硅緑内戦史 1937年編




目次

前章
本頁について
月期について
第1章 前史
1.1 ケルンテン・グリューネラントの成り立ち
第2章 1937年6月期〜7月期前半(1937/05/15〜06/30)
2.1 暁の狼作戦(1937/06/02)
2.2 第1次南ゴートイェーク会戦(1937/06/03〜06/18)
2.3 第1次ロックシュタイン攻防戦(1937/06/04〜06/07)
2.4 第1次アルトリンゲン攻防戦(1937/06/15〜06/18)
第3章 1937年7月期後半〜9月期(1937/07/01〜09/14)
3.1 第2次南ゴートイェーク会戦(1937/07/01〜09/10)
3.2 ドナウ河畔の戦い(1937/09/06〜09/16)
第4章 1937年10月期(1937/09/15〜10/14)
4.1 第3次南ゴートイェーク会戦(1937/09/17〜09/25)
第5章 1937年11月期(1937/10/15〜11/14)
5.1 第2次ランツェレ峠の戦い(1937/10/20〜10/25)
第6章 1937年12月期(1937/11/15〜12/14)
6.1 第1次グロイスター会戦(1937/11/18〜11/25)
6.2 第1次トーテンコプフ沖海戦(1937/12/09)
第7章 1938年1月期前半(1937/12/15〜12/31)
7.1 第2次グロイスター会戦(1937/12/15〜01/11)
7.2 ヴァルデガルトおよびメーレンダム爆撃(1937/12/27)



前章

本頁について

 本頁では、第二次世界大戦直前に中欧の小国ケルンテンにて発生した内戦について紹介させて頂く。



月期について

 当時のケルンテンでは毎月15日に開催される高等軍事会議にて当月15日から翌月14日までの予算が策定されていた。この月予算の区切を「月期」と呼び、その頭に予算策定した月の翌月を冠していた。つまり、1937年12月15日に策定された月予算は「1938年1月期予算」であり、この期間(1937年12月15日〜1938年1月14日)を「1938年1月期」としていた。
 この期間中に前線へ送られる物資の総量(の予算)などもこの会議で策定されていた。そのため、ケルンテン軍の活動は毎月15日を区切としたものが多かった。
 なお、高等軍事会議にて予算が策定されている事から、これは戦時の特別措置ではないかとする見解もある。しかし、ケルンテンが戦時体制に移行したのは硅独戦争直前の事である。そのため、平時よりこの高等軍事会議にて予算策定が行われていたものと思われる。
 一方グリューネラントでも毎月15日に戦時長官が予算を策定していた。これは、ケルンテン統治時代の予算システムを引き継いだためと思われる。そのため、グリューネラント軍も毎月15日を区切として活動する事が多かった。
 その結果、硅緑内戦は毎月15日から大きな動きがあり、翌月14日にかけて次第に終息していくという傾向があった。そのため、本書では本来予算の区切である「月期」単位に硅緑内戦史を紹介させて頂く。ただし、1937年9月期まではケルンテン側の態勢が整っていない影響もあって、月期単位の動きとなっていない。そこで「月機」単位の紹介は1937年10月期よりとさせて頂く。



第1章 前史

 硅緑内戦について記す前にまず、ケルンテン公国およびグリューネラント共和国とはどの様な国家であり、これらが内戦状態となるまでにどの様なことがあったのかについて、説明させて頂く。



1.1 ケルンテン・グリューネラントの成り立ち

 ケルンテンおよびグリューネラントが国として歴史に登場し始めるのは8世紀頃の事である。この頃にノルトケルンテン人が現在のケルンテン地方に定住を始めた事が、その始まりであるとされている。9世紀にはカール大帝のフランク帝国に恭順し、843年のヴェルダン条約にて、グリューネラントおよび南ゴートイェーク(古グリューネラント)は東フランク王国に、ケルンテンは現ブリクシアとブラウフリューゲル、エステンド南東部をのぞいてイタリア王国に属する事となった。
 その後アルヌルフ・フォン・ケルンテンが皇帝となったことを契機として、現ブリクシアとギュルテンシュタインをのぞく全域がケルンテン辺境領として独立した。なおこの時期のグリューネラントはケルンテン辺境領の一部とみなされていた。
 しかし、911年になってカール大帝の血筋が絶えたため、東フランクはドイツとしての道を歩み始める事となった。当時のケルンテンはあくまで辺境領の一つであったが、度々侵入してくるマジャール人やスラブ人を撃退していく内に、独立勢力としての力を付け始めていた。しかもドナウ川以北の現グリューネラント地方も独立独歩の道を歩み始めていた。こうして、962年には、神聖ローマ帝国の誕生とともに、ケルンテン公領とグリューネラント侯領はそれぞれ独立した地域としてオットー大帝に承認された。
 こうして暫くはケルンテンとグリューネラントが国として併存する期間が続いた。しかし三十年戦争の後始末であるウェストファリア条約(1648年)にて、ケルンテン公国がグリューネラント侯領を併合することとなり、国としてのグリューネラントは無くなってしまった。一方ケルンテンは国土が大きくなったことによって国家として繁栄した。18世紀には立憲君主制が確立し、1750年には公国会議が成立している。

