戻る

To・Heart哀の激情3
マルチ、心のままに



「……浩之さん。ではわたしはそろそろ…」

「あ、ああ……」

 弱々しいが、マルチの声には元気があった。
 浩之からプレゼントされた麦わら帽子を強く握りしめ……その言葉が全身から振り絞って出しているモノであることは分かっているのだが、浩之は敢えてそのことに関し何も言わなかった。
 いや、言えなかった。言えば今までの思いを、耐えてきた全てを吐き出してしまいそうで。

 春の日差しが気持ちいい絶好の行楽日和。この遊園地も盛況と言っていい人の入りで浩之達もこの場で十二分に楽しんだ。
 しかし、彼らはここに来た客の中でもっとも重い思いを秘めこの場を去るカップルであった。


   二人のアルバムはここが最終ページであり、二冊目は用意されてないのだから……


「浩之さん。今まで、本当にありがとうございました。わたし、今日までのこと絶対忘れません。
 メモリーの一番奥、一番大事な所にしまっておきます。けっして……消えないように」

「マルチ……」

 言葉が浮かんでこなかった。彼女は知っている……自分に明日という言葉が無いこと、それは人で言う『死』と同義語であることを。
 そして浩之も分かっていた……自分はそれを知っているにもかかわらず、どうすることも出来ないことを……

「あの、研究所へのバスはあちらなので……」

「…………あぁ」

 遠慮がちに言うマルチに、自分でも堅いことが分かる笑顔で浩之は答える。
自分の家に向かうバスとマルチの住む研究所に行くバスは車線を挟んで反対側にある。少し先の信号を渡ってすぐの位置にある停留所。
 自分の停留所からでもマルチの姿を確認することは出来る。しかしそれは決してふれ合うことの出来ない天の川のようなモノであり、思いが深ければ深い程強く切り裂く、冷たき距離の暴力であった。

「マルチッ!」

「は、はい」

「そこまで……いいだろ?」

「………はい、ありがとうございます」

 すでに浩之に対し背を向けていたマルチは、そのままの体勢で返事をする。
我ながら諦めの悪い男だと分かっていながらも、浩之は諦めきれなかった。少しでも長く、彼女といたかったのだ。


「バスだと何分位なんだ。研究所まで?」

「あ、はい。だいたい十五分もあればつきますので」

「そうか………」

「はい………」

 ただ発するだけの会話を繰り返す。感情のこもった会話はしていない。いや、してはいけないのだ。
信号は変わるのが遅くいまだ赤のままである。浩之はこのまま永遠に変わることがなければいいのにと思う。
 隣にたたずむマルチが同じことを思っていることも、それが無理だということも分かっている。だからこそ、少しでも長く変わらないことを祈るのであった。

「あっ、青です」

「そうだな。じゃ、行こうか」

 時とは無情なものであり、どんなに二人が願っても止まることはない。赤から青へ、信号は日常と変わらぬ動きを繰り返す。
二人はゆっくりと渡り出した。永遠の別れを示す川を……

「あの、すいません浩之さん。ちょっとここで待っててもらってもいいですか?」

「ん、あ、ああ。そりゃ構わないが……」

 渡りきった所でマルチは突然そう言ってきた。浩之の返答を最後まで聞くことなく今来た道を小走りで戻っていく。
マルチの駆けていく先にはいかにも重そうな荷物に苦戦している一人の老婆が……彼女はその老婆の荷物を持ってやろうというのであろう。確かめるまでもないことであった。

 マルチと出会ってからまだ一週間程の短さだが、浩之は彼女の優しさを十二分に理解していた。
彼女は自分のことが大好きだと言ってくれた。その気持ちに嘘がないことも分かっている。
だが、彼女が全ての生きとし生きる者を好きであることも浩之は知っていた。

 動物だろうが、彼女をパシリ代わりでしかないと思っているクラスメートだろうがマルチは好きなのである。
インストールされた感情ではなく素直に自分の意志でそう思っているのだ……
 そしてその上で、これから自分の存在を消し去る研究所の人間も、そしてそれに対し何もすることの出来ない自分にさえ、好きだといってくれるのだ。


