市の
人口が20万7,000人ですから、規模は両市を合わせた大きさで、交通
は至便です。川越を訪れる観光客は、年間400万人にのぼります。
 貴重な史跡には、平屋建ての川越城、徳川家康が教えを請うてい
た天海僧正が27代住職を努めた喜多院(国宝)と、徳川三代将軍家
光の命令で江戸城紅葉山から移築した春日の局御殿(家光誕生の
間も)があります。明治26年の大火後に再建された情緒豊かで重厚
な蔵の商家の街並みは、旧城下町の中心部に位置し、建物は国の
重要文化財に指定されています。では川越の街をぶらり歴史探訪し
てみましょう。






太田道真、道灌父子が開いた川越
市の花は道灌の逸話に因み「山吹」


 川越市役所の前には狩姿の太田道灌(1432〜1486)の銅像
(写真1)
が立っています。川越城を築城したのは太田道真と道灌ですが、むしろ
道灌は江戸城を築いたことで有名です。
 道灌は、川越と深い関係があった知略に優れた室町時代末期の文武
両道に通じた武将でした。当時、関東(武州)は古河(こが)城を拠点とす
る足利氏と、丹波の国からやってきた上杉氏が対峙し二分されていまし
たが、上杉氏は扇谷上杉、山内上杉、犬懸(いぬがけ)上杉の三氏に分
かれていて、犬懸上杉氏は衰退していました。道真、道灌父子は、扇谷
上杉家につかえていて、山内上杉家を加えた上杉家の安泰をはかるこ
とが、武州の平和につながると考え、そのように行動し、道灌は小机の
戦いなどに出陣し、天才的な軍師ぶりを発揮しました。
 ところが、道灌の知略を恐れた山内上杉定正は、扇谷上杉顕定をそそ
のかし、「道灌を亡き者にすれば、山内上杉家は手を結ぶ用意がある」と
もちかけ、顕定はその奸知にまんまとのってしまい、忠臣道灌を相模国
糠屋(現在の神奈川県伊勢原市)の館に呼び寄せ謀殺してしまったので
す。
 道灌の雨宿りと蓑借りの逸話はあまりにも有名です。
 道灌は、ある日狩に出かけて雨に降られました。どこか雨宿りすると
ころはないかと馬を進めているうちに、ふと前方に貧しい農家のあばら
家が目にとまりました。道灌はそこに入っていき、「蓑を貸してくれぬか」
と問いました。すると出てきた唖の若い女は黙って山吹の花を差し出し
たのです。道灌はそのときその意味がわかりませんでした。あとで調べ
ると、唖女は「七重八重 花は咲けども山吹の 実の一つだに なきぞ
悲しき」という和歌を引き合いにして「実の一つだに」を「蓑一つだにない
ほど貧乏です」という意味を伝えようとしたことがわかりました。道灌は、
自分の教養のなさを恥じ、その後鋭意和歌の勉強を重ね、文武両道に
優れた歌人にもなったといわれます。道灌は、医学、兵学、史学、文学
など幅広い教養を備えていたといわれます。山内上杉氏が支配する最
南端の要害の高台に、道灌が江戸城を築いたのは弱冠25歳の時でし
た。
 道灌の逸話に因んで川越市は、市の花を「山吹」にしたのでしょう。つ
いでに言えば、川越市の木は「樫」(かし)で、同市の鳥は「雁」(かり)で
す。川越市役所前の銅像の台座には、次のような説明文が刻まれてい
ます。


写真1 
川越市役所前には狩姿の太田道灌の銅像が立って
います。川越城は、太田道真、道灌父子が築いたも
ので、優れた歌人でもあった道灌は、のちに築いた
江戸城で頻繁に歌会を催しました。

              太田道灌公像
 川越は、古代から、この地方の文化の中心であった。長禄元年
(西暦1457年)太田氏が川越城を築き、更には江戸城を築いて川
越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。明治
以後も引き続き埼玉県第一の都府として、大正11年他に魁けて市
制を施行した。ここに市制50周年を迎えるに当り市庁舎を新築し、
川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌の銅像を建て、古き歴史を偲
びつつ新しき未来を開こうとするものである。
   昭和47年9月吉日
         川越市長 加藤瀧二


明治の大火の経験が、重厚な蔵
の商家街を生む

 

