硅緑内戦史 1938年4〜6月期編




目次

第11章 1938年4月期(1938/03/15〜04/14)
11.1 第5次グロイスター会戦(1938/03/17〜04/12)
11.2 物資集積所襲撃事件(1938/03/15)
11.3 第2次トーテンコプフ沖海戦(1938/03/22)
11.4 ウービルトNr.54スレイプニル再生(1938/03/末)
11.5 航空戦
11.6 4月期総括
第12章 1938年5月期(1938/04/15〜05/14)
12.1 第2次ミッテルケルンテン会戦(1938/04/15〜05/10)
12.2 第4次南ゴートイェーク会戦(1938/05/11〜14)
12.3 航空戦
12.4 アドリア海の戦い
12.5 潜水艦建造疑惑事件
12.6 5月期総括
第13章 1938年6月期(1938/05/15〜06/14)
13.1 第5次南ゴートイェーク会戦(1938/05/15〜06/14)
13.2 ブリクシア解放戦線蜂起
13.3 ゲッテルマシーネン部隊壊滅
13.4 ミッテルケルンテン師団長捕獲作戦
13.5 ヘルツォークトゥン騎兵旅団再編成
13.6 航空戦
13.7 アドリア海の戦い
13.8 6月期総括





第11章 1938年4月期(1938/03/15〜04/14)

 当月期におけるケルンテン軍の方針は、先月期の余勢を駆って一挙にブリューネル〜ヴァルトリンケへ攻撃を指向し、暫時戦線を北上させ、可能ならばアルトリンゲンをも奪回しようというものであった。一方グリューネラント軍の方針は、各部隊の消耗した現状に鑑み、現在の戦線を逐次後退させ南ゴートイェーク州の確保を第一とするものであった。この結果、当月期はケルンテン軍が一挙に南ゴートイェーク州内へと雪崩れ込み、同州内で大規模な会戦が行われることとなった。
 当月期は、この会戦を中心事項として紹介させて頂く。



11.1 第5次グロイスター会戦(1938/03/17〜04/12)

 3月17日のブリューネル攻防戦で始まった第5次グロイスター会戦は、大きく4つのフェイズに分けられる。そこで、これらのフェイズを時系列に沿って紹介したい。



11.1.1 第3次ブリューネル攻防戦(03/17〜03/20)

 3月17日、ケルンテン軍はブリューネル奪回のために、ギュルテンシュタイン師団を主軸としブリクシア師団、国際旅団の主力をブリューネル方面へ投入した。対してグリューネラント軍はパンテル軍団を中心に第204師団、第205師団を投入して防衛線を張った。
 パンテル軍団は正面のギュルテンシュタイン師団に大きな損害を与えたが、18日に側面からミッテルケルンテン師団配属のウービルト『グレンデル』の攻撃を受けたため、後退した。また第204師団も正面に来襲した国際旅団の攻撃が強力なため、18日に損害を抑えるため、フォトラー方面へと後退した。
 ブリクシア師団はグリューネラント軍が引いたことを受けて、18日にランツェレ峠を制圧した。

 19日になると西部戦線にて、第205師団とパンテル軍団がミッテルケルンテン師団に対して一斉攻撃を開始した。だがパンテル軍団が西部での攻勢に出た事と、前日に第204師団が後退した事により、ブリューネルが空白地帯となっていた。この事を察知したブリクシア師団はブリューネルへと進行し、同市は20日に無血開城された。こうして、第3次ブリューネル攻防戦はケルンテンの勝利に終わった。
 またフォトラー方面へと後退した第204師団であるが、ケルンテン側の謀略無線によって混乱状態に陥っていた。この事によって、国際旅団は第204師団の側面をすり抜け、19日にヴァルトリンケ航空基地を占領した。



11.1.2 大包囲殲滅戦(03/21〜04/04)

 3月21日、ケルンテン軍は全戦線で一斉攻撃作戦にでた。その内容は、ツィグレーエをブリクシア師団と国際旅団で、ホットゲーベルをギュルテンシュタイン師団で、フォトラーをブラウフリューゲル師団で攻略するというものであった。

 一方グリューネラント側は西から第205師団、パンテル軍団、第204師団、そして戦線復帰した第3師団を並べ防衛線を引いた。
 第3師団は、ツィグレーエ近郊にて特殊爆弾『ローレライ』を使用してブリクシア師団の進撃を阻止した。しかしこの上で更にギュルテンシュタイン師団からの攻撃とケルンテン陸軍全航空隊からの空襲を受けた。第3師団はこの攻撃を防ぎきれずギュルテンシュタイン師団に突破された。戦線を突破したギュルテンシュタイン師団は、22日にホットゲーベルを制圧した。また国際旅団は第3師団と第204師団との隙間をすり抜け、22日にツィグレーエを制圧した。
 第204師団はブラウフリューゲル師団の攻撃を受けて防御に徹したが、堪え切れず北方へと後退した。しかし、ブラウフリューゲル師団は目標であるフォトラーへ到達できなかった。
 この他にミッテルケルンテン師団が一斉攻勢を支援するため、『グレンデル』をもってパンテル軍団を襲撃したが、撃退された。
 またこの間にグリューネラント空軍は、第1戦闘航空団をもってギュルテンシュタイン師団を、第2戦闘航空団と第4戦闘航空団をもってブリクシア師団を、第3戦闘航空団をもってブラウフリューゲル師団を空襲し、各師団に少なからぬ損害を与えた。

 23日になるとエステンド師団と第2師団が戦線復帰した事を受けて、両軍とも戦線の整理につとめた。

 グリューネラント戦線に突出した形となっていたギュルテンシュタイン師団は、損害を回復するためホットゲーベルを放棄して戦線後方まで後退する事とした。しかし、同じくツィグレーエを占領して突出した形となっていた国際旅団は、パンテル軍団によって後方を遮断され、孤立してしまった。ブリクシア師団は国際旅団の後方を守るべく、ヴァルトリンケから東部国境に至る地域で防御戦を展開したが、パンテル軍団の機動を阻止することができなかった。また第204師団は突出した国際旅団の側面に攻撃を行いこれに打撃を与えたものの、ブラウフリューゲル管区航空隊の空襲で予想外の損害を被った。
 25日になり、ケルンテンは態勢を立て直して再度全戦線で攻撃を再興したが、グリューネラントの頑強な抵抗で思うように進まなかった。 
 東部戦域ではブリクシア師団と国際旅団は一挙に南グロイスターを突破すべく突進したが、第204師団の防衛線に食い止められた上にパンテル軍団に後方をたたれ、ともに包囲された。これに第2師団も国際旅団の行く手を遮る形で包囲圧力を徐々に高めていった。ブリクシア師団はさらに第4戦闘航空団からの爆撃も受け、その戦力を削がれる事となった。またギュルテンシュタイン師団は先行したブリクシア師団と国際旅団の後詰として進撃していたが、パンテル軍団によって両者と遮断されてしまった。エステンド師団もニャウクタブルクへ向けて突進したが第2師団と第1戦闘航空団、第3戦闘航空団の空襲によって阻まれた。一時は危機的状況に陥ったが、『チュルヴィング』の投入によって後退することができた。
 西部戦域ではミッテルケルンテン師団は二手に分かれてアルトリンゲンとニャウクタブルクを目指したが、両隊とも第3師団、第205師団と第2戦闘航空団の空襲によって撃退された。

 27日になりケルンテン軍は苦しい状況を打開すべく、ブリクシア師団は国際旅団と共に主攻軸を西方のホットゲーベルへ向けて突破をはかった。しかし第204師団の守る戦線を突破することができず、さらに国際旅団は第1戦闘航空団から、ブリクシア師団は第2戦闘航空団から襲撃を受け、共に甚大な損害を被った。またパンテル軍団は戦闘に参加しなかったものの、包囲環の維持に力を注いだ。エステンド師団は包囲網の外からホットゲーベルを目指して再度攻撃を行った。しかしこの攻撃は第2師団によって受け止められ、そこへさらに第4戦闘航空団からの爆撃を受けて、エステンド師団は大きな損害を受けた。

 一方西部戦域ではミッテルケルンテン師団が1個師団でドイツ−オーストリア間の広大な範囲を防衛していた。そこでグリューネラント軍はこの方面が手薄であると判断し、第3師団と第205師団さらに第3戦闘航空団をもってミッテルケルンテン師団の撃滅・戦線突破を狙い攻撃を敢行した。ミッテルケルンテン師団は多大な損害を受けたものの、突破を阻止することに成功した。さらにケルンテン軍はその航空戦力のほぼ全力を第205師団へと差し向けたため、第205師団は多数のイェーガーを失うこととなった。
 なお、ギュルテンシュタイン師団、ブラウフリューゲル師団および第1師団は一旦後退し、戦力の回復に努めた。

 29日になると、連日の空襲で損耗したエステンド師団は正面突破を諦め迂回機動を試みたが、第3師団に捕捉されてしまった。エステンド師団はギュルテンシュタイン管区航空隊からの支援を受けたものの、同日中に壊走した。

 一方、包囲網の中で補給が途絶し物資の尽きかけたブリクシア師団と国際旅団は、共同で第204師団を攻撃した。この攻撃にはブラウフリューゲル管区航空隊も参加し、ついに第204師団を壊走へと追い込んだ。しかし両部隊は第2師団、第3師団とパンテル軍団によって後方を遮断されたままであった。
 ミッテルケルンテン師団は戦線の縮小を行わなかったため、引き続き第2師団と第205師団、さらにはグリューネラント空軍全部隊からの攻撃を受けていた。ミッテルケルンテン師団は多大な損害を受けながらも戦線を維持し続けていた。首都管区航空隊は第2師団を空襲したが、戦況へ寄与することは無かった。

 4月1日になると、ブリクシア師団と国際旅団は決死の覚悟をもって、包囲網を突破しようと最後の攻撃を掛けた。ブラウフリューゲル管区航空隊の支援を受けた空陸一体の猛攻撃によって第2師団に対して猛烈な損害を与えたが、ついに包囲網を抜け出せなかった。さらに第4戦闘航空団による空襲も深刻で、ブリクシア師団はついに耐えきれず、壊滅した。包囲下であったためブリクシア師団の損害は甚大で、師団長自らも重傷を負うという非常事態であった。また国際旅団も第1戦闘航空団の空襲をうけ、壊滅寸前であった。しかし、苛烈な攻撃を受けた第2師団は空襲と併せて相当のダメージを受けた。
 北西部では補給を完了した第1師団が205師団とともに、第3戦闘航空団の支援を受けながらクランツ峠を越えてミッテルケルンテン州内へ侵出した。ケルンテンはギュルテンシュタイン師団とギュルテンシュタイン管区航空隊を差し向けて阻止を図ったが、第205師団を捕捉するのみで精一杯であった。激突した両師団は共に大きな損害を受けた。