「ちっ、しゃーねぇーなぁ」

 潤んだ瞳を浩之は袖でこする。マルチのか細い腕力ではあの大きな荷物を運ぶのは一苦労であろう。
けれども彼女は文句の一言も言わずやるような少女なのだ。なら自分も手伝ってやればいい……そう思い足に力を込めた瞬間、浩之に言いようのない不安感が広がった。

 それは一台のトラックであった。向こうからこちらに迫る一台の車でしかない。まだ横断歩道は青であり、何も問題はないはずだ。信号手前の停止線で止まるであろう。
 しかしその一向に落ちること無い速度に、浩之の足は駆けだしていたのであった。

「マルチッ!」

「えっ、ひろ…」

 その時、浩之は自分の予感に感謝したのであった。
 斜め後ろの老婆と語りながら歩くマルチを荷物ごと突き飛ばした次の瞬間、自分の身に響く轟音と伝わる衝撃を受けたことにより……。




「………さん、ろゆきさん、ひろゆきさん。浩之さん。浩之さんっ、浩之さんっ!」


 背に伝わる振動。そして耳に響く程悲痛な、けれども心安らぐ自分が一番聞きたい声…
 浩之はゆっくりと瞼を開く。一面に広がるマルチの顔、涙でグショグショになった、最愛の少女の顔がそこにあった。

「浩之さんっ!」

「よぉ………、オハヨってか……」

 意識が朦朧とする。声を出したかった。いつもの軽口を言いたかった。けれども口から出たのはかすれた、まるで自分のモノではない別人の声であった。

「浩之さん、浩之さん、浩之さんっ!」

 浩之のことを確認したマルチはさらにその呼びかけを強める。『何度も呼ばなくても分かる』と言ってやりたかったが、薄れ行く意識がソレを拒絶していた。

「無事だったか、マルチ……悪かったな、突き飛ばしたりして……」

「そんなこと、そんなことありませんっ!」

 浩之は仰向けになった自分の左隣……台の上に寝かされ運ばれているらしい。背中の振動は廊下を走る際に響く車輪のせいなのであろう。

 どうやら自分は医療ドラマでありがちな、手術室へ運ばれる患者役になってしまったようだ……
白衣の人間の中一人浮いているマルチを瞳に捕らえ口に出した。

「そうだ……、ばーさんも無事だったか……驚いてただろ……」

「はい、はいっ大丈夫でした。みんな、みんな、浩之さんのおかげです。ですから、ですから……」

 声が途中で途絶える。マルチが何を言いたいのか、浩之には分かっていた。
そして何故言わないのかも分かっている……口に出してそれが現実になってしまうのが怖いからであろう。

「すいません、すいません、すいません……わたし、わたしのせいで……」

「何だよ、何謝ってんだよマルチ……何か、したのか……お前?」

「だって、わたしの、わたしなんかのせいで、浩之さんが、浩之さんがぁ……」

 マルチの瞳から溢れた涙が頬を伝わり、浩之の顔に落ちる。暖かく、人間とまるで変わらない……いや、それ以上に思いがこもったモノであった。

「何で、お前のせいなんだよ……」

 いつもと同じく、浩之はマルチの頭を撫でてやりたかった……しかし、持ち上げようとした左腕には力がこもらなかった。体の異変はそれだけではない。
 意識は薄らぐというのに腹部には焼け付くような痛みがあり、右目にはマルチの姿どころか光すら感じられないのである。馬鹿でも分かる程の重傷であった。

(だめだ、こりゃ……)

 見るも無惨な状態に対し、あまりにあっさりとした浩之の感想であった。代わりに右手で撫でてやろうと思い力を入れてみる。
こちらは何とか動いたのだがマルチの頭に届かない挙げ句、手は鮮血で赤く染めあげられていた。
こんな手で髪を撫でようものなら、せっかくの綺麗なライトグリーンが汚れた赤でまだら模様になってしまうであろう。