 川越と言えば、先ず引き合いに出されるのは、30数軒の商家が
軒を連ねる重厚な蔵の街
(写真2、3、4)です。この街並みは、市
の3分の1を焼失した明治26年の大火の時の教訓によって築か
れたといわれます。
 川越は、徳川家康が豊臣秀吉による国替え政策により河内から
関東へ移ったとき、道灌が築城した同じ台地に江戸城を整備しまし
た。家康は、秀吉亡き後に天下人となり、江戸幕府を開いたのちは、
江戸が幕府の都となり、川越は江戸の台所を賄う重要な土地とな
り、川越藩主には代々徳川幕下の重臣が命じられ、老中を務める
藩主も出ました。
 因みに江戸幕府の組織は、将軍の下に大老。大老の下に老中、
若年寄、寺社奉行。老中の下に大目付、町奉行、勘定奉行。若年
寄の下に目付が置いていました。大老はいまで言えば総理大臣、
老中は大臣に当り、老中は交代で政務を見ました。大目付は大名
の監視に当りました。町奉行は、江戸の町政、警察、裁判を行ない
ました。大岡越前の守忠相(ただすけ)は8代将軍徳川吉宗の時の
名町奉行でした。若年寄は老中を補佐し、その下には旗本と御家
人の監督に当る目付が置かれていました。
 明治26年の大火の火元は、城下町の中心部の商家の街並みで
した。大沢家は火元の近くに位置していたにもかかわらず、その近
辺にただ1軒だけが焼け残りました。大沢家だけが焼け残ったかと
いうと、その理由は、大沢家は重厚な蔵造りの家で、このとき重い
扉のうしろをありあわせの味噌で保護したからでした。実は大沢家
は、明治より古い寛政4年(1792年)に建てられた建物で、数回に
わたる大火にも類焼しなかったという歴史を持っています。そのた
め明治の大火後に立てられた蔵造りの商家より簡素なたたづまい
をしています。こういう歴史に学んで、明治の大火後の復興に当っ
て各商家は、大沢家を参考に蔵造りにしたのでした。
 これが現在も全国有数の蔵の家の街並みを残している理由なの
です。通りの中心に立てられている説明板には、この街並みのい
われを次のように述べています。

               川越の町並
 川越は、江戸時代には文化や商業が発展し、小江戸と呼ばれ
ていた。新河岸(しんがし)川の舟運により江戸の台所を賄う農
産物や織物などを供給し、江戸との往来もさかんだったので、江
戸文化が吸収できたためである。
 ここ幸町の通りは、江戸時代から明治・大正時代にかけて川
越の中心街であった。
 明治26年3月に川越で大火があり、1,303戸が焼失したが、数
軒の蔵造りの建物が焼け残った。このことを教訓とした商人たち
は、競って店を蔵造り建築にした。これが蔵造りの町並みを生ん
で、最盛期には200軒余りもあったといわれている。
 今日では、市内に30軒余りが残っているだけになってしまった
が、分厚いしっくい壁で塗り込めた蔵造りの店舗が、これだけ軒
を連ねているのは、他の都市には見られない景観である。
 特に、黒くて厚い壁、大きな鬼瓦と高い棟、どっしりとした風格
は、川越の文化と経済の伝統を象徴している。
    昭和57年3月
                          川 越 市


写真2
明治26年の大火の経験から重厚な蔵造りの家として再建された30数軒の商店がなんとも言えないやすらぎを訪れる人々に与えてくれます。
写真3
大正7年に建てられた四十七銀行の洋館の塔は、市内いあたるところから望見されます。いまは「埼玉りそな銀行川越支店」が入っています。国の登録有形文化財に指定されています。
写真4
約400年前の江戸時代から時を告げてきた「時の鐘」は有名で、市のシンボルになっています。各時になるごとに、いまは無人の仕掛けで自動的に鐘をつくようになっています。


