第二章 地域社会のスポーツの発展〜清水市の事例

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第一節 清水サッカーの歴史

 現在、清水市は「サッカーの町清水」「日本のブラジル」などと呼ばれている。清水をイメージづけるものには、次郎長の町、港町、羽衣の松などサッカー以外にも多くの文化的、地理的な資源がある。日本平や三保の松原には多くの修学旅行生が訪れ、薪能の天女の羽衣が羽衣の松の下で演じられる時には、世界中から舞踏研究者や記者が集まる。しかし、実際に清水を離れ各地の人に接したとき、「出身地は?」聞かれ、「清水です」と答えると「えっ、じゃあ、サッカーやってたの?」と必ず聞かれる。このように近年では日本全国どこにいっても多くの人がサッカーをイメージするだろう。
 その理由にはいくつかあるが、大きく三つの点を挙げることができる。まず、第一に少年、中学、高校、女子などの各レベルの全国大会での活躍 (表U−1)により、様々なメディア、特にテレビを通じて清水のサッカーの強さが宣伝されたことが挙げられる。お正月に行なわれる「全国高校サッカー選手権大会」は、春・夏の高校野球に匹敵する人気があり、その人気はやはり高校野球と同様に高校生や熱心なサッカーファンに限定されない大衆一般の注目を引いている。野球と違い複数の会場で同時に試合が行なわれる当大会は、全ての試合を生で放送することが不可能なため、多くの地方では地元のチームの試合と準決勝と決勝戦、好カードと思われる試合だけが放送される。常に全国大会の優勝候補に挙げられるチームを三つも持つ清水は、これらのチームが必ず上位に残るため、より多くの試合を行い常に注目されることになり、お正月に全国のお茶の間に集まっている家族、親戚の団欒の場の話題となっている。その構図は、真夏の酒場でサラリーマンたちが合い言葉のように甲子園の話題を持ち出すのに似ている。
 第二に、これが最も重要なのだが、清水市民のサッカー熱が非常に高く、組織化されているということである。年令ごとにチャイルド(小学校入学以前の子供達)から社会人まで各層ごとに組織され、加えて育成会(小学校の父兄のチーム)やママさんチームまでが毎年、リーグ戦を行なっている。サッカー経験者以外で学生時代に部活動で本格的にやらなかった人でも、学校の体育の授業や課外の遊びの中で相当経験しておりレベルが高い。各種の招待試合や高校生のハイレベルな試合が行なわれるときには、必ず一万人を超える観客が観にやってくる。そのような雰囲気に囲まれ、しかも組織化されたチームが活躍し、再び多くの市民に喜びを与えているのである。
 第三にその活動の国際化が進んでいるということである。"日本のブラジル"という呼び名の"ブラジル"はサッカーの国としてイメージを持ち、日本のみならず国際的にサッカーのメッカともいえる意味を持つ。清水では、定期的な国際交流試合が数多く行なわれ、その数は国内で開催される外国との年間60の交流試合の4分の1に当たる。サッカー交流している都市もブラジル2、韓国2、カナダ1、台湾1、ウルグアイ1、アルゼンチン1(1) とアジア、アメリカ大陸にまたがる。その上、各種大会の招待チームに至っては、ヨーロッパのチームの参加例も多くまさに全世界的な広がりを見ることができる。
 組織化、国際化などの点で清水は日本サッカー界あるいは日本のスポーツのパイオニア的な地位を占め、全国大会での優秀な成績がその有効性を裏付けている。以上のような視点から、組織化の進展、全国大会での活躍、国際化などの対外交流の展開等を基準として清水のサッカーの歴史を第一期〜s.30草創期、第二期s.31〜s.41発展期、第三期s.42〜s.48確立期、第四期s.49〜躍進期の四期に分け、その歴史をおっていくことにする。