「浩之さん……」

 引っ込めようと下ろしかけた手をマルチは掴み、自分の頬に当てる。柔らかく暖かい、心地よい感触であった。

「……なんかじゃ、オレは『ナンカ』の為に体張れる程、いいやつじゃねぇよ……
お前だから、マルチが傷つくとこなんか見たくなかったから……結果こんなバカやっちまったけどよ……」

台車が止まる、どうやらエレベーターの到着待ちなのであろう。
不思議なものでこんな状態にもかかわらず早く扉が開いてほしいといった思いはなく、これで落ち着いて会話をすることが出来るという喜びが感情を占めていた。

「今日でお別れだって言うのに何も出来ねぇ挙げ句、こんなことになっちまってよ……ごめんなマルチ、情けねぇ男でよぉ…」

「そんなことありませんっ!浩之さんはいつだって、いつだってわたしを幸せにしてくれましたっ!
わたし浩之さんからいただいた『思いで』……ぜったい、ぜったいに忘れません。だから、だから……死なないでくださいっ!」

 それは、マルチが最後の最後まで堪えてきた言葉なのであろう。言った途端溢れ続ける涙が更に量を増す。
頬に押しつけられている親指で多量のソレを拭ってやる。しかし、もうそれすらも重苦しくなってきた……これが世間で言うところの『死』なのであろうか。
 浩之の目にも熱きモノが潤んできた。それは死に対しての悲しさなどではない、自分を見つめる少女に向けた、贖罪の涙であった。

「マルチ……人間なんてお前が思ってる程、いいやつじゃねぇぞ。こんな思いさせるなんてよぉ……」

 意識が薄れていく感触。すでに目にはマルチは映ってなかった。けれどもそんなことは、もうどうでもよかった。
今の浩之の感情を占めていたのは、マルチの処遇に対する『本当の』意味での認識の甘さであった。

 機能を停止し、永久に眠りにつく……何も考えることが出来ず、楽しいことや悲しいこと、嬉しいこともそれら全てを奪い取ることがどれだけ辛いことか、こんな状態になって初めて分かったような気がする。
世界中の誰よりも優しい心を持ったマルチに、そんな苦しみを与える権利が誰にあるのであろうか。

「……いいです、それでもいいです。浩之さんはいい人です。それだけでいいですっ!
ここは来栖川の医療施設です。最新鋭の医療機器がいっぱい揃っています。お医者さんもみんな凄い人ばかりです。
浩之さんは大丈夫です。死にません、死なせません……わたし、絶対に死なせませんからっ!」

「マルチ……」

 マルチは精一杯の声を出して励ましてくれているのだろう、それがありがたかった。おかげでところどころだが、何とか聞き取ることが出来た。
 以前聞いたことがある『人が死ぬ時に呟く最後の言葉は「ありがとう」か「すまない」のどちらかである』浩之は思い出していた。
 そして……

「ありがと…な……」

「!? 浩之さん? うぐぅ・・嫌・・嫌ですぅ・・・・目を開けてください、声を聞かせてください、頭をなでてください・・・ひろゆきさ・・・・・」

(ありがと…な……)

「浩之さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!

 力の抜けた腕。マルチの絶叫が浩之に届くことはなかった……。


(……わたし、絶対に死なせませんからっ!) 

(無茶、言うなよマルチ。そんなこと言ったら、お前を助けることも出来ないオレの立場がねえじゃねぇかよ………)

(………死なせませんからっ!、絶対に死なせませんからっ!)

