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「失礼、順序が逆になってしまいました。初めまして、私は長瀬と言います」

 こちらの返事を待たず、男は室内に入ってくる。
よれよれのシャツに輪をかけてよれよれな白衣を着込み、年の頃は三十台から四十台と言ったところであろうか。
締まりのない顔に緩やかな猫背。貫禄とは無縁の男であった。

「いや何、ちょっと前からそこにいたことはいたのですが、いやはや……少々お取り込み中のようだったので出るタイミングを逃してしまったというか…」

 長瀬と名乗った男はのっそりと床にしゃがみこみ、唖然としている二人を無視し元は花瓶であった部品を一つ一つ拾っていく。
備え付けのゴミ箱にポイポイと破片を投げ込んでいる長瀬に、先に自分を取り戻したあかりが真っ赤になりつつ口を開いた。

「あ、あの、すいません。一体、どういうご用でしょうか?」

「ああいえちょっとした……いや、重大なことかもしれませんね。藤田浩之君、あなたにしてみれば」

 めぼしい破片を拾い終えた長瀬は立ち上がり、浩之を見つめる。どう表現すればよいのであろう。
優しさと悲しみ、そして感謝……それらが入り組んだような複雑な表情を男はしていた。

「オレに、してみれば?」

「はい、『あの子』によく聞かされてましたから……あなたのことを、自分のことよりよく言っておりましたよ」

「あの子って、誰の…」

「『わたし、今日藤田浩之さんという素敵ななお方と知り合えたんです』あの子はそう私に言いました。明るい笑顔を浮かべ……
それからは毎日、あなたのことばかり話しておりましたよ。よほどあなたに好意を抱いていたのでしょうね。『マルチ』に変わり礼を言わせてもらいたいと思います」

「じゃ、じゃあ、あんた……」

 浩之は長瀬という男が自分の顔、いや左目に視線を注いでいることに気づく。何かを思いやるような視線。ではこの男がマルチの……

「はい、私の名は長瀬源五郎。来栖川エレクトロニクスHM課開発主任……平たく言えばマルチの『親』に当たるのでしょうな。
色々ありまして、こんなことがあったのに挨拶が遅くなって申し訳ありません。ホントにあの子が世話になりました」

「あ、いえそんなことは。それよりも、あなたがマルチちゃんのお父さんに当たるのですか?」

「ええ、まぁそういうことにな…」

「ふざけんなっ!!」

 穏和だった雰囲気が一瞬にして途切れる。浩之は下を向いたまま、こちらを見てはいない。声に力がなく迫力もない。しかし、そのぶん怖かった。

「何が、親だ。何が父親だ……」

「ちょ、ちょっと駄目だよ浩之ちゃん」

 あかりの制止も聞かず、浩之はベッドから降り立つ。
一ヶ月以上寝たきりの生活を送ってきたため体の衰弱はひどく、立っているのもやっとの状態であった。
 服の上からでも分かる体の痩せ方、震えの止まらない足腰。それでも、浩之の瞳には力があった。あかりは浩之のこの目が何を示すか知っている。
滅多に見ることのない幼なじみの感情。それは、怒りであった。

「親って、何だよ……どんなもんだか知ってんのかよあんた?」

「ちょ、ちょっと駄目だよ浩之ちゃん。そん…」

 浩之の左手は長瀬の襟を掴んで離さない。離そうとして、あかりの動きが止まる。浩之の横顔……憤怒とも言える怒りに満ちた表情に、止めることが出来なかったのだ。

「藤田君……」

「マルチはあんたの子供なんだろ、あんたが産んだ子供なんだろ。何であんな辛いめあわすんだよっ……子供の幸せ願うのが、親のつとめじゃねぇのかよっ!」

「浩之ちゃん……」

 泣いていなかった。泣いているように見えた。慟哭と評してもいい、浩之の悲痛な叫びであった。
あかりは初めて見た。こんなに悲しく怒る、辛い浩之を。

「そうですね、そうでしょう……私は父親として失格ですよ。私はあの子を『物』として扱おうとしたのですから」

「あんたわぁっ!」

「浩之ちゃんっ!」

 大きく振りかぶる拳、あかりの制止も間に合わない。子供でもよけられそうな、比べようもなく弱り切った浩之の拳……そんなパンチを、長瀬はよけようとしなかった。
 まるで殴られるのを待っているかのごとく、薄い笑みさえ浮かべていた。しかし、浩之の拳は空を切っていた。
浩之が外したわけでも、長瀬がよけたわけでもなかった………寸前に長瀬の襟を引き寄せた、左腕の存在がそこにあった。