@第一期 〜S.30 草創期

 この時期は、清水サッカーの草創期であり藤枝サッカーの確立期であると言える。当時、"サッカーの町"といえば藤枝だった。藤枝は、東海道本線の下りに乗り、清水から約30分のところにある人口約12万人の地方都市である。この地域は、清水よりはるか昔からサッカーが盛んだったが、当時の清水は藤枝に追いつけ追い越せと常に目標にしていた。このことは静岡でサッカーをプレーする者にとっては周知の事実であるが、他県の人々には耳慣れないだろうから、次のようなエピソードを一つ挙げておく。
 筆者が清水のサッカー協会を取材で訪ねたときに、協会の事務所に一本の電話がちょうどかかってきた。電話には静岡県サッカー協会中東部支部長の小花氏がでたのだが、電話の相手は藤枝市の少年サッカーの名門・西益津小の生徒だった。彼の話によると、学校のホームルームの時間でサッカーの話になり、その中で「なぜ今は藤枝より清水のサッカーが強いのですか」という質問をしたのだが、担任の先生が清水のサッカー協会に聞いてごらんとその場で電話をかけさせたということらしい。小花氏は、「(清水が強いのは)清水にはいい指導者がたくさんいるからだよ。君も先生にしっかりしろといわなきゃ駄目だよ」と答えていた。今では、清水の方が追い掛けられる立場になってしまったが、昔は藤枝のサッカーの方が圧倒的に強かったのである。それで清水のサッカーの草創期においては、サッカー先進地域である藤枝の影響がかなり強かった。そこで藤枝のサッカーの歴史を簡単に紹介する必要があろう。
 「藤枝を中心とした中西部の蹴球競技活動は、大正13年開校の志太中学の歴史とともに始まり、歩み続けられてきた」(静岡サッカー協会、1990年、257頁)とされている。この志太中学は西部地区の浜松工高とともに静岡サッカー創始期に重要な役割を果たした学校である。志太中創立時の初代校長・錦織兵三郎氏は「運動競技の目的は、体育の振興と精神作興の二方面である。時間浪費が少なく、比較的短時間にその目的を達成することが望ましいので、当時行なわれていた陸上競技、庭球、野球の長短を厳に考慮した上、特に精神作興をバックとしながら、未開発競技の将来性への期待から蹴球を校技として採用し奨励した」(静岡サッカー協会、1990年、257頁)と術懐されている。当時の日本スポーツ界は野球が全盛で、藤枝の町も例外ではなく、野球部ではなくサッカー部をつくることに、5,6年もの長い間、町議会議員を始め一部の町民からかなりの反対を受けた。しかし苦労の末、外部との試合に勝つようになって初めて、町の人々の理解を得られるようになった。
 その後昭和30年代から40年代前半にかけて、天皇杯全日本選手権、全日本実業団選手権、国体などの大会を誘致し、藤枝東高とそのOBで編成された志太クラブを中心として"サッカーの町藤枝"を確立した(2) 。昭和40年ごろまで藤枝は、清水の目標でありその後を追いかけていたわけだが、現在の清水と比べ当時の藤枝には大きな違いがあり、同時にそれが現在の清水と藤枝の形勢逆転につながっている。当時の藤枝サッカーの隆盛は、志太中(後の藤枝東高)に全く依存していた。野球など、日本で行なわれている他の競技スポーツ全般について言えることだが、高校というレベルを一番中心においていたということである。それでも当時は、志太中とそのOBチームである社会人チームである志太クラブの活躍が市民の注目を浴び、サッカーの町として活気づいていたことは確かだが、その活動はあくまで学校体育とその延長にしかなり得なかった。現在の清水のように広範な組織と活動ができず、多くの日本の競技スポーツが今だに乗り越えられずにいる、学校体育という壁を乗りきるのは容易ではなかったのである。ただし当時のサッカー先進地域として、清水のような後進地域の目標やモデルとしての役割は非常に大きかったともいえる。
 このような背景の下で、草創期の清水についてみてみよう。この当時に創立されたチームとそのOBが、その後の清水のサッカーの地盤をつくったとも言える。社会人では日本軽金属が昭和23年にサッカー部を同好会として創部したが、その後有力選手を加え昭和27年の仙台国体出場を始めとして天皇杯、全日本選手権、国体、全国実業団大会で活躍した。中学では昭和24年の清水市立第一中学(3)を始めとして袖師中、五中などの各校でサッカー部が生まれる。高校でも福井半治監督の率いる清水東高が昭和27年の国体で栄冠を得る。これらのチームは後に清水のサッカーに大きな影響を与えるが、藤枝などと同じく高校や会社等が主で現在の清水のサッカーを特徴づけるものはまだあまりみつけることができない。