(分かったよ。ちっ、しゃ〜ねぇ〜な……)



「………………………………………………」

「……浩之、ちゃん?」

 夢を、見ていた。よく聞いた声、聞き覚えのない言葉。それに応えた自分。そして、覚めた意識……
自分でない誰かと会話しているような感じであった。
光が眩しかった。浩之は開いた目を細める。真っ白な天井、見たこともない光景であった。

「浩之ちゃん、浩之ちゃん。私のこと、分かる?」

「あかり……だろ」

 頭の中がグラグラする。本調子にはほど遠いらしい。浩之は視線を横にずらす、どうやら自分はベッドの上に寝ているらしい。瞳に映るのは見慣れた幼なじみの顔であった。

「よかったぁ……二週間も寝たまんまだったんだよ。私、心配で…」

「ワリィな……心配かけてよ…」

 ベッドの脇に座り、喜びに顔を崩す幼なじみに対し浩之は心のこもらない礼をする。起き抜けで思考がまとまらない。
 けれども自分が第一に考えなければならないことだけは分かっていた。


「あかり……あのよぉ…」

「浩之、起きたんだぁ」

「…………………?」

 部屋の奥にある扉が突然開かれ、見知った二人が入ってくる。一人は同じ学校の一つ年上の先輩、もう一人は同年代の他校生。
来栖川芹香、綾香の二人であった。

「二人とも……何で、ここに?」

 言い終えて気づいた。確か運ばれている時にマルチが言っていた『来栖川の医療施設』と……
つまりここは二人の家がやっている物であって、いておかしいことではない。

「トラック、居眠り運転だそうよ。ウチの施設が近くにあってよかったわね」

「………………………………」

 綾香が笑顔で笑う。『ご無事で何よりです』と芹香先輩もそう言ってくれる。
けれどもそんなことはどうでもよかった。何よりも聞きたいこと……まずそのことを確認したかったのだ。


「浩之ちゃん。リンゴでも……」

「いい。それより、あいつは……?」

『…………………』

 穏和だった雰囲気が一瞬にして凍り付く。誰からも返事がない。
辛い返答が待っていることは予測がついていたが、浩之は上半身を起こす……それでも確認しなければならないのだ。

「マルチはどうしたんだ、やっぱり……」

 もう一度訊ねる。それでも返答はなかった

「やっぱり、研究所に………おい、何とか言えよ!あか…」

「浩之っ!」

 あかりに詰め寄ろうとした浩之に対し、予想外の方向から声がかかった。綾香は自分の方を向くと、その口を開いた。

「浩之……来栖川重工の新しい開発部門って、知ってる?」

「はぁ?何だよいきなり……」

 いつも軽口ばかり叩いている綾香の表情はいつになく厳しい、心が警告を発している。それでも浩之の口は止まることが出来ない。

「知らねぇけど、それとマルチと何の関係が…」

「人工心肺』とかってあるじゃない、本来の臓器の代わりに使うやつ…」

 『それ以上聞くな』『聞いちゃいけない』と、心の警告が更に強く響いている。それでも無視し、話を続けさせた。

「だからそれとマルチになんの……」

「公式発表はまだなんだけど、今度の部門ってのが医療とメイドロボシリーズとの融合がテーマなのよ…」

「…………」

「今までの人工臓器はどうしても肉体との適合が問題視されていたわ。そこで人間に限りなく近いメイドロボが着目されたの…」 

 言いようのない不安感はこれで二度目だ。
一度目は見事に的中した。だからといって今回もそうだとは限らない、いや信じたくない。一つのある『予感』が、オレの不安感を増していたのであった。

「駄目になった部分をメイドロボのパーツで補い、そこに生まれる不都合をロボのAI機能によりサポートする……両者の融合と調和が今度のコンセプト。
そして、今回初めてその試みが行われたの……」

「ちょ、ちょっと待てよおい。それってそれって……」

「浩之ちゃん。ひろゆきちゃあん……」

 浩之の右手を握りしめ、隣に座るあかりの顔は悲しみに崩れおちる。瞳には既に涙が溢れ返り、後ろにいる芹香も無言のまま頬から涙が伝わっていく。

「浩之……あんたがここの医療施設に運ばれてきた段階ですでに内蔵の三割程、それに右目と左手が絶望視されたわ。このままじゃ命そのものも時間の問題だって。そしたら、そしたらあの子……」