 しかし、このケルンテンの繁栄も永遠では無かった。1848年にオーストリア帝国がイタリアとの戦争に先立ってケルンテンの併合を行ったのだ。このオーストリアによる併合は18年間続いたが、1866年に勢力を増してきたプロイセンを筆頭とするドイツ連邦の取りなしによってマインファルケン条約が成立し、ケルンテン公国は再び独立国家となった。この条約ではさらにブラウフリューゲル地方がケルンテン領として編入されたが、ドナウ川以北のグリューネラント地方はドイツ連邦へ割譲される事となった。またこの条約ではケルンテンの軍備が大幅に制限されており、大砲などが極少数しか配備できないようになっていた。この事がケルンテン独自の兵器である装甲戦闘猟兵の開発契機となったとする説もある。
 1914年、欧州が大きく動いた。欧州大戦(第一次世界大戦)の勃発である。ケルンテン公国は1910年頃よりイギリス・フランスと懇意にしていた事もあって、オーストリア・ハンガリー帝国より宣戦布告を受けたため協商側として参戦する事となった。マインファルケン条約によって軍備に大幅な制約を受けていたケルンテンはドイツ・オーストリア両軍によって国土の多くを占領されてしまった。しかし装甲戦闘猟兵の戦力化とフランス戦線でドイツが後退した事によって、終戦までに国土の全てを奪回している。
 1919年、フランスのヴェルサイユにて戦後処理のための国際会議が開かれた。この席でケルンテン側の主張が多く取り入れられたため、ドイツとの終戦条約となるヴェルサイユ条約ではケルンテンの永世中立とグリューネラントの委任統治が認められた。ただし、グリューネラントについては1937年に住民投票を行い、その結果で正式な帰属先(もしくは独立)を決定するものとされた。また、オーストリア帝国との終戦条約となるサン=ジェルマン条約によってマインファルケン条約は無効となったため、ケルンテン公国に対する軍備制限は消滅した。

 こうして平和と繁栄を迎えたかに思えたケルンテンであったが、これを一変させる事件が発生した。1929年の世界恐慌である。この世界恐慌でドイツ経済は壊滅的な打撃を受けた。そしてこれは、ドイツとの経済的結びつきが強かったグリューネラントにとっても同様であった。グリューネラント経済はケルンテン資本の投入によって何とか持ち直す事ができたが、結果としてケルンテンによるグリューネラント支配が更に進むこととなった。そしてケルンテン側から見ても、ケルンテン・グリューネラント経済ブロックが確立したため、グリューネラントを手放すことはケルンテン経済の破綻を意味することとなった。

 1935、ケルンテン政府はグリューネラントの帰属を決める住民投票を実施する前に調査を行った。しかしその結果、ドイツ復帰派が優勢である事が判明した。ケルンテン政府はグリューネラント地方の天然資源を手放す事を良しとしないため、住民投票の対象地域をドナウ川以北の現グリューネラント地域ではなく、南ゴートイェークも含む古グリューネラント地域にて実施するというゲリマンダリングを行い、さらに南ゴートイェーク州への移民も実施した。
 この結果として1937年1月に実施された住民投票では僅差でケルンテン帰属が決定した。しかしこの結果は多くのグリューネラント住民、そしてグリューネラントが手に入るものと思っていたドイツをいきり立たせる事となった。
 この事態を受けて、穏健的独立派として知られるグリューネラント候ヴィルヘルム・フォン・フレーメファーネは国際連盟への再投票を提訴すべく活動を開始した。しかし3月18日、侯爵は自宅で謎の突然死を遂げた。そしてこれ以降、ドイツからグリューネラントに向かう列車には多くの人員や物資が積載される様になった。
 こうして、事態は内戦に向けて急速に転がっていったのであった。



第2章 1937年6月期〜7月期前半(1937/05/15〜06/30)

 1937年5月25日グリューネラント地域の独立派は、グリューネラント侯爵夫人クリステル・フォン・フレーメファーネを首班として、遂に武装闘争を開始した。まずチェリンク州議会を武力制圧した上で、グリューネラント共和国独立宣言および同国臨時政府の樹立を宣言した。
 ケルンテン政府はこれを暴動程度に考え、すぐさま沈静化するものと思っていた。しかしグリューネラント独立派の背後にはドイツが存在し、資金・武装そして人員の支援を行っていた。しかもグリューネラント地方に駐屯していた3個警備師団と1個航空隊はグリューネラント臨時政府に対する恭順を示した。このためグリューネラント臨時政府はその独立宣言から数日のうちにグリューネラント共和国軍を組織するに至った。また威圧目的でグリューネラント地方に駐留していたブラウエンタール騎兵旅団は戦わずして武装解除されてしまい、その装備は新生グリューネラント軍に配備され、さらに新型装甲戦闘猟兵は研究のためドイツへと持ち去られた。
 そしてこの独立闘争はケルンテン政府の思惑に反して約1年にも渡る内戦へと発展する事となった。



2.1 暁の狼作戦(1937/06/02)

 1937年6月2日深夜、南ゴートイェーク州への侵攻を間近に控えたグリューネラントは、事前準備となる破壊工作「暁の狼」作戦を発動した。南ゴートイェーク全域および首都ラヴァンタールへ潜入していた約500名の特別工作部隊は、電話線の切断、鉄道・官公庁・軍・警察施設への襲撃・爆破、およびグロイスター山脈の爆砕を行った。これは、ケルンテン軍が南ゴートイェーク州内へ集結するのを遅らせるためであった。
 また時を同じくして約100名の別働隊が、南ゴートイェーク師団に臨時増派されていた4機のウービルトを無傷で収奪した。この4機は同師団参謀クレッチュマー中佐の進言によってグリューネラントを威圧すべく、ドナウ南岸への集中配備が行われていた。なお同中佐はこの時より行方不明となっている。



2.2 第1次南ゴートイェーク会戦(1937/06/03〜06/18)