A第二期 S.31〜S.41 基礎確立期−少年団サッカーの創始期、高校社会人サッカーの開花期、後の清水の基礎確立、藤枝からの独立

 この時期は、現在の清水らしいサッカーが始まった時期だといえるが、清水のサッカーの立場からいえば、これには二つの理由を挙げることができる。第一は藤枝からの独立ということであり、これは従来、サッカーの主役であった社会人、高校レベルでの藤枝からの独立という意味である。確かにこの時期の藤枝は前述のようにまさに最盛期であり、その代表たる藤枝東高は昭和41年のインターハイ、国体、選手権の三冠王を頂点にして、昭和32年の静岡国体から昭和46年のインターハイまで国体二回、選手権五回、インターハイ二回の全国優勝を果たしている。藤枝が"サッカーの町"という名前を持ったのもまさにこの時期である。しかし、この藤枝の最盛期に清水も藤枝に追いつけ追い越せとかなりの成績を残している。そのときに清水東高の国体初制覇も挙げられるが、それよりも清水東高出身の杉山隆一氏の活躍が、清水のサッカーの発展の非常に大きな要因になっている。杉山隆一氏の業績として最も有名なものは、あの"世界の釜本"とコンビを組んで、メキシコオリンピックでの日本の銅メダル獲得に大きな貢献をしたことである。杉山氏の名前は釜本氏と共に日本どころか世界にも知れ渡り、当時の日本のサッカープレーヤーの大きな目標となっていた。サッカーを志すものにとって憧れとして、目標となるべきヒーローを、この時期に清水から生み出したことは非常に大きな意味を持つことになる。
 第二には、後の清水らしさの源流になる少年サッカーが始められたということである。少年サッカーは堀田哲爾氏が昭和30年に江尻小に赴任したときから始まった。堀田氏は江尻小の校庭で休み時間にボールを蹴っていたが、校庭でボールを蹴ることは校則で禁じられていた。堀田氏の行為は児童会で問題にされたが、結局、児童会、職員会、校長等の了解の下に昭和31年に日本で初めての小学校サッカーチームが結成された。昭和31年の市民大会にチームを参加させたが相手がおらず中学生の部に参加、一中に敗れた。しかし、翌年望月敬治氏が静岡市中田小に県内二番目のチームを結成、同年の清水市民大会に招待チームとして参加、江尻小チームと全国で初めてと思われる小学生同士の試合を行なった。しかし、「昭和30年代における静岡県内の少年サッカーは、少年団というよりも小学校クラブ活動の域を出なかった。いわば、ソフトボール部や水泳部、時には音楽部も冬期になるとサッカーをやるという風な、気楽なスポーツクラブ的考えであった」(静岡サッカー協会、1990年、425頁)。
 その後、昭和39年、日本初のサッカースポーツ少年団として江尻小サッカークラブを登録した。同年、日本初の女性サッカーチームも江尻小で結成され現在のサッカー少年団の基礎が確立された。しかし「当時のスポーツ少年団は中学生と高校生のサブリーダーを育てる団で、県スポーツ少年団本部もその対応に慌てたが、とりあえず一号として許可されたものである」(静岡県サッカー協会、1990年、425頁)。その後、清水には入江小、三保一小、袖師小等の小学校でチームが生まれ、昭和40年には藤枝、沼津、伊東にもチームができた。しかし当時の背景として、文部省の次官通達によって小学校はまわりの学校との交流だけが許され、県外はもちろん市外にも遠征はできなかった。前述の江尻小と中田小の試合は、望月敬治氏によれば指導者同士のごく個人的なつきあいから、生徒を連れて遊びにいったということで行なわれたそうである。
 サッカーは競技スポーツであり、相手と競うことが面白さであり、上達の秘訣であるから、チームができれば色々なチームと試合をやりたいと思うのは当然のことである。そこで静岡県少年サッカー大会を企画することになった。清水の指導者である堀田氏と鈴木石根氏らを中心として、昭和39年に静岡県少年サッカー育成協議会を設立し大会を開催しようとした。ところが、当時の静岡県スポーツ少年団本部に事業計画を提出したところ、「小学生が大会をしかも県大会とはけしからん」と言われ、本部長との話し合いをすることになった。「やらせろ」「駄目だ」の押問答の末、当時の教育長であった諏訪氏の「自主的に社会の責任において会を開きたいという事に対して、行政が何故止めるのか。将来をあまりにも見ていないね」(静岡県サッカー協会、1990年、425頁)の一声で、大会が翌二月に行なわれることとなった。ここに清水のサッカーが始まったといえる。
 この時期に少年サッカーが普及し始めた背景として、当時の清水市とその周辺の様子を把握しておく必要がある。この時期は現在の市域がほぼ確立し、産業が発展した時期であった。生徒の就学率、進学率も高まり、課外の生活指導など学校に対するニーズが増えた時期でもある。

