住民参加でつくる公共施設と
地域社会のあり方〜小学校の校庭が
芝生のグラウンドになった〜
Jリーグチェアマンの来訪
鹿児島県指宿市立池田小学校は、JR指宿駅からタクシーで15分ほど離れた所にある小さな小学校である。Jリーグチェアマンの川淵三郎氏は、平成12年2月28日、偶然に、その小学校の前を通った。何気なく見たその校庭には、一面、芝生が広がっていた。川淵氏は、すぐさま車を止めその学校へ飛び込んだ。そして「この校庭こそは私が夢見ていたものだ」と思い、芝生が青々としている季節に再来することを約束し帰途についた。そして5月、その約束を果たしたが、そのときには多くの報道関係者も訪れ、その様子が全国へ伝えられた。
PTAを中心に苦労しながら植えた芝生
池田小学校のある地域は、地区人口1,659人、世帯数662戸の何の変哲もない小さな農村地域である。主な産業といっても、農業くらいしかない。地区内に池田湖という観光資源があり、有名な指宿温泉にも近いが、観光産業に携わる者は少ない。
その小学校の校庭に芝生が植えられたのは、昭和47年のことである。池田小学校の資料に当時のことが生き生きと描かれている。
その後、昭和51年、63年の2回にわたって芝生を総張替えし、現在にいたっている。
校庭が地区の公園
表1:平成12年度 児童数並びに学級編成 学年
学級
児童数
PTA
長子戸数
男子
女子
計
1
1
10
4
14
6
2
1
12
2
14
8
3
1
7
6
13
7
4
1
12
5
17
7
5
1
6
8
14
13
6
1
4
9
13
13
計
6
51
34
85
54
資料提供:池田小学校 池田小学校のグラウンド(耕地13,864u、校庭6,735u)は、学校のグラウンドというよりは、芝生の公園と言った方がよいかもしれない。体育の授業で使われるほかに、休み時間には子供たちがサッカーや一輪車、竹馬などで遊んでいる。児童数が少ない(表1)から、ソフトボールやサッカーなどのスポーツ少年団はない(体育館で活動するバレーボールと剣道はある)が、休み時間には、異年齢の子供たちが入り混じってボールを蹴り楽しんでいる(写真1)。芝生は、コートの中だけではなく周辺の遊具や木の周りにも生えているから(写真2)、少しくらい高いところから落ちてもクッションになって安全だし、どこで寝転んでも気持ちが良いだろう。
土、日曜日の学校がないときには、近所に住む‘OB’の中高生たちが集まり、キャッチボールやサッカーで遊ぶそうである。また、長寿会の校区全体のゲートボール大会が開かれたり、春になると、住民たちが集まって花見をしながら、レクリエーションを楽しんだりと、広く開放され、利用されている。
写真1:青々とした緑の芝生と子どもたち 写真2:遊具周辺の芝生 写真提供:池田小学校 写真撮影:筆者 その中で、最も大きなイベントは、秋に行われる運動会である。昔は、他の一般の学校と同じく、児童だけで行っていたが、今は、地区の成人の運動会と合同の運動会となり、盛大に開催されている。池田小学校の芝生の上で育った子供たち、その親として、PTAで芝生を育ててきた親たち、そういった人々の積み重ねが校区全体に浸透し、池田小学校の芝生グラウンドは校区住民の誇りになっている。川淵氏は、今回の訪問で、そのような地区の住民の話を聞いて涙ぐんたそうだが、川淵氏の来訪によって全国的な脚光を浴びたことは、住民にとって誇らしく思えたに違いない。
写真3:チェアマン来訪時の写真と記念品 写真撮影:筆者 いくつもあった芝生の校庭
この芝生が植えられた当初の理由は「砂埃」対策だった。迷惑施設としての土グラウンドの砂埃問題は、全国どこにでもある話だ。しかし、この地域は、特別に風の強い地域ではない。また、周囲が住宅に囲まれているとか、砂埃が特別に問題になる地域でもない。
グラウンドの芝生化は唐突に出てきたわけではなく、鹿児島県教育委員会の取り組みが背景にある。昭和40年から教育長となった鮫島文男氏は、文部省にいた頃、アメリカを訪れたときにチフトン芝のグラウンドに感銘を受けた。そして、自らが教育長となった鹿児島県で、学校のグラウンドの芝生化を推進した。鹿児島県は、その頃、昭和47年に国民体育大会(以下「国体」)の開催を控えていた。国体の開催時には、体育施設を中心に、さまざまな基盤を整備するが、その一環として、県内の学校の芝生化を進めたのである。その当時、約60校の小中高校のグラウンドが芝生化されたそうである。
児童と芝生の関わり
池田小学校の小正健市校長によれば、芝生グラウンドは「子供たちに精神衛生面でよい影響を与えています」ということである。芝生の上というのは、開放感があるのだと思う。その開放感とは、転んだり倒れたりしても芝生が優しく受け止めてくれ、風が吹いても無粋な砂埃がとんできて目に入ったりしない、それでいて、人工的ではない、やわらかさがあるということだろう。