 1937年6月3日の夜明け前に、ドナウ川北岸に集結していたグリューネラント軍第1、第2、第3の3個師団が、南ゴートイェーク州の電撃的制圧を目指して一斉に渡河・南進を行ったことによって発生した、ケルンテン・グリューネラント間での最初の会戦である。さらに夜明け後にはグリューネラント空軍が南ゴートイェーク、ミッテルケルンテンの各飛行場を襲撃し、さらには砲兵陣地と装甲戦闘猟兵部隊の集結地点に対して徹底的な爆撃が行われた。勃発前の航空戦力はケルンテン側の優勢であったが、この奇襲の結果、ケルンテン陸軍航空隊が態勢を立て直した頃には、彼我の航空戦力はほぼ同等となっていた。
 南ゴートイェーク州には当時、南ゴートイェーク師団とカルニケ騎兵旅団が駐留していた。しかし初戦の奇襲で司令部が壊滅した南ゴートイェーク師団は残存部隊による遅滞戦闘を行うだけで精一杯で、またカルニケ騎兵旅団も欧州大戦の戦訓を基とした古い戦術により効果的な反撃を行うことができなかった。結果として両部隊は壊滅し、再編も行われずに消滅することとなった。



2.2.1 ナーベルブルクの戦い(1937/06/03〜06/04)

 南ゴートイェークの州都でありドナウ南岸の要衝でもあるナーベルブルクとその周辺には、南ゴートイェーク師団の高地ゴートイェーク歩兵連隊と同師団捜索大隊が展開していた。しかしグリューネラント軍の侵攻を想定していなかった同部隊は態勢を整えるまもなく戦闘に巻き込まれた。しかも夜明けの爆撃で師団司令部が壊滅しており指揮系統が喪失していた。またケルンテン軍の切り札ともいえる装甲戦闘猟兵部隊は事前の砲爆撃により壊滅していた。そのため反撃を行うこともできずに各個で突破・包囲を受けた。
 これによってナーベルブルクでの戦闘は実質的に3日で終了していたが、グリューネラント側は同都市の占拠よりも進行速度の維持を重視していた。そのため、要衝ナーベルブルクの占領は翌日にまで持ち越された。このナーベルブルクでの戦いによって、南ゴートイェーク師団は反撃も行えないまま壊滅した。



2.3 第1次ロックシュタイン攻防戦(1937/06/04〜06/07)

 ナーベルブルクよりも南方のロックシュタイン近郊に駐留していたカルニケ騎兵旅団は、3日の戦闘に巻き込まれず態勢を整えることができた。そこで、グリューネラント軍を押し留めるべくロックシュタイン近郊にて機動防御を行うこととした。
 当時のケルンテン軍騎兵旅団の中心戦力は騎兵であったが、大隊規模の戦車、装甲車、装甲戦闘猟兵も配備された快速部隊であった。しかしそのドクトリンは所謂ウービルト時代に策定された単身突破を主としたものであった。事実、練度の高いケルンテン軍の装甲戦闘猟兵は一対一や彼我入り乱れての格闘戦で圧倒的な強さを発揮した。しかしこの様な状況に持ち込めたのはごく一部で、大多数は敵部隊に突入した後に包囲を受け、各個に撃破されていった。
 カルニケ騎兵旅団は4日に渡って戦闘を継続したものの戦力の大半を喪失していた。これ以上の戦闘継続は不可能と悟った旅団は7日、伝統に則った騎兵突撃を敢行して全滅した。
 こうして7日にはロックシュタインもグリューネラント軍によって制圧された。



2.4 第1次アルトリンゲン攻防戦(1937/06/15〜06/18)

 グリューネラント側工作員による破壊工作でケルンテン国内の鉄道網は寸断され、各部隊の集結は大幅に遅れていた。そのため、唯一残された快速部隊であるヘルツォークトゥン騎兵旅団は6月15日に単独で北グロイスター山脈を越える事となったが、その時点でグリューネラント軍はアルトリンゲンの目前にまで迫っていた。同旅団は、先に全滅したカルニケ騎兵旅団の轍を踏むまいと、アルトリンゲンを重点として北グロイスター山脈一帯に広く展開し、山岳防御を行いながら各師団の先遣部隊の到着を待つこととした。しかし騎兵旅団は元来、陣地での防御を不得手とするうえに広く展開したため戦力が薄まった事もあって、18日までにヘルツォークトゥン騎兵旅団は全滅してしまった。
 だが、この18日までに各師団の先遣部隊が南北グロイスター山脈に展開し、ようやくケルンテン側も一応の戦線を構築することができた。
 なおヘルツォークトゥン騎兵旅団は再編成が行われる事となったが、前線部隊の補充が重視されたため遅れに遅れ、完了したのは翌年6月の事であった。



第3章 1937年7月期後半〜9月期(1937/07/01〜09/14)

 開戦期の混乱から立ち直り始めたケルンテン軍は、グロイスター山脈に集めた5個師団を持って遂に大規模反攻を企画した。ケルンテン側の意図としては全戦力をもって反乱軍を撃滅し、事態の解決を図るものであった。
 対するグリューネラント側には連戦で疲弊している師団3個しかなく、とても正面から組み合える状況では無かった。そのため遅滞戦術でもって崩壊を引き延ばすのが精一杯であった。



3.1 第2次南ゴートイェーク会戦(1937/07/01〜09/10)

 7月1日、南北グロイスター山脈への展開を終えたケルンテン軍は、正面攻撃により反乱軍を撃滅すること目的とした「守護天使作戦」を発動した。3時間に渡る準備砲撃の後、並列に展開した4個師団(北からギュルテンシュタイン、ブリクシア、ブラウフリューゲル、ミッテルケルンテン)を同時に進撃させた。なおエステンド師団は予備として後置されていた。
 グリューネラント側は遅滞戦術をもってこれに当たったが、全戦力でも3個師団と劣勢のため反撃を行うこともできず、戦線は少しずつ北進していった。そして7月20日にはケルンテンによってハーゲンデンシュタインが占領された。



3.1.1 第2次ロックシュタイン攻防戦(1937/08/19〜08/27)