B第三期 S.42〜S.48 各種団体、大会の整備期、県内の地盤整備

 この時期には、様々な組織が大きな広がりを見せた。まず、この第三期の最初の年である昭和42年には、三つの大きな出来事が起こった。一つ目はオール清水(後の清水FC)が誕生したことである。このチームは清水市の選抜チームであるが、当時、選抜チームは他にどこにもなかった。初年度は庵原小、入江小、江尻小の生徒から選抜したが、この清水FCは後に全国で圧倒的な強さを誇り、小学生プレーヤーの憧れとして、サッカーのエリートづくりと高度化に多大な貢献をした。加えて、清水FCで活躍しているプレーヤーは自分が所属するチームに戻ったとき、それぞれのチームでリーダーとなりチームをまとめ、自分が清水FCで学んだことをチームメイトに伝え、各チームの技術の向上を促す効果もあった。
 二つ目は小学生リーグの発足であるが、これも清水のサッカーの発展に大きな影響を及ぼした。リーグ戦の実施により順位の向上、試合の勝利指向を促し、チーム同士の交流を行なうという意味もあるが、その他にも多くの意味がある。例えば、他チームと試合をするためには色々な学校のグラウンドに行かなければならないが、小学生には何キロも離れた試合会場へ行く手段がないし、指導者も一年生から六年生までの何十人もの生徒をバスや電車などの交通機関で引率するのは至難の技である。そこで生徒の親が車などを出して引率するのだが、自分たちの子供を世話をするだけでは当然終わらない。子供たちの試合を観て一生懸命応援することになり、共通の話題ができ、親子のふれあう時間もできる。加えて、同じチームの他の生徒の父兄たち、つまり、学区制の小学校においては近所の人々との交流も起こる。そして、親もサッカーをやってみたいと思うようになり、次節で述べる育成会の結成につながることになる。
 三つ目には、少年サッカーコーチングスクールが始まったことである。これは清水にできた様々な組織の中でも最も画期的なものの一つである。少年サッカーが盛んになり始めた当時は、サッカーに関する専門的知識の豊富な指導者は極めて少なかった。指導者自身がまったくの素人であり、本やテレビで研究したり、子供たちとボールを蹴りながら練習方法を模索するような状況だった。しかし堀田氏、小花氏、鈴木石根氏らが中心となり、いい指導者づくりが遠回りのようだけれども一番大事だという理念のもとに昭和44年に始められた。毎週月曜日の七時から九時まで一年間に50回の授業を行い、第一期は前清水東高校サッカー部監督の勝沢要氏、前東海第一高校監督で現清水FCエスパルスコーチの望月保次氏、第八クラブの綾部美知江氏などの四十二人が卒業した。そしてそのうち十五人が指導者として、各レベルの大会で全日本のタイトルをとっている。堀田氏の展望には、「一回の受講者の中から一人でも二人でも子供達の指導に当たる人が出れば、毎年増加を続けることになり、やがてはヨーロッパ並みの地域を主体としたクラブチームへと発展していくことにつながるという考え方が」(静岡県サッカー協会、1990年、54頁)あり、指導対象者を教員に限定せず、社会人をも対象としたところにも特徴がある。
 その他この時期には、小学生女子リーグが昭和44年から、清水市長杯全日本チャンピオンズカップ少年サッカー大会が昭和47年から、清水市少年サッカー育成会リーグが昭和48年に始まり、他多くの各種の大会や交流試合が始められた。清水FCを始めとする清水のチームがそれらの大会で大活躍をし全国から注目され始めた時期である。

