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Kanon哀の激情
たとえばこんな物語
(前編)



 雪が降っていた……重く曇った空から、真っ白な雪がゆらゆらと舞い降りていた。

 冷たく澄んだ空気に、湿ったベンチ。

「……………」

 私はベンチに深く沈めた体を起こして、もう一度居住まいを正した。

 屋根の上が雪で覆われた駅の出入り口は、今もまばらに人を吐き出している。

 白いため息をつきながら、駅前の広場に設置された街頭の時計を見ると、時刻は3時。

 まだまだ昼間だが、分厚い雲に覆われてその向こうの太陽は見えない。

「遅い」

 再び椅子にもたれかかるように空を見上げて一言だけ言葉を吐き出す。視界が一瞬白いもやに覆われて、そしてすぐに北風に流されていく。

 体を突き刺すような冬の風。そして、絶えることなく降り続ける雪。心なしか、空を覆う白い粒の密度が濃くなったような気がする。

 もう一度ため息混じりに見上げた空。その視界を、ゆっくりと何かが遮る。

「…………………」

 雪雲を覆うように、男の子が私の顔を覗き込んでいた。

「雪、積もってるよ」

 ぽつりと、呟くように白い息を吐き出す。

「そりゃ、4時間も待ってるからね…」

 雪だって積もる。雪だるまにでもなれるほどだ。

「……あれ?」

 私の言葉に、男の子が不思議そうに小首を傾げる。

「今、何時?」

「3時」

「わ…びっくり」

 台詞とは裏腹に、全然驚いた様子もなかった。どこか間延びした男の子の口調のとろんとした仕草。

「まだ、2時くらいだと思ってたんだ」

 ちなみに、2時でも3時間の遅刻だ。

「時計が3時で止まってたからね」

 間違いない、確信犯である。

「ひとつだけ、訊いていいかな?」

「…ええ」

「寒くない?」

「寒い」

 最初は物珍しかった雪も、今はただ鬱陶しかった。

「これ、あげる」

 そういって缶ジュースを一本差し出す。缶には『八甲田山のおいしい水』と書かれている。氷点下なこの空間、中身は勿論凍っていた…

 真冬の南極でアイスノンを渡されたような気分だった。

「遅れたお詫びだよ。それと……再会のお祝い」

 遅れた八つ当たりと再会の呪いであろうか。

「7年ぶりの再会が、缶ジュース1本なの?」

 差し出された缶を受け取りながら、改めて男の子の顔を見上げる。

 素手で持つには冷たすぎるくらいに氷となったジュースの缶。痺れたような感覚の指先に、その冷たさがトドメを刺してくれた。

「7年…そっか、そんなに経つんだね」

「ええ、そうよ」

 冷たい缶を張り付かないよう手の中で転がしながら…もう忘れたいたとばかり思っていた子供の頃に見た雪の景色を重ね合わせながら…

「僕の名前、まだ覚えている?」

「そういうあなただって、私の名前覚えているの?」

「うん」

 雪の中で…雪に彩られた街の中で…7年の歳月、一息で埋めるように……

「祐子」

「安斎常陸介柿右衛門」

「違うよ〜」

「花子」

「僕、男の子…」

 困ったように眉を寄せる。一言一言が、地面を覆う雪のように、記憶の空白を埋めていく。

 男の子の肩越しに降る雪は、さらに密度を増したいた。

「いい加減ここに居るのも限界かもしれないわね」

「僕の名前…」

「そろそろ行きましょ」

「名前…」

 7年ぶりの街で、7年ぶりの雪に囲まれて、

「行くわよ、名雪」

 新しい生活が、冬の風にさらされて、ゆっくりと流れていく。

「あ…うんっ。けど、変わってないね『なゆき』じゃなくて『なせつ』って言うんだよ。僕の名前は」



 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリィ……

「うぅ〜ん…」

 辺りのざわめきが鬱陶しい。もう少し眠っていたいが、今日は始業式。三学期最初の日である。

 さすがに初日からサボるわけにはいかない。私は枕元に手を伸ばし、昨日名雪(なせつ)から借りた目覚まし時計のスイッチを押した。

 ポチッ

 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリィ……

「…………………」

 止まらない……近頃の目覚まし時計は押しただけでは止まらないのであろうか?

 それとも名雪おすすめと言うからにはよほど特殊な作業をせねば鳴りやまない代物なのであろうか。

「ん……」

 居候という身分で寝坊も何であろう。仕方がなく目を開ける。そして眠気混じりの視界に広がったのは……

 私を抱きしめるようにして眠る、名雪の寝顔のドアップであった。

うぃっ……うきゃ〜っ!

