1938年1月期の期間は本来、1937年12月15日〜1938年1月14日であるが、1937年12月31日までについては既に『硅緑内戦史1937』にて取り扱っている。そのため、本書での1938年1月期は、1938年1月1日〜14日までを紹介させて頂く。
前年末に発生した有史以来最大の大嵐は7日まで南ゴートイェークに居座ったため、両軍共に全く行動が出来ないでいた。8日からは天候が回復したため、両軍は行動を再開した。各地で小競り合いが発生し、入り組んだ戦線が整理されていった。
ホットゲーベルを占領していたブリクシア師団は補給線を寸断される恐れが出たため1月11日に同地を放棄し後退していった。一方グリューネラント側も戦力立て直しのため、同じく1月11日にハーゲンデンシュタインを放棄して後退していった。
こうして、一時はケルンテンがグリューネラント全部隊を一挙に包囲殲滅するかに見えた第5次南ゴートイェーク会戦は、両軍痛みわけで終結した。
ブリューネル近郊にてエステンド師団と第205師団は対峙していたが、第205師団は他師団の動きに呼応して展開地域の拡大を意図していた。対するエステンド師団はこれを食い止めるために側面からの攻撃を意図し、さらには戦線復帰となったベルナウアー少佐とその搭乗機『Nr.9チュルヴィング』の投入を決定した。
このヴォルフ・ベルナウアー少佐とは、スペイン内戦の戦功で、1937年5月に『Nr.9チュルヴィング』を賜与された人物である。その後は、いわゆる名誉職として内戦勃発後もエステンド師団留守部隊に配属され、戦技研究などを行っていた。しかし、彼とその搭乗機の戦闘力を惜しむエステンド師団長によって、その職権で1938年1月より前線部隊へ呼び戻されていた。
しかしベルナウアー少佐は、直前にディンツブルクにて発生した公女襲撃事件で負傷していながら、それを隠して戦闘に参加していた。そのため、『チュルヴィング』は圧倒的な戦闘力を発揮していたものの、その動きは精彩を欠くものであった。
そしてその時が訪れた。少佐は敵3機からの集中攻撃を受ける友軍機を救出するため、『チュルヴィング』を敵機と友軍機の間にすべり込ませた。体調が万全であればこの直後、発砲される前に敵機を撃破したであろう。しかし負傷のためか行動が遅れ、『チュルヴィング』は敵3機からの集中砲火を受けてしまった。さらに不運な事に、ウービルトの装甲をもってすれば20mm砲弾程度であれば容易に耐えうるが、その弾片が僅かな隙間から入り込み、少佐を直撃してしまった。
グリューネラント側は動きの止まった『チュルヴィング』の捕獲を図ったが、これはエステンド師団によって阻止され、『チュルヴィング』は同師団によって回収された。同機の損傷は装甲に傷がついた程度の軽微なものであった。しかし少佐は回収時点で既に絶命していた。
切り札であるウービルトが攻撃された上に、プロパガンダの意味もあって英雄とされていたベルナウアー少佐が戦死した事は、ケルンテン全体の士気を大いに下げることとなった。
一方グリューネラント側は、恐怖とまで言われたウービルトに対して一矢報いることができた上に、敵方の英雄を戦死へと追い込むことが出来、その士気を大いに上げる事となった。
第3戦闘航空団では、第4戦闘航空団との共同で、爆撃機の生産工場であり、さらには新型戦闘機の開発が行われているシュペーア・ウント・モーデル工房の爆撃作戦が立案された。作戦立案時の投入予定戦力は、第3戦闘航空団からHe100G-0中隊2個、第4戦闘航空団からJu87B-1中隊2個であった。しかし、第4戦闘航空団は連日の戦闘による損耗のため、1個中隊のみが投入されることとなった。この戦爆連合はケルンテン軍に捕捉される事なく工房上空へ到達し、全機無事に投弾離脱している。
グリューネラント軍の記録では全機無事に帰還し、シュペーア&モーデル工房の工場施設に大きな損害を与えたとされている。
しかし、シュペーア&モーデル工房の記録ではこの爆撃によって生産・開発の遅延が発生していない。そのため、事実はグリューネラント側の戦果報告とは異なり、この爆撃ではほとんど損害を与える事が出来ていない様だ。
先月期末に硅緑双方が戦線の整理を行ったため、1938年2月期は仕切り直しの状態で開始する事となる。それではまず、硅緑双方の作戦方針について確認してみたい。
ケルンテン側の作戦方針であるが、高等軍事会議では現戦線維持が議決されていた。しかし、ケルンテン軍司令部の作戦方針はこれとは反対に、各師団とも正面に対峙するグリューネラント軍部隊を撃破し、一挙に南ゴートイェーク全域を奪還するというものであった。これは、グリューネラント軍は先月期の戦いでかなり消耗しており、現時点で戦線に展開している戦力を比べれば、ケルンテン軍は圧倒的に優勢であるという状況判断に基づいたもので、勢を頼りに全戦線にわたってグリューネラント軍に打撃を与え、徐々にその戦闘力を減殺していくと言う、守護天使作戦同様の着意に基づく作戦であった。
だが、ケルンテン軍も先月期に被った損害には無視しきれぬものがあった。特にパンテル軍団の伏撃を受けて崩壊寸前にまで追い込まれたギュルテンシュタイン師団は、まだ完全には損害を補充し切れていなかった。
また高等軍事会議では、先月期に停戦破りを行ったミッテルケルンテン師団長の更迭が動議された。ケルンテン公国軍では、建制部隊である師団の司令官は、公爵直々にこれを親補する事になっていたが、通常は高等軍事会議の意見に沿った人事を公爵が行っていた。しかし公爵は、この件に関して当面、師団長の首をすげ替えるつもりはないようであった。
グリューネラント臨時政府は福祉と治安維持の予算を抑えて軍事予算を増額したが、南ゴートイェークでの徴税が行われなかった。そのため、各師団は十分な補給を受けられない状況であった。また先月期に大損害を受けた第204師団の戦車部隊に対する補充を確保するため、クリステル国家主席がドイツへと赴き、総戦力の融通を要請する事となった。
グリューネラント軍司令部は、まず南ゴートイェークの完全確保、すなわち南北グロイスター山脈に浸透したケルンテン軍部隊の排除を作戦目標に置いた。
以上がグリューネラント軍の作戦方針であるが、補給の心配もさることながら、先月期被った損害の補充は十分では無かった。
南ゴートイェーク解放作戦の主力となる第2、第3両師団はいずれも意気は高いが、先月期に被った損害を完全に回復したとはいいがたい状態であった。さらに第204師団は重装備の大部分は喪失し、砲兵は各師団や後方からかき集めた急造部隊であった。同師団の主戦力たる戦車は、定数の1/3にも満たない状態であり、とても師団としての戦闘力を発揮できる状況ではなかった。しかし、グリューネラント軍の状況ではこの様な部隊であっても投入せねば、戦線を維持できない恐れがあった。
上記のように両軍は2月期の作戦を立案したが、戦局の展開は双方の意図とは大きく異なるものであった。
3度目の第3次グロイスター会戦は、ケルンテン側ブリューネルを、グリューネラント側がアルトリンゲンを目指して兵を進めた事で勃発した。