 ケルンテン軍は2個師団壊走(+1個旅団が全滅寸前)という状況に至り、ついにディートリヒシュタイン師団へ出撃を要請した。
 一方、州境一帯は小休止状態であった。ケルンテンはブラウフリューゲル師団をもって、ミッテルケルンテン師団の後方に第2戦線を形成し、グリューネラントは第3師団とパンテル軍団をもって戦線を維持していた。
 また上空では首都管区航空隊と第2戦闘航空団が制空戦闘を繰り広げていたが、制空権の移動は無かった。

 4月3日になると、ケルンテン軍は総力を挙げて国際旅団救出につとめた。ミッテルケルンテン師団、ブラウフリューゲル師団、ディートリヒシュタイン師団さらには全航空戦力を投入して第3師団を攻撃した。グリューネラント軍は第3師団を守るべく第1戦闘航空団と、第4戦闘航空団をもってミッテルケルンテン師団を、第3戦闘航空団をもってブラウフリューゲル師団を襲撃したが、さすがに3個師団からの攻撃を凌ぎきれず、第3師団は壊走した。しかしこの間にも国際旅団は第2戦闘航空団からの空襲を受けており、ついには救援部隊と合流することなく壊走してしまった。この包囲戦でケルンテン軍はブリクシア師団と国際旅団が壊走し、再建には相当な時間を必要とする大損害を被った。しかしグリューネラント軍側も第3師団が壊走しており、また第2師団も相当の損害を被ったため、一度後方へと下がる必要が出てきた。

 これによって、開戦以来始めてとなる大規模包囲戦はグリューネラント側の勝利に終わったが、同軍が受けた損害も決して軽いものではなかった。
 一方ミッテルケルンテン州内では、ギュルテンシュタイン師団が単独で、ギュルテンシュタイン州へと進撃しようとする第1師団と、更なる南下を図る第205師団とを食い止める状況となっていた。第1師団の進撃はギュルテンシュタイン師団の防衛線によって止められたが、第205師団はその火力をもって防衛線を突破した。



11.1.3 アルトリンゲン奪回作戦(04/05〜04/12)

 4月5日になると、西部戦域ではギュルテンシュタイン師団による防衛線を突破したグリューネラント軍は、第1師団によって突破口を確保しつつ、第205師団を進撃させる事で更なる戦果拡大を図った。しかしケルンテン軍はミッテルケルンテン師団をもって両師団の後方を遮断し、さらにギュルテンシュタイン師団は転進して、戦線中央部の閉塞に向かった。この結果、先日までとは逆にグリューネラント側が2個師団を包囲される状況となった。
 東部戦域のブリューネルでは、同都市を巡ってブラウフリューゲル師団とパンテル軍団とが砲火を交えていた。両部隊の戦力は拮抗していたが、パンテル軍団は実験兵器として配備されていた『アルヌルフ』をこの戦闘へ投入した。ウービルトの戦闘力は絶大であり、ブラウフリューゲル師団は損害を抑えるために後退した。


 悪天候による小休止を挟んだ後の4月9日、西部戦域では包囲された第1師団と第205師団が転進し、ミッテルケルンテン師団の突破を図った。さらにグリューネラント軍はこの戦闘に全航空戦力を投入した。その結果、ミッテルケルンテン師団は中央部を突破され、またもや師団が分断される事となった。
 一方ケルンテン軍は包囲網の一端であったギュルテンシュタイン師団を、ブラウフリューゲル師団と共にアルトリンゲン攻略へと差し向けた。この侵攻には全航空戦力が支援に当たっていた。しかしブリューネルから同市へと移動中であったパンテル軍団と遭遇し、ウービルト『アルヌルフ』によって、両師団とも撃退されてしまった。
 状況が不利となったケルンテン軍はまたしても近衛騎士団の戦線投入を決断した。近衛騎士団はこれを受けて、近手薄となった南部戦域に展開して首都の前面を警戒した。一方グリューネラント軍は、潜入員による情報から近衛騎士団の出撃を同日中に察知していた。事此処に至り、陸軍総司令部は最大の切り札である決戦兵団『シュヴァルツ・ガイスト』の出動を要請した。

 なおこの戦闘で出撃した第4戦闘航空団司令ハインツ・フォイツレッツ少将は、ケルンテンへの投降を図って単機エステンド州へと飛行した。しかしエステンド州へと差し掛かった所で少将の搭乗機は墜落してしまった。共和国空軍司令部は全軍の士気に与える影響を考慮して、少将が戦死したと発表した。だがフォイツレッツ氏は墜落地点に駐屯していたケルンテン軍の懲罰大隊に収容され、同大隊に編入されていた。ただしそれは部隊の将校としてではなく、懲罰対象者としての編入であった。そのため、氏はこの時点で既に両国にとって、政治的にも軍事的にも死亡したも同然であった。

 4月11日になると、西部戦域にてケルンテン軍は、ギュルテンシュタイン師団、ブラウフリューゲル師団をもってアルトリンゲンの奪還を目指し、両師団を前進させることとした。さらに、突出したグリューネラント軍の後方をミッテルケルンテン師団をもって遮断したまま、同師団の主力を北方へ転換し、アルトリンゲン攻略の支援を行う事とした。
 一方のグリューネラント軍は、後方を遮断された第1師団と第205師団がミッテルケルンテン師団を突破して北上、アルトリンゲンに展開するパンテル軍団が南下を行う事で、連絡を回復する事を意図した。
 このため、アルトリンゲン方面ではギュルテンシュタイン、ブラウフリューゲル両師団がパンテル軍団と、州境方面ではミッテルケルンテン師団と第1、第205両師団が激突する事となった。
 だがその結果は一方的なものであった。アルトリンゲン方面では、『アルヌルフ』を擁するパンテル軍団にギュルテンシュタイン、ブラウフリューゲル両師団はまたしても撃退された。州境方面ではミッテルケルンテン師団がまたしても戦力を二分していたため、第1、第205両師団に各個攻撃され大損害を被り撤退した。これにより、グリューネラント軍は第1、第205両師団とパンテル軍団との連絡に成功し、補給路を回復した。
 またこの間、ケルンテン軍ではディートリヒシュタイン師団が近衛騎士団を敵と誤認し、同士討ちが発生した。
 13日になると、またしても天候が悪化したため、第5次グロイスター会戦は4月12日をもって終了した。ケルンテン軍はアルトリンゲンの奪回を目指したものの、その近郊へと達する事すら出来なかった。



11.2 物資集積所襲撃事件(1938/03/15)

 3月15日の深夜、反グリューネラントレジスタンスである南ゴートイェーク開放戦線によって、ナーベルブルク近郊のグリューネラント軍物資集積所と、同市とドイツとを結ぶ鉄道路線が爆破される事件が発生した。
 特に鉄道路線への破壊工作は非常に効果が高く、以降数日にわたってグリューネラント軍は前線への物資輸送が途絶えてしまう異常事態となった。



11.3 第2次トーテンコプフ沖海戦(1938/03/22)

 ケルンテン海軍はトーテンコプフ諸島近海でのグリューネラント海軍・海賊掃討作戦「アルゴナウト」を3月22日に発動した。
 「アルゴナウト」はケルンテン海軍の稼働艦艇ほぼ全てを投入した、対グリューネラント海軍・海賊戦としては初めての大規模作戦であり、その投入戦力は、小型艇10隻、特設巡洋艦1隻、輸送艦1隻、防水型エカテリーナ2機と、ほぼケルンテン海軍の全艦艇であった。そしてこの内、小型艇1隻と特設巡洋艦を除く艦艇がトーテンコプフ沖でグリューネラント海軍・海賊の高速戦闘艇1隻、魚雷艇1隻を捕捉し海戦が発生した。だが海戦は、グリューネラント側がその高速を活かしてケルンテン艦艇を振り切ったため、ごく短時間で終わった。なおケルンテン海軍は大破2隻、中破2隻の損害を受け、グリューネラント海軍は大破1隻の損害を受けたが、双方とも沈没は発生しなかった。



11.4 ウービルトNr.54スレイプニル再生(1938/03/末)

 1937年11月期に設立された『ウービルト再生研究班』の手によって、片足を失い部分稼動機となっていたNr.54スレイプニルを完全稼動機へと修復する事が、遂に成功した(ただし、その性能は新造時よりも劣るものではあったが)。修復された同機は4月1日にラヴァンタール基地にてお披露目が行われた。
 従来、部分稼動となったウービルトの再生は十三博士をもってしても不可能とされていただけに、故障したウービルトの再度戦力化を行える様になった事は、ケルンテンにとって革新的な出来事であった。



11.5 航空戦

 地上で激しい撃滅戦に呼応して、両軍とも航空戦力を主に敵地上部隊への襲撃へ投入したため、航空部隊間での戦闘はあまり発生しなかった。例外的に4月1日から2日にかけて、首都管区航空隊と第2戦闘航空団との間で制空戦闘が繰り広げられたが、制空権に変化は無かった。
 だが、ケルンテン陸軍航空隊は当月期初頭に、グリューネラント空軍は当月期末にそれぞれ大規模な航空作戦を実施している。



11.5.1 ヴァルトリンケ航空基地襲撃(1938/03/16)

 ケルンテン陸軍総司令部は、目の上の瘤であるヴァルトリンケ航空基地を攻撃しグリューネラント空軍前線航空部隊を撃滅する事を決心し、3月16日に作戦を実行した。作戦には全ての航空隊が参加し、判明している参加戦力は首都管区航空隊だけでも戦闘機7個中隊(うち戦爆2個中隊)、爆撃機4個中隊と大規模なものであった。なおブラウフリューゲル管区航空隊は投入機数不明ながら制空隊、爆撃隊、護衛隊の3隊を投入していた。ギュルテンシュタイン管区航空隊は全く不明ながら、他の航空隊の記録から出撃していた事は確かである。
 一方グリューネラント空軍は当時、ヴァルトリンケ航空基地へ第1戦闘航空団、第3戦闘航空団の南部方面分隊、そして空挺人形部隊を駐留させていた。グリューネラント空軍はこれらのうち、第1戦闘航空団(戦力不明)と第3戦闘航空団(3個中隊)にて邀撃を行い、大規模な空戦が発生した。
 ケルンテン陸軍航空隊は、この邀撃でグリューネラント空軍の戦闘機が離陸したため地上での航空撃滅を果たせず、大型グライダーを破壊できたのみであった。そのため、この作戦は失敗であったと判断していた。しかし、ケルンテン側は知る術も無い事であるが、この攻撃で空挺部隊の大型グライダーが多数破壊されたため、グリューネラント側が計画していた大規模空挺作戦(黒狐作戦)が中止へと追い込まれていた。もっとも、先月時点で空挺部隊は壊滅しているため、たとえ作戦が実施されたとしても、それほど大きな成果はあがらないものと思われる。



11.5.2 ラヴァンタール爆撃(1938/04/13)