家康が教えを請うた天海僧正のもと
に栄えた喜多院

 小江戸と呼ばれるだけあって、川越には江戸時代にまつわる史跡が
たくさんあります。まず最初に私があげたいのは、400年前に江戸幕府
を開設した徳川家康がいろいろと教えを請い、「天海僧正は、人中の仏
なり、恨むらくは、相識ることの遅かりつるを」と嘆いたという天海僧正
が(慈眼大師)が、27代住職をつとめた喜多院です。江戸時代には、世
界的に見ても人の平均寿命は大変低く、30歳ぐらいとみられています。
ところが天海僧正は、実に108歳の天寿を全うしました。天海僧正は、
「気は長く 勤めはかたく 色うすく 食ほそうして こころひろかれ」とい
う長寿歌を残しています。

 天海僧正は、徳川幕府の黒衣宰相と呼ばれ、家康、秀忠、家光三代
に仕え、江戸の上野に東叡山寛永寺も創建しています。家光が将軍に
なったことにも大きな影響を与えたといわれます。すなわち、二代将軍
秀忠は三代将軍を国松に継がせるつもりで、竹千代(家光の幼名)を
かわいがりませんでした。これを見て竹千代の乳人だった春日の局は、
天海僧正に働きかけ、引退していたけれども、院政同様の影響力を行
使していた大御所家康に、竹千代を後継ぎに定めるよう奏上し、そのよ
うになったのです。家光が春日の局と天海僧正を厚遇し、喜多院に「家
光誕生の間」を含む江戸本丸書院を寄進したのは、家光の気持をよく
表しています。

江戸城の家光誕生の間を含む建物を移築した客殿、
書院、庫裏

 春日の局が住んでいたこの御殿(別殿)は、喜多院の客殿、書院、庫
裏に当り、観覧料400円(子供200円)で御殿
(写真5)を一回りできます。
「春日の局化粧の間」も見ることができます。春爛漫に回り廊下からうっ
とりさせられる枝垂桜が眺められる見事な庭園は、江戸城の紅葉山の
庭園を再現したものといわれます。
 観覧券は喜多院境内の一角にある五百羅漢の観覧の共通券で、中
央部の大仏釈迦如来、脇侍菩薩、文殊普腎菩薩をぐるりと取り囲んだ
ユーモラスな僧侶たちの羅漢像を見ることができます
(写真6)。この群
像は、天明2年(1782年)から文政8年(1825年)までの約50年をかけ
て完成したものといわれます。
 喜多院は、平安時代に淳和天皇の勅によって天長7年(830年)自覚
大師円仁によって創建された寺で、国宝に指定されています。国が指定
している文化財には、客殿、書院、庫裏、山門、慈眼堂、鐘楼門、職人
尽絵(狩野吉信筆)、橘友成絲巻太刀、銅鐘(正安2年)、宋版一切経
(4,686巻)、東照宮建造物および36歌仙(岩佐又兵衛筆、東照宮所蔵)
日枝神社があります。
 天海僧正は、家康、秀忠、家光という三代の将軍の信任を得たため、
喜多院は寺領4万8,000坪、500石を得、繁栄したといわれます。本堂
(写真7)では、1月3日に厄除け護摩法要が行なわれ、数十万人の参
拝者で賑わいます。境内ではその日「だるま市」の屋台が立ち並びま
す。

写真5
三代将軍家光の時に江戸城の紅葉山から移築された別殿の入口に当る建物で、
春日の局が住んでいました。家光誕生の間や、春日の局の化粧の間もあります。
写真6
喜多院の境内には、約220年前から50年をかけて完成したという五百羅漢がユーモラスな表情で並んでいます。春日の局御殿の観覧券で共通に入場できます。
写真7
喜多院の本殿で行事が行なわれる日には近隣から数十万人の参拝客が訪れると
いわれます。
写真8
終戦後に前貫主亮忠探題大僧正によって昭和の大復興が進められ、喜多院は往時の姿を取り戻したということです。その後さらに現当主は、慈恵堂と、この多宝塔を修理し、このような素晴らしい景観を見ることができます。桜の季節には、多くの観光客が訪れます。


三大東照宮のひとつ、「仙波東照宮」


 喜多院と庭続きの仙波には、徳川家康の遺骸を静岡県久能山から
日光に移葬する途中で4日間逗留し、天海僧正が大法要を営んだこ
とに因んで、寛永10年(1633年)に造営された「仙波東照宮」
(写真9)
が丘の上に建っています。徳川幕府に迎合する意志を表明する一手
段として諸大名はこぞって東照宮を造営したので、全国には約500の
東照宮があるといわれますが、仙波東照宮は日光、久能山の東照宮
とともに三大東照宮に数えられます。
 拝殿の前の両脇には、多数の石灯籠が並んでいますが、これらは
歴代の川越城主が奉納したもので、松平信綱や柳沢吉保の奉納した
灯篭もあります。拝殿内部には、三十六歌仙額や鷹絵額が飾られて
います。