今次会戦でも戦域は大きく2箇所に分かれていたが、先月期にケルンテン側がアルトリンゲンを確保していたため、これまでの東西とは異なり南北に分かれる形となっていた。本書ではこのうち、北部戦域を第3次アルトリンゲン攻防戦、南部戦域を第2次ブリューネル攻防戦と定義している。
2月期前半には、アルトリンゲン方面にて同市を巡り6個師団が激突する攻防戦が行われた。
この攻防戦は、1月15日に、ロックシュタインを目指してアルトリンゲンを出立したブリクシア師団と、アルトリンゲン奪還を目指す第1師団とが正面から激突した事で勃発した。
同時期にブリクシア師団の北方では、ミッテルケルンテン師団が当初の方針通り小ヒルセンバウアー山一帯に陣地工事を施し、予想されるグリューネラントの攻撃に備えていた。しかし第2師団はミッテルケルンテン師団を迂回して、これを包み込むような形でケルンテン側戦線の後方に部隊を送り込んだ。
またブリクシア師団の南方では、ブラウフリューゲル師団がタクスグート山からランツェレ峠西部にわたる地域で、グリューネラント側の出方を窺っていた。
17日には第1師団は東から、第2師団は北から、同時にアルトリンゲンを目指して攻撃をかけたが、正面を防御するブリクシア師団を撃退できず、かなりの損害をうけて攻撃は頓座した。
その間、小ヒルセンバウアー山に展開していたミッテルケルンテン師団は、陣地を放棄して部隊を挙げての攻勢に転じ、手薄となった第2師団の防衛線を突破してニャウクタブルクを奪取した。しかし、これはアルトリンゲンの奪還を第1目標としていたグリューネラント側にしてみれば、同市方面のケルンテン側戦力が減る好機でもあった。
また中央部に展開していたブラウフリューゲル師団はアルトリンゲン方面へ向けて展開地域を移し、第1師団と対峙した。
19日には再び、第1師団と第2師団がアルトリンゲンへ向けて共同攻撃を敢行したが、ブリクシア師団によって撃退された。さらに第1師団は逆襲を受け、かなりの損害を被った。ミッテルケルンテン師団は第1師団、第2師団を分断する態勢のまま、第2師団へ攻撃を行った。
ブラウフリューゲル師団は正面のグリューネラント軍を手薄と見て、アルトリンゲン正面への重圧を取り除くためホットゲーベルに向けての攻撃を敢行したが、南グロイスターから転進した第204師団によって側背を突かれ、企図は未遂に終わった。
この後、天候の悪化もあってアルトリンゲン方面の戦線は24日まで膠着した状態となった。
25日には、ニャウクタブルクへ突出した形のミッテルケルンテン師団が、ブリクシア、ブラウフリューゲル両師団と協力して、第1師団を3方から締め上げる作戦に出た。しかし、ブラウフリューゲル師団主力部隊はホットゲーベル南西15キロの地点で第204師団に捕捉された。そのため同師団はギュルテンシュタイン管区航空隊による航空支援を受けたものの、予定した会敵地点に到達できなかった。
一方のグリューネラント軍は、街道沿いに突出していたミッテルケルンテン師団の分断を狙っていた。そして第1師団への攻撃に気をとられていたミッテルケルンテン師団の背後からその中央部へ向かって、第2師団が攻撃を行った。この結果、ミッテルケルンテン師団はニャウクタブルクとゲルランノイに分断された。
29日、ケルンテン軍はニャウクタブルクにて孤立したミッテルケルンテン師団の部隊と連絡をつけるべく、ミッテルケルンテン、ブラウフリューゲル、ブリクシアの3個師団とブラウフリューゲル、ギュルテンシュタイン管区航空隊の2個航空隊でもって正面の第1師団に対して総攻撃を敢行した。しかし第1師団は、ミッテルケルンテン師団に孤立部隊との合流の意図があると推察。これを逆に利用して第1戦闘航空団の支援を受けつつ攻撃を集中した結果、ミッテルケルンテン師団は壊走した。
こうして第1師団がケルンテン主力を引きつけている間に、第2師団はブリクシア師団展開地域を迂回して、アルトリンゲンヘ一隊を送り込んだ。ブリクシア師団は急遽これに対処すべく行動したが間に合わず、アルトリンゲンは第2師団によって占拠された。これにはケルンテンの無線交信を傍受してその動向を偵知するという戦術が大いに役だった。このため、ブリクシア師団は補給線に重大な脅威を覚えるに至った。またこうした一連の戦闘の結果、ギュルテンシュタイン管区航空隊は、その主要な作戦拠点をことごとくグリューネラント軍地上部隊に制圧され、整備中の航空機と地上施設を中心に莫大な損害を被り、以後の作戦行動は事実上不可能となってしまった。
しかもこの間に、第204師団はタクスグート山麓にてブラウフリューゲル師団守備隊を打ち破り、戦線は一気に州境にまで移動した。
1月30日、ここに至ってベンツェンベルグ元帥は、予備として後方に残置されていたウービルト隊の投入を、高等軍事会議に要請した。
2月2日には、ブリクシア師団が補給線を確保するために全部隊をハーゲンデンシュタインからペテルスコプフ山へと移動させつつ、第2師団が守るアルトリンゲンに対し執拗な攻撃を行った。戦闘は一時市街戦の様相を呈したが、第1戦闘航空団の支援を受けた第2師団はブリクシア師団に深刻な打撃を加えて撃退し、3日の夕刻までに同市は完全に第2師団の掌握する事となった。深刻な損害を受けたブリクシア師団はクランツ峠まで後退する事となった。
第1師団は残ったブリクシア、ブラウフリューゲル両師団への追撃を狙って、タスクグート山方面へ進撃したが、両師団を捕捉するには至らなかった。
中央部ではブラウフリューゲル師団がカステンスピッツ山方面からミッテルケルンテン州内への浸透を図る第204師団の突撃を迎え撃ち、相当の損害を与えてこれを撃退した。
こうして2月3日にアルトリンゲン攻防戦は、グリューネラント側の勝利で終了したかに見えた。しかし、この勝利は以降展開される大消耗戦の幕開けでしかなかった。
ケルンテンの各航空部隊は、各地で仮設飛行場を喪失し、十分な航空戦力を発揮できない状況であった。また前線を構成する陸上部隊は、エステンド、ブリクシア、ブラウフリューゲルの3個師団のみであった。グリューネラント軍は、5個師団が前線に展開し、各戦闘航空団の充足率は高かった。そこでグリューネラント軍は、天候の回復した2月4日に、航空優勢を有効に活かす好機と見て、北部戦域で一大攻勢を展開した。
しかしケルンテン軍は劣勢の状況でもアルトリンゲンの奪還を諦めておらず、損耗したブリクシア師団を後退させて、ブラウフリューゲル師団をもってアルトリンゲンを奪還すべく両師団を前進させた。
この結果、北部戦域では激しい戦いが繰り広げられる事となった。
ブラウフリューゲル師団はアルトリンゲンへ向けて北上したが、途中タクスグート山南西にて第1師団と第1戦闘航空団に捕捉され戦闘が発生した。この戦闘によってブラウフリューゲル師団が受けた損害は少なかったが、その侵攻は完全に足止めされてしまった。
一方のグリューネラント軍は第2師団と第204師団をもって攻勢を行った。第2師団はブリクシア師団の後退によって発生した空白地を一気に駆け抜けクランツ峠にまで達した。第204師団もクリフテレール山麓において後退していたブリクシア師団を捕捉し、これに突撃を行う事で壊走へと追い込んだ。