 硅緑内戦では従来いわゆる戦略爆撃は、大学爆撃などの一部を除いて、実施されていなかった。ケルンテン軍にしてみれば、自国領内への爆撃に躊躇があったためである。一方グリューネラント空軍にとっては、それを可能とする機材(中・大型爆撃機)を保有していないため、実行できないだけであった。
 しかし今月期よりグリューネラント空軍には、新たに自国で開発された双発爆撃機Ta−01ナイチンゲールの配備が始まった。これによりグリューネラント空軍は遂に、戦略爆撃を可能とする手段を手に入れたのであった。

 グリューネラント空軍は早速、ラヴァンタール近郊にあるゼーヴェリンク社工場爆撃作戦『ヴィルベルヴィント』を立案した。この作戦には第4戦闘航空団にて編成されたナイチンゲール中隊2個以上と第3戦闘航空団の戦闘機5個中隊以上の投入を予定し、4月14日の実施が予定されていた。さらには、待ち受けているであろうケルンテン陸軍航空隊を疲弊させておく為に、『4/1に実施』との欺瞞情報が流されていた。またラヴァンタールには予め工作員を潜入させ、爆撃目標の指示が行われる予定であった。

 しかし12日より天候が悪化しはじめ、このままでは14日の作戦実施が不可能となる懸念が出てきた。そのためグリューネラント空軍は急遽、13日へと繰り上げて作戦を実施した。

 13日午前4時、まず囮としてラヴァンタール市街地爆撃隊が離陸し、その15分後に工場爆撃隊が離陸した。だが悪天候のため脱落機が多く、ラヴァンタールにまで到達できた機体は僅かであった。
 囮部隊は爆撃機中隊1個と戦闘機中隊1個がラヴァンタール上空まで到達できたが、待ち伏せていた首都管区航空隊の戦闘機中隊4個から邀撃を受ける事となった。そのため、市街地へ臭気爆弾を投下すると全力退避を行った。
 一方、工場爆撃隊であるが、作戦実施日時の変更が工作員へ伝わっていなかったため爆撃目標であるゼーヴェリンク社工場を発見できず右往左往していた。しかもそのうち、囮部隊が邀撃の戦闘機中隊4個を引き連れたまま合流してきてしまった。そのため工場爆撃隊は、各個目測でナハトブラウ川沿岸の工業地域を爆撃し、その後に全力退避を行った。ケルンテン陸軍航空隊は、高速機のみで構成された爆撃部隊を捕捉できず、全機を取り逃がす事となった。だが復路でも悪天候である事は変わらず脱落機が多数発生した。そのため、第3戦闘航空団は参加機の大半を失い壊滅状態となった。
 なお工場地帯の損害はごく僅かであり、ゼーヴェリンク社工場への損害は発生しなかった。以上の様にグリューネラント空軍が実施した初の戦略爆撃は失敗に終わったが、翌月期以降に首都管区航空隊が首都防空のためにその戦力の半数をラヴァンタールへ張り付けなければならなくなると言う副次効果が発生していた。



11.5.3 ブルート・シュティレント作戦

 ブラウフリューゲル管区航空隊では、鉄道輸送を遮断する事を目的としたブルート・シュティレント作戦が立案されていた。しかし、3月16日の夜にナーベルブルクの物資集積所と鉄道路がレジスタンスに破壊され鉄道輸送が寸断したため、作戦の優先度が下げられる事になった。また、グリューネラント軍が鉄道路の防衛を強化したため、作戦空域もロックシュタイン以南へ狭められた。さらにこの作戦の攻撃目標は鉄道施設では無く運行中の列車に限定されていた。
 以上の様な理由から作戦は低調に終わり、戦果は夜間爆撃によって軍用輸送列車1編成を破壊したのみに留まった。



11.5.4 グリューネヴァルト研究所爆撃(1938/03/21)

 ギュルテンシュタイン管区航空隊は、かねてより新型爆弾開発が噂されるグリューネヴァルト国立科学研究所に対する爆撃作戦を3月21日に実行した。作戦には爆撃機2機が投入され、共にジルヴァ州への侵入を果たしている。しかし、研究所の所在が不明なためグリューネヴァルト上空で捜索を行い、ようやく森の中に滑走路を発見したところで邀撃を受けた。そのため、滑走路のあたりに爆撃を行って退避を行った。なお研究施設への損害は軽微で、新型爆弾開発への影響は無かった。



11.6 4月期総括

 当月期は、前半はケルンテンが、後半はグリューネラントが攻勢をかける展開となったが、硅緑とも攻勢に出た側が包囲を受ける事となった。しかし、ケルンテン側が包囲された部隊が壊滅しているのに対して、グリューネラント側は損害を出しながらも包囲を脱出している。これは、極端な攻勢をとったケルンテン側と、当月期開始時点では劣勢であったため守勢に重きを置いたグリューネラント側との采配の差が如実に出る結果となった。
 この結果、当月期終了時点の両軍の状況を見ると、ケルンテン軍はブリクシア師団、国際旅団が再編成中、エステンド師団が壊走からの再編成を終えたばかり、ミッテルケルンテン師団、ギュルテンシュタイン師団、ブラウフリューゲル師団が壊滅寸前と満身創痍である。一方のグリューネラント軍は、第1師団、第2師団、第205師団の損害は少なくないものの、士気も高く十分な戦力を保持しており、第3師団、第204師団も再編成を終えていた。さらにパンテル軍団は、アルヌルフの配備を受け、装備・士気ともに開戦以来最高の状態と言っても過言でない状況であった。しかし、第3戦闘航空団は悪天候を押して実施したラヴァンタール爆撃の損害により壊滅状態であった。
 また当月期初頭からの戦線移動を見てみると、東部戦域ではケルンテンがブリューネルを確保したことで南ゴートイェーク州内にまで北上していた。だが、当月期末時点で東部戦域にケルンテン軍部隊は存在しておらず、実質的な戦線移動はないもと考えられる。一方西部戦域では第205師団が田園街道をグラネック近郊にまで達した事で、南方へと大きく突出した形となっていた。

 以上を見てみると当月期は、開始時点ではグリューネラント軍にとって不利な戦況であったが、大包囲殲滅戦によってケルンテン軍が戦力を大幅に減らしたため、グリューネラント軍が盛り返す事となった。

 1938年4月期中の兵力推移
ケルンテン グリューネラント
期首
残存 Mk,Gs,Br,国際 204,205
再編中 Es,Bf 1,2,3,Pt
期中
壊走 Es(03/29),Br(04/02),国際(04/03) 204(03/29),3(04/04)
再編完了 Bf(03/17),Es(03/17),Es(04/12) Pt(03/17),3(03/21),2(03/23),1(03/25)
期末
残存 Es,Mk,Gs,Bf 1,2,3,204,205,Pt
再編中 Br,国際



第12章 1938年5月期(1938/04/15〜05/14)

 当月期開始に当たり、ケルンテン軍は先月期の損害からの回復を図るために防戦に徹する、グリューネラント軍は西部戦域に攻勢の重点を形成しディンツブルクを超越してブリクシア州域への突破を行う、という方針を策定した。その結果、当月期はミッテルケルンテン州内で大規模な会戦が行われたが、『メルゼ河畔の戦い』を境にケルンテン軍が勢力を盛り返していった。
 当月期はこのミッテルケルンテン会戦を中心に紹介させて頂きたい。



12.1 第2次ミッテルケルンテン会戦(1938/04/15〜05/10)

 4月15日になると、ケルンテン軍はかねての計画通り突出していた部隊を後方へ下げ、ミッテルケルンテン州北部のグラネック〜ヂェングリーゲルの線で防御線を構築した。このため、戦線は完全にミッテルケルンテン州内へと移る事となった。
 一方グリューネラント軍は全戦線で攻勢に出たが、ケルンテン軍の後退速度が速くなかなか捕捉できなかった。重点正面である第205国民突撃師団正面では、ミッテルケルンテン師団と交戦したが、空襲によって予想外の被害を受けた。また第2師団も戦線東を突破すべくブラウフリューゲル師団と交戦したが、相当の損害を被った。

 17日になると、グリューネラント軍は鉱山街道、田園街道など3カ所で機械化部隊による突撃を試みた。これに対しケルンテン軍各師団はなんとしても防御線を維持すべく熾烈な戦いを繰り広げた。
 田園街道では第1師団がギュルテンシュタイン師団を攻撃したが、新戦術が失敗して撃退された。だが同じく田園街道にてミッテルケルンテン師団を奇襲した第205師団は、ミッテルケルンテン師団に配備されていた片手のウービルト『グレンデル』を強奪すると共に同師団に大打撃を与え、18日に田園街道戦線の突破に成功した。

 一方、鉱山街道方面ではパンテル軍団が南下してエステンド師団を襲撃したが、エステンド師団配属のウービルト『チュルヴィング』の襲撃で進撃を食い止められてしまった。

 19日になると、第1師団はパンテル軍団とともに、鉱山街道から田園街道に至る地域に展開していたエステンド師団防御線へ襲いかかり戦線中央部で突破を試みた。が、またしても新戦術に失敗し、ウービルト『チュルヴィング』を擁するエステンド師団によって撃退された。またパンテル軍団も深い山中での戦いのため機動力を活かせず苦戦していた。
 一方西部戦域では、ミッテルケルンテン師団がシュペーア・ウント・モーデル社を防衛するため後方へと退避した。これにより、ギュルテンシュタイン州方面に対してケルンテン軍の守備兵力が存在しない状態となった。このため、第204師団はこの突破口を抜けて、20日にはディンツブルクまで20キロの地点に進出した。
 また東部戦域ではここ数日、第2師団とブラウフリューゲル師団の対峙が続いていた。両者間での戦闘は発生していなかったが、戦線はじりじりと南下して行っていた。
 この時点でケルンテン陸軍総司令部は、近衛騎士団へ出動を要請した。

 21日になるとグリューネラント軍は各地で一斉攻撃にでた。西部ではグリューネラント軍が第204師団をもってディンツブルク進出を試みた。しかし、ケルンテン軍はギュルテンシュタイン師団を移動させ、ギュルテンシュタイン州方面にも戦線を展開した。このため両師団はレーゲンフリート湖南方で激突し、第204師団によるディンツブルク侵攻は阻止された。
 中央戦域ではエステンド師団が防御線の両端でグリューネラント軍の攻撃を受けた。田園街道からは第205師団と第1師団、鉱山街道からは第3師団とパンテルの強襲である。エステンド師団はこの猛攻に堪え切れず、シュマルツバッハ近郊にまで後退した。
 東部では、グリューネラント軍の第2師団と第3師団による大規模な攻撃で、ブラウフリューゲル師団が大損害を被って後退した。この戦いでケルンテン軍戦線を突破した第2師団は首都ラヴァンタールまで50キロの位置にあるザンクト・レオンハルトへと進出した。このケルンテンはこの危機に際し、士気高揚のためカール公太子が自ら近衛騎士団を率い、前線へと向かう事となった。