 1ヶ月半以上もの時間をかけて、8月19日に戦線はついにロックシュタイン近郊にまで達した。グリューネラント側はこの南ゴートイェークの要衝にてケルンテンを押しとどめるべく戦力を展開した。その結果、ロックシュタインを巡る攻防戦が行われる事となった。この攻防戦は9日間に渡って繰り広げられたが、8月27日にグリューネラント側がロックシュタインの放棄を決意した。同日中にケルンテン軍がロックシュタインへ入城し、同市は、約2ヵ月半ぶりにケルンテンの下へと戻った。
 この結果ナーベルブルクまで大きな障害が無くなった。ケルンテン側はドナウ渡河した時点で反乱軍は崩壊し、そのため10月までには決着するものとこの時点では考えていた。



3.2 ドナウ河畔の戦い(1937/09/06〜09/16)

 ドナウ川まであと30Kmにまで迫った9月1日、ケルンテン側を大きな衝撃が襲った。グリューネラント軍がドイツの支援を受けて新編した機甲師団、第204国民突撃師団を終に戦線投入したのだ。ドイツ人の師団長に率いられた同師団は全戦線に渡って巧みな機動防御を行い、ケルンテンの進撃を押しとどめる事に成功した。
 ケルンテン側は約10日間、手を変え品を変えドナウヘの突破を図ったが、戦線を北へ進めることは出来なかった。事実上ここで「守護天使作戦」は終了する事となった。



第4章 1937年10月期(1937/09/15〜10/14)

 ケルンテン軍の進撃を押し止める事に成功したグリューネラント軍は一気に態勢を覆すべく乾坤一擲の反攻作戦「ドナウの守り」を画策し、これを発動した。一方ケルンテン軍は予備戦力も無い状態であり、事態に対して有効な手を打てないでいた。



4.1 第3次南ゴートイェーク会戦(1937/09/17〜09/25)

 秘密裏に第205国民突撃師団の編成を終えたグリューネラント軍は、この師団を持って敵後方奇襲する反撃作戦「ドナウの守り」を発動した。この作戦は完全な奇襲となりケルンテン側の戦線は崩壊した。グリューネラント側はこの機を逃さず一気に独立戦争を勝利へと導くために、全戦線で追撃を行った。グリューネラント軍の快進撃は7日間に渡って続き、アルトリンゲンとブリューネルも然したる抵抗も受けずに占領した。そして9月25日、戦線が再びグロイスター山脈にまで達した所で、ケルンテン側の「切り札」ウービルトが投入された。ウービルトの活躍に勢いづいた公国軍は、ようやく踏みとどまってまともな戦闘を始めるようになり、ギュルテンシュタイン管区の爆撃隊が戦線後方に位置していた共和国機甲部隊を襲撃するに及んで、ようやく共和国軍の突進も停止した。
 両軍ともに疲弊し対時する間に、グロイスター山脈地帯には、次第に欧州大戦をも思わせる一大塹壕網が張り巡らされることとなった。ことに公国軍はここを絶対防衛線と定め、各地に地雷を埋設し、鉄条網を張り巡らし、ベトンで固めたトーチカや小保塁を築いて、一大要塞地帯を形成した。



4.1.1 ツェメント近郊の戦い(1937/09/17〜09/19)

 9月17日深夜、ロックシュタイン西に位置するツェメントにて予備として待機していたミッテルケルンテン師団が夜襲を受けた。この襲撃を行ったのは新設された共和国陸軍第205国民突撃師団であった。この第205師団は装甲戦闘猟兵連隊2個を擁しており、その高い走破性を活かしてケルンテン側では予測のできない経路で進撃する事ができたための奇襲であった。
 完全な奇襲であった上に夜間でもあったためミッテルケルンテン師団司令部は状況を把握することすらできなかった。そのためミッテルケルンテン師団は1晩と保たずに壊走してしまった。
 一方、第205師団は攻撃の手を緩めず隣接するブラウフリューゲル師団を背後から襲撃した。さらに第2師団と協力してこれを包囲し撃破した。
 この戦いは単にケルンテンが2個師団を撃破されたと言うだけに止まらなかった。ケルンテン軍は策源地が奪われたため、前線への補給が行えなくなったのだ。この情報は瞬く間にケルンテン全軍に伝わり、士気の崩壊とともに算を乱した敗走が始まり、全戦線は崩壊した。



4.1.2 第1次ランツェレ峠の戦い(1937/09/25)

 内戦の勃発と同時に4機ものウービルトを失ったケルンテン最高軍事会議は、ウービルトの戦線投入を厳しく統制していた。しかし、戦線が崩壊した上にグリューネラント軍が再びグロイスター山脈にまで達した事を受けて、ついに9月25日、近衛騎士団の戦線投入を公爵へと上奏した。なお実際には、投入許可が下令される5時間も前にウービルトは戦闘に参加していた。
 ランツェレ峠にて第205師団を襲撃した7機のウービルトは、同師団の約半数の装甲戦闘猟兵を行動不能へと陥れ、同師団を壊走へと追いやった。さらに第1師団の砲兵陣地を襲撃してこれを壊滅させた上に、返す刀で第2師団の装甲戦闘猟兵大隊を全滅させた。しかもこれらは全て、同日中に行われた事であった。



第5章 1937年11月期(1937/10/15〜11/14)

 ケルンテン、グリューネラント双方とも先月期までの戦いで大幅に損耗していた。そのため両軍とも当月期は戦力の回復に努めたため、大きな作戦行動は行われなかった。ただ例外として、ランツェレ峠にてエステンド師団と第205師団との間で小競り合いが行われた程度であった。



5.1 第2次ランツェレ峠の戦い(1937/10/20〜10/25)