「……嘘だろ、嘘だと言えよ。今なら笑って許してやるから……」

 押さえられた右手の代わりに左手を持ち上げ、そして気づく。毎日欠かさず見てきた自分の腕が、まるで『少女』のように細くなっていることに……気づいてしまう、分かってしまった。
 マルチがどのような行動をとる少女か、自分は誰よりも知っている。それでも信じたくなかった、認めたくなかった。浩之は最後の望みをかけて問いただす。

「あんたに『悲しまないでくれ』って、そして、そして……」

 最後まで耐えた、綾香の瞳からも涙が溢れ出す。もう、過去を変えることは出来ない。

「嘘だって、嘘だって言ってくれよ綾香……針千本でも万本でもオレが代わりに飲んでやるからよぉ、頼むよ綾香ぁ……」

 声が悲痛になっているのが分かる。心の奥で理解している自分がいる。綾香の背後に飾られた鏡が、浩之に絶望の烙印を押した。
そこに映る自分の姿……痩せた顔に光る、緑色に輝く右目。自分が愛した少女が持っていた綺麗なライトグリーン。

「あの子は言ったの……『自分を使ってください』ってぇ………」

「嘘だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」


 この場にいる誰に対してのものでもなかった……浩之の絶叫は自分の内に消えた、心優しき少女に響かせたものであった。



「……浩之ちゃん」

 あかりは軽いノックの後、返答を待つ。十秒経過し、聞き忘れることのない幼なじみの声が返ってきた。

「あぁ、あかりか。遠慮せずに入れよ」

 明るく澄んだ声。あかりは一度大きく息を吸い込み、ドアノブに手をかける。そして中に入ったのであった。

「よ、そんなとこ立ってないで座れよ」

「う、うん。今日はお花持ってきたんだ。この部屋って殺風景でしょ」

「ああ、そうだな。そりゃ何の花だ、百合か菊か、それとも牡丹か?」

「どれも病室に持ってくるような花じゃないよ浩之ちゃん」 

「そうだな、ハハハ……」

 ベッドから半身を起こし、浩之は笑う。それにつられ、あかりも笑う………
 あれから更に二週間経ち、浩之はよく笑うようになっていた。自分にも笑って見せてくれる。
 けれども、それは辛い……今の浩之の笑顔は表面だけの、自分達を心配させまいと無理に作る悲痛な笑みでしかなかった。

 あかりは聞いている。あの日以降、浩之の体重は更に落ちているそうで、口に入れた物は全てもどしてしまうそうだ。
 医者が言うには手術による外的なモノではなく心因性からくる嘔吐…マルチを自分が『殺した』という思いが、その原因であるらしい。


「浩之ちゃん」

「ん、何だ?」

 点滴がせいぜいの体にもかかわらず、そのことをおくびにも見せず笑う浩之。
 彼は自分達のいる時に嘔吐したことは一度もない。初めて見た幼なじみの号泣……それ以来浩之は一粒の涙すら見せていないのだ。

「ううん、何でもない。花、花瓶に生けてくるね」

 あかりはテーブルに置かれた空の花瓶を掴む。
『悲しまないでくれ』……マルチが浩之に託した最後の言葉。今の浩之はそれを忠実に実行しているのだ。

 どんなに辛かろうが苦しかろうが決して笑顔を絶やさない……たとえそれにより自らの心が更にズタズタになっても、浩之はマルチとの『約束』を守ろうとしているのであった。
誰よりも浩之を思い続けてきた。だからこそ、そんな悲痛な思いに対しあかりに出来ることは気づかないフリしかなかったのだ。


「あのさ浩之ちゃん。今度の日曜日、雅史ちゃんや志保も来るって。二人とも浩之ちゃんのこと心配してたよ」

「そうか、悪いことしたな」

「アハ、何で謝るのよ。浩之ちゃんが悪い訳じゃないじゃない」

「そうか?」

「そうだよ、何変なこと言ってるの浩之ちゃん……」

「だな…………」

「………あ、そうだ。病院食にも飽きたでしょ。何か浩之ちゃんが食べたい物のリクエストがあったら私作って……」

「あかり……」

 会話が、途切れた。そこには押し黙った表情の、無理に作った笑みもない『今』の浩之がいた。

「わりぃな……」

「えっ、何が?」

「すまない………」

 何に対してかは問わなくても分かる。
あかりは会話が途切れるのが怖かった。どんな内容でもいいから話を続けていたかったのだ。
途切れれば浩之は回想にふけってしまう、最愛の少女との辛い部分だけの回想に。