12.1.1 第2次メルゼ河畔の戦い(1938/04/23〜05/04)

 4月23日、損耗の著しいブラウフリューゲル師団はヴァルテガルトまで後退を試みたが、グリューネラント軍が第2師団、第3師団、パンテル軍団を持って包囲攻撃を敢行してきた。しかし、このブラウフリューゲル師団の危機に当たって、エステンド師団はウービルト『グングニール』を駆ってグリューネラント軍中へと突撃し、第2師団の後方を遮断した。第2師団はさらに近衛騎士団からも攻撃を受け、逆包囲される事となった。第3師団とパンテル軍団は第2師団を救出するためエステンド師団への攻撃を行ったが、エステンド師団の逆襲によって大きな被害を被った。なおブラウフリューゲル師団はエステンド師団の援護によって24日にヴァルデガルトへの後退に成功している。

 4月25日になると、パンテル軍団の強襲をまともに受けたエステンド師団が、ウービルト『チュルヴィング』を中心に反撃戦を展開したが、グリューネラント軍は3月に強奪したウービルト『アルヌルフ』をもってウービルト『チュルヴィング』を迎え撃った。熾烈を極めた一騎打ちの末、ウービルト『チュルヴィング』のパイロットは戦死し、エステンド師団は大打撃を受けて壊走した。鉱山街道ではこの戦いの間、近衛騎士団が第3師団を襲撃していた。第3師団はローレライ爆弾なども使用したが、3機のケルンテン軍ウービルトによって壊走へ追い込まれた。ケルンテン軍はそのままグリューネラント側戦線後方へと回り込み、ランツェレ峠を支配してグリューネラント軍攻撃部隊の補給線を脅かした。また第2師団がヴァルテガルトへの突破を試みたが、ブラウフリューゲル師団によって撃退された。

 事ここに至り、共和国最高統帥は決戦兵団『シュヴァルツ・ガイスト』に対し、近衛騎士団討滅を命じた。

 4月27日になると、鉱山街道上で立ち往生した感のあるグリューネラント軍のパンテル軍団と第2師団は障害を排除すべく積極的に攻撃した。第2師団はヴァルテガルトヘ、パンテル軍団は近衛騎士団の陣取るブリューネル方面へと、それぞれ活路を求めて戦ったが、補給に不安を抱いた状態での戦闘は損害ばかりがかさみ、戦果は挙がらなかった。しかも第2師団はブラウフリューゲル師団の抵抗と首都管区、ブラウフリューゲル管区航空隊による空襲で、大きな損害を被った。またパンテル軍団も試作超重戦車を失う損害を受けた。
 4月29日になると、グリューネラント軍はヴァルテガルトへの侵攻をあきらめ部隊を後退させていった。しかしこの動きによって、突出していた近衛騎士団は第1師団、第2師団、パンテル軍団、そして戦域へと到着したシュヴァルツ・ガイストによって完全に包囲され、孤立状態で猛烈な攻撃を受けた。近衛騎士団は3機のウービルトを中心に激しく抵抗したものの、グリューネラント軍はウービルト、戦車、航空による共同攻撃によって、これを壊滅寸前にまで追いつめた。しかし第1師団、第2師団も、かなりの被害を被った。

 5月1日になると、グリューネラント軍は包囲下にある近衛騎士団に対して3個航空団を投入して、陸空協同による殲滅戦を展開した。ケルンテン軍は近衛騎士団を救出すべくウービルト『スレイプニル』を擁するミッテルケルンテン師団を突撃させたが、パンテル軍団の擁するウービルト『アルヌルフ』によって阻止されてしまった。
 このままではウービルト3機がグリューネラント軍に鹵獲されてしまうと危惧したカール公子は、ウービルトを脱出させるため、自ら手勢を率い囮となってグリューネラント軍の注意を引きつけた。これにより3機のウービルトは包囲を脱することに成功したが、公子はグリューネラント軍の捕虜となった。
 5月3日になると、ブリクシア師団、国際旅団の再編を終えたケルンテン軍は、公子の仇を撃つべく(ケルンテンはこの時点では公子の所在を把握していない)猛烈な突撃を敢行した。航空部隊の猛爆撃の下、ミッテルケルンテン師団、ブリクシア師団はパンテル軍団を攻撃し4日に壊走へ追い込んだ。これにより、メルゼ河畔からグリューネラント軍が駆逐されたため、「第2次メルゼ河畔の戦い」はケルンテン軍の勝利に終わった。
 なお一般に「メルゼ河畔の戦い」とは、この「第2次メルゼ河畔の戦い」のうち4月23日の戦いを指し示す場合が多い。



12.1.2 レーゲンフリート湖畔の戦い(1938/04/23〜29)

 4月23日、ネーベルブルクを目指して西進する第204師団とこれを支援する第205師団は、レーゲンフリート湖畔で防衛線を展開するギュルテンシュタイン師団と激突した。第204師団はギュルテンシュタイン師団を撃退しグロースホルン山麓を制圧したが、空陸からの激しい抵抗によって被った損害は、無視できぬ規模に達していた。
 4月25日、グリューネラント軍は戦線を突破しギュルテンシュタイン州への侵攻を果たそうと第204、第205師団をもって攻撃を行った。対するケルンテン軍はギュルテンシュタイン師団をもって防衛戦を展開し、グリューネラント軍の戦線突破を阻止した。また第205師団はこの戦いの最中にブラウフリューゲル管区航空隊からの空襲を受け、多大な損害が発生した。
 27日になると、エステンド師団壊走のため宙に浮いていたウービルト『グングニール』がギュルテンシュタイン師団へと配備された。同師団は早速このウービルトを第204師団との戦闘へと投入し、これを壊走させた。第205師団も突破を図っていたが、第204師団の壊走と自身の損害を鑑み、29日を持ってギュルテンシュタイン州への侵攻を諦め、ホファー村近郊まで後退した。
 こうしてレーゲンフリート湖畔で3個師団が激突した戦いは、ケルンテン側が劣勢であったにも関わらずウービルトの威力もあって2個師団を撃退し、同軍の勝利に終わった。



12.1.3 グラネックの戦い(1938/04/25〜28)

 ヴァルデガルトを目指して田園街道を南下する第1師団と、これを阻止せんとするミッテルケルンテン師団とが4月25日にグラネック近郊で激突した。両者の攻防は4日間に渡り続いたが、29日に損害の大きかった第1師団が後退したため、ケルンテン側の勝利に終わった。もっともこの直後、後退した第1師団は近衛騎士団の包囲に加わっているため、あくまでも局地的な勝利に過ぎないものではあるが。



12.1.4 ザンクト・レオンハルトの戦い(1938/05/03)

 5月2日までに近衛騎士団を殲滅させたグリューネラント軍は、ケルンテン公国首都ラヴァンタールへと侵攻するため、第2師団を南下させた。一方のケルンテン軍はこれを阻止するために、ラヴァンタールにて再編成を終えたばかりの国際旅団、そしてディートリヒシュタイン師団を北上させた。これにより、5月3日にザンクト・レオンハルト近郊にて遭遇戦が発生した。この戦闘では第2師団が第3、第4両戦闘航空団の支援を受けられた上に、ディートリヒシュタイン師団による国際旅団への誤攻撃が発生したため、ケルンテン側が撃退される事なった。
 しかしグリューネラント軍は5月5日に方針を転換し、南ゴートイェーク−ミッテルケルンテン州境の防衛を強化するため、第2師団をヂェングリーゲル山麓へと後退させた。これによって、グリューネラント軍によるラヴァンタール侵攻は幻へと終わった。



12.1.5 ケルンテン一斉攻勢(1938/05/05〜)

 5月5日になると、レーゲンフリート湖畔、メルゼ河畔、そして(結果的に)ザンクト・レオンハルトでグリューネラント軍の撃退に成功したケルンテン軍は、ブリクシア師団を先頭にして、さらにグリューネラント軍の追撃を開始した。グリューネラント軍は南ゴートイェーク−ミッテルケルンテン州境のミッテルケルンテン州側で防衛線を展開したが、連日の戦闘と対近衛騎士団戦で疲弊していた第1師団は、ブリクシア師団の奇襲を受け壊走した。ギュルテンシュタイン師団は正面の第205師団を相手に小競り合いを繰り返したが、この一連の戦いでウービルト『グングニール』がグリューネラント軍ウービルト『ガルム』に撃破され大破し、ウービルト再生研究班で大修理を受けるために後送された。

 7日になると、グリューネラント軍はウービルト『グレンデル』と『アルヌルフ』を先頭に戦線西端で反撃を行い、ギュルテンシュタイン師団を壊走させた。しかし、ケルンテン航空部隊の連日の爆撃によって疲弊していたグリューネラント軍ウービルト戦隊シュヴァルツ・ガイストも、ブリクシア師団の攻撃によって壊走した。そのため、とりあえずウービルトは各部隊に配属して運用することとなった。その結果、『ガルム』は第2師団へ配備される事となり、既に『アルヌルフ』が配備されていた第205師団へは先日鹵獲した『グレンデル』が追加配備される事となった。

 9日になると、ウービルト2機を擁する第205師団がディンツブルクへの突破をめざして突撃を開始した。しかし、シュペーア・ウント・モーデル工場地帯北側で『スレイプニル』を先頭にしたミッテルケルンテン師団に襲撃され、第205師団は壊走した。これによって、グリューネラント軍で戦場に展開している部隊は第2師団のみとなった。また第3戦闘航空団も戦線の北上により主要根拠地を全てケルンテン軍に占領され、壊滅状態であった。
 10日の時点でケルンテン軍は、ミッテルケルンテン州全域を完全に回復した。これによって第2次ミッテルケルンテン会戦はケルンテン軍の勝利に終わった。しかし、勝ったとは言え、ケルンテン軍そしてケルンテン公国が失ったものは、あまりにも大きかった。



12.2 第4次南ゴートイェーク会戦(1938/05/11〜14)

 5月11日、ケルンテン軍は遂に、南ゴートイェーク州への大反攻作戦を開始した。西からミッテルケルンテン師団をアルトリンゲンへ、ブラウフリューゲル師団をホットゲーベルへ、ブリクシア師団をブリューネルへ、そして国際旅団をヴァルトリンケ航空基地へ向け、一斉に越境させた。グリューネラント軍は第2師団をもってヴァルトリンケに迫る国際旅団とディートリヒシュタイン師団を迎え撃ったが、ウービルトの運用に慣れていなかったこともあって撃退された。しかし、国際旅団も3個戦闘航空団からの空襲を受け、大きな損害を負った。

 13日までに当初目標を達成したケルンテン軍は、中央部からブラウフリューゲル師団、ブリクシア師団を進撃させ、ロックシュタインそしてナーベルブルクへの進撃を画策した。なお、同士討ちを多発させたディートリヒシュタイン師団はケルンテン公から謹慎を命じられたため、戦域を離れる事となった。