 第2次グロイスター会戦の準備期間中に、グロイスター山脈南東部のランツェレ峠にて勃発した小競り合いである。この期間中にエステンド師団は、来る次期攻勢に向けての地歩を固めるべく3個連隊を持って、ミッテルケルンテン−南ゴートイェーク州境の要衝ランツェレ峠に展開する共和国第205師団の装甲戦闘猟兵連隊と歩兵連隊1個の排除を目的として攻勢を行った。
 エステンド師団は僅か1日でクノーグル山頂まで2kmの地点にまで進出した。しかし、第205師団の捜索大隊がエステンド師団の砲兵陣地と師団司令部を発見したため、第205師団は師団長自らが予備であった装甲戦闘猟兵連隊1個を率いて前線を迂回し、これを襲撃した。緑軍は砲兵陣地の撃破には成功したものの、この戦闘で師団長が負傷したためエステンド師団の司令部にまで進撃する事ができなかった。この事により戦闘は膠着した。そして25日には天候が悪化し降雪があったため、エステンド師団は峠の攻略を諦め、戦闘は終結した。
 この戦いの結果に戦略的意義は無かったが、W号装甲戦闘猟兵が初めて実戦投入された戦いとして知られている。



第6章 1937年12月期(1937/11/15〜12/14)

 戦力を回復させた両軍は共に侵攻作戦を立案していた。そして両軍とも同時期に行動を開始したため、当月期は先月期とはうってかわって、全戦線にて激しい戦いが繰り広げられる事となった。
 また当月期よりグリューネラント海軍第1潜水隊が海賊に偽装してアドリア海にて活動を開始している。それによって、不意遭遇戦ではあるが初めてとなる両海軍間での海戦も行われている。
 なお12月8日には、ミッテルケルンテン師団長ヨーハン・シュレジンガー中将が国家反逆罪で逮捕される、という事件が発生している。



6.1 第1次グロイスター会戦(1937/11/18〜11/25)

 1937年11月15日、ケルンテン陸軍総司令部は1937年12月期の行動について下記の様に方針を定め、各師団に対してこれを伝えた。

 第1段階 エステンド師団以外の師団は現陣地を固守し、敵の消耗を待つ
 第2段階 全軍で反撃に転じ、損耗した前線を叩いた上でアルトリンゲン、ナーベルブルク、ロックシュタインの開放を目指す。ただし、エステンド師団のみはブリューネル攻略を継続し、その後にナーベルブルク攻略へ向かう
 しかし各師団はこの消極策に反対し、何と総司令部の意向を無視して攻勢を行うこととした。このため統制は行われていないものの、結果としてケルンテンは全軍での一斉攻勢を行うこととなった。
 一方グリューネラント軍司令部は、北部戦域にて第204師団、第2師団をもってクランツ峠を突破し、田園街道を南下してディンツブルクを攻略する、南部戦域にて第205師団を中核に第1師団、第3師団をもってランツェレ峠を突破し、鉱山街道を南下すると言った方針を立て、各師団もこの方針に沿って行動を行った。
 しかしこの作戦は北部と南部の間には大きな空白があり、そこをケルンテン側に突かれることとなった。こうして各自の思惑が食い違ったまま、第1次グロイスター会戦は勃発した。この会戦はグリューネラント側が2方面侵攻作戦を立てていたため、主に北部のクランツ峠周辺と南部のブリューネル近郊の2地域に戦域が分かれていた。

 また航空活動は両軍共、天候が安定しなかったため低調であった。しかし短い晴れ間にアルトリンゲン方面およびブリューネル方面で激しい航空戦が行われた。11月24日には第3戦闘航空団と第4戦闘航空団によるヴァルデガルト工科大学爆撃が行われた。グリューネラント側が工科大学を狙ったのは、大学を爆撃したことによる非難よりも大学でイェーガーの研究が行われている事を重視したためであった。この作戦に対するグリューネラント側の意気込みは高く、第4戦闘航空団司令フォイツレッツ少将自らが爆撃隊の先頭に立つほどであった。しかしその意気込みとは裏腹に、途中でケルンテン側の邀撃を受け、全投入数は不明であるが工科大学上空にまで達したのは6機のみであった。そのため、あまり大きな損害は与えられなかった。

 25日夜から天候が悪化し、両軍とも1週間に渡って行動が停滞した。天候回復後も両軍は戦力の補充と戦線の整理を重視したため戦闘は発生しなかった。結果として第1次グロイスター会戦は11月25日をもってグリューネラント軍によるクランツ峠突破が成功した状態で終了した。



6.1.1 第1次クランツ峠の戦い(1937/11/18〜11/25)

 1937年11月18日、天候の回復によってケルンテン軍の全師団は(結果的に)一斉攻勢を開始した。しかし同時に、グリューネラント軍第204師団も攻勢作戦「トゥールハンマー」を発動し、第1装甲連隊がペテルフコプフ山東部を迂回した。このためアルトリンゲン正面を担当していたブリクシア師団は同連隊に防御拠点を迂回された。更に空軍の爆撃と重砲による砲撃で叩かれたところを追撃を受け、クランツ峠を突破されてしまった。
 この際に第204師団は、戦車では突破不可能と思われていたペテルフコプフ山東部の森林地帯を、装甲戦闘猟兵を使って切り開く事で通過し、奇襲を行うことに成功している。さらにグリューネラント空軍はこの方面に3個航空団を投入してブラウフリューゲル管区航空隊を駆逐、制空権を確保した。
 この奇襲で第1線部隊が崩壊したブリクシア師団は、以降4日間に渡って30kmも後退する事となった。
 23日には遂にブリクシア師団が崩壊寸前にまで追い込まれたが、その一方で第204師団もこれを攻めきる事ができず、遂に停滞状態となった。
 そして24日になって北部戦線では天候の回復したため、この方面にブラウフリューゲル管区航空隊の戦力が集中投入され、第204師団の勢いは完全に止まってしまった。更にその東方山岳地帯では第204師団への増援として進撃していた第1師団が、国際旅団とミッテルケルンテン師団による包囲攻撃を受け、撃退されてしまった。ミッテルケルンテン師団は後退する敵に対する追撃を狙ったが、翌日からの天候悪化でこれを行うことが出来なかった。
 こうしてクランツ峠を巡る最初の戦いは、第204師団が峠を突破しミッテルケルンテン州内へ30kmも侵出した状態で終結した。