「何で、何で……」

 浩之は自分の左腕に問いかけていた。自分ではない、本来の持ち主に……今や喋ることもない、心優しき少女に。

「何で、何でこんなヤツ庇うんだよ。こいつも、オレも、お前に思われる資格なんかねえじゃねぇかっ……何で、何でなんだよぉ……」

 空いている右腕でも長瀬の襟を握りしめ、顔を埋める浩之。何故かなど、問うまでもなく浩之は分かっている。
マルチは言った。自分のことが、開発者の方々が、そして全ての人間のことが大好きだと言った。
 そんなマルチが自身のことで争う姿など見たいと思うわけがない。分かっているから、分かっているからこそ、辛いのであった。
長瀬は浩之の両手を握る。伝わってきた。怒りではない、穏やかな感情が。

「本当に、本当にそうですね。私はこの子に『親』と言ってもらえる資格など持ちあわせてないんですよ。
この子がどういう運命を辿るか、知った上で感情を与え、命を与えた最低の親なのですからのですから。
けれども……そんな、そんな私を制作者としてではなく親として慕ってくれたのですよ、マルチは……
だから、私も報いたいのですよ。制作者としてではなく、父親として」

「?」

 涙を流さないのは年の功とでも言うべきなのだろうか。浩之は長瀬に対しそんな気持ちを抱いていた。この男も辛い思いを抱いているのであろう。
それを押し殺して今があるのであろう。それなのに自分だけ辛いのだと、一方的な感情をぶつけてしまったことを浩之は恥じたのであった。

「それって、どういうことなんですか。長瀬さん?」

 あかりが、長瀬に問う。一瞬あかりを見ると、長瀬は軽い笑みを浮かべ口を開いたのであった。

「そうでした。それが今日ここに来た一番の目的なんですよ……入っておいで」

「ハイ……」

『えっ……』

 度肝を抜かれるとはこのことなのだろう。二人は気配などまるで感じなかった。
開いたままであった扉から入ってくる一人の人物……見間違うわけがない、その人物は二人の前で立ち止まったのであった。

「マルチ…」

「マ、マルチちゃん」

「ハイ……」


 そこにいるのは、マルチであった。浩之の命と引き替えにその身を散らせた少女がここにいた。
長瀬と同じく白衣に身を包んだマルチ。しかし何かが違う。
 浩之に分け与えた右目が若干濃い緑になっており、その表情……まるで以前会ったことのあるセリオのような、感情のない、ロボットらしい表情のマルチであった。

「今のこの子は代用メモリーで動いているのでね。どうしても表情まで容量が回らないんですよ」

 二人の疑問に答えるかのごとく長瀬は言う。浩之にとって『何故』と言うより『何で』の気持ちの方が強かった。何で自分に引き会わせたのか……。

「マルチとセリオ、二人には異なったコンセプトがあるんですよ……セリオは本体性能を重視し、現状における最高性能をモットーとしたメイドロボとして。
そしてマルチは機能性より拡張性を重視し未来を考えた……買われた方と末永く付き合っていけるよう出来たメイドロボなんですよ」

「拡張、性……」

「ええ、この子の優しさはロボットとしてより家族の一員と言う方が合っているでしょう。この子にそういう生き方をさせてやることこそが、親としての私のつとめなのでしょうね」

 長瀬の手が無表情のマルチの頭を撫でる。以前少女が好んだ行為、昔を思い、浩之の目頭が熱くなった。

「そして『この子』はあなたに使ったパーツを補充し、医療用知識と看護用ツールを加えたHMXー12タイプN型……
分かりやすく言えば『あなた』の介護支援を目的にしたメイドロボなんです」