 一方グリューネラント軍は再編成がなったばかりの第3師団と第204師団を戦域へ急行させ、何とか戦線を構築する事に成功した。しかし、中央部に配された第2師団は、ニャウクタブルク南方でのブラウフリューゲル師団との交戦で壊走した。グリューネラント軍は第3師団と第204師団を延伸させ中央部に開いた穴を何とか塞いだが、充足率の高くない師団2個で広大な地域を守らなければならないため、その防衛線は非常に脆いものであった。

 なお、このケルンテン軍地上部隊の侵攻により、第3戦闘航空団に続き残る全てのグリューネラント空軍戦闘航空団が前線基地を失い壊滅状態となった。



12.3 航空戦

 ケルンテン陸軍航空隊は、先月期のラヴァンタール爆撃を受けて首都管区航空隊の早期警戒能力を強化し、爆撃機5機を電探装備の早期警戒型へと改造した。また、首都管区航空隊の半数をラヴァンタール防空へと当てる事とした。
 一方グリューネラント空軍は先月期のラヴァンタール初空襲が忘れられないのか、同都市に対する爆撃作戦を複数立案し、その他にもミッテルケルンテン州内の施設への爆撃作戦も立案していた。また当月期よりグリューネラント空軍へは新型戦闘機『He100G−1ローエングリン』の配備が始まり、その空戦能力を大幅に向上させると共に、爆撃作戦での制空・護衛能力を向上させていた。
 その結果、当月期はラヴァンタール空域で大規模な空戦が発生している。

 また下記にあげる航空作戦のほかにも、第4戦闘航空団による近衛師団への夜間爆撃や、ブラウフリューゲル管区航空隊によるブラウフリューゲル師団およびミッテルケルンテン師団の両地上部隊の支援作戦、第1戦闘航空団による第204師団と第205師団への支援作戦などが実施されたが、何れも十分な戦果を挙げる事が出来なかった。第4戦闘航空団では『ローレライ』を利用した爆撃作戦も計画されていたが、同航空隊司令が「化学兵器やアーネンエルベの兵器は使わない」との方針を打ち出したため中止された。

 しかし、当月期にグリューネラント空軍への最大の損害を与えたものは航空作戦では無く、戦線の移動であった。グリューネラント陸軍の戦線が大きく後退したため、各航空団が設定していた前線拠点基地が全てケルンテン軍に占領され、地上の設備および機材を大量に喪失したのであった。これによりグリューネラント空軍は壊滅状態となり、再編成を行ってもその戦力は当月期開始時のおよそ半分であろうと見積もられていた。



12.3.1 シュペーア・ウント・モーデル工房爆撃(1938/04/25)

 グリューネラント空軍は4月25日に第1戦闘航空団(実施作戦名「金狐」)と第4戦闘航空団(実施作戦名「フレスベルグ」)の協同による、シュペーア・ウント・モーデル工房爆撃を実施した。作戦内容は、まず第1戦闘航空団が第1次攻撃隊として制空および対空陣地の破壊を行い、次に第4戦闘航空団のナイチンゲール中隊2個が工場施設の爆撃を行うと言うものであった。
 作戦は計画通りに展開し、第1次攻撃隊は邀撃の戦闘機を全て撃墜した上で滑走路上の戦闘機10数機破壊(実際は5機)を報告している。その後侵入した爆撃隊によって滑走路と生産工場が破壊され、同社での生産は完全に停止した。なお研究施設への損害は無かったため、同社で行われていた新型戦闘機開発は予定通り進捗している。



12.3.2 ラヴァンタール爆撃(1938/04/27,05/07)

 当月期にはラヴァンタールに対する爆撃だけで、3つの作戦が立案された。
 まず4月27日に実施された「啄木作戦」であるが、これは、戦闘機中隊4個、急降下爆撃機中隊2個、双発爆撃機中隊2個をもってヴァルデガルトとラヴァンタールを爆撃する作戦というものであった。しかし先月期の損害による戦力不足のため、投入戦力は急降下爆撃機中隊1個、双発爆撃機中隊2個へと削減された。しかも、護衛戦闘機なしで実施された爆撃行は、その航路が首都管区航空隊の重点防衛空域であったため、目標空域へ辿り着く前に大きな損害を出して撤退している。

 続いて5月7日には「ナイチンゲール作戦」と「祝祭の演劇作戦」が実施された。この作戦は別々に立案されたものであったが、目標が共にラヴァンタールであったため同時に実行される事となった。なお「ナイチンゲール」は双発爆撃機中隊3個と護衛の新型戦闘機(投入数不明)をもって夜間爆撃を行う作戦で、「祝祭の演劇」は戦闘機中隊1個を市街地への降伏勧告ビラ投下を目的とした作戦であった。だが「ナイチンゲール作戦」は先の「啄木作戦」と同じく想定航路が首都管区航空隊の重点防衛空域であったため、目標空域へ辿り着く前に大きな損害を出して撤退している。一方「祝祭の演劇作戦」はラヴァンタール上空への侵入に成功しビラを投下したが、邀撃によって3機が撃墜された。

 以上の様に、今月期のラヴァンタールへ対する爆撃は、事実上の失敗であった。



12.3.3 ハイデンポイント爆撃(1938/04/30)

 第3戦闘航空団は4月30日、ヴァルデガルト工科大学の装甲戦闘猟兵研究室が疎開しているハイデンポイント分校に対する爆撃作戦を実行した。この作戦には戦闘機中隊2個が投入されたほか、第4戦闘航空団から借り受けた双発爆撃機中隊1個も投入された。爆撃隊は途中で邀撃を受ける事もなくハイデンポイント上空へ到達し、全機が投弾後、無事に帰還した。
 この爆撃によってハイデンポイント分校は破壊されたが、ケルンテン政府の公式発表では「爆撃により行方不明者多数。ただしヴィンケルマン博士たちは無事。彼らは安全な場所に移された。研究所跡の現場は危険なため、立ち入り禁止」となっている。実際、十三博士らはその後も装甲戦闘猟兵の研究を続けているため、無事であった様である。



12.3.4 グリューネヴァルト研究所爆撃「ホーリーバード」作戦(1938/05/10)

 5月10日、国際旅団経由で入手された4機のB−17をもって、新型爆弾の開発が行われているジルヴァ州のグリューネヴァルト国立科学研究所を爆撃する『ホーリーバード作戦』がギュルテンシュタイン管区航空隊によって実行された。同研究所に対する爆撃は以前より行われていたが、正確な位置を特定できず何ら損害を与えられないでいた。しかし今回の爆撃では、内通者による電波誘導が行われるため、爆撃目標を確実に捕捉できる予定であった。午前4時、電波誘導により目標上空にまで到達した4機は、邀撃により全機が撃墜されるも目標の爆撃に成功し、同研究所を完全に破壊した。
 しかしこの作戦は、日時から誘導に使われる周波数まで全てがドイツ側に露見していた。しかも、ドイツはグリューネラントへの偽装工作のためにこの作戦を利用していた。5月6日に完成していた新型爆弾やウラニウムは秘密裏に移送され、研究所に残されていたものはダミーの爆弾であった。しかも、撃墜されたB−17のうち、比較的損傷の少なかった1機が鹵獲され、逆に新型爆弾搭載機へと改造される事になった。



12.3.5 南ゴートイェーク州総督府爆撃

 ギュルテンシュタイン管区航空隊は、爆装した戦闘機2機をもって、南ゴートイェーク州総督府を爆撃する作戦を実行した(実施日時不明)。2機の戦闘機は無事にナーベルブルクへ到達し総督府への投弾を行ったが、施設の一部を破壊したのみで総督府の機能そのものが失われる事は無かった。



12.3.6 NIGHTHAWKS作戦

 ギュルテンシュタイン管区航空隊では、グリューネラント軍司令部に対する爆撃作戦が立案された。だが爆撃を実行する前にまず、司令部の位置を特定する必要があった。そのため、同航空隊ではまず司令部捜索のために戦闘機を夜間偵察へ投入した。しかし、単座機での夜間航法には無理があり事故による損害が多発、結局は司令部を発見できないまま作戦は中止された。



12.4 アドリア海の戦い

 当月期初頭にケルンテン海軍では河川砲艦シュマックハフトが再就役し、グリューネラント海軍では新たに潜水艦が1隻配備されるなど、両海軍共に戦力の拡充に努めていた。そして両海軍は奇しくも同じ4月30日に、各々の本拠地を襲撃しあう事となった。



12.4.1 第1次マインファルケン港襲撃戦

 4月30日の深夜、グリューネラント海軍は潜水艦1隻と水中用装甲戦闘猟兵1機をもってマインファルケン港を襲撃した。一方ケルンテン海軍は「ケルベロス」作戦へ戦力の大半を投入していたため、湾内には哨戒艇1隻が存在したのみであった。この襲撃でグリューネラント海軍は哨戒艇1隻、大型タンカー1隻、大型貨物船2隻、小型貨客船1隻を撃沈する戦果を上げ、潜水艦が小破する損害を受けた。



12.4.2 第1次トーテンコプフ襲撃戦

 ケルンテン海軍は、グリューネラント海軍の撃滅を狙った「ケルベロス」作戦を実施した。この「ケルベロス」作戦は今までの消極策とは異なり、西トーテンコプフ島そのものを襲撃すると言う、今までにない積極的かつ大胆なものであった。その内容は陸軍航空隊が焼夷弾で地上施設を焼き払った上で海軍陸戦部隊が上陸を行うと言う、初の陸海軍協同作戦である。この作戦へケルンテン海軍とブラウフリューゲル管区航空隊は戦闘機5機、爆撃機4機、特設巡洋艦1隻、小型艇4隻、防水型エカテリーナ2機を投入した。
 ケルンテン軍はまず航空爆撃により高射砲陣地1基と要塞砲1基を破壊したが、対空砲火によって全機が損傷し、うち爆撃機1機が撃墜された。また特設巡洋艦の砲撃によって複数の砲兵陣地を破壊したものの、要塞砲の直撃を受けて浸水が発生した。沈没を防ぐために海岸に乗り上げたが集中砲火により弾薬庫への直撃を受け爆散した。乗員は上陸して陸戦を行ったが、機関銃陣地と装甲戦闘猟兵1機から攻撃を受け、大半が戦死した。なお生き残った乗員は小型艇に救助され脱出した。
 一方、2機の防水型エカテリーナは地下軍港へ潜入した。しかし、グリューネラント海軍の迎撃によって撃破され、施設や艦艇の破壊を行うことは出来なかった。
 この襲撃戦はケルンテンの敗北であったが、グリューネラント海軍も多数の工員が死傷した上に、施設にも復旧に2ヶ月を要する損害を受けた。