 浩之の瞳にはあかりではなく一つの麦わら帽子が……事故現場、浩之が作った血だまりの中に落ちたままになっていた、マルチへの最後のプレゼントのみが映されていた。
 血で染め上げられた縁を、左手で撫でるように弄ぶ。

「服も揃えて……新しいヤツ、買ってやらなきゃな……」

『?』

「ま、マルチのことだ。『そんな気遣いは』って断ってくるだろうけどよ……」

「浩之ちゃん。どうした……」

「こいつにとって、オレは何だったんだろうな?」

「浩之、ちゃん……」

「ロボットと人間……あいつにそんな区別をする必要なんて無いって思ってた。大事なのは互いの気持ちだと思ってた。
けど実際はそうじゃなかった……オレは、あいつに何もしてやれなかった」

「そんなことないっ!マルチちゃん絶対そんなこと思ってない!誓ってもいい、あのコは幸せだったよ。浩之ちゃんのこと絶対恨んでなんかないっ!」

「だろうな、あいつは世界一のお人好しだよ。そんなあいつをオレは、助けてやるどころかバラバラにしちまったんだ」

「!? …………………………」

 言い返すべき言葉が見つからない。そんなあかりを浩之は横目で捕らえ、更に言葉をつなげる。

「これがホントの一心同体ってやつか?共に生き共に死す………恋愛物の王道なのに、何でこんな悲しいのかなぁ」

「浩之ちゃんっ!」

 激しい音をたて花瓶が床で砕け散る。あかりは浩之を抱きしめていた。見る影もなく肉の薄くなった浩之の体を、力の限り抱きしめる。

「浩之ちゃん、浩之ちゃん、浩之ちゃんっ!」

「ワリィ、苦しい……離してくれねぇか」

「嫌だっ、嫌だよっ、もう離さないっ!……私じゃ駄目なの?マルチちゃんの代わりにならないの?代用でもいいから、もうこんな浩之ちゃん見たくないよぉ……」

 あかりの瞳から大粒の涙が溢れ出す。自分も耐えようと思った、浩之が耐えるのなら自分も弱音を吐きたくなかった。けれども、もう限界だった。
浩之が自分でなくマルチを選んだ時、あかりは胸が裂けそうな位辛かった。それでも耐えることが出来たのは、それが浩之の幸せであったからだ。

 大好きな浩之とマルチ、自分の好きな二人が幸せになるのならいいと思うようにした。あかりは自分の中に今の結末を喜んでいる気持ちがあることを感じていた。
けれども、それでもよかった。どう思われようが構わなかった。自分の気持ちを全てさらけ出していた。

「こいつは……頑張ってんだよ。こんなんでも……」

「浩之、ちゃん……」

 真横から響く浩之の声。一言一言、あかりの頬に染み込んでいく。

「オレの中でさ、少しでも直そう直そうって頑張ってんだよ『こいつ』は……本体がこんなだってのに必死になってよ。
オレは今でもこいつを好きだし、忘れない。そして、絶対に後悔しない……だから、お前をマルチの代用にしたくねぇ」

 かすれる程か細いが、浩之の口からは確固たる拒絶の意が示されていた。
今や浩之のものとなった少女の手が、自分の頭を撫でる。持ち主の心を表すような穏やかな暖かみ。それを感じ、あかりは両の手を緩めた。

「……うん。ごめんね浩之ちゃん、困らせて。私、ずるいコだね…」

「そんなこたねぇよ。すまねぇな、あかり」


「………ホント、ありがたいですよ。そんな風に言ってもらえると」

『っ!』



 くもった声に、二人は同時に声のした方を見る。出所は扉の奥。軽いノックの後、その

扉は開かれたのであった。
    次に進む

戻る