この様に、北部ではグリューネラントが破竹の勢いで進撃した。
だが、このグリューネラント軍の勢いにブレーキがかかる事態が発生した。2月6日から天候が再び悪化し、航空支援が期待出来なくなったのだ。
昨日までとはうって変わって小雪がちらつく2月6日、ブラウフリューゲル師団は再度アルトリンゲンをめざし、攻撃を敢行した。第1師団はブラウフリューゲル師団を押しとどめるため、同師団の側面を攻撃した。しかしブラウフリューゲル師団はこれを受け止めた。更にその上でブラウフリューゲル師団はアルトリンゲン正面のクランツ峠に陣取る第2師団へ攻撃を行い、これを壊走させた。この戦闘でアルトリンゲン正面を守るグリューネラントの戦力は皆無となった。しかし、この地上戦の結果、カステンスピッツ山麓のブラウフリューゲル管区航空隊根拠地が第1師団に占領され、整備中の多くの航空機と地上施設が放棄された。
この一連の戦闘は、8日から11日にかけて吹雪となったため自然休戦となったが、両軍ともかろうじて戦線を維持している状況であった。
そして吹雪の収まった12日、ブラウフリューゲル師団が空白となっていたアルトリンゲンへ進行し、同市はケルンテンの支配下へと戻った。
2月期前半には、ブリューネル方面およびその南方にて、同市を奪回せんとするケルンテン軍と、ミッテルケルンテン州内への侵攻を狙うグリューネラント軍との間で、激しい戦闘が行われた。
1月15日には南グロイスター山地で、伸びきったギュルテンシュタイン師団に対して、第3師団と第204師団による攻撃が行われた。ギュルテンシュタイン師団はエッゲル山麓から迫る第3師団左縦隊の攻撃を撃退したが、ヴァルトリンケ方向から指向された第3師団右縦隊の攻撃に手を焼いている間に、突如突進してきた第204師団とそれを支援する第3戦闘航空団の攻撃によって主防衛線は破られ、崩壊寸前という状態にまで追い込まれた。ギュルテンシュタイン師団は補充したばかりの戦力の大半失った上、ヴァルトリンケおよびフォトラーを奪回されてしまった。これによって、ギュルテンシュタイン管区航空隊はいきなり南部戦域における作戦根拠地を全て失うという危機的状況へと追い込まれた。なお、ヴァルトリンケへは戦力回復中の第1戦闘航空団が展開することとなった。
ブリューネル方面では、エステンド師団が首都管区航空隊の支援を受けつつ、既定の方針通りブリューネルを回り込もうと運動したが、ブリューネル近郊に展開する第205師団の防衛線に引っかかり撃退された。
またケルンテン軍総司令官は突如、国際旅団に対して、当初の方針を転換して、ブリューネルの側面を突くよう要請した。そのため同旅団は州境に沿うように、南東へ移動した。
1月17日、ブリューネル方面では、エステンド師団がグリューネラント軍戦力を同市正面に吸引する目的を持って、街道沿いに攻撃を仕掛けた。作戦は成功し、逆襲の機会を狙っていた第205師団はかなりの損害を受けて後退したため、エステンド師団はブリューネル市郊外にまで兵を進めた。また国際旅団もブリューネルへ向けて突進し、第205師団へかなりの損害を与えて、第1次防御線を突破した。
一方、南グロイスター山地において、ギュルテンシュタイン師団はグリューネラント陣中に突出した形となる現展開地点は不利と判断し、全部隊を一挙に州境まで後退させた。第3師団は警戒しつつ南グロイスターの山の中を前進したが、ギュルテンシュタイン師団を捕らえることはできなかった。しかしここに至って、南戦域におけるグリューネラント軍の企図(ケルンテン軍の駆逐)は早くも達成された。
1月19日、ブリューネル方面ではエステンド師団が引き続きブリューネルを包囲すべく作戦を続行する予定を立てていたのだが、南方戦区において壊滅的打撃を被って撤収中のギュルテンシュタイン師団を援護すべく、この方面に1支隊を展開した。この支隊は、ライテル山周辺にてギュルテンシュタイン師団への追撃を狙って州境を越えた第3師団と接触し、何とか進撃を押しとどめる事に成功した。
一方ブリューネル近郊でも、同市を防衛する第205師団に対して、エステンド師団と国際旅団による攻撃が行われた。しかし支隊を州境方面へ抽出していたエステンド師団は戦力不足のため撃退された。また国際旅団は実験兵器を前面に繰り出したが、全く役にたたなかった。そして国際旅団は大損害を受け退却した。
エステンド師団の支援もあって追撃を振り切ったギュルテンシュタイン師団は、ヂェングリーゲル山一帯に布陣し戦力の補充に努めた。
1月23日、ブリューネル市内にて、ケルンテンの潜入員に煽動された市民による武装蜂起が発生した。ケルンテン軍はこれを同市奪回の好機と見て、エステンド師団と国際旅団の共同で3正面から同市に対する総攻撃を敢行した。一方グリューネラント側はケルンテンの出方を伺いつつ、ブリューネルに迫った国際旅団撃滅の目的を持って第204師団、第205師団による共同攻撃を敢行した。
これにより国際旅団は行き足を止められたが、2個機械化師団の攻撃を凌ぎきり、逆に防衛戦力の大半を拘束する事となった。しかしエステンド師団はブリューネルへ突入するため第205師団の防衛線を突き崩そうと試みたが、慣れない新戦術の失敗なども重なって、ブリューネルへ到達できなかった。
グリューネラント側の損害であるが、第204師団の損害は軽微であったが、第205師団は補給状態が芳しくなく、肝心なところで弾薬や燃料の不足を来たしたため、少なからぬ損害を被った。ケルンテン軍がブリューネルにまで到達出来なかったため、武装蜂起は歩兵にイェーガー数機を配属した部隊をもって鎮圧された。
この他にブラウフリューゲル師団がザンクト・ニコラウス山麓において第204師団に相当の損害を与えたが、被った損害も大きかったため一度兵を引いた。
南東部にてミッテルケルンテン州内へ侵攻していた第3師団も、被った打撃の深刻さに鑑み州境にまで後退した。ギュルテンシュタイン師団は州境に展開して、後退した第3師団を牽制した。
1月25日、ブリューネル方面ではエステンド師団が首都管区隊の支援を受けて再びブリューネル攻撃を続行した。しかし第205師団は第1戦闘航空団の支援も得て、大打撃を与えてこれを撃退した。
ブリューネル南部では、ミッテルケルンテン州への突入を図る第3師団と、これを阻止せんとするギュルテンシュタイン師団とが対峙していた。そして第3師団は天候回復を好機と捕らえ、第3戦闘航空団の支援の下、前進攻撃を開始した。ケルンテン側はさらに国際旅団を増援として送り込み、両軍はホッホベルク山麓にて激突した。この空域ではグリューネラント側が航空優勢を得ており、ギュルテンシュタイン師団に対して猛烈な爆撃が行われた。そのためギュルテンシュタイン師団は戦線を維持できず、再び壊走してしまった。さらに、国際旅団も戦線にとどまってはいたが壊滅的な損害を受けていた。
しかし第3師団も国際旅団を支援していた首都管区航空隊の分遣隊から爆撃を受け、少なからぬ損害を受けていた。だがこの戦いによって、ケルンテン軍にはブリューネル南方に20キロに及ぶ大空隙部が発生した。