12.5 潜水艦建造疑惑事件

 事が発覚したのは4月期であった。ミッテルケルンテン師団長が民間企業2社に対して、秘密裏に潜水艦の建造を発注したのであった。これを察知した海軍が越権行為であると訴え、さらにこの建造計画は陸軍の与り知らぬところであったため、師団長個人に対して高等軍事会議にて問責が行われたのだ。
 この席で師団長の行為は越権であり彼の有責であると認められ、さらには国家財政を圧迫させる破壊工作を行うグリューネラントの工作員ではないかとの嫌疑すらかけられた。そして師団長には事態の処理と高等軍事会議への弁明が求められた。

 そして5月期の高等軍事会議にて師団長は弁明文を提出した。だがその内容はグリューネラントの工作員ではない事を明確にしていないものであった。そのため彼の嫌疑は晴れず、30日間の猶予と彼自身による後任選定が認めた上で師団長職を更迭する事が確定した。これは寛大な処置がとられた訳では無く、工作員嫌疑による師団長更迭が連続したのでは士気に与える影響が大きいとの判断から、「更迭」ではなく「交代」という形をとりたいと配慮されたためであった。



12.6 5月期総括

 当月期の終了時点のケルンテンを見ると、グリューネラント軍をミッテルケルンテン州から駆逐したことで軍事的に勝利したと言える。しかし、公位継承第1位である公子がグリューネラントに捕らわれた事は、今後の経緯を見ても致命的な失点であった。

 一方のグリューネラントを見てみると、ケルンテン軍が前線へ3.5個師団と予備の1個師団を展開していたのに対して、グリューネラント軍は前線に2個師団しか存在しておらず、予備も再編成を終えたばかりの師団が1個存在するのみであった。更に空軍は全航空団が前線拠点基地を失った事により壊滅状態となっていた。また戦線の推移を見ても、一時はエステンド州にまで達したが、最終的には南ゴートイェーク州内へと押し込まれている。以上からグリューネラント軍は当月期をもって攻勢限界を超え、衰退期へと突入したと見て良いであろう。また政治的な面を見ても、ケルンテン公国の世継を捕虜とした事は大金星と言えるが、新型爆弾の一件などを見るにドイツからの切捨てが始まったとも考えられる。

 この様に当月期はケルンテン軍とグリューネラント軍の攻勢が入れ替わる硅緑内戦での大転換期であったが、同時に両国共が破局へと向かい始めた第一歩でもあった。



1938年5月期中の兵力推移近衛騎士団、ディートリヒシュタイン師団、シュヴァルツ・ガイスト除く)
ケルンテン グリューネラント
期首
残存 Es,Mk,Gs,Bf 1,2,3,204,205,Pt
再編中 Br,国際
期中
壊走 Es(04/25),Gs(05/07) 3(04/25),Pt(05/03),205(05/09),2(05/14)
再編完了 Br(05/03),国際(05/03),Es(05/09) 3(05/09),204(05/11),1(05/14),Pt(05/14)
期末
残存 Es,Mk,Br,Bf,国際 1,3,204,Pt
再編中 Gs 2,205



第13章 1938年6月期(1938/05/15〜06/14)

 6月期の開始にあたって、ケルンテン陸軍総司令部は先月期の攻勢で伸びきった補給線を整理するため前線を維持し、戦機あれば戦線を押し上げるという堅実案を採っていた。一方グリューネラント軍総司令部は、戦線に残った師団2個で当初は防備を固め、他の師団が戦線に復帰したならばその師団を戦線維持に充てた上で、状況の許す限り局地的な攻勢に出てケルンテン戦力を殺ぐという方策を採っていた。だがグリューネラント軍は税収の不足から補給状態が逼迫しており、先月期の壊走もあってその実戦力はかなり低くなっていた。
 この両軍の方策を見る限り大きな戦線移動は発生しない様に思われる。しかし事態は、両軍共が全く予想しえなかった方向へと転がっていくのであった。



13.1 第5次南ゴートイェーク会戦(1938/05/15〜06/14)

 第5次南ゴートイェーク会戦は大きく分けて3つのフェイズで構成されていた。まずはロックシュタイン〜ナーベルブルク〜レッホフシードルング地域での戦闘、次にシュヴァルツ・ガイストによる破壊工作、そしてグリューネラント戦線の崩壊である。これらを基本的に時系列に沿って紹介させて頂きたい。



13.1.1 ナーベルブルク攻防戦(1938/05/19〜05/24)

 5月15日、グリューネラント軍は劣勢な状況を鑑み、一旦戦線を縮小しつつ、局地的な攻勢に出た。これによりグリューネラント軍は後背に回り込まれるといった事態は避けられた。しかし、第3師団と第204師団によるブラウフリューゲル師団挟撃の際に、第3師団はニャウクタブルグ周辺にて移動中であったエステンド師団に側面を攻撃され、さらにケルンテン陸軍航空隊全隊による襲撃を受けて、かなりの損害を被った。またロックシュタインへ進撃中だったブラウフリューゲル師団はこの挟撃を跳ね除け、逆に第204師団へ打撃を与えたが、第1戦闘航空団による空襲で大きな損害を被った。一方、戦線南部では戦闘は発生せず、ケルンテン軍はツィクレーエンを無血占領、ヴァルトリンケ航空基地を確保した。

 5月17日、ケルンテン軍は、ツェメント−ニャウクタブルク間にてエステンド、ミッテルケルンテン、ブラウフリューゲルの3個師団をもって第3師団を包囲、攻撃した。ブラウフリューゲル師団に至っては近衛騎士団より臨時貸与されたウービルト『ベイオウルフ』をもこの戦闘へと投入していた。しかし何故か戦闘は小競り合いに終始し、両軍とも大きな損害は発生しなかった。再編成が成ったばかりのパンテル軍団は第3師団を救出すべく猛進したが、ケルンテンが巧みな機動運動を行ったため、背後からの攻撃は空振りに終わった。

 戦線東部では第204師団がツィクレーエン奪回を目指し進撃、同市を奪回したがその南西で防衛線を展開していた国際旅団と激突し、多大な損害を受けた。一方、前日までツィクレーエンを確保していたブリクシア師団はというと、進撃してくる第204師団を迂回して通り抜け、その背後のロックシュタイン南方へと進行していた。ケルンテン軍(というよりもブリクシア師団の独断の様だが)はツィクレーエンを囮とする事で、戦線突破に成功したのであった。

 19日になると、後方へと回り込んだブリクシア師団はそのまま無人の野を進撃し、遂にナーベルブルクを占領した。これによって第2戦闘航空団は2つ設けられた主要前線基地の片方を放棄しなければならなくなり、後退作業のために出撃を行えない状況となっていた。
 ツェメント近郊では第3師団がブラウフリューゲル師団に対して突撃を行ったが、ブラウフリューゲル師団は北上してこれを回避したため、突撃は空振りに終わった。グリューネラント軍はブラウフリューゲル師団の再南下を警戒し、ツィグレーエンを放棄して第204師団を北上させた。この一連の動きによって戦線は、南ゴートイェーク州の中央を流れるホルツェン川に沿って形成される事となった。なおツィグレーエンは即座に国際旅団によって再占領された。
 またケルンテン軍はミッテルケルンテン師団を補給のためにアルトリンゲンにまで後退させた。その上で、再編成完了間際のギュルテンシュタイン師団をブリューネルへと移動させ、着々と攻勢準備を進めていた。なお、ミッテルケルンテン師団へはこの際、近衛騎士団からウービルト『グレイプニル』が臨時貸与された。

 21日になると、グリューネラント軍はナーベルブルクにて孤立状態にあるブリクシア師団を、再編成が完了したばかりの第1師団とシュヴァルツ・ガイスト、そしてロックシュタインから移動させたパンテル軍団をもって包囲した。また、ケルンテン軍によるブリクシア師団との連絡を遮断するため、第3師団と第204師団を北上させた。一方ケルンテン軍は、ブリクシア師団との連絡のためにエステンド師団を東進させたが、他の部隊の動きは鈍く、ミッテルケルンテン師団をニャウクタブルクまで移動させ、入れ替わりにブラウフリューゲル師団を補給のためアルトリンゲンへと後退させたのみで、他の部隊は現状維持とされた。これらの動きにより、両軍はツェメント近郊、ニャウクタブルク、そしてナーベルブルクにて激突する事となった。
 まずナーベルブルクではブリクシア師団が地上3部隊と第1戦闘航空団による襲撃を受け、多大な損害を被った。ケルンテン軍は全航空隊をこの戦いに投入して、第1師団とシュヴァルツ・ガイストへ損害を与えたが、包囲を打ち崩すほどのものでは無かった。
 ニャウクタブルクでは、補給を終え戦域へ移動するミッテルケルンテン師団と、遮断のために北上した第204師団との間で遭遇戦が発生した。ミッテルケルンテン師団はこの戦いへ貸与されたばかりのウービルト『グレイプニル』を投入し、第204師団を壊走へと追い込んだ。
 ツェメント近郊では、ブリクシア師団との連絡のため東進しようとするエステンド師団に対して、北上しようとする第3師団が攻撃を仕掛ける形となった。この戦闘は双方の痛み分けとなったが、エステンド師団は足止めを食らった形となり、ロックシュタインの手前までしか移動できなかった。

 5月23日、ケルンテン軍はブリクシア師団の損害を考慮しナーベルブルクの放棄を決定、同師団をロックシュタイン北方へと転進させた。同師団はこの際に第1師団から追撃と、第3戦闘航空団から『ローレライ』の爆撃を受けたが、何とか包囲を脱してエステンド師団との連絡に成功した。
 一方グリューネラント軍は更に戦線を縮小し、ロックシュタインからナーベルブルクに至る街道沿いに布陣して、北方のケルンテン軍へ備えた。これにより第3師団はロックシュタイン西方へと移動したが、その際にエステンド師団とケルンテン航空部隊の集中攻撃を受け、多大な被害を受けた。グリューネラント空軍もこの戦いに第1、2、4戦闘航空団を投入したが、目立った戦果は無かった。

 またこの日、ケルンテン軍ではギュルテンシュタイン師団が、グリューネラント軍では第205師団が再編成を完了し、それぞれ戦域への移動を開始した。またブラウフリューゲル師団も補給を終え、ニャウクタブルク近郊へと展開した。



13.1.2 レッホフシードルングの戦い(1938/05/25〜05/28)

 グリューネラント軍は第1、3師団を退却させる一方、第205師団をゲルランノイ方面へと進撃させる事としていた。一方ケルンテン軍は補給を終えたばかりのブラウフリューゲル師団を東進させつつ、損耗の著しいブリクシア師団を撤退させるべく西進させていた。この動きにより、これら3個師団による遭遇戦がレッホフシードルング南西で発生した。この遭遇戦によって両軍とも移動が阻害されたのみならず、ブリクシア師団は第205師団のウービルト『グレンデル』と第3戦闘航空団による襲撃を受け壊走した。