C第四期 S.49〜現在 組織の充実、多様化、国際化

 この時期はあらゆる意味で清水のサッカーが花開いた時期である。小学生レベルから高校生まで、清水FC、清水五中、清水東高校、清水商業高校、東海第一高校、第八クラブなど多くのチームが全国タイトルをとった。近年では、女子サッカーの鈴与清水FCが社会人女子サッカーリーグの強豪として誕生し、平成4年のJリーグに清水FCエスパルスが参加し、その結果、今まで高校レベルまでだった清水のサッカーがプロにまで延長され、地域での一貫したシステムが一応完成されたことになる。
 その一方で、市民スポーツとしてのサッカーの確立の完成度もかなり高い。全人口が約二十四万の清水市で、サッカー協会の登録数が約二万人、未登録のプレーヤーも含めて約三万人の市民がサッカーを楽しんでいるとされている(4)。市内の小学校、中学校、高校のほぼすべてにサッカー部があり、少年団の育成会チーム、昭和51年に発足した清水市育成会婦人フラミンゴサッカーリーグなどに代表される女子サッカーチームなど、気軽に参加できるチームの多様さ、数の多さなど他に類を見ない。サッカー人口に関しては、学校単位のチームに関しては学校数が増えないのと学生の減少になどにより硬直化しており、今後は社会人、女子のサッカー人口増加が期待される。しかし、施設面において、社会体育のために学校などの公共施設の開放が最大限行なわれているのにもかかわらず、まだまだ足りないという状況になっており、施設面での質的量的な充実が望まれている。


第二節 清水のサッカー組織のリーダー達

 本節では、清水のサッカー組織のリーダー達のライフヒストリーを取り上げている。清水のサッカー組織は、自発的な拡がりを持つところに特徴があるが、リーダー達はこの拡がりに大きく関わっている。特に組織ができたての頃については、リーダーの生活はサッカー組織と密着している。そこで、リーダーの方々のライフヒストリーに組織の発展の様子がよく映し出されている。
 ここで取り上げたリーダーの方々とサッカー組織の関係、位置付けについて簡単に触れておく。清水サッカー協会は、静岡県サッカー協会、中東部支部に属している(図U−1)。ここにとりあげた五人は、昭和30年代から指導者として清水サッカーに貢献し、各種の団体を設立、指導され、現在も重職についておられる方々である。
 特にまず堀田氏は、県理事長であり、中東部支部相談役など各種役員を兼ねていたが、最近事情により辞任された。清水市のサッカーだけでなく、日本サッカー協会においても大きな力を持ち、ブラジルなど海外との人脈もあり、今回のJリーグに関しても、清水FCだけでなくJリーグ自体の設立に関しても大きく関与している。
 小花氏は、大正八年に静岡にサッカーをもたらした人のうちの一人である小花不二夫氏のご子息である。父親の影響もありサッカーを始め、堀田氏の片腕として中東部支部長他、各種役員を兼任し、氏の経営するサッカー専門店は、県サッカー協会の事務所になっている。
次に綾部女史は、堀田氏の教え子であり、清水市入江小の教員である。現在、県理事、市の副理事長、女子部長などを兼ねている。主に清水FCの少年部と女子部の創設に関わっている。鈴木石根氏は、堀田氏の古くからの同僚である。現在は清水小の校長であり、県サッカー協会の中東部支部(清水サッカー協会)の参与と県監査を兼任している。最後に牧田氏であるが、この五人のなかでは最も若く異色である。地元の有力企業の小糸製作所に勤務し、清水サッカー協会の理事長を務めている。
 ここに取り上げたライフヒストリーは、筆者のインタビューをもとに、「静岡サッカー70年のあゆみ」を参考にして書いたものである。インタビューでは質問をあまり設定せずに、サッカーに関わり始めた頃から、サッカー組織の基礎ができる頃までを中心に、エピソードを交えて、できるだけ自由に話して頂いた。内容は、指導者の方々がサッカーにどのように関わられ、指導されている組織がどのように発展したのかという部分に注目している。