「オレ、の……」

「はい、内蔵型の現状態ではあなたと機械部分の不都合は解消できても機械自体のメンテナンスはしようがないんです。
ですからあなたには組み込まれたマルチのメインメモリーとこのタイプN型のメモリーを取り替えてもらい、代用パーツとこの看護用メイドロボによる内・外両支援状態をとってもらいたいのですよ。
 けれども一つ重要な問題がありまして、来栖川重工としても今回の件は前例のない初めての試みになりますので今後HMシリーズのデータ取りとして使わせていただきたいのですよ。
 ですので貴方には申し訳ありませんがこれから先、このN型とは生涯的な付き合いとになってしまうのですが……」

「じゃあ、じゃあ……」

 心が浮かぶのが分かる。長瀬の次の言葉を待つ自分がいるのが分かる。
これほど人の言葉を心待ちにしている自分がいることを初めて知る。そして、長瀬は言った……父親としての笑みを浮かべ。

「単刀直入に言いましょう。ええ、マルチをお願いします。藤田浩之さん」

 その瞬間。自分の心に掛かった霧が晴れたのを、浩之は感じたのであった………



「おいおいマルチィ〜、これじゃあ薬物中毒者だぜ」

「あぅ〜、すす、すみませぇ〜んっ!」

 狭い病室に情けない声が響き、発信源の周囲から笑い声が重なる。笑い声は看護婦姿で白衣の天使よろしくな少女……情けない声の発声者に注がれていたのであった。

「ちょっとマルチィ。あんた、ホントに医療用なのぉ?ヘタッピねぇ〜」

「志保、言い過ぎだよ。マルチちゃんだって一生懸命やってるんだから」

 日曜日の今日、浩之の見舞いに来た志保と雅史の二人。
失敗の繰り返しで真っ青になった浩之の右腕を見て思わず呆れる志保とそれを庇う雅史。それほどまでに浩之の右腕に出来た注射痕は痛々しかった。

「すいません、すいません浩之さん。やり方は分かるんですが、何というかその……」

「あぁ、いいっていいって。ほれ貸してみ、オレが自分でやるから」

「ああそんな、わたしが……」

「いいから、いいから…」

 半ば強引にマルチから注射器を奪うと、浩之は慣れた手つきで自分の右腕に針を差し込む。
医療知識はキチンと入ってくるのだが、マルチの場合肝心の技術がそれに追いつかないのであろう。そんなことを思いつつ、浩之は注射器内部の液体を体内に押し込んでいった。

「はぅぅ〜すみません。役立たずでぇ……」

「何言ってんだよマルチ。ほら診察頼むぜ」

「は、はいっ、そうでした」

 我に返り、マルチは自分の左手首の関節を外しコードを取り出す。そして同じく左手首の関節を外して待っている浩之に、コードの先端を差し込むのであった。

「ホェ〜初めて見た。ヒロったらホントに超合金な体になっちゃったんだぁ」

「志保。そんな言い方よくないよ」

「ん、別に気にしてねぇぜ、オレは」

 たしなめる雅史に笑顔で答える浩之。以前のような悲痛な感はなく自然な、心からの笑みであった。

「何せおかげさまで男の夢『ロケットパンチ』が放てるようになったんだからな」

「あのぉ〜浩之、さん。そんな機能……付いて、ないんですけどぉ…」

申し訳なさそうなマルチの一言に、浩之は露骨に悔しげな顔をする。

「なにぃ〜っ!じゃあ目からレーザー光線は、腹から『メカ浩之』の量産は?」

 (って、一昔前のアニメか!第一、ディフォルメされた自分が出てきて嬉しいか、浩之?)