写真9
喜多院の隣の敷地の丘の上に三大東照宮のひとつ「仙波東照宮」があります。静岡県久能山東照宮から家康公の遺骸を日光に移葬する途中、川越
に4日間逗留したとき、天海僧正が大法要を営んだのが建立の動機でした。
 


島崎藤村の義母の墓と茶室もある
中院


 仙波東照宮の隣には、これも慈覚大師円仁の創建になる中院とそ
の静寂の庭園がひろがっています。最初はいまの仙波東照宮のある
ところに建っていたのですが、仙波東照宮の建立に当っていまの敷
地に移築されたのでした。本堂前には
写真10のように見事な枝垂桜
が立っています。ここには島崎藤村の義母・加藤みきさんの墓と、藤
村がみきさんに贈った茶室「不染亭」が移築されています。藤村は、
みきさんの墓参りにしばしば訪れたそうです。
 正門の前には、次のような説明板が立っています。

             中  院
                 所在地 川越市小仙波町5町目
 中院は、星野山無量寿寺仏地院(せいやさんむりょうじゅじぶつ
ちいん)と称し、天長7年(830年)に、慈覚大師によって創立され
た。当初の中院は、喜多院の隣にある東照宮の地にあったが、寛
永15年(1633)東照宮建造の折に現在地に移されたものである。
 境内には、川越城主秋元候の家老であった太陽寺一族の墓、島
崎藤村の義母・加藤みきの墓などがある。
 太陽寺一族の墓は、山門を入ってすぐ左側にある三基の墓で、
川越の地誌「多濃武の雁(たのぶのかり)」を著した太陽寺盛胤
(もりたね)の祖父盛昌・父盛方および妻のものである。
 また、加藤みきは、文久3年(1863)に川越松平藩蔵前目付の
次女としてこの地に生まれ、4歳の時に母に伴なわれて上京し、
以後大正12年に再び川越に戻り、昭和10年5月に73歳の生涯を
閉じた。墓石に「蓮月不染乃墓」と彫られており、募銘は藤村が書
いたものである。



写真10
中院の本堂前には、見事な枝垂れ桜があります。
島崎藤村の義母・加藤みきさんの茶室「不染亭」
が、この参道の左側に移築されています。


川越の歴史がわかる川越市立博物館


  蔵造りの商店街を通り抜けると札の辻の四つ角に出ます(私の書いた
「川越ぶらり史跡の図」を参照)
。そこを左折してしばらく行くと川越市役所
の前に出ます。さらに歩くとやがて蔵を連想させる白亜の川越市立博物館
(写真11)があります。入館料は、大人200円、児童50円、学生(中、高、
大)100円ですが、大人300円を払うと、近くの川越城観覧の共通券をもらえ
ます。毎週月曜日が休館日です。
 展示内容は、近世の「小江戸川越」、近・現代の「川越の発展」、中世の
「武士の活躍と川越」、原始・古代の「川越のあけぼの」、および「民族・川
越の職人とまつり」ですが、ほかに折々の企画のための展示室があり、た
とえば終戦直後の懐かしい「私たちの暮らしぶり」を再現した展示を見るこ
とができます。
 私たち夫婦が好んでするのは、子供たちのための遊び部屋に用意して
ある輪投げや、こまや、積み木を試してみることです。
 小江戸川越の展示室では、川越城から江戸城までの家光時代の風景を
描いた見事な屏風と、天海僧正の正座像が人々の目をひきつけます。同
館の説明嬢の話によれば、屏風には約5,000人の人々が描かれているそ
うです。