資料編
《事例@》 堀田哲爾氏
《事例A》 小花公生氏
《事例B》 綾部美智枝女史
《事例C》 鈴木石根氏
《事例D》 牧田博之氏

第三節 清水サッカー組織と地域社会

 清水のサッカー組織の始まりは、サッカーに興味を持った小学生の学校単位のクラブチームである。初期に結成されたチームの多くは、ほとんど学校の教師が中心となり、当時はまだ、未知のスポーツであったサッカーに興味を持った少年・少女たちが始めたものである。その教師たちは、学生時代にサッカーを経験したり、または教師になったあとでサッカーを知り興味を持っていた。そして教師たちの呼び掛けや紹介で児童たちはサッカーを知った。当時は、野球やドッジボールが全盛の時期で、サッカーという競技自体はマイナーなスポーツであり、細かいルールはおろか試合も観たことがなく、おおよそどのようなスポーツなのかすら知っている人は少なかった。当然、教師自身もたとえ経験者であっても、適切な指導方法を知らなかった。指導する側もされる側も、素人同然のところから始められたのである。
 現代ならば、教師が生徒を集めてあるスポーツを始めるとき、教師は学校の先生として何らかの教育的責任を初期から必ずもたされている。始める時にすでに枠組みが決められており、スポーツの種類の選択や参加する生徒の選択までが決められていることさえある。マニュアルがあることによって、確かに安全で簡単にチームを運営できるが、逆に多くの制約や融通性の欠如をともない、周囲の環境や参加者の意識の変化に対応できないことも多い。そして何よりも管理的な、または理想主義的な、参加者の立場からかけ離れたものになりやすい。
 このような点を考えれば、清水でサッカーが始められた当時、サッカーが野球などと比べまだマイナーなスポーツであり、スポーツや社会教育に関するシステムが不十分だったことは、自由な組織づくりのためには幸運だったといえる。しかし、清水のサッカーの初期において、比較的順調な広がりをみせた理由はそれだけではない。当時の時代的背景や清水という土地柄など多くの要因があったことも見逃すことができない。
 当時、教師の社会的な地位は現在よりもっと生徒や地域社会と緊密な関係にあった。教師は、学校の代表としての学校の先生という責任に縛られるよりは、教育という社会的な指導をする立場である教師として、一社会人としての高い意識と責任感を持っていた。個人として好きなサッカーをやり、社会人としてサッカーをやりたい子供たちを指導する。つまり、いい意味で公私の区別がなかったとも言える。生徒たちにとって一緒にサッカーをする先生は、友達でもあり良い先輩でもあった。教師自身は自分の好きなことをしているわけだから、その行為に対する金銭的な代償などはいらないというわけで、報酬に関しては問題にさえならなかった。指導者という公の責任を負いながら私の部分を楽しんでいたわけである。
 指導者が学校の先生であり、チームが学校単位であったことは他にも多くの良い結果を残している。東京などの大都市のように、私立の学校が数多くあるところとは違い、清水のような地方都市では学校はほとんど公立である。私立の学校が多い地域では、生活圏を越えた広範囲の地域から、比較的社会的地位が高い高所得者の子供が私立に集まり、その他の子供が偏差値に適した公立に集まり、地域内の密接なコミュニケーションの場としての役割が薄く、地域的な特徴が出にくい。
 それに対し、学校のほとんどを公立が占める地域では、当然、子供の多くが地元の公立学校へ通うことになる。公立の学校は学区制により通学できる範囲が決められており、その範囲は生活圏に近い。特に小学校では小学生が歩いて通える程度の広さになっていて、学区はご近所づきあいの広さである。学校は、地域的なつながりや地域の特徴を強く反映したものであると言える。サッカーで知り合った子供同士はクラスメートであり、遊び仲間であり、授業とは別の公の共通の価値観を持つ仲間でもある。ここで公の価値観と表現したのは、サッカーという一つの遊びのような好奇心の対象を、先生という公の立場を持つ指導者のもとにチームという社会的組織の下でともにプレーするからである。
 子供たちがサッカーを始めたときの親たちの反応はどうだったのだろう。これには当時の時代背景をみることが必要である。昭和20年代後半から30年代は、高度成長が始まった時期である。当時の清水市は、江尻、清水を中心とする市の中心部とその周辺は第二次産業と第三次産業を中心とする都市型の地域であり、庵原を中心とするみかんの栽培地域は農村型の地域だった。どちらの地域も親たちはよく働き、子供の面倒などはあまりみていられない程だったようだ。当時の新聞には労働争議と少年非行の記事が頻繁に載せられ、戦後の復興期を経て新しい豊かな生活への期待が高まっていた。そのような時期に清水のサッカーは芽生えたのである。