6.1.2 第1次ブリューネル攻防戦(1937/11/18〜11/25)

 天候回復によってケルンテン軍はグロイスター山脈南東部でも一斉攻勢を開始した。
 ギュルテンシュタイン師団は麾下の旅団を別々に行動させた。まずヴァイスバッハ旅団で第3師団の正面を攻撃し、その一方でグーゲンタール旅団は2〜3000メートル級の山岳が連なる南グロイスター山地帯を突破し、第3師団の背後へと回り込んだ。この事によって、第3師団は東西から包囲される事となった。この包囲は24日まで続けられ、第3師団は少なくない損害を受ける事となった。
 ランツェレ峠ではエステンド師団が先月に引き続いて第205師団に対して奇襲を行い、19日には第1線から第205師団の歩兵第8連隊を駆逐している。更にその間に、ブラウフリューゲル師団の右翼が敵の間隙を突き、19日までに一挙にブリューネル西にまで進出した。20日にはブラウフリューゲル師団が、右縦隊で第1師団の攻撃を撃退し、さらに左縦隊がブリューネルを占領した。この時、第205師団は軍司令部からの勧告を無視してエステンド師団に対する攻撃のためランツェレ峠北方数kmの位置に全戦力を集中しており、そのためブリューネル市は空となっていた。
 この結果、エステンド師団と交戦していた第205師団の補給線を分断した上でこれを包囲する形となった。21日には第205師団を殲滅すべくエステンド師団は一斉攻勢へと出た。第205師団は装甲戦闘猟兵40機以上という大きな損害を出したが、重点的な航空支援もあって何とかこれを凌ぎきった。
 そして22日に、第205師団はブリューネル奪回を狙って同市を占領するブラウフリューゲル師団を攻撃し、市街戦へと突入した。
 24日になってケルンテン軍総司令部は、第205師団に対してブラウフリューゲル師団、エステンド師団、さらに第3師団に対する勝利は確実と思われたギュルテンシュタイン師団をこの方面に差し向け包囲し、これの殲滅とブリューネルの防衛を計った。しかし、包囲を解かれる事となった第3師団がブリューネル方面へ移動し、逆にブラウフリューゲル師団を包囲する形となった。背後を突かれる事となったブラウフリューゲル師団は現状を維持することが出来ず、ブリューネルから撤退する事になった。
 こうしてブリューネルを巡る最初の戦いは、一時的なケルンテンによる占領はあったものの、結果としてグリューネラントが確保した状態で終結した。



6.2 第1次トーテンコプフ沖海戦(1937/12/09)

 この海戦は1937年12月9日未明に、トーテンコプフ諸島沖で警戒を行っていたケルンテン海軍第一警戒艦隊の水雷艇2隻とグリューネラント海軍潜水艦UFが遭遇した事によって発生したものである。
 その夜、UFは操艦訓練のために潜航と浮上を繰り返してた。そして、たまたま浮上したところを水雷艇2号に発見されてしまった。UFは急速潜行で逃げようとしたが、注排水装置に故障が発生して潜航できなくなってしまった。一方、水雷艇2号は全速で接近しつつ2本の魚雷を発射した。その魚雷は1本が命中したが、何と不発であった。水雷艇2号とUFはそのまますれ違いざまの砲撃戦に入った。水雷艇2号は4センチ機関砲で司令塔などに損害を与えたが、UF側の3.7センチ砲と8.8センチ砲の命中により後部甲板に大きな損害を受けた。この結果、水雷艇2号は交戦よりも負傷者の救護と損害復旧を優先させる事とし、UFはその隙に魚雷命中の衝撃で稼働するようになった注排水装置を使って潜航し、戦域を離脱した。
 この戦闘によってケルンテン海軍は水雷艇1隻が中破し、戦死者7名、負傷者9名、行方不明者2名という損害を受けた。対してグリューネラント海軍側はUFが小破したが人的損害は負傷者7名のみであった。
 なおこの遭遇戦が硅緑両海軍間で初の海戦であった。





第7章 1938年1月期前半(1937/12/15〜12/31)

 ケルンテン陸軍総司令部は当月期の目標としてアルトリンゲンとブリューネルの2大都市奪還を定めた。これを達成するためにブリクシア、ミッテルケルンテン両師団によるアルトリンゲン正面攻撃とエステンド、ギュルテンシュタイン両師団によるブリューネルの包囲攻撃の2正面作戦が立案された。なお、ブラウフリューゲル師団は戦線中央部の保持、国際旅団は当初アルトリンゲン攻撃に協力した後、ブリューネル戦区へ向けて転進する予定であった。
 一方、グリューネラント陸軍総司令部の意向は、東部戦区において現戦線を基本的に維持しつつ、第2師団と第204師団を中核として西部で攻勢に出て、一挙に中部ケルンテン平野になだれ込もうというものであった。
 なお、硅緑両国では12月15日から翌年度扱いである。しかし本書では1937年内に発生した戦闘を紹介しているため、1938年1月期の前半まで本書での取り扱い範疇とさせて頂いた。なお、1月期の後半は続刊にて紹介させて頂く予定である。



7.1 第2次グロイスター会戦(1937/12/15〜01/11)