川越ぶらり史跡の図




写真11
蔵を連想させる川越市立博物館。


250年前の様子を残す川越城本丸
御殿玄関部分



 川越市立博物館から右折して少し歩くと、平屋建ての川越城本丸御殿
があります。前述のように、川越城は大田道真・道灌父子が築いた城で
すが、これは古河公方足利成氏(しげうじ)に対抗するために、関東管領
の扇谷上杉持朝の命令によって、いまから546年前(長禄元年。1457年)
に築かれました。
 その後、徳川家康が豊臣秀吉の命で関東に国替えになり、江戸城を整
備し、天下を取って幕府を開いてからは、川越藩は代々徳川家の重臣が
領有することになりました。
 大田父子の築城当時の規模は、のちの本丸と二の丸を合わせた程度
でしたが、江戸時代になるとニ重に堀をめぐらした広大な城郭を誇り、藩
主松平信綱のとき(寛永16年=1639年)に4万6,000(堀と土塁を除いて)
坪に広がる城郭の体裁を整え、中には本丸、二の丸、三の丸、三つの櫓、
12の門を含む規模になりました。いまの市役所のすぐ前あたりが大手門
の当っていたことからも、その広大さが想像できます。
 現在残っている建物は、嘉永元年(1848年)当時の藩主松平斉典が造
営した本丸御殿16棟(1,025坪)の玄関部分と、別に移築復元された家老
詰め所で、約250年前の様子をよく残しているといわれます。家老詰め
所には、家老たちが藩行政を相談している蝋人形が置かれています。当
時川越藩主は幕府の重臣として、江戸に常住していたので、藩行政は家
老たちが取り仕切っていたのです。



写真12
川越城は、昔、堀と土塁を除いて4万6,000坪の規模を誇
っていましたが、現存するのは本丸の玄関部分と、家老
詰め所の建物です。



不動明王のご利益が一農民を動かし
興した成田山川越別院

 喜多院の多宝塔から北口の道を出て100メートルほど歩くと、左側に
成田山川越別院があります。この寺は、下田にペリーが来航した嘉永
6年(1853年)に下総の国新宿の石川照温が、廃寺の本行院を成田
山別院の新勝寺の別院として再興した寺です。毎月28日には、骨董市
が開かれます。
 正門には、次のような説明板が立っています。

          成田山川越別院 
                      所在地 川越市久保町 
 成田山川越別院は、川越別院成田山本行院と称し、いつの頃か
「久保町のお不動様」とも呼ばれるようになった。
 本尊は不動明王で、内外の諸難や汚れを焼き払い、人々を守る
といわれ、願をかける時などに奉納する絵馬のため、境内には絵
馬堂も建立されている。
 当寺は、江戸時代も末のか嘉永6年(1853)、ペリーが黒船を
率いて浦賀に来航した年に、下総の国新宿(にいじゅく。現葛飾
区)の石川照温が、廃寺となっていた本行寺を成田山新勝寺の別
院として再興したのが始まりといわれる。石川照温については、次
のような話が伝えられている。
 農家に生まれた石川照温は、30歳の頃に目が見えなくなってしま
った。光明をなくした照温は、ある日のこと自ら命を絶とうとしたが、
その時不思議なことに光を失った眼前に不動明王見えたので、に
わかに仏道に目覚め、それまでの生活を改めるとともに、有名な
成田山新勝寺のお不動様を熱心に信仰するようになった。
 その甲斐あってか、失明した目もいつか昔のように見えるように
なったので、いよいよ仏道に励み、当地に寺を建立し、多勢の信者
から慕われるようになったとのことである。
 なお照温の碑が、近くの中院墓地に建てられている。
     昭和57年3月
                         川 越 市 


写真13
一農民石川照温が建立した成田山川越別院は、参拝
者が絶えません。



昔懐かしい菓子屋横丁と大道芸


 札の辻の角を左折してしばらく行くと、左側に昔懐かしい菓子屋横丁
があります。この付近はもともとは養寿院という寺の門前町でしたが、
明治になって駄菓子を製造・販売する店ができ、その後のれん分けで
店が増え昭和初期の最盛期には70店以上が軒を連ねていました。現
在は、私のみるところでは30軒前後あるでしょうか。休祭日には、路地
は観光客でいっぱいです。
 運が良いと、紙芝居や、お客のリクェストで狐やゴジラや虎や、何でも
5分間ぐらいで形をつくる飴細工屋や、「さてーもさてさて さてさてさて 
なんきんかまーすだれ」といいなら器用に竹の芸道具をいろいろな形に
変形させる大道芸人の芸を見ることができます。
 店先には、まだ昭和20年代ならどこにでも駄菓子屋さんがあって、並
んでいた飴玉や、シソパンや、千歳飴や、金太郎飴や、麦落雁、かりん
糖、水ようかん、せんべい、麩菓子などが、ところ狭しと並んでいます。
川越自慢の薩摩芋を材料にした菓子やアイスクリーム、地ビールなど
もあります。私は、川越に行くたびに必ずここに立ち寄り、割れたせん
べいがまざっている、おしゃかの歌舞伎せんべいや、染みせんべいを
買い求めることにしています。これがまたおいしくて300〜350円と実に
安いのです。ただ割れた製品がまざっているだけで、品質は上々、スー
パーで売っているもののように量産製品ではなく、手作りの味なのです。
そしてそこの雰囲気がなんとも言えず良いのです。