そのやわらかさを演出するのは、芝生との日頃の触れ合いである。池田小学校では、週1回、火曜日に「生き生きタイム」という時間を設けている。これは、朝8時25分から45分までの20分間、全校児童で学級園と呼ばれる花壇の世話や、芝生の草取り、石拾いなどを行うものだ。私などは、芝生のグラウンドでサッカーをする機会があると、何週間も前から、わくわくしながらその日を待ち、芝生への特別な思いを持って臨む。しかし、池田小学校の子供たちは、日頃から、そのように関わっているので、芝生の上で過ごすことが「当たり前」であると考えている。彼らにとっては、芝生は特別なものではなく、教室の机と同じように、当然、そこにあるものなのだ。
芝生があるのが「当たり前」といっても、粗末に扱うということではない。たまにしか、芝生グラウンドでプレーできない我々が、せっかくの機会だからと使い過ぎて芝生を傷めてしまうのと違い、とても大事にしている。小正校長は「トラックの部分は土になっている。芝があったり、土があったりというのが自然の姿。土のところがあるから芝の良さが分かるし、土の良さもわかる」と述べている。芝生は人工的な自然ではあるが、子供たちにとって、身近に共存している自然である。
コミュニティ活動の場としての学校
表2:平成12年度 芝生管理の年間スケジュール 4/11
芝生管理についての話し合い(PTA三役、施設緑化部、校長、教頭)
4/29
エアレーション(空気の流通を図り、5p間隔で穴をあけ、あいた穴に肥料と黒土を補充する)
5/6-7
散水
5/17
芝刈り
6/ 5
芝刈り
6/19
芝刈り
7/ 1
芝刈り
7/22
散水
7/29
除草剤散布
8/ 9
芝刈り
8/26
芝刈り
8/27
夏休み美化作業(芝刈り、はげた場所への芝生の移植等)
9/23
芝刈り
10/29
芝刈り
資料提供:池田小学校 このことは、校区の住民にとっても、同じことが言える。芝生グラウンドの管理には、PTAの環境緑化部を中心に多くの人が関わっている。散水や芝刈り、除草剤の散布など、芝生を良い状態に保つためには大変な手間がかかる(表2)。これらの作業の大部分は、地区住民が行っている。例えば、芝刈りは、PTA会員がOB会員である芝生業者から芝刈り機を借りて、自分たちで刈っている。年一回、夏休みには子供たち、教員、PTA会員が一同に会し、半日かけて花壇や芝生の手入れをしている。これらの作業に必要な肥料や除草剤の購入には、市が実施している「特色ある学校づくり事業」の6万円(年間)が充てられている。
芝生の管理に関わらず、日頃から、PTAの活動は活発であり、会合には54戸の会員のほぼ全員が参加する。中には、夫婦で出席する家庭もあるらしい。そのようなコミュニティとしてのまとまりが芝生のグラウンドを支えている。
また、PTAのOB会員である芝生業者の働きも見逃せない。芝生管理の技術的なアドバイスも受けることができるし、無償で機材を借りることができるのは有難いことである。鹿児島県が校庭の芝生化を進めたときには、県内に芝生業者が増えたそうである。池田小学校の業者がその中の一つかどうかはわからないが、専門家の関わりは欠かせない。
池田小学校の敷地に隣接して、公民館と市役所の支所がある。また、細い道路を挟んで農協の支所があり、この一帯が地域のセンターとして機能していると言ってもいいだろう。その中心に芝生グラウンドがあるのだ。単に‘良好なスポーツ環境’という行政ことばにくくることができない、コミュニティ活動の舞台としての芝生グラウンドなのである。
利用者の姿勢が問われる芝生管理の難しさ
実は、池田小学校以外にも、指宿市内ではないが、隣接する頴娃町の粟ケ窪小学校や九玉小学校など、鹿児島県内のいくつかの学校に芝生グラウンドが残っている。池田小学校は、トラックの部分が土になっているが、トラックを含めて全面が芝生のグラウンドもあるそうである。しかし、少数の例を除けば、昭和40年代に芝生化された校庭の多くに芝生は残っていない。その理由として、利用が激しいと禿げてしまうということが挙げられる。特にサッカーやソフトボールのスポーツ少年団活動が盛んなところでは、すぐにダメになってしまうだろう。
池田小学校は、現在、児童数85人、芝生化した当初でも279人の児童しかいなかった。利用頻度が低い上に利用者が少ないから、傷むスピードよりも、回復するスピードが速いのだろう。
また、競技スポーツ側の理由もあるだろう。池田小学校も、ソフトボールスポーツ少年団があった頃は、ダイヤモンドの中は芝生が生えていなかったのだ。
都市部において、校庭を芝生化しようとするとき、スケールメリットを追えば失敗するだろう。より多くの人が使おうとすれば、その芝は傷む。使うことだけ考えて、維持管理の手間を厭えば金がかかるだろう。自らが手間暇をかける代わりに利用料というかたちで代償を支払った利用者は、利用料=コストを回収するために最大限に芝生を使おうとし、その結果として、芝生が傷む。
これを解決するためには、芝生の上で楽しむことと同時に、それを維持するために手間暇をかけることを、人々の社会生活の一部にすることである。単に受益に応じた負担として、参加や利用料を求めるのではなく、参加のプロセスそのものが‘負担’ではなく‘満足’をもたらす装置であると考えるべきである。それが定着すれば、芝生のある校庭が日常風景の一部として‘当たり前’のことになるだろう。地域に密着したスポーツ環境とは、このようなことをいうのではないだろうか。
TOP MENUへ MENUへ