 2度目となるグロイスターでの会戦は、航空機も飛行できないほど雪の降る12月15日に勃発した。悪天候のため両軍とも多くの師団が行動を控えていたのだが、ケルンテン軍のミッテルケルンテン師団とグリューネラント軍の第3師団が奇襲を狙って兵を進めた事が契機であった。
 この時期、ケルンテン側はアルトリンゲンとブリューネルの2大都市奪還を目標と定めていた。そのためにブリクシア、ミッテルケルンテン両師団によるアルトリンゲン正面攻撃と、エステンド、ギュルテンシュタイン両師団によるブリューネルの包囲攻撃を計画していた。なお、ブラウフリューゲル師団は戦線中央部の保持、国際旅団は当初アルトリンゲン攻撃に協力した後、ブリューネル戦区へ向けて転進する予定としていた。
 一方のグリューネラント側は、東部戦域では現戦線を維持しつつ、西部戦域では第2師団と第204師団を中核として攻勢を行い、一挙に中部ケルンテン平野へ突入する算段であった。
 これら計画のため、悪天候ではあったが戦闘は次第に激化していった。
 今次会戦でも先と同じく、戦域は東西の2カ所に大きく分かれていた。本書ではこの2カ所のうち、西部を第2次アルトリンゲン攻防戦、東部を南ゴートイェーク南東方面包囲戦と定義している。しかし今次会戦では先とは異なり、ケルンテンがイニシアチブを握り大きく前進する事となった。そのため、先の会戦よりも各戦域が非常に大きくなっていた。西部戦域ではケルンテンがアルトリンゲン、ホットゲーベルを占領し、東部戦域ではブリューネルの奪還こそならなかったが大規模な包囲戦が展開された。



7.1.1 第2次アルトリンゲン攻防戦(1937/12/15〜12/30)

 12月15日、新たにミッテルケルンテン師団長へ着任したシュライバー少将は、着任祝いとして貸与されたNr.28グレンデルを用いて第2師団を撃破し、アルトリンゲン市を奪回する「ファナティック・パレード」作戦を発動した。悪天候もあって奇襲となったこの作戦は、さらに第2師団と第204師団の間隙を突く事となった。この結果16日までに第2師団の右翼を破り、連隊規模の先遣部隊はアルトリンゲン市まで10kmへと前進した。
 17日、第2師団はミッテルケルンテン師団に対する反撃を行った。しかしミッテルケルンテン師団はこれに対してNr.28グレンデルを投入して撃退し、逆に同師団の先遣部隊がアルトリンゲン市郊外にまで達する事となった。また第2師団の隣側に展開していた第204師団は第2師団への救援を企画したが、ミッテルケルンテン師団、ブリクシア師団、国際旅団から包囲を受け、さらには国際旅団から奇襲を受ける事となった。第204師団はこの奇襲に耐えきれず、カステンスピッツ山を放棄してクランツ峠まで撤退する事となった。第204師団はこの後も後退を続け、21日にはアルトリンゲン市郊外にまで後退した。

 これまでの戦いは戦力に勝り、何よりウービルトを擁するケルンテン側が優位であった。しかしミッテルケルンテン師団先遣部隊の進撃は余りにも性急なものであったため師団は南北に長く延び、しかも先遣部隊と本隊の間は非常に脆弱であった。この事を把握した第2師団は19日、薄く延びきったミッテルケルンテン師団の側面を攻撃し先遣部隊と本隊との分断に成功した。さらに第2師団はクラッツテルドゥ山方面で第1師団と交戦するブラウフリューゲル師団の側面を攻撃し、これを撤退させた。この結果、ウービルトを擁する先遣部隊はアルトリンゲン近郊して第2師団から包囲を受ける事となった。しかも包囲が完成した21日から24日にかけて天候は荒れ、ミッテルケルンテン師団先遣部隊は吹雪の中を補給も無いまま取り残される事となった。
 25日、ようやく吹雪の収まったこの日は、両軍で取り決められたクリスマス停戦(24〜26日の3日間)であった。しかしミッテルケルンテン師団長はこの停戦を無視し、包囲された先遣部隊を救助するために第2師団に対して攻撃を行った。不意を突かれた第2師団はこれに反撃する事ができず、包囲を解いて退く事となった。

 停戦の明けた27日、アルトリンゲン近郊に展開する第204師団はブリクシア師団と国際旅団の猛攻を受ける事となった。しかし第204師団は先日の停戦を無視したミッテルケルンテン師団の攻撃によって補給路を遮断されていたため、休戦中に戦力を回復できないでいた。さらに戦車にとって不利な山岳地帯での戦いと言うこともあって、戦車部隊の損害は刻一刻と増大していった。ここにいたって第204師団長はアルトリンゲン市の防衛が不可能であると判断し、これ以上の損害を避けるため全部隊の撤退を決断した。そして28日、アルトリンゲン市は無血開城されケルンテン軍によって占領された。
 この後も第2師団によってアルトリンゲン市の奪還が試みられたが、同師団の主目標はカステンスピッツ山へ展開するミッテルケルンテン師団の撃破であったため、あまり戦力が割かれず小競り合い程度であった。一方、主目標であったカステンスピッツ山に対しては第2師団の主力と空軍の稼働戦力全てが投入された。この大規模攻撃はミッテルケルンテン師団に対してかなりの損害を与えたが、第2師団側も少なからぬ損害を受けたため、攻撃は中止された。
 ケルンテン軍は更に、第204師団の壊走によって空白となった戦線西方のアルトリンゲン方面からブリクシア師団を進撃させ、29日にはホットゲーベルを占領した。
 31日からは有史以来の天変地異に見舞われたため、両軍共に行動は完全に停止した。そのため第2次アルトリンゲン攻防戦はケルンテンによるアルトリンゲン、ホットゲーベル占領という状態で終了した。



7.1.2 南ゴートイェーク南東方面包囲戦(1937/12/15〜12/30)

 1937年12月に行われた南ゴートイェーク南東部での大包囲戦は、15日の第3師団によるギュルテンシュタイン師団に対する奇襲攻撃によって始まった。この奇襲攻撃によってギュルテンシュタイン師団はホッホベルク山方面に圧迫された。しかしこの圧迫は、ギュルテンシュタイン師団がグーゲンタール旅団を迂回部隊として敵戦線後方へと浸透させる予定のため、正面の戦力が少なくなっていたからであった。むしろ、戦線正面が囮として作用する事となった。そのためグーゲンタール旅団は予定通りウンターシェフォー山を大きく迂回して、敵戦線の背後へと侵出した。