 親たちの多くは、自分の子供がサッカーをやることに反対はしなかった。放課後の子供たちが学校から開放された時間、つまり親の目が子供に届かない時間に教師が子供の面倒をみてくれれば、子供たちは悪さをする時間もなく、疲れ果てて家に帰ってくるので食事もよく食べ、その上野球のようなお金のかかる道具の必要のないサッカーは親とすれば大変都合が良かった。
 学校や親からの反対が特にないままに始まった少年サッカーではあるが、子供たちの間で広まるのも速かった。今ではサッカーのルールを知らない子供を探す方が難しいくらいだが、当時の子供たちのサッカーへの反応や興味は今では考えられないようなものだった。「運動場へ出たら俺のまわりに子供がきてさ、ちょうど人工衛星のスプートニクが打ち上げられたときでさ、俺がボールを上へポーンて上げると子供がみんなさ"先生、人工衛星やって"ってみんな自分のボールを持ってくるんだよ。」(堀田氏)、「サッカー知らない連中のあつまりで、お前がここ、お前がそこって教えてやるとな、そこにいるだけで動かないんだよ。まあ、野球みたいな感覚で。野球はよくやってたから、子供たちは。」(小花氏)などの話にみられるようにとにかく未知のスポーツというより、未知の遊びだった。ボールが一つと適当な広場があればどこでも、一人から何十人まで人数も問わず、難しいルールがなく臨機応変にその場にあったルールをつくることもできるサッカーは子供たちにとってとてもよい遊びだったに違いない。
 加えて子供たちの側から見れば、全身を動かし、均等にボールに触る可能性があり、常にゲームに参加できるサッカーは非常に楽しい遊びだった。他のスポーツでは考えられない、足でボールを蹴ることであるとか、頭や胸でボールを扱うといった動作は大変新鮮な感覚で受けとめられたはずである。「当時の五中にはサッカー部がなくて、たまたま一中のサッカーの試合を観に行ったんだけど、手以外の部分でやる球技にむしろ奇妙さを感じたね」(宮城島氏)など、似たような話は多く、サッカーにはそういった子供たちの好奇心を満たすだけの魅力が備わっていた。
 指導者の多くは最初からサッカー部という組織づくりを目標としてサッカーを教え始めたわけではなかった。「主に自分の学年とか、組とかから始めてた・・・自分の組のやつを集めて、それで、他の組もやるかって」(小花氏)という具合に、清水の少年サッカーチームは初めは校内でボールを蹴る集まりだった。確かに手以外の部分でプレーするサッカーの身体的特徴が子供たちをひきつけたのかもしれないが、後に述べるように、それ以上にサッカーがチーム対戦形式で勝敗を決めるスポーツだったことも大きな要因になっている。
 やがて、指導者同士の個人的なつながりから他学校との対抗戦が行なわれるようになるが、初期の試合は現在勝利至上主義といわれるような厳しいものではなかった。「そのころは田舎だったから田んぼの向こうに庵原小学校が見えてさ、おーい、庵原まで試合にいくぞって、ついてこーいって、走っていったんだ」(小花氏)。つまり、試合というよりゲーム形式の遊びであり、生徒、先生、父兄などを巻き込んだレクリエーション的な場であった。このようなレクリエーション的な雰囲気は現在でも残っている。
 清水のサッカーの特徴の一つには、老若男女を問わない参加者の層の厚さがある。サッカーの魅力は、小学生男子を魅了しただけでは満足しなかった。清水では、伝染病のようにサッカーにとり憑かれる人々が増えていった。まず最初にとり憑かれたのが子供たちのお父さんである。子供がやっていて面白そうだなと思えば、一緒にやりたいと思うのは、当然である。「せっかくだから、親もやるべえって言って、やったら、こりゃおもしれえってんで、それから交流する度に親もやるかってことになったんだよ」(小花氏)。サッカーはここでもその特長を発揮し、あっという間に父親たちを魅了した。 女子に関してもその参加は早い。「校内放送でサッカーやりたい子は音楽室に集めて、そん中に女の子が七人来てて、俺どうしたの?って聞いたら、"先生、サッカーやりたい子来なさいって言ったじゃない"って、・・・別に女の子駄目ってわけじゃないし」(小花氏)そして「男子サッカー部の中で同等にボールを追いかけ、ゲームの楽しさに一喜一憂したのである」(静岡サッカー七十年のあゆみ,1990,795頁)。やり始めたのが昭和30年代中頃、チームができたのが昭和40年代の初めである。そして驚くべきことに、ママさんサッカーのチームまでができてしまった。「ママさんは、やっぱり基本的には子供を理解するには、自分たちもやらなくちゃって、やるのが面白いでしょって」(小花氏)、そして「いつのまにか各地にママさんチームが誕生」(静岡サッカー七十年のあゆみ,1990,197頁)した。