写真14
昔懐かしい菓子屋横丁は、日土曜、祭日には観
光客で溢れています。


  養寿院は、1244年開基の天台宗でしたが、1535年に曹洞宗に改め、
江戸時代には御朱印十石の由緒ある寺でした。本堂には鎌倉の大仏
をつくった鋳物師丹治久友(たんじひさとも)の作になる銅鐘が保存され
ているということです。

洋風商店が落ち着いた雰囲気を醸し出す「大正ロマン通り」


 東上線川越駅へ降り立つと、人々は二階から東西南北に進む形になり、
近代的な「アトレ」、「マイン」のビルが目の前に聳え立つ、垢抜けした明る
い駅前の景観に良い印象を受けます。左前方に進んで階段を降りると、
およそ1キロ・メートルも続く、垢抜けした現代を象徴するようなショッピング
遊歩道「クレアモール」の入口に立ちます。こんなに長いショッピング道を私
はみたことがありません。この道はウィーク・デイでも若者、中高年者、外国
人で賑わっています。川越はアパレル店の多い街です。東上線沿線の一日
に3万人が出入りし、安いことで有名な大山駅前のアーケード通りも及ばな
い長さと賑わいです。連雀町手前の左側に八百屋さんがりますが、ここの果物と野菜が実に安く、品物も良いので、私ども夫婦は川越に行ったときの帰
りには、必ずといっていいほど果物を買います。
 私の書いた地図は位置関係を示したに過ぎず、喜多院、東照宮、中院と
クレアモールはこんなに近くはなくて、歩いて25〜30分はかかります。
 連雀町を過ぎてさらに行くと、落ち着いたほのぼのした雰囲気の大正ロマ
ン通り
(写真15)に出ます。この通りは洋風の建物の商店が多く、アパレル
店、時計店、喫茶店、雛人形店、電機店、すし屋、菓子屋、うなぎ屋などが
並んでいます。一番奥の角の洋館は、川越商工会議所です。


写真15
大正ロマン通りは、洋風の商店が並んでいて、大正時代
の落ち着いた雰囲気です。




市をあげて催す川越「春まつり」と
「秋まつり」


 3月下旬と10月第3土・日曜日に市をあげて催される川越春祭り
と秋祭りは、ものすごく賑わう祭りで、露天の屋台がクレアモール
と蔵造り商店街の両脇を全部埋め尽くします。おそらく1,000軒は
優に超すでしょう。いったいどこからこんな数の露天商が出てくる
のでしょうか。
 川越市立博物館で読んだ「川越まつり」の説明には、こう書いて
ありました。
 「川越まつりは、慶安元年(1648)当時の藩主松平信綱の奨励で
始まりました。江戸天下祭の影響を受けながら年々華やかになり、
文政9年(1826)の祭礼には、十か町の各町から山車や踊り屋台、
曳物、造物などの付け祭がでて、趣向を競いあいました。その後
明治に入ると付け祭は衰退し、ニ重鉾型の山車中心の祭礼が定
着します。
 戦後、新たに山車をつくる町も増え、現在では川越市全体のま
つりとして、毎年盛大に催されています」
 川越まつりは、実際は川越総鎮守氷川神社の祭として、350年続く
祭です。からくり人形を乗せた豪華な山車が、各町から出て街を練り
歩きます。
 