1月29日、エステンド師団が、ギュルテンシュタイン師団壊滅にともなって発生した広大な間隙部を閉息すべく、ブリューネル攻略を中断し、第3師団と戦った。しかし、またしても慣れない新戦術の調整に失敗し、さらにグリューネラント空軍の爆撃に晒され、甚大な被害を被ってしまった。一方、第3戦闘航空団の支援を受けた第3師団の勢いは留まるところを知らずチェングリーゲル山一帯を制圧した。しかし、同師団のこれまでに被った損害は甚大なものがあった。
国際旅団はこのまま戦い続けるのは危険なため、少し戦力の立て直しを図りシュマルツバッハまで後退した。
ここに至ってベンツェンベルグ元帥は、予備として後方に残置されていたウービルト隊の投入を、高等軍事会議へ要請した。
2月2日、第3師団が一挙にヴァルテガルトを奪取すべく、鉱山街道に進出して南下を続けようと前進していたが、ケルンテン側はこれを阻止するため、3機のウービルト(Nr.9チュルヴィング、Nr.21アルヌルフ、Nr.23グングニール)を投入した。ウービルトはその絶大な戦闘力をもって第3師団を壊走させた。しかし、グリューネラント側のウービルト恐怖症も治まったのか第3師団も果敢に反撃を行い、『Nr.23グングニール』を大破へと追い込んだ。なお『Nr.23グングニール』は戦闘後に近衛騎士団によって回収され、修理のため後送された。
2月4日、エステンド師団がウービルト隊とともに首都管区隊の支援を受けながらクノーグル山麓において第205師団と交戦した。エステンド師団は戦線を数キロ推進することはできたが、ウービルト『Nr.9チュルヴィング』がまたしてもコックピットに直撃を受け、機体損傷がほとんど無いままパイロットが戦死した。なお同機はエステンド師団によって回収されている。また国際旅団は、グリューネラント軍のいないブリューネル南東の州境に展開し、様子を窺った。
2月6日、ヴァルトリンケへ向けて突進した国際旅団が、側面から突如出現した第204師団の突撃を受けた。しかし同旅団がイェーガー隊を中心に反撃を加えたところ、第204師団は逆に壊走してしまった。このためブリューネル南東部では、グリューネラント側の戦力が皆無となってしまった。
またエステンド師団は、3個師団壊滅という非常事態のため、クラッツテルドゥ山からライテル山にいたる広い地域に展開しなければならなくなったが、それでもブリューネル奪回攻撃は続行された。再びウービルトの支援の下、ブリューネル南東10キロの地点で第205師団と交戦したが、陣地帯を突き崩すにはいたらなかった。
この後、8日から11日にかけて吹雪となったため自然休戦となったが、両軍ともかろうじて戦線を維持している状況であった。
吹雪の収まった2月12日、ブリューネル近郊では、エステンド師団と第205師団とで1ヶ月間に渡る潰し合いが演じられていたが、両軍ともこれに決着をつけるべく決戦を意図し、共に一斉攻勢に出た。ケルンテンはエステンド師団を中心に近衛騎士団のウービルトの増援、空からは首都管区航空隊の全面的支援を仰いで、ブリューネルへの進撃を開始した。一方グリューネラント軍は第205師団を中心に、第1師団と空軍全航空団の支援を受けて、一斉攻撃を行った。
いかにウービルトがあると言え、2個師団による攻撃と、空軍の全戦力に匹敵する航空攻撃を受けたエステンド師団は耐え切れず2月14日に壊走してしまった。更にウービルト『Nr.21アルヌルフ』が第1師団に奪われた上に、首都管区航空隊も展開していた主要飛行場を全て占領され地上にあった機体や設備の大半を失う大損害を受けた。この決戦はグリューネラント側の勝利に終わった。
またグリューネラント側は3個師団崩壊という非常事態を迎えて、再びパンテル軍団への出撃を要請する事となった。パンテル軍団は戦線南端を進撃していた国際旅団を襲撃し、これを壊走させた。
この事によってケルンテン側は南部戦域に大穴が開いたため、再編成が完了したばかりのギュルテンシュタイン師団を急遽派遣した。同師団は急行軍で移動したものの、第205師団は既に州境を越えており、ミッテルケルンテン州内のクラッツテルドゥ山からオーストリア国境にかけて防衛線を張るだけで精一杯であった。
こうして双方共に切り札を出し合う状況となったブリューネル攻防戦は、ウービルトを1機撃退、1機大破、1機鹵獲と言う大戦果をあげたグリューネラント軍の勝利で終わった。
当月期の航空活動は、天候不順のため両軍とも活発ではなかった。しかし、2月4日のグリューネラント軍攻勢に見られるように、天候回復時には積極的な地上支援を行っている。
また航空部隊個別作戦としては、首都管区航空隊による幹線道路爆撃、ブラウフリューゲル管区航空隊による第204師団への夜間爆撃、第3・4戦闘航空団共同による人口雪崩攻撃などが行われたが、いずれも然したる戦果をあげることができなかった。
しかし、航空部隊に最大の影響を与えたものは、両軍の航空作戦ではなく地上戦闘であった。ケルンテン陸軍航空隊は、1月26日にギュルテンシュタイン管区航空隊が、2月6日にブラウフリューゲル管区航空隊が、2月12日に首都管区航空隊が前進基地をグリューネラント陸軍に占領されたため、全ての航空隊がその装備・施設の大半を失う結果となった。そのため、もとより劣勢であったケルンテン航空戦力は壊滅状態となり、翌月以降の戦力発揮に大きな不安を残すこととなった。
昨年末よりロムラン市内で発生した暴動は、州警察独力の解決がもはや不可能となり、ブリクシア州知事による軍の治安維持出動が要請された。これを受けて公国高等軍事会議は、グラネッグ基地に駐留しているブリクシア師団予備部隊に対し、治安維持のための特別出動指示を行った。
これを受けてブリクシア師団は緊急召集を行い、1月15日よりロムラン市内での治安維持活動を開始した。これによってロムラン市内での暴動が治まり治安が回復されたかに見えた。
だが2月14日、突然にまたしても暴動が発生した。前回発生した暴動は犯罪組織とそれに触発された群集心理によるものだったが、今回は犯罪組織の関わりも無く暴徒の大半は一般市民であった。しかも、暴徒は特に略奪などを行わなかったが、兵士に対する明確な敵意が見て取れた。対峙する治安維持部隊は向けられる敵意に脅えつつも、指揮官からの命令により暴徒を刺激しないよう様子見を行っていた。
事態が急変した。一人の女性兵士が命令を無視して、暴徒へ向かって駆けだしたのだ。暴徒の敵意はその女性兵士へ集中し、数人が集団から離れ、武器を手に女性兵士へと向かった。そして女性兵士が襲われようとしたその瞬間、銃声が響き襲いかかる暴徒が倒れ込んだ。そして、女性兵士を追ってきた男性兵士が、彼女を抱きかかえて脇道へと押し込んだ。
だが、恐怖に押し潰されかかった兵士には、それで十分だった。兵士達は発砲命令がでたものと思いこみ、暴徒へ向かって各々発砲を行った。発砲停止命令の行き届いた数分後、通りは累々と横たわる死体で埋め尽くされた。
この事件は、『聖ヴァレンタイン・デーの虐殺』という見出しで、死体で埋め尽くされた写真と共に新聞の一面を飾った。