 父兄の組織である育成会の活動は、特に地域と密着している。子供たちや自分たちが楽しく、安全にサッカーができるように地域に多くの働き掛けをしている。例えば、自分の子供たちが所属するチームが全国大会にでることになれば、多額のお金が必要になる。この時、お金を集めるのが育成会や後援会である。後援会は育成会とは違うが、実際には各チームのOBや父兄などの現役や昔の関係者で構成されており、構成員はかなり似ている。これらの団体が自分でお金を出したり、地元企業や果てはご近所の人から寄付を集めるのである。
 もう一つ特徴が表れているのは、少年団や市民サッカーチームなどの底辺の一般プレーヤーが活動するグラウンドについてである。現在、市内の小、中、高校のほとんどには、質の差はあるが、なんらかのナイター設備がある。温暖で雪がまったく降らないため、照明設備さえがあれば、年中夜おそくまで練習や試合をすることができる。これらの照明は学校のグラウンドに付属しているわけだが、多くの場合、市民の寄付で作られている。
 清水市教育委員会施設課の足立氏によれば、建前上は少年団が各学校へ、その後で学校が教育委員会へ打診するという形をとるが実際には、少年団から教育委員会へ直接話がくることも多いそうである。一度取り付けてしまうと、後の維持や修理については話し合いで決めることが多い。自分たちでお金をだすということで、比較的順調に話が進むことが多いがトラブルが起こることもある。
 例えば宮城島氏によると、三保第一小学校の場合、親も子供も一年中サッカーをやりたかった。そこで、自分たちでお金を出して照明設備をつくろうということになった。しかし、当時の三保一小の校長は、「ソフトボールの活動もあり、学校の施設をサッカーの子供たちだけに独占させるのは承知できない」と頑なに拒否した。しかし、少年団関係者を通じて堀田氏に状況を説明し、教育委員会の方へ働き掛けてもらうことで「ソフトボールなどサッカー以外の活動にも利用させること」を条件に設備をつけることになった。
 現在、清水の社会体育のための施設利用は、有効利用というより奪い合いである。そこで、照明施設やゴールの多くは寄付によって購入されている。使う側の惜しみない寄付とそれを、寛容にかつ有効に利用する教育委員会の協力体制がうまく機能しているわけである。
 以上に挙げたことの中から、清水のサッカー組織の特徴をまとめることができる。まず第一に、指導力やカリスマのあるリーダーがいたことが挙げられる。そのリーダーに他の人々がよくついていったことも見逃せない。第二には、一に関連して、面白そうなことはやらず嫌いをせずに、取り敢えずやってみるという清水市民の性格がある。これは自主性につながり、組織の拡がりの速さの要因になっている。第三に、教員や教育委員会との連携の良さがある。公共施設の利用頻度の多さや、新しい大会を開くときなど既存の枠を越えるパワーの源になっている。第四に、一般市民の支持を得ているということである。どのレベルのチームも全国で優勝を狙えるチームであり、その強さとメンバーの礼儀などマナーの良さがその支持の源になっていると考えられる。
 現在、サッカーに絡んで多額の金が動くようになり、金銭トラブルの問題が表面化する事件が起きている。他にも高収入を期待できるプロへの道が開けたことで、学歴社会や受験戦争をそのままサッカーに投影したような、子供たちへの過剰な期待や練習の強制などの問題が出てきている(5)。組織が巨大化し、地域社会や経済と密着したこれからは、今までのように少数のリーダーの頑張りでは乗り切れない。
 自治体も、静岡県が推進している「日本一の地域づくり運動」の一環として、清水市は「日本一のサッカーフレンドシティー」を政策にかかげている。スポーツ健康都市宣言を行い、世界にアピールできる街づくりを行なっている。スポーツ・サッカーを主軸にした、地域社会づくりの模範になるだけの街づくりを、地域住民が一体となって行なっているといえる。

(1)清水市『日本一のサッカーフレンドシティー』1991年、3頁参照。
(2)静岡県サッカー協会『静岡サッカー70年のあゆみ』1990年、274〜276頁参照。
(3)静岡県サッカー協会『静岡サッカー70年のあゆみ』1990年、184頁参照。
(4)清水市『日本一のサッカーフレンドシティー』1991年、2頁参照。
(5)静岡大学教育学部・富田丈雄,「静岡県のサッカースポーツ少年団の実態と問題点についての一考察」,1991,参照。清水市のサッカースポーツ少年団にアンケート調査をした結果、現在抱えている問題点として、44.4%の少年団が親の加熱しすぎを指摘している。ちなみに静岡県全体では同じ問いに対し、11.0%が指摘しているだけである。
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