「すいません。そういった各種オプションパーツは別売りなんですよぉ」

 あるのか来栖川っ!さすが時代のパイオニア、奥が深い………

ピピッとマルチの左腕から小さな電子音が鳴る。繋がれたコードから送られてきた浩之の健康状態のチェックが終わった合図であった。

「えぇ〜と血圧・脈拍共に異常無し、各器官全て順調に機能しており、各パーツも不都合は出てないです。全てにおいて良好、問題無しです浩之さん」

「そうかそうか、そりゃ良かった。それもこれもお前のおかげだぜ、マルチ」

「あ、あうぅ〜・・あ、ありがとうございますぅ」

 おなじみのナデナデに、誰が見てもそれと分かるほど喜びの表情を見せ照れるマルチ。ほのぼのとした、以前では考えられない光景であった。
雅史と志保の二人も以前の浩之がどうであったかはあかりから大体聞いていた。そのこともあり何となく来づらく見舞いに来たのは今日が始めてであった。

 しかし今の浩之は自分達が知っている、明るく笑顔の似合ういつもの浩之であった。そして知る。浩之にとってたった一人の少女の存在が、これ程までに影響を及ぼす程になっていることを……

「あ、そういえば浩之、あかりちゃんは?確か今日も来てるって聞いてたんだけど……」

「ん、あかり?あぁ、オレん家に行って着替えとか取ってくるってさ。別にいいって言ったんだけどよぉ……」

「ふぅん……」

 雅史はほんの一瞬、考え込む表情を見せた。そしてすぐにいつものにこやかな笑顔を見せ、口を開いたのであった。

「じゃあさ、僕らは何か差し入れでも買ってくるよ。浩之のことだからそろそろ病院食にも飽きただろ?」

「おっ、話が分かるねぇ親友。オレのことをよく理解してる」

「ちょっと雅史『僕らは』って何よ。この志保ちゃんをパシリ代わりに使おうっての?」

「まぁまぁ志保。手みやげ一つなく来ちゃったんだし、いいじゃない。ほら行こう」

「あ、おい。今日は下の売店…」

「ん、分かってるよ。病院出て少しした所にコンビニがあったろ」

「あ、あの雅史さん。そのようなことでしたらわたしが…」

「駄目だよマルチちゃん。君には浩之の看病があるだろ」

「ちょ、ちょっと雅史。あんた人を、あ〜れ〜………」

 嫌がる志保を引きずり、雅史はドアの向こうへと姿を消してしまった。残されたのは浩之とマルチの二人。無音の数秒間が過ぎた。


「……ったくあのヤロ、どいつもこいつも余計な気ぃきかせやがって」

「へっ?」

 先に静寂を破ったのは浩之であった。降りた前髪を掻き上げマルチから視線を外す。 

 クイッ、クイッ

「ハイ?」

 浩之の右手がヒョコヒョコ動く。『こっちゃこい』の合図である。トテトテとマルチは浩之の元に近づき、用件を待つ。

 ポンッ、ポンッ

「はぁ……あの浩之さん?」

 ベッドの端を叩く。『ここに座れ』の意味である。言われた通りマルチはベッドの端に座り、次の命令を待つ。
正面を見据えたまま自分を見ようともしない浩之に声をかけようかかけまいか悩んだ瞬間、マルチの体は浩之の元に吸い込まれたのであった。

「ああぁ、何を、何を浩之さん?」

 胸の内に埋められ、顔だけを上に向けて浩之を見上げるマルチ。抵抗する気など毛頭ないが、突然の行為に驚いたのも事実であった。
浩之はここで初めてマルチの顔を見つめたのであった。

「折角の好意なんだ。甘えようじゃねぇか」

「あ、あの、あの、浩之さん。その…」

「すぐには帰ってこないさ。それとも、オレとこうするのは、嫌か?」

「そんなことは……はい。じゃあわたしも、お言葉に甘えさせてもらいます」

 マルチは浩之の背に手を回し、身を任す。暖かい、ゆとりのある場所であった。

「浩之、さん……」

 以前に比べ肉の付いた体、あれから食事もちゃんととれるようになった……マルチは知っている、自分が『いない』間の浩之を。どう思い、どう思ってくれたかを……

 いいと思った。浩之が無事ならいいと思った。自分なんてどうなろうと、浩之さえ無事ならいいと思った。
しかし、そのことが更に浩之を苦しめたことをマルチは知ってしまったのだ。
以前浩之は自分に言った『お前はそれでいいのか』と。浩之の『中』にいる間……自分の望みは何なのか、そのことをずっと考えていた。