 ドンッ、デンッ、ゴロロロロ……

 ちなみに前から順に、突き飛ばした名雪(ドンッ)、落ちた名雪(デンッ)、転がっていく名雪の音(ゴロロロロ…)である。

 名雪はベッドの下のフローリングに、突っ伏した形で動きを止めた。


 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリィ……

「な、何なのよこれは?」

 ポチッ、ポチッ、ポチッ、ポチッ、ポチッ、ポチッ、ポチッ、ポチッ、ポチッ……

 部屋中に囲まれるように置かれた大量の目覚まし時計。私はモグラ叩きの要領で片っ端から止めていく。

 そして騒音が鳴りやんだ頃……この部屋の持ち主が目を覚ましたのであった。

「はふぅ〜。……おはよ、祐子」

「ひとつだけ、訊いていいかしら?」

「……うん」

「何で、ここにいるの?」

「ここは、僕の部屋だよぉ〜」

「ええ、そうね。なら何で、私はここにいるの?」

「へっ……苦しい、苦しい。祐子、離して」

 気が付くと名雪のパジャマを締め付ける私の手がある。解き放ってやると名雪は大きく深呼吸をし、そして……

「こうすれば起きると思ったからさぁ」

「はい?」

 頭が白くなる。返答の意味が分からなかった。

「あはは〜、僕って朝弱くってさぁ〜。一日10時間は寝ないと眠くって眠くって…」

「で、それと私と何の?」

「いやぁ。だからさぁ、祐子を隣に置いとけば朝ついでに起こしてくれるかなぁって思って……」

「ほぉう……」

 私の声が1オクターブ低くなる。喜びから来るモノではないことは明らかであった。

「何せ今月お小遣い無くなっちゃって新しい目覚まし買う余裕なく……」

人を、目覚まし代わりにすなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!

 私のチョッピングライトは、名雪のテンプルに深々と突き刺さったのであった……


「いやぁ悪かったなぁ祐子君。ウチのが迷惑かけて」

「いえ、そんなことは多々ありますが………」

 朝ののどかな朝食風景。テーブルには私と名雪。そしてフライパンから目玉焼きをよそる秋雄おじさんがいた…

 あの後、制服に着替えた私は床にのびていた名雪を引きずり強引に椅子に座らせてやった。

 目がとぐろをまいているが希望通り起こしてやったのだから文句はあるまい。何よりも乙女を自室に連れ込んだ報いとしては軽い方であろう。

「うにゅ〜」

 意味不明な言葉を放つ名雪。さすがに心配になってきた。

「ちょっと、名せ…」

「まぁまぁ。任せな、祐子ちゃん」

 言うが早いか、秋雄(あきお)おじさんは目玉焼きを焼いていたフライパンを……名雪の『頭』の上に乗せたのであった。

「いっ!」

 ジュウゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ……

 当然、名雪の頭からは香ばしい匂いが……人はそれを『焦げてる』とも言うのであった。

「はふぅ……。暑い」

「おうっ、起きたか名雪っ」

「うん………でも、頭があったかい……風邪かな」

「なぁ〜に、子供は風邪の子動きゃ治る。気にせず飯にしろ」

「うん……目玉焼き好き………」

 まるで何事もなかったかのごとく食事をする二人…私は『居候をするところを間違えてしまったかもしれない』と、思わずにはいられなかった。



「ふん、ふん、ふぅ〜ん。買い物、買い物ぉ〜」

 放課後の商店街を怪しげな歌を歌いながら歩く名雪。

 本来なら百メートルほど離れて歩きたいが越してきたばかりで地理に難があり仕方がなくついて歩いている。いい加減、頭の天然パーマに気づいて欲しいモノだ……

「今日のお夕飯は何にする?お父さんは何でも得意だよ」

 ……無駄らしい。天然物の笑顔を見せつけられそう感じてしまう今日この頃であった。

「何でもいいわ……私、ここで待ってるから」

「そう、じゃあ行って来るから待っててね。勝手に行ったら駄々こねるからね」

 ホントにやりかねない捨てぜりふを残し、名雪はスーパーの中へ消えていった。

 店の中から驚愕に似た悲鳴が聞こえてくるが気にすまい。もう学校内で聞き飽きたから……

「ふぅ……疲れたぁ〜」

 さすがに転校初日は緊張した。見るモノ全てが真新しく、珍しい。

 これから少しずつ慣れていかなくては。などと思いふけっていたところ、『ソレ』は突然やって来た。

「そこのおなごっ!」

「ハイ?」

「どいてっ!どいてっ!」

 いきなりの声にそちらを向くと……肩越しにビチビチいってる魚をしょってこっちへ向かって走ってくる、大柄で背中に羽をはやした男だった。

 って、羽? 魚?