 一方ミッテルケルンテン師団と国際旅団は、グリューネラント軍の後退を受けてロックシュタインを占領した。
 27日になり、レッホフシードルングの戦いへ、ケルンテン軍がミッテルケルンテン師団と国際旅団を、グリューネラント軍が再編されたばかりの第2師団を増援として送り、戦いは更に大規模なものとなった。第205師団はケルンテン軍の増援に拘束された上に、迂回を行ったブラウフリューゲル師団の奇襲を受けて壊走した。なお第2師団は国際旅団を背後から奇襲したが、撃退された。
 だが、ケルンテン軍が戦力を北上させたためロックシュタインが空白となった事を受けて、グリューネラント軍は第1、3師団を再渡河させ、第3師団によってロックシュタインを占領した。



13.1.3 第3次ロックシュタイン攻防戦(1938/05/29〜06/02)

 5月29日、ケルンテン軍は大胆な作戦方針の転換を行い、13.1.4項にて後述するシュヴァルツ・ガイストに対処すべく防衛ラインの再編を図った。これにより各師団は後退し、エステンド師団はシュヴァルツ・ガイストの退路を断つために南ゴートイェーク−ミッテルケルンテン州境に最終防衛ラインを形成した。また他の師団はツィグレーエン、ゲルランノイ、ヴァルトリンケなどの要衝を固めた。

 一方、ケルンテン軍の方針ではロックシュタインを国際旅団にて確保する事となっていた。しかし、同旅団は南下中に北上するパンテル軍団との間で遭遇戦が発生した。国際旅団はさらに背後となる北方から第3師団による奇襲を受け、大きな損害を被った。その上、東方を第1師団に抑えられたため、31日までに国際旅団はロックシュタインにて半包囲を受ける形勢となった。

 6月1日、ケルンテン軍はロックシュタインを確保すべく、ブラウフリューゲル師団とミッテルケルンテン師団を向かわせた上で、国際旅団を後退させる事とした。一方のグリューネラント軍もロックシュタインを確保すべく、引き続きパンテル軍団と第3師団を持って攻勢を行った。これにより、ロックシュタイン近郊で遭遇戦が発生した。同市北方ではブラウフリューゲル師団と第3師団が交戦したが、双方とも大きな損害は無かった。同市近郊ではミッテルケルンテン師団とパンテル軍団が交戦した。双方ともウービルトを投入したが、ミッテルケルンテン師団は投入の機会を見誤った為に敗退し、同市はパンテル軍団が確保する事となった。なお国際旅団は無事に包囲を脱し、ツィクレーエン北方へと後退した。



13.1.4 シュヴァルツ・ガイストの跳梁(1938/05/25〜06/06)

 25日、グリューネラント軍は思い切った方策に出た。シュヴァルツ・ガイストから支援部隊を切り離し、4機のウービルトのみでケルンテンの後方へと迂回させ、破壊活動を行わせる事としたのであった。またグリューネラント軍はこれに連動して、主力部隊のドナウ川北岸退却を開始した。4機のウービルトはその圧倒的な踏破性をもって北グロイスター山脈と突破し、一気にアルトリンゲンへと到達した。ケルンテン軍司令部はこの動きに衝撃を受け、エステンド師団を追撃のために戦線から離脱させた。

 27日、シュヴァルツ・ガイストを追いかけるエステンド師団はアルトリンゲンへ到達したが、シュヴァルツ・ガイストは既にリッターシュトラーセ方面へ移動しており、同部隊はここで現地徴発を行った。さらに同部隊はシュペーア&モーデル工房を破壊し、ケルンテンの爆撃機生産を壊滅させた。ケルンテンはシュヴァルツ・ガイストの動きを警戒してギュルテンシュタイン師団をブリューネルへと後退させたが、これによって南ゴートイェーク州の南東部は空白地帯となった。

 5月29日、ケルンテン軍は大胆な作戦方針の転換を行い、シュヴァルツ・ガイストに対処すべく防衛ラインの再編を図った。これにより各師団は後退し、エステンド師団はシュヴァルツ・ガイストの退路を断つために、南ゴートイェーク−ミッテルケルンテン州境に最終防衛ラインを形成した。また他の師団はツィグレーエン、ゲルランノイ、ヴァルトリンケなどの要衝を固めた。しかしシュヴァルツ・ガイストはディンツブルクへ到着し、同市を破壊した。

 6月1日になってもシュヴァルツ・ガイストはディンツブルクへと留まり破壊活動を続けた。そのため、エステンド師団による州境警戒は不発に終わった。ケルンテン軍は更なる対策として、再編成が完了した近衛騎士団の投入を決定した。

 6月3日、ケルンテン軍は先日のロックシュタイン攻略を諦め(13.1.3項参照)、ブラウフリューゲル師団とミッテルケルンテン師団を後退させる事とした。一方グリューネラント軍は第3師団、パンテル軍団、そして戦線へ復帰した第2師団を持って攻勢に転じた。しかし第2師団はニャウクタブルク近郊でブラウフリューゲル師団の奇襲を受け、ふたたび壊走した。また、第3師団はロックシュタインを抜けニャウクタブルクへと突破を図るも、後退中のミッテルケルンテン師団との遭遇戦により阻まれた。パンテル軍団は国際旅団を追撃すべく南下したが、国際旅団の後退は予想以上に迅速で、これを捕らえる事ができなかった。

 またケルンテン軍はエステンド師団にシュヴァルツ・ガイスト討伐を命じ、同師団をディンツブルクへ移動させた。そして州境の警戒線は、後退したミッテルケルンテン師団と国際旅団が引き継いだ。しかし、4日にエステンド師団と近衛騎士団がディンツブルクへ到着すると同市にはシュヴァルツ・ガイストの姿は無かった。シュヴァルツ・ガイストは既にネーベルブルクへ移動していたのだった。

 6月5日、ケルンテン軍は2重の防衛ラインを州境に形成し、グリューネラント軍の侵攻に備えた。グリューネラント軍も戦線を整理、ニャウクタブルクからツィクレーエン西方にいたる防御ラインを展開してケルンテンの出方を窺った。そのため2日間に渡って、両者間での地上戦は途絶える事となった。

 一方シュヴァルツ・ガイストであるが、6日にネーベルブルクにて謎の壊滅を遂げた。正規軍との交戦による壊滅では無いため正確な記録が残されていないが、同市にあるアイヒマン記念館にて展示されていた不稼動ウービルト『ギャラホルン』が突然動き出し、シュヴァルツ・ガイストを壊滅させたとする逸話が残されている。この話の信憑性は判らないが、エステンド師団と近衛騎士団が同市へ到着した時点では、同市からシュヴァルツ・ガイストとウービルト『ギャラホルン』が消え去っていた。
 この事件により、ケルンテン軍はシュヴァルツ・ガイストによる危機は去ったものと判断し、エステンド師団を戦域へと差し戻す事とした。



13.1.5 ケルンテン攻勢とグリューネラント戦線崩壊(1938/06/07〜)

 6月7日、後方の憂いが去ったケルンテン軍は、JG1による補給遮断作戦に苦しみつつも北からブラウフリューゲル師団、国際旅団、ギュルテンシュタイン師団を並べて攻勢に転じた。一方のグリューネラント軍も北から第3師団、パンテル軍団、第1師団を並べ、戦線の漸次前進を企図した。ケルンテンの攻勢は北方を中心として前進し、ブラウフリューゲル師団と国際旅団による挟撃および航空支援によって第3師団へ大きな損害を与えた上で、ニャウクタブルクを占領した。なお南方では第1師団がツィクレーエンを占領したが、両軍間での戦闘は発生しなかった。

 9日、ケルンテン軍はエステンド師団を前進させ、北方での攻勢を強めた。そして、ブラウフリューゲル師団をもって迂回を試みた。一方グリューネラント軍も同地域にて第3師団を持ってゲルランノイへの迂回を試みていた。両者ともに迂回しあう形であったが、ケルンテン軍の迂回は「攻撃」を意図したものであるのに対し、グリューネラント軍の迂回は「戦闘回避」を意図したものであった。このため、両者間で発生した遭遇戦はケルンテン側の優勢に終わり、グリューネラント軍の迂回機動は失敗した。なお、第3師団の迂回機動によって戦線に開いた穴は、戦線復帰した第204師団によって埋められた。

 また前進していたエステンド師団は、ツェメント南方にて第1師団と遭遇し、戦闘が発生した。エステンド師団はこの戦いにウービルト『チュルヴィング』を投入した上に全航空隊からの支援を受け、第1師団を壊走させた。
 11日、ケルンテン軍は全戦線に渡って一斉攻勢を開始した。ロックシュタインに対しては北から近衛騎士団、ブラウフリューゲル師団、エステンド師団、ギュルテンシュタイン師団を差し向けた。近衛騎士団とブラウフリューゲル師団はロックシュタイン北西にて第204師団と遭遇し、戦闘が発生した。第204師団はブラウフリューゲル師団とウービルト『バルバロッサ』による攻撃を堪え切れず壊走した。ギュルテンシュタイン師団は北上中にロックシュタインの手前でパンテル軍団の防衛ラインと接触した。同師団はウービルト『エルンスト』をこの戦いへ投入し、パンテル軍団をエルンテゼーゲン村へと後退させた。なおロックシュタインは12日に、エステンド師団によって占領された。
 また南方では国際旅団が南グロイスター山脈を踏破し、一気にシュタイナーを占領した。

 グリューネラント軍は残された第3師団とパンテル軍団を後退させ、ナーベルブルクの手前に防衛線を展開した。
 13日、グリューネラント軍司令部は、ついに南ゴートイェーク州の全面放棄しドナウ北岸までの退却を決断した。だが、パンテル軍団は退却途中に国際旅団と遭遇し両者間で戦闘が発生した。この義勇兵同士の戦いは国際旅団に軍配が上がり、パンテル軍団は壊走した。もっとも、完全な遭遇戦であったためパンテル軍団は装備、人員の多くを渡河に成功させていた。唯一無事に渡河を成功させた第3師団は、ドナウ北岸全域に防衛線を展開した。また第205師団がシュヴァルツヴァッサーにて再編成を完了した。
 ケルンテン軍は12日に、空白となったナーベルブルクをエステンド師団とギュルテンシュタイン師団をもって占領し、遂に内戦勃発時の状態へと支配域を回復した。