 『浩之がいること』それが自分の望みだと思った。
けれども、本当にそうなのかと思った。あの時……浩之が身を挺して自分を救ってくれた時、自分は『嬉しい』と感じたであろうか?涙が出た。
 体中の全ての間接が軋むように痛かった。浩之は自分が傷ついた姿を見たくなかったからと言った。

そう聞いて自分は嬉しく感じたであろうか……鮮血に染まった浩之を見て、只の一かけらでもそう思ったであろうか。なのに、自分は浩之に対し『同じ』ことをしてしまった。
 自分を犠牲にすることで与えられた『幸せ』などに何の喜びもないと知ったにもかかわらず、浩之と同じことをしてしまったのだ。

「わたし、わたし………浩之さんといたいです。もう、離れたくありません。ずっとずっと、浩之さんといたいです……こんなわたしでもいいですか?もらってくれますか?」

 嬉しいのに、何故か涙が出ていた。『自己犠牲』と言うモノは相手のことをまるで考えてない『最低』の思いやりなのかもしれない。
『相手』のことしか考えない幸せに本当の幸せなどないことに。長い時を、お互いを傷つけることで……やっとマルチは気づくことが出来たのであった。

「なぁマルチぃ……少し、いいか?」

「はい……」

 抱きしめた、マルチの頭を撫でながら……浩之は呟いた。静かな病室に声が響く。

「おれさ……お前が『マルチ』で良かったと思う」

「へっ?」

「初めてお前と出会った時、正直危なっかしいヤツだと思った。こんなメイドロボもいるんだと思った……
けどさ、お前がセリオみたいに優秀だったとしたらさ、オレはこんな思いをお前に持てたのかなって」

「浩之、さん」

「そんなメイドロボだったらさ、オレはお前のことを他のメイドロボと一緒くたにしてそれで終わってたと思う……それで終わりだったと思うんだ」

 非力なマルチに変わりコピー用紙を運んでやった初めての出会い。
 自分の意志で学校を綺麗にしようというマルチに廊下掃除のコツを教えた放課後の思いで。
 誰が見ても緩やかなスピードで楽しんだエアホッケー……それらの思い出をマルチ以外の相手と作れたであろうか、作りたいであろうか。

「お前だから、マルチだからオレは好きなんだ……お前じゃなきゃ出会いだけで終わってた。
お前じゃなければオレは別れを悲しいものだと思わなかった。お前じゃなかったら助けないで終わってた。
お前じゃなかったらオレは死んでた。お前じゃなかったらオレはこんなにも悲しまなかった。
……そして、お前じゃなかったらこんなにも再会が嬉しいとは思わなかった。ほかの誰でもない……オレはマルチといたいんだ」

「ひろゆき、さぁん……」

 もうマルチの顔は涙でグショグショになっていた……
長瀬にマルチの再セッティングしてもらう際、再起動の五分間がどれ程長く感じられたか。
 目を開いたマルチに光が宿るのがどれ程嬉しかったか。飛びついてきたマルチをどれ程強く抱きしめ返したか……

「お前こそ、こんなオレでいいのか……こんなオレにずっと付き合ってくれるのか?今ならもっといい相手を捜してやってもいいんだぞ?」

「浩之さんがいいですっ。浩之さんじゃなきゃ嫌です。わたしは、浩之さんと一緒にいたいんです……」

「じゃあ、決まりだな。これからよろしくなマルチ」

「はいっ!」

 満面の笑顔で自分を見つめるマルチに、浩之は静かに顔を寄せる。愛する者同士の、初めての口づけであった。


家に戻ったら生活用品を一人分増やさないといけない。藤田家の新しい一員に満足がいくようにしないとな……
唇を触れさせながら、そんなことを考える浩之であった。


       To・Heart哀の激情
               「マルチ、心のままに」 完


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