しかし、報道当時は何故か市民の間で軍への批判が起こらず、むしろ暴動を早期に終結させた英雄として讃えられた。そのため軍内部でもこの事件に対する処分は行われなかった。そして、この事件を堺にロムランでの暴動は鎮静化した。
だがこれは、後に起こるブリクシア独立運動の第一歩であった事を、当時の人間は誰も気付いていなかった。
グリューネラント軍の北部戦域での一斉攻勢は、状況を読み誤った事によって、アルトリンゲンを失った上で前線に展開可能な師団が第1、第205の2個師団のみに減少するという危機的な状況に陥り、失敗に終わった。そのため、南部では当月期の目標を達成することが出来たが、北部では目標を達成することが出来なかった。
しかし、ケルンテン側も同じく前線へ展開する師団がギュルテンシュタイン、ブリクシアの2師団のみに減少していた。その上『Nr.23グングニール』が大破し、さらには『Nr.21アルヌルフ』を敵に鹵獲されるという致命的な損害を被っていた。また全ての航空隊が前進基地を失い、装備の大半を失うという壊滅的な打撃を受けていた。そのため、北部では(結果的に)現状維持となり、南部では戦線がミッテルケルンテン州内へ後退したため、当月期の目標を達成できない結果となった。
以上から2月期を総括すると、激しい撃滅戦を繰り返したことで両軍共に大きく損耗した上に作戦目標を達成でいなかったが、ウービルト2機と大量の航空機を失ったケルンテンの損害が大きいと言えよう。
終了時の状況
先月期に硅緑双方が戦力を大幅に損耗したため、1938年3月期は戦線が不安定な状態で開始する事となる。それではまず、硅緑双方の作戦方針について確認してみたい。
ケルンテン政府による予算配分は福祉、治安、王室に大幅な減額を実施して、軍事へ振り向けた。またその中でも、新兵器開発は航空関係を中心に15億マルクが投じられた。高等軍事会議では作戦方針に対する要望は意見されなかったが、総司令官カール・フリードリヒ・フォン・ベンツェンベルグ元帥は先月の大敗とウービルト運用失敗の責を取るための進退伺いを提出した。しかし、この進退伺いは公爵によって退けられ、元帥は陸軍総司令を続ける事となった。
ケルンテン陸軍総司令部の作戦方針は、これ以上のグリューネラント軍侵攻を阻止するというものであった。しかし、当面使える戦力に不安があるため、積極的な攻勢を避け、アルトリンゲンからヂェングリーゲルにいたる現戦線の死守を基本方針とした。一方、特に首都ラヴァンタール防衛の必要から、フューズ・シュヴァンツ〜ザンクト・レオンハルト〜ブラッテンケネットにいたる第2防衛線の構築を急いだ。また各航空隊は先月期の大損害から回復していないため、展開空域を絞り込む事となった。
グリューネラント臨時政府は、先月期に物資が不足した反省から首相の肝いりで、福祉と治安維持の予算を削減して軍事費の増額を図った。一方、戦時長官は新兵器の開発に16億マルクを投じ、主に航空戦力の開発に力を注いだ。
グリューネラント軍司令部は、戦勝以外にグリューネラント共和国の存亡は無いとの意識から、前線各部隊の疲弊は覚悟の上で、攻撃続行を決意した。そこで、まずミッテルケルンテンの州都ヴァルテガルトを、次いで可能ならばラヴァンタールをも攻略すると言う、大胆な攻撃作戦を立案した。
上記の様に、1938年3月期はケルンテン側が守勢、グリューネラント側が攻勢という方針で開始された。先月期来、多くの師団が壊走・再編成を行ったため、双方とも前線部隊の層は非常に薄いものであった。しかし、グリューネラント軍の攻勢の前にケルンテン軍は耐え切れず戦線を後退させ、遂には戦線が完全にミッテルケルンテン州内へと移行する事となった。
先月の大打撃から回復しきっていないケルンテン軍としては、再編中の部隊が復帰するまで時間を稼ぐため、北からブラウフリューゲル師団、ミッテルケルンテン師団、ギュルテンシュタイン師団を並べ、更に全航空戦力も投入し、徹底した防御戦を展開することになった。一方のグリューネラント軍は、前線での戦闘に耐え得る3個師団(1、3、205)の全てを使って、中南部戦域で攻撃を敢行した。
2月15日、クリステル国家主席の督戦を受けて意気の上がる第1師団は、アルトリンゲン正面に守備隊を残しつつ、ブラウフリューゲル師団の布陣するグリフテレール山麓へ侵攻した。これに対し、ブラウフリューゲル師団はギュルテンシュタイン管区航空隊の援護を受けて激しく抵抗し、第1師団の侵攻を阻止した。しかし、ブラウフリューゲル師団も少なからぬ損害を受けた。第1戦闘航空団も第1師団を助けてブラウフリューゲル師団を襲撃したが、さしたる戦果は挙がらなかった。
第3師団は当初、アルトリンゲン方面への展開を計画していたが、軍の要請を容れ、ランツェレ峠を経て鉱山街道を突進した。しかし正面のミッテルケルンテン師団の強固な守りと、それ以上に強烈なブラウフリューゲル管区航空隊の空襲を凌ぎきれなかった第3師団は、大損害を受け壊走した。第3戦闘航空団は、ミッテルケルンテン師団を襲撃して、これに若干のダメージを与えたが、第3師団を助けるには至らなかった。また第2戦闘航空団は壊走する第3師団を援護して、ミッテルケルンテン師団に若干のダメージを与えた。
第205師団はブリューネルを出立しミッテルケルンテン州へと進撃を開始したが、早々にギュルテンシュタイン師団と首都管区航空隊の強襲を受けて停滞した。特に首都管区航空隊の空襲は、師団保有イェーガーの過半数が戦闘不能になる大損害であった。第4戦闘航空団は、ギュルテンシュタイン師団に相当な損害を与えて、第205師団を援護した。
2月17日、ケルンテンは第3師団が壊走した今が好機と見て全戦線での反攻を意図、ブラウフリューゲル、ミッテルケルンテン、ギュルテンシュタインの全師団を前進させた。
第1師団は、第3師団が壊走したことで開いた穴を塞ぐため、攻撃軸をさらに南方に移し、クラッツテルドゥ山を迂回して、ミッテルケルンテン師団を奇襲した。第3戦闘航空団と第1戦闘航空団の一部もミッテルケルンテン師団を空襲した。これにより第1師団は重大な損害を被りながらもミッテルケルンテン師団を壊走に追い込んだ。しかし、ブラウフリューゲル師団は手薄となったゲルランノイとタクスグート山麓において第1師団の守備部隊を襲撃し、これを撤退させた。
ギュルテンシュタイン師団は、空襲によって疲弊していた第205師団をライテル山麓において襲撃し、18日にこれを壊走せしめた。
この結果、グリューネラント軍で前線に展開している師団は、第1師団ただ一つとなった。
2月19日、ケルンテン軍は、グリューネラントの前線戦力を残り1個師団にまで追い込んだものの、自軍の損耗も大きく、また姿を見せないパンテル軍団を警戒して、進撃を停止させた。
第1師団はケルンテンのこの消極策を見抜き、南部で積極的な反撃に出た。この反撃には第1、3、4戦闘航空団も投入され、ウンターシェフォー山麓で接触したギュルテンシュタイン師団を壊走させた。
また第1師団では、戦線後方に撹乱部隊を送り込もうという特殊作戦も実行されたが、これはケルンテン側に察知され阻止された。
ブリクシア師団はギュルテンシュタイン師団の穴を埋めるべく、南東戦区に急進したが、師団が移動した直後、メーレンダムの決壊によって、ディンツブルクを大洪水が襲った。