「ぐぅ…どいて〜」

 べちっ……って音の百倍の効果音をたて、私は吹き飛ばされていた。

「ぐぅ…痛いぜよぉ〜」

「いふぁいのふぁ、ひょっちよ!」

 後に向かいにいた八百屋さんに訊いてみたところ、まるでダンプに跳ね飛ばされたゴムまりのように電柱に激突したらしい……

「酷いぜよぉ…避けてって言ったのに〜」

「聞いた瞬間に意識が跳んでたわよっ!」

 気がついた私は廻らない舌で怒鳴り返し、思わず対抗していた。

 全身ズタボロな私に対しまるで無傷なこの男。あまりにも差がありすぎる。

「ぐぅ…それじゃあっしが悪いみたいじゃないか」

「乙女傷モノにしといてソレかっ!」

「ちょっとだけ痛そうぜよっ!」

「思いっきり痛いわっ!」

 男は立ち上がり無理矢理私を起き上がらせる。

「ではそういうことで、あっしはこれにて」

「アンタねぇ、詫びの一つくらいいれたら…」

「あっ、ちょっと付き合ってくれぜよ……」

「えっ…ちょ、ちょっとぉ〜」

 男は後ろを気にしたかと思うといきなり私を担ぐ。そしていきなりその場から駆けだしたのであった。


「ぐぅ…ここまで来れば大丈夫ぜよ」

「じゃないわぁ〜っ!」

 見たこともない場所にたどり着き安堵の息をつく男に私はがなる。隣の魚と共にビチビチいう自分の姿があった。

「どうしたぜよ?」

「取りあえず事情を教えて欲しいんだけど?」

「……………」

 私を地面に下ろし何とも言いづらそうな顔をする……男はじっと私の顔を見つめていた。

 年はずいぶん上であろうか。このがたいからしてプロレスラーだと言われても納得するであろう。そしてゆっくりと口を開く。

「追われてたんぜよ……それ以上はあっしの口からは言えんぜな」

「追われてるって…お魚屋さん?」

「おおぅっ、どうしてそれをっ!」

「って見りゃわかるわよ。そんなもん背中にしょってれば」

 あからさまに驚いてみせる男に対し私は冷静に突っ込む。ちなみに今だビチビチいっている『ソレ』は、どうやら巨大な鯛であった。

「それに何、その羽は?」

「羽?」

「その背中についてるヤツのことよ」

 『?』マークを浮かべている男に私は言う。男はグルリと後ろを向く……と共に羽は前にきた。

「羽ぇ〜」

 前を向くと羽は後ろに戻る。ソレをひたすら繰り返し、五分もした頃には超高速スピンと化していた。


 (……こいつ、変な奴だ)

 いまさらな感想であった。

「ちょっと!ちょっと!! 止まって、首だけ後ろ向けばいいでしょ」

「羽えぇぇぇ…………………………って、うむっ!なるほど!!」

 ……ピタッ!グルンッ!ゴキッ!

 急停止と首だけの急回転。私は人の首が180度曲がることを初めて知った。

「ホントだ〜、羽があるぜよぉ〜」

 当の本人は我関せずと喜んでいる。私はこんな奴と関係を持ったことを心から後悔していた。

「で、ソレは何よ?」

「ほら、人間はサルの名残でお尻にしっぽの骨があるって言うじゃないかい」

 ……私らの先祖は鳥ではない。

「ソレはともかく、そのは…」

「あっ……と、言うことであっしは逃げねば」

 いきなり慌て出す男。私はとっさに腕を掴む。

「ちょっと待ちなさいよ。一体何だって言うのよ?」

「あっしは追われてるんぜよぉ〜」

「何よ、その鯛でも盗んで魚屋さんに追われてるって言うつもり?」

「ぐぅ…塩焼きにすると美味なんぜよ〜、そしたら金がなくてぜよぉ〜」

「要は万引きじゃない!」

「……と言うことでさらばぜよ。ちなみにあっしの名は月宮鮎(つきのみや あゆ)って言うでやんす。おぜうさんは?」

 私の手をふりほどき逃走準備に入る鮎。視界の奥に魚屋の姿が見える。

「私?私は……」
後編へ続く

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