写真16
私がたまたま出会った春まつりの山車
です。


私のグルメ歩き



 最後に私ども夫婦グルメ歩きをご紹介しましょう。私どもは東上線沿
線に住んでいる関係で、午後一番によく川越に電車で行き、1万歩ほ
どぶらり歴史の散策を楽しんだあと、夕食を取って7〜8時ごろには家
に着くようなことをしばしば楽しんでいます。
 川越の小粋な雰囲気と、土地の人々のお客さんを一生懸命迎えよう
と努力している様子が好きだからです。おだんごは、いたるところで売っ
ていて、甘すぎず、素朴な醤油味の串団子を1本だけでも売ってくれま
す。
 薩摩芋を材料とする菓子は、安いものから高級菓子まで、実に種類が
豊富です。漬物もおいしいものが、豊富です。もちろん、藷をベースとす
る料理は、定評がありますが、私はまだ藷料理店に入ったことはありま
せん。一度味わってみたいと思っています。
 私どもがよく夕食に入る店は、大正ロマン通りの川越商工会議所の
手前筋向いにある昔ながらの質素な建物のうなぎ屋「小川菊」です。
ここはうなぎ一筋の店で、味は絶品です。仕入れたうなぎ食材がなくな
れば、それでお終いです。上うな重が2,100円、特上うな重が2,500円で
す。常連のお客、土地のお客が多く、土地の人々は家から注文してお
いて、持ち帰るひとも多いようです。
 蔵造り商家の街の真中あたりの札の辻へ向かって左側にある天ぷら
屋の「天あさ」の料理は、醤油加減がすばらしく価格も安いと思います。
なかでも私どもの好きなものは、カラッとあがった「かきあげ丼」です。値
段も1,500円と安く、感激してしまいます。ついでながら穴子丼は1,300円、
野菜丼は800円です。
 天あさの手前だったでしょうか、「右門」という蔵造りの藷菓子店は、
御膳料理も営んでいて、値段も安く心がこもった御膳料理を出してくれ
ます。空いているときは、お蔵の二階で通りを眺めながら食事ができま
す。
 時の鐘を過ぎてほどない右側には「金笛」という醤油と漬物を売ってい
る店があり、その店の奥は「うんとん処 春夏秋冬」という白木造りのこぎ
れいな食処になっています。全員が女性スタッフで、心のこもった自家製
麺を自家製醤油で仕上げたうどん料理を出してくれます。うどんをベース
にする「うんとん膳」と精進料理をベースにした「春夏秋冬膳」は、1,500円
(消費税別)でコーヒー、紅茶または抹茶つきで、美味です。夕方に行くと、
お膳類はもうないので、電話で予約しておくと材料をとっておき、お客が着
いてからつくってくれます。もちろん、うどん料理は、いろいろあります。醤
油屋は寛政元年創業で、いまは笛木醤油・川越店です。ここの醤油と漬
物は、特徴があり美味です。
 夕食を済ませて大正ロマン通りをぶらぶらと川越駅方面へ向かって歩く
と、右側の喫茶店「大正館」にさしかかります。自家焙煎の挽きたての豆を
使い、サイフォン一杯だてで、ブルーマウンティン、モカ、キリマンジャロ、サ
ントスなどのコーヒーをゆったりと飲むことができます。ブルーマウンティン
の値段は700円、他の種類は550円〜600円です。館内の調度品には、大
正ロマンの雰囲気が漂っています。ホステスは、大正時代の服装をした女
子高校生のバイト嬢でしょうか。わたしどもは、うなぎを賞味したあと、ここで
最後の味のとどめをさすことにしています。
 ちょっと遠いのですが、蔵の商家の街を通り過ぎ、札の辻を越してさらに
真っ直ぐ5,6キロ歩くと、左側にドイツ風の「小江戸ブリュワリー」があり、
薩摩芋の自家製ビールを始め、各種のビールを出しています。料理は、す
べてドイツ料理です。
 以上のほか、川越は気の効いた食事処、レストランがたくさんあります。
大正館ほかでは、「川越グルメ」という100ページの冊子を500円で売ってい
るので、買い求めるのもよいでしょう。歴史の好きな人は、「川越むかし工
房」発行の「小江戸ものがたり」(年2回発行。300円)(大正館でも販売し
ています)を読むことをおすすめします。江戸時代、幕末の実に面白い話
と歴史がのっていて、大変参考になります。
 
2004年11月16日
    
目次へ戻る。