2月21日、グリューネラント軍はいたずらに過広な正面に展開しても損害を増やす一方だと悟り、第1師団を結集して、戦線中央を突破すべく攻撃を命じた。一方のケルンテン軍は、戦線に復帰したブリクシア師団とブラウフリューゲル師団をホットゲーベルに対して侵攻させた。このため、両軍はタクスグート山麓とランツェレ峠で激突する事となった。しかしグリューネラント側は戦力で劣る上に、頼みの空軍も悪天候で出撃できなかったため、大損害を受けて後退した。この結果、ブリクシア師団はブリューネルを奪取し、ブラウフリューゲル師団はさらにホットゲーベルを奪取した。
2月23日、ケルンテン側は、もうまもなくエステンド師団と国際旅団が戦線に復帰する状況であった。そこでケルンテン軍は戦力が整ったところで決戦を行おうと意図したため、一時的に戦線の縮小を行う事とした。そのためブリクシア師団は、ブリューネルを退きミッテルケルンテン州内へ移動した。ブラウフリューゲル師団も、ホットゲーベルを放棄し、アルトリンゲンに戦力を集中した。
グリューネラント側は、空白となったホットゲーベルとブリューネルを第1師団によって再占領した。
また地上で戦闘が行われなかったため、両軍の航空戦力は共に制空戦闘を行ったが、大規模な空戦には発展しなかった。
2月25日、ケルンテン軍は第1師団を包囲すべく、ブラウフリューゲル師団とブリクシア師団は協調して攻撃前進を開始した。しかしグリューネラント側では第204師団が戦線に復帰しており、北上中のブリクシア師団を迎え撃った。ブリクシア師団は予想していなかった敵の出現に対応できず、大損害を被った。
また、第1師団は進撃してきたブラウフリューゲル師団をアルトリンゲンに押し返すと同時に、戦線中央を突破して、ミッテルケルンテン州内へ進出した。
2月27日、壊滅寸前のブラウフリューゲル師団はアルトリンゲンを放棄して、戦線後方で回復を図ることとなった。空白となったアルトリンゲンは、第1師団が無血占領した。
ブラウフリューゲル師団がミッテルケルンテン州にまで後退したことで、戦線が完全にミッテルケルンテン州内へ移行した。そのため27日をもって、「グロイスター」会戦は終結した。
2月27日、ケルンテン軍が南ゴートイェーク州内から後退したことで、戦線は遂にミッテルケルンテン州内へ完全に移動した。ケルンテン軍は再編成の完了したエステンド師団と国際旅団を早速、戦線へ投入し、北からエステンド師団、国際旅団、ブリクシア師団と並べて防衛線を構築した。なお、ブラウフリューゲル師団はエステンド師団の後方へ後退した。
2月28日、グリューネラント軍は第204師団をもって一気に鉱山街道を南下し、ヴァルテガルトをめざした。が、鉱山街道には戦線に復帰した国際旅団が展開していた。両者はメルゼ川橋梁付近で激突し『第1次メルゼ河畔会戦』が勃発した。
なお、第2師団はケルンテン軍と遭遇することも無くミッテルケルンテン州内ヂェングリーゲル山麓にまで進出した。
3月1日、メルゼ川橋梁付近での戦いに決着をつけるべく、両軍とも増援を行った。その結果、3月2日に第204師団は壊走し、ケルンテン軍はヴァルテガルト侵攻を阻止することに成功した。
同じく3月1日には、ヂェングリーゲル山一帯で、ザンクト・レオンハルトを目指して前進する第2師団と、これを阻止せんとする『Nr.59グングニール』擁するブリクシア師団とで戦闘が発生した。両師団とも大きな損害は受けなかったが、第2師団の進撃は停滞することとなった。
3月3日、ケルンテン軍は各師団の戦力が回復してきたため、5日から一斉攻勢を行うための調整が行われた。その調整のため、ブリクシア師団はセンベルク山麓を通過して敵戦線の背後に出ようと運動したが、第2師団と重砲の集中射撃を受けて、大損害を被ってしまった。そのため、同師団はエステンド州内にまで後退する事となった。なおこの戦闘では『Nr.59グングニール』が投入されているが、特筆すべき戦果は無かった。
一方グリューネラント側は、第1師団に田園街道を南下させた。田園街道上にはエステンド師団が展開していたが、ケルンテン側は一斉攻勢前の損耗を避けるため、エステンド師団を後退させた。
3月5日、ケルンテン軍は第1師団にとどめをさすべく西からエステンド、ミッテルケルンテン、ブラウフリューゲル、国際の各部隊を並列して、50キロのわたる正面で一斉攻撃を敢行した。
しかしこの状況でも第1師団はヴァルテガルトへの進撃を諦めず、その進撃路上のシュマルツバッハ方面に展開する国際旅団へ攻撃を行った。国際旅団はこの攻撃を堪え切れず後退していった。一方ケルンテン軍はミッテルケルンテン師団とブラウフリューゲル師団が密接な連係を取ってクラネック北方より突撃を行った。第1師団はこの攻撃で大きな損害を受けたため、州境付近まで後退した。なおエステンド師団は戦線北端をホファー村に向けて突進したが、重砲の集中射などを受けて、戦果は芳しくなかった。この戦闘によってケルンテン側戦線は一挙に中央部を押し上げる事となった。
第2師団は後退するブリクシア師団を追ってザンクト・レオンハルトにまで進出した。しかし、ブリクシア師団は捕捉されること無く後退を完了し、戦力の回復を図るべく、ドラッヘンロッホ後背地に展開した。
この他に戦線後方では、ギュルテンシュタイン師団がヴァルテガルトへ移動し、第205師団は再編未了であったが戦線を埋めるためカステンスピッツ山一帯に布陣した。
3月6日、グリューネラント陸軍総司令部は、ケルンテン軍の一斉攻勢による戦況不利を打開するため、パンテル軍団預かりとなっている空挺部隊の出撃準備を要請した。
3月7、8両日は吹雪となり、両軍とも活動できなかった。
3月9日、ケルンテン軍は疲弊したエステンド師団を後退させ、州境付近に展開してきた第205師団を警戒するためにミッテルケルンテン師団を北方の警戒に当たらせた。その結果、第1師団への攻撃はブラウフリューゲル師団のみで行われることとなった。またザンクト・レオンハルトへ侵入した第2師団への対応だが、これを追っていたブリクシア師団は警戒のため現在位置にて停止させ、第2師団への攻撃は後置していたギュルテンシュタイン師団をもって行うこととした。
一方のグリューネラント軍は、第1師団、第2師団と再編成を完了したばかりの第3師団をもって、一挙にヴァルテガルト攻略を目指す事とした。また第205師団はケルンテン軍の南ゴートイェーク州侵入を警戒して、北西戦域一帯に展開した。
ギュルテンシュタイン師団は第2師団を迎え撃つべくシルトカルト鉱山周辺に進出し、戦矛を交えた。上空では首都管区航空隊がギュルテンシュタイン師団を、第2戦闘航空団が第2師団を支援していたが、大規模な制空戦闘は発生せず、もっぱら両者とも敵師団への空襲に勤めていた。
しかし、第2師団はギュルテンシュタイン師団と激しい戦いを繰り広げながらも、兵力の一部をもってドラッヘンロッホ西15キロの地点で州境を越え、エステンド州内に兵力を送り込んだ。ついにグリューネラント軍が、公爵のお膝元であるエステンド州にまで侵攻したのだ。1937年10月以来の危機的状況であると認識した陸軍総司令部は、近衛騎士団の戦線投入を高等軍事会議とゴットハルト2世公に上奏した。