 包囲された事に気付いた第3師団は19日、これに対応するため防衛線の延伸を計り、同時にギュルテンシュタイン師団ヴァイスバッハ旅団が展開する地域のなかで最も薄いホッホベルク山東部に対する襲撃を行った。このヴァイスバッハ旅団に対する攻撃によって、第3師団は一時的にギュルテンシュタイン師団を分断する事に成功した。しかし同日中にエステンド師団およびヴァイスバッハ旅団による反撃を受け、撃退されてしまった。また山岳機動を得意とするギュルテンシュタイン師団の進撃速度に対応する事ができず、防衛戦の延伸は不十分に終わった。独走状態のギュルテンシュタイン師団グーゲンタール旅団は19日にフォトラーへと達し、20日にはヴァルトリンケ航空基地を占領してグリューネラント空軍へ多大な損害を与えた。
 この後、21〜23日までは吹雪のため両軍とも行動できず、また24〜26日まではクリスマス停戦であったため、1週間ほど全く動きが見られなかった。

 停戦明けの27日、第3師団は側面より突出してきたエステンド師団への反撃を行い、戦線を一部で押し返した。しかしこの間にグーゲンタール旅団は更に侵出し、28日にはブリューネル=ロックシュタイン道の要衝であるツィグレーエンにまで達した。この事によって第3師団のみならず、グリューネラント軍の前線部隊全てが包囲されうる状況が発生した。
 29日になってケルンテン軍はこの大包囲環を完成させるべく、アルトリンゲン方面よりブリクシア師団を進出させた。グーゲンタール旅団もこれに呼応して更なる迂回を行っていた。

 グリューネラントには第1〜205の5個師団以外に大規模陸戦集団がもう一つ存在していた。ドイツ軍事顧問団に所属するパンテル軍団である。このパンテル軍団はグリューネラント陸軍の統制下には存在おらず、またドイツへの過度の依存は避けたいとする政治的判断もあったため、戦線後方にて「予備」の名目で据え置かれていた。しかし前線崩壊の危機に瀕したグリューネラント軍司令部は、遂に軍事顧問団を通じてパンテル軍団を投入し、グーゲンタール旅団を撃破した。なお、この戦闘でパンテル軍団は試作のリモコン戦車爆弾『山猫』を投入している。
 このパンテル軍団の投入により大包囲環はならずグリューネラントは虎口を脱する事ができた。

 この後、31日からは有史以来の天変地異に見舞われたため、両軍共に行動は完全に停止した。そのため南ゴートイェーク南東方面包囲戦はグーゲンタール旅団が撃退され包囲環を閉じる事ができなくなった所で、事実上終了した。



7.2 ヴァルデガルトおよびメーレンダム爆撃(1937/12/27)

 グリューネラント空軍第4戦闘航空団は停戦開けの12月27日に、ヴァルテガルト鉄橋及び駅施設に対する戦略爆撃を実施した。ケルンテン側の輸送路を断つことを目的として実施されたものであったが、主な戦力は地上部隊の支援へ投入される事となっていたため、極少数のみが投入された。そのため輸送路の寸断は敵わなかったものの、鉄橋および駅施設に対して爆弾を命中させ損害を与えた。
 また同日中には、ミッテルケルンテンの工業地帯へ水と電力を供給するメーレンダムへの爆撃も行われた。この爆撃はダムそのものではなく付随する発電施設に対して行われ、それなりの損害を与えた様だ。




参考資料

ネットゲーム95鋼鉄の虹 リアクション
担当マいスター:
あきつ大輔、有賀薫、井草薫、伊豆平成1号、伊豆平成その2、岩清水新一、上原聖、魚住隆喜、川鍋充祢、北神幸、金城首里、鋼鉄山猫乙型、瑚島悠、五代みん、椎冬利、シュタイナー志乃原、大門大、高尾登山、滝川沙夜、竹本柑太、田中桂、千剣弥玲、禾刀郷、早島勝嘉、早瀬陽、速瀬陽、鳩羽青藍、坂東いるか、一二三四郎、藤正まきば、星空めてお、幕張ハルミ、幕張晴己、希、水原静、水無神知宏、みゃあ、睦月たたら、やぶさめひかる、弓月つかさ、劉龍嶺
11月期:
061,090,100,110,120,130,140,183,204,208,220,230,240,250,260,551,634,655,659
12月期:
009,010,011,012,013,014,022,023,024,025,026,027,038,112,230,460,465,466,469,492,551,552,616
01月期:
003,008,009,010,011,013,021,022,023,024,025,026,027,055,062,067,113,132,382,383,384,430,430,434,481,482,483,484,551,552

ネットゲーム95「鋼鉄の虹」 スターティングマニュアル 遊演体 刊 1994

書籍:
『鋼鉄の虹 装甲戦闘猟兵の哀歌』 水無神知宏 著 富士見書房 刊 1994

雑誌:
『ネットゲームマガジンクリエイター』 通巻40〜51号 遊演体 刊
『ファンロード』 1994年9月号(通巻190号) ラポート 刊

同人誌:
『Wer ist Wer』 片橋正朗 編集・発行 1995
『特攻元帥』 漫画/六鹿文彦 原作/星空めてお 1997
『海軍記』 中欧軍事研究所 発行 2005
『フリーガーハンドブック』 中欧軍事研究所 発行 2007
『陸戦兵器便覧 総集編』 中欧軍事研究所 発行 2007
『装甲戦闘猟兵便覧 総集編』 上下巻 中欧軍事研究所 発行 2010
『ケルンテン・グリューネラント史』 中欧軍事研究所 発行 2010



戦史編纂室
1938年1〜3月期編