13.2 ブリクシア解放戦線蜂起

 6月13日、ブリクシア州の州都ロムランで暴動が発生した。ブリクシア州では度々暴動が発生していたため、駐留するブリクシア師団留守部隊も当初はすぐに鎮圧できるものと考えていた。だが今回の事件は、陽動による鎮圧部隊の誘引や、軍の指揮系統に対する妨害が行われるなど、従来の暴動とは性格が大きく異なるものであった。そして同日夕刻、ブリクシア州庁舎、ロムラン警察署、そしてランズベルク伯の居城レフォルマァ城が武装集団に制圧され、公務員や警察署長そしてランズベルク伯が人質に取られた。人質が発生した事でブリクシア師団留守部隊はこの事件を単なる「暴動」では無いと判断し、早期鎮圧を諦め態勢を立て直すためにロムラン市から撤退した。
 14日午前2時頃、『ブリクシア解放戦線』と名乗る集団が、ブリクシアの分離独立と侵略者ケルンテン人の追放を謳う宣言文を州内のマスコミ各社へと送達した。
 こうして、後のケルンテン公国消滅まで尾を引く事となる、ブリクシア独立闘争が勃発した。最も、グリューネラントの独立闘争とは異なり駐留軍が協力していないため、「内戦」と呼ばれるほどの規模にはならなかったが。



13.3 ゲッテルマシーネン部隊壊滅

 5月31日、ラヴァンタール市内に潜伏し度々破壊活動を行ってきたゲッテルマシーネン部隊であるが、遂に潜伏場所を突き止められ、破壊活動から帰還したところを襲撃され壊滅した。
 ゲッテルマシーネン部隊はその度重なる破壊活動でラヴァンタール市民を恐怖に陥れたが、部隊が小規模であったため、本来は前線に赴くべき戦力を多少なりとも誘引する効果はあったが、戦略的な効果を発揮するまでには至らなかった。



13.4 ミッテルケルンテン師団長捕獲作戦

 5月30日未明、夜陰に紛れて降下を行ったグリューネラント軍の空挺人形団が、ミッテルケルンテン師団長を捕獲するという秘密作戦を実行した。空挺人形団は師団司令部への侵入に成功し師団長の捜索を行った。だが彼らは師団長である人物を発見していたのだが、その直前に師団長が交代していた事実を知らなかったため師団長だと認識できず、見逃してしまった。そのため、成果の無いまま撤退する事となった。



13.5 ヘルツォークトゥン騎兵旅団再編成

 6月1日、内戦勃発初頭に壊滅したヘルツォークトゥン騎兵旅団がミッテルケルンテン歩兵師団の麾下組織として再編成された。この時点では従前の規模に届いていないが、従来の騎兵中心とした編制から装甲戦闘猟兵を中心とした編制へと改められるなど、大規模な近代化が行われていた。



13.6 航空戦

 当月期のケルンテン陸軍航空隊は各部隊がグリューネラント空軍による戦略爆撃を警戒して(シュペーア・ウント・モーデル工房のある)リッターシュトラウセからラヴァンタールにかけての工業地帯を警戒空域としていた。またこれとは別にグロイスター山脈からシュヴァルツヴァッサーに至るまでの攻撃空域が設定され、特にシュヴァルツヴァッサーに対しては大規模な爆撃作戦が計画されていた。
 一方のグリューネラント空軍は先月期に前線拠点基地を失った事で壊滅状態となっていたが、脱出に成功した機材や後方に残されていた機材を用いて再編成を行い、当月期当初から何とか作戦行動を行えるまでにはなったが、その戦力は大幅に低下していた。また、第2戦闘航空団が過半数をシュヴァルツヴァッサーの防空へ展開していた他は、全てが南ゴートイェーク州内へ主要拠点を設けていた。そして双発爆撃機によって戦線後方の補給路を襲撃する作戦が計画されていた。
 この様に当月期の航空戦は、両軍共に後方への爆撃と、逆に敵軍による後方への爆撃を阻止する事を目的として推移していった。



13.6.1 『パウケン・シュラーク(太鼓連打)』作戦

 首都管区航空隊では当月期に、各師団へ地上管制官を派遣し緊密な対地支援戦術を行う『パウケン・シュラーク』作戦を実施した。この作戦には戦闘機中隊6個、戦闘爆撃機中隊3個、爆撃機中隊4個が投入され、地上部隊の快進撃を支援した。



13.6.2 ビーネン・ヴァーベ(蜂の巣)作戦(1938/05/17)

 ブラウフリューゲル管区航空隊では、南ゴートイェーク州内に存在するグリューネラント空軍基地を殲滅する『ビーネン・ヴァーベ(蜂の巣)』作戦を立案していた。しかし、グリューネラント空軍は先月期に最大の拠点であるヴァルトリンケ航空基地を失ったため、各地に分散配置を行っていた。このため、ブラウフリューゲル管区航空隊は襲撃すべき目標と特定できないでいた。5月17日にようやく絞込が完了し基地襲撃が行われたが、その基地は既に引き払われた後であり空振りに終わった。
 その後は、地上部隊の快進撃もあって攻撃目標そのものが消滅したため、作戦は中止された。



13.6.3 シュヴァルツヴァッサー油田夜間爆撃作戦『百鬼夜行』(1938/05/26)

 ギュルテンシュタイン管区航空隊はその戦力の7割を投入してシュヴァルツヴァッサー油田の夜間爆撃を行う『百鬼夜行』作戦を立案した。このシュヴァルツヴァッサー油田はまさにグリューネラントの生命線と言えるもので、ドイツもこの油田があるがためにグリューネラントへの支援を行っていたと言っても過言ではないだろう。当作戦はこの最重要施設を破壊する事で、グリューネラントの息の根を絶つ事を目的とした、ケルンテン軍が始めて実施する戦略爆撃作戦であった。なおこの作戦には首都管区航空隊からもエースのみで構成された戦闘機部隊が投入されていた。

 だがこの作戦は大規模なものであった事が仇となり、その実施がグリューネラント軍にも察知されていた。グリューネラント空軍司令部は対抗策として第2戦闘航空団に対して総戦力の2/3にも達する2個飛行隊(8個中隊104機)を油田防衛へと宛てる命令を下達し、同地へと展開させた。その結果、シュヴァルツヴァッサー空域では大規模な空戦が行われる事となった。

 作戦の結果、ギュルテンシュタイン管区航空隊は戦闘機2機と爆撃機2機を撃墜されたが、施設へはパイプラインの一部と精製施設に軽微な損害を与えたのみで操業を停止させる事は出来なかった。一方、第2戦闘航空団は戦闘機6機を撃墜される損害を出したが、施設への損害を最低限へ抑える事に成功した。もっともこれは、邀撃そのものよりも夜間爆撃のために精度が十分でなかった事の方が影響していた様だ。



13.6.4 『堕天使の鉄槌』作戦

 グリューネラント空軍は、南ゴートイェーク州中央にまで進入してきたケルンテン地上軍に対し協調して、これ以上の進軍を食い止めようという共同作戦『堕天使の鉄槌』を立案した。この作戦では地上支援も行われるが、主に双発爆撃機にて継続的に戦線後方へと侵入しケルンテン軍補給路の襲撃に重点が置かれていた。またこの作戦は主に第1戦闘航空団と第4戦闘航空団によって実施されたが、5月20日から6月12日にかけては第3戦闘航空団も投入された。

 この作戦によってケルンテン軍は5月25日頃より補給状態が悪化していき、さらにはシュヴァルツ・ガイストの破壊活動に後方の輸送網に大きな打撃を受けた。だが戦力に比較的余裕のあったケルンテン軍は、補給網防衛対策としてエステンド師団を後退させると共に、他の師団も順次後退して補給を行うことで補給線の短縮と防衛に成功した。またその後にケルンテン地上部隊がナーベルブルクにまで進撃した事により、またしても各航空団が主要拠点を失ったため、作戦の実施は不可能となった。

 以上の様に本作戦はケルンテン軍に対してある程度の効果を挙げたが、時機を逸していたため戦局を挽回するには至らなかった。



13.6.5 『ローレライ』本格投入

 第3戦闘航空団では当月期より特殊爆弾『ローレライ』の本格投入を決定した。しかしこの決定に反対する隊員による出撃拒否や、不発弾が多発した事などにより戦果は挙がらなかった。また同航空団では5月17日に発煙弾と臭気爆弾を使用した爆撃作戦も行われたが、こちらも戦果は挙がらなかった。



13.6.6 ジェット機初飛行(1938/05/26)

 5月26日、シュペーア・ウント・モーデル工房にて世界初となるジェットエンジン(双発ジェット戦闘機)による動力飛行が実施された。まず同社所属のテストパイロットによって30分ほどの飛行が行われ、着陸して点検が行われた後に、軍のパイロットによる試験飛行が行われた。この試験飛行で同機は水平飛行で843km/h、緩降下で920km/hという当時としては破格の速度記録を達成した。なおこの機体は試験飛行を行った軍のパイロットへと進呈されたため、世界で始めて実戦配備されたジェット戦闘機となった。



13.7 アドリア海の戦い

 当月期にアドリア海では3つの海戦が、しかも同じ5月31日に発生した。これらの戦いを発生順に紹介したい。



13.7.1 第1次輸送船団襲撃戦

 グリューネラント海軍・海賊の航路襲撃を阻止する事が出来ないケルンテン海軍は、広く薄く艦艇を配置する従来の方針を転換し、輸送船団を結成してこれを集中的に護衛する事とした。護衛艦艇は第1戦闘艦隊を主力として特設巡洋艦2隻、輸送艦1隻、小型艇4隻が投入された。
 この輸送船団には12隻の商船が参加する事となり、5月20日の早朝にマインファルケンを出港した。この往路船団は襲撃も受ける事無く航海を続け、29日にギリシャ近海で解散した。そして引き続きマインファルケンへ向かう船舶を集めて復路船団が編成された。しかし、グリューネラント海軍は24日時点で輸送船団を発見しており、ケルンテンへ物資を運ぶ復路船団を攻撃すべくその航路上で潜水艦2隻が待ち伏せしていた。
 1938年5月31日、2隻の潜水艦は輸送船団を発見した。2隻はこれに対して雷撃を行い計5隻の商船を撃沈すると、そのまま最大潜航深度まで潜り、爆雷をやり過ごそうとした。一方、ケルンテン海軍は水中雑音のため潜水艦を補足できず、2時間にわたって爆雷攻撃を行ったものの潜水艦に損害を与えることすら出来なかった。
 こうして、輸送船団を巡る最初の攻防はグリューネラント海軍側の一方的な勝利に終わった。



13.7.2 第2次トーテンコプフ襲撃戦

 ケルンテン海軍は、先月損害を与えた西トーテンコプフ島に止めを刺すべく、再度の襲撃作戦を実行した。だが船団護衛に戦力の大半を投入していたため、その投入戦力は、戦闘機4機、哨戒艇2隻と非常に少ないものであった。また、今までの作戦は夜間に実施されていたが、今作戦は航空隊の利便を考えてか白昼に実施された。
 しかし、少数での白昼攻撃はやはり無謀であった。航空部隊はたちまち高射砲の集中砲火を受け、攻撃できないままに損害を受け引き返す事となってしまった。さらにその際、空戦で1機撃墜された。
 海上部隊はさらに無謀であった。哨戒艇の火力では不十分と考えたケルンテン海軍は、