第3師団は同日中に前線へと投入された。ケルンテン軍はこれに対して、一時後退していた国際旅団とブラウフリューゲル管区航空隊を差し向けた。両者はクプフェルタール村付近で激突したが、再編されたばかりの第3師団は、国際旅団の攻撃とブラウフリューゲル管区航空隊の爆撃を凌ぎきれず、3月10日に壊走した。第4戦闘航空団は第3師団を支援し国際旅団を空襲したが、さしたる戦果は挙がらなかった。
同じく3月10日、第1師団がブラウフリューゲル師団に対し『Nr.21アルヌルフ』を投入した。既に第1戦闘航空団の空襲によって大打撃を受けていたブラウフリューゲル師団は壊走へと追い込まれた。ギュルテンシュタイン管区航空隊も第1師団への空襲を行ったが、ブラウフリューゲル師団を助けるには至らなかった。
こうした中、戦史に残る作戦がヴァルテガルト北西5キロの地点に敢行された。空挺人形団による落下傘降下である。同部隊は、主力の来着までナハトブラウ川にかかる橋を確保すべく、ヴァルテガルトをめざした。この降下は、第3戦闘航空団とパンテル軍団の全面協力の下に行われた。しかし、グリューネラント軍は空挺部隊に続く地上部隊の投入を行わなかった。そのため翌11日、敵中孤立した空挺人形団は全滅してしまった。
グリューネラント軍は貴重な空挺部隊を捨石として使用したのだ。それほどの損害を出してまでグリューネラント陸軍総司令部が成し遂げたかった事、それはミッテルケルンテン−南ゴートイェーク州境付近に展開するミッテルケルンテン師団の撃滅であった。3月11日にグリューネラント陸軍総司令部は第1師団と第205師団をヴァルテガルトへ向かわせず、ミッテルケルンテン師団を包囲撃滅しようと、両師団をこの方面へ移動させた。しかしケルンテン側は戦線縮小のためミッテルケルンテン師団を後退させていたため、この包囲作戦は空振りに終わった。
ドイツ軍事顧問団は、このような空挺人形団を見捨てるような作戦方針に強く抗議を行った。
また同じく3月11日、第2師団はエステンド州内部へ更なる進撃を意図したが、ザンクト・レオンハルトにおいて首都管区航空隊の支援を受けたギュルテンシュタイン師団から奇襲を受けて壊走してしまった。しかしギュルテンシュタイン師団も第2戦闘航空団の猛爆に晒され、壊滅寸前にまで追い込まれてしまった。
3月13日、グリューネラント軍は遅ればせながらパンテル軍団の前線投入をもって、ヴァルテガルトをめざした。しかしケルンテン軍司令部はヴァルテガルド来寇を予測しており、ギュルテンシュタイン師団を最終防衛線として首都ラヴァンタール前面に展開しつつ近衛騎士団をもってパンテル軍団を迎え撃った。またケルンテン軍はエステンド、ブリクシア、国際の各部隊と全航空隊を集中して、第1師団を攻撃した。更にそこへ、クリステル国家主席暗殺未遂の報がグリューネラント全軍へ知れ渡った。そのため動揺した第1師団は、第2戦闘航空団の支援によってエステンド師団を壊走に追い込んだが、ブリクシア師団、国際旅団の攻撃を支えきれず壊走した。またパンテル軍団もブリューネルまで後退する事となった。
グリューネラント空軍は第1戦闘航空団に制空戦闘を行わせつつ、第3戦闘航空団はブリクシア師団を空襲、第4戦闘航空団は近衛騎士団のウービルトに的を絞って攻撃したが、戦果は芳しくなかった。
北方の州境付近ではミッテルケルンテン師団と第205師団とが、互いに防衛線を張って対峙していたが、激突にまでは至らなかった。
さらにケルンテン軍はこの激戦の隙を突いて、国際旅団を一挙に州境にまで進出させた。この結果、戦線は第1次ミッテルケルンテン会戦開始時とほぼ同じ位置へと戻る事となった。
グリューネラント軍司令部は、南ゴートイェーク州内からケルンテン軍を駆逐した勢いを駆って、ケルンテン最大の工業都市であるヴァルテガルトを攻略せんと、第204師団を鉱山街道沿いに南下させた。一方のケルンテン軍も、これ以上のグリューネラント軍の侵攻を阻止すべく、鉱山街道上に国際旅団をもって防衛線を展開していた。その結果、両者はメルゼ川橋梁付近で激突し、橋をはさんで一進一退の攻防を繰り広げた。またケルンテン側はこの戦いに全航空戦力を投入し、第204師団に大きな損害を与えた。グリューネラント軍も全航空戦力を国際旅団へと投入したが、雲のため目標を上手く捕捉することができず、大きな損害は与えられなかった。
翌3月1日、メルゼ川橋梁付近での戦いに決着をつけるべく、両軍とも増援を行った。ケルンテン軍はウービルト『チュルヴィング』を擁するエステンド師団を送り、第204師団を側面から襲撃させた。グリューネラント軍も第1師団に田園街道を南下させ、増援として現れたエステンド師団を襲撃させた。第1師団はエステンド師団に少なからぬ損害を与えたが、『Nr.9チュルヴィング』の戦闘力は絶大で第204師団はこれを凌ぎきれず壊走した。なお、ケルンテン側は第204師団に対して全航空戦力を集中し絶大な効果を挙げたが、グリューネラント側は航空戦力を国際旅団、ブリクシア師団、ブラウフリューゲル師団へ分散した上に、またも雲に阻まれて十分な戦果を挙げることができなかった。
この結果、「第1次メルゼ河畔の戦い」は第204師団を撃退してヴァルテガルト侵攻を阻止したケルンテン側の勝利で終わった。
3月6日グリューネラント軍司令部は、第1師団が3個師団+1個旅団からの一斉攻撃を受けるという危機的状況に際して、パンテル軍団預かりとなっていた特殊部隊「空挺人形団」の戦線投入を要請した。今回投入される「空挺人形団」とはその名の通り、装甲戦闘猟兵をもって空挺降下を行う部隊である。発案者はグリューネラント軍人であったが、グリューネラントでは空挺用装甲戦闘猟兵の開発を行えなかったため、巡り巡って開発能力のあるドイツの軍事顧問団の戦闘部隊であるパンテル軍団の預かりとなった経緯がある。なお、空挺用の大型グライダーはグリューネラントにて開発・生産が行われており、その運用は第3戦闘航空団にて行われていた。この様な経緯で、空挺人形団に対する権限は各所へ分散していたため、グリューネラント軍司令部も「命令」ではなく「要請」という形で出撃させねばならなかったのである。
その作戦内容であるが、ヴァルテガルト近郊へ降下し、主力となる師団が到着するまでナハトブラウ川にかかるツィーテン大橋を確保するというものであった。
天候の回復した3月10日午前5時、遂に史上初めての装甲戦闘猟兵による空挺降下作戦『空挺人形団作戦命令第1号』が発令された。早朝ヴァルトリンケを飛び立った空挺部隊は途中でさしたる邀撃も受けずにヴァルテガルト上空へ到達し、無事に2個空挺装甲戦闘猟兵中隊と1個歩兵中隊を降下させた。
無事集結を終えた空挺人形団はヴァルテガルトへ前進し、橋梁の確保を果たした。しかし、グリューネラント軍総司令部は、第3戦闘航空団に支援を行わせるのみで、主力となるはずの師団をヴァルテガルト方面へ差し向けなかった。グリューネラント軍司令部は、第1師団が一息つくための時間稼ぎとして、空挺人形団を捨石としたのだ。
一方のケルンテン軍は、戦線後方に突如出現した敵の空挺堡を撃滅すべく、国際旅団とブリクシア師団をヴァルテガルトへ突進、エステンド師団をグリューネラント軍の西進に備えてグランストゥルク近郊に展開した。
ナハトブラウ川の両岸から圧倒的なケルンテン軍の攻撃を受けた空挺人形団は、味方の援軍を信じヴァルテガルト市街で激烈な戦闘を繰り広げたが、可動機が6機にまで低下したことから、11日深夜になって遂に橋梁確保を諦め東方へと脱出する事とした。しかしこの脱出行はケルンテン軍に捕捉され、遂には空挺人形団司令も戦死する事態となった。残存隊員は各個に脱出を行ったが、数機がグリューネラント工作員の潜伏するヴュルムヘラー葡萄園にたどり着いたのみであった。
こうして、史上初となる空挺装甲戦闘猟兵部隊は、その初となる実戦参加にて早くも壊滅してしまった。
パンテル軍団では、ブラウエンタール騎兵旅団の武装解除によって入手したフェオドラを改造した実験兵器『Panzerkampfjager-Gu208F-Pu』の運用テストを行うため、実験挺身隊を組織した。この装甲戦闘猟兵は通常の装甲戦闘猟兵とは異なり、市街地での破壊工作を専門とする機体であった。そのため実験は都市部で行われる事が望ましかったが、何とその実験場として選ばれたのは、ケルンテン公国の首都ラヴァンタールであった。
3機で構成された実験挺身隊は、18日深夜、第3戦闘航空団の大型グライダー『ファウスト』をもって、空路ラヴァンタールへと浸透させた。同部隊は空輸時に発見されケルンテン航空隊の邀撃を受けたが、何とかこれを振り切り、部隊をラヴァンタールへと潜入させる事に成功した。だがこの潜入劇はラヴァンタール住民に目撃されていた。そのため、翌日の新聞に小さくだが『ゲッテルに謎の機械現る』と貧民街の火災と燃えていた謎の機械の記事が掲載された。同部隊はこの際の新聞報道にちなんで部隊名『ゲッテルチーム』とし、使用機材は『ゲッテル・マシーネン』と呼称される事となった。なお「ゲッテル」とは「ゲットー(貧民街)」のケルンテン訛である。
潜入後しばらくは潜伏地の確保など諸作業のため活動を控えていたが、3月13日夜、遂に最初の「実験」を行った。ゲッテルチームはノイエザックス通りを襲撃し、全焼200棟、死傷者5,500名の大損害を与えた。
以降、ゲッテルチームは根拠地を発見されるまで破壊活動を繰り返す事となる。
当月期の航空活動は、両軍ともに制空戦闘が主であったが、航空優勢の状況に変化は無かった。ただし、第1次メルゼ河畔会戦では両軍とも航空戦力の全てを地上支援へ投入している。しかし、この戦闘でのグリューネラント空軍は、ケルンテン航空隊よりも優勢であるにもかかわらず雲に阻まれて戦果をあげられないという不運に見舞われている。
特筆すべき航空作戦としては、第4戦闘航空団による2月19日のメーレンダム爆撃であろう。この爆撃によってメーレンダムは決壊し、ナハトブラウ川の洪水と水力発電所の喪失によって、ケルンテン経済と生産力に多大な損害を与えている。だが、このダム決壊は爆撃では無く、現地にいたグリューネラント工作員による破壊活動であるとする説もある。実際にJu87の搭載する250kg爆弾ではダムを破壊することが出来ないため、この説にはかなりの信憑性があるものと思われる。
この他に、第3戦闘航空団では2つの空挺作戦を実施しているが、ともに別項にて紹介しているため、そちらを参照して頂きたい。
先月期にクリステル国家主席がドイツを訪問することで、グリューネラントはドイツから新たな重装備貸与の約束を取り付ける事に成功した。そこで2月末頃からドイツ−グリューネラント国境のドイツ側では、ドイツ国防軍の重装備が大量に集積され始めた。しかし、その集積地には重装備のみならず大量の兵員も集結し始めていた。
そして3月10日、国境付近に集積された重装備が兵員を伴って一斉に国境を越え、グリューネラント国内のチェリンク州へと移動した。しかし、それらの装備はチェリンク州には留まらず、11日にはジルヴァ州へ移動、そして12日には南ゴートイェーク州を経由してオーストリアへと移動していった。
そして3月13日、オーストリア首相が亡命し大統領は辞任した。大統領辞任前に大統領権限を委任された新首相は、オーストリアをドイツの1州とする法律に署名し、この法律は即日発効された。こうして、オーストリア共和国はドイツへ併合された。この事によってグリューネラント共和国は東西からドイツに挟み込まれる形となり、ドイツから受ける有形無形の圧力はますます高まっていた。
なお、先月期に約束された重装備貸与は、このオーストリア進駐によって反故となった様だ。
3月14日、エステンド師団予備部隊と近衛騎士団の駐留するラヴァンタール基地にて、複数個所の通信施設が襲撃されるという破壊工作が行われた。しかし、この破壊工作はグリューネラントによるものでは無かった。この破壊工作は、30名弱のケルンテン軍人と民間人によって起こされたものであった。
破壊工作を起こした軍人たちは装甲戦闘猟兵を20機ほどで基地内にあるウービルト再生研究班を襲撃し、研究班へ資料として貸与されていた『Nr.51バルムンク』を強奪し、強烈な光を発して基地守備隊の目を眩ませ、そのまま全員が忽然と「失踪」した。基地守備隊は捜索を行ったが、襲撃者の姿を捉えるどころか、脱出路すら発見する事が出来なかった。
強奪された『Nr.51バルムンク』はその後、歴史上から完全に姿を消している。この事件によって、ケルンテンは貴重な完全稼動ウービルトを喪失する事となった。
なおこの事件の首謀者は、昨日戦死したベルナウアー大佐(死後二階級特進)の実妹であるとする説がある。しかし、関係者が全て失踪したため、真相は不明である。
グリューネラント軍は失策もあって作戦目標であるヴァルテガルト攻略を達成できなかったものの、最終的には戦線をミッテルケルンテン州内へ移行させた事で、前進を果たしている。一方のケルンテン軍は、開始時の戦線を死守できなかったばかりか、一時的にではあるがエステンド州内へのグリューネラント軍侵攻を許してしまった。
しかし、損害比を見てみると当月期中にケルンテン軍は延4個師団が壊走、グリューネラント軍は延6個師団が壊走している。なお、グリューネラント軍は全ての師団が1度は壊走した上に、第3師団は2度壊走している。さらにグリューネラント軍はこの他に空挺人形団も壊滅している。3月14日時点で再編中の師団数を数えても、ケルンテン軍が2個に対して、グリューネラント軍が3個となっていた。また、ケルンテン陸軍航空隊は大規模な航空戦が発生しなかったこともあって、先月期に被った大損害を回復することが出来ていた。
この様に、1938年3月期はグリューネラント軍が前進したが作戦目標を達成する事ができず、戦力を大きくすり減らす事となった。一方のケルンテン軍は防衛線を死守できなかったが州境付近にまで押し戻す事に成功し、戦力も先月期末と比較すると回復することができた。
以上の状況から見て、1938年3月期はケルンテン軍が後退したものの、結果的に僅かながら優勢であったと言える。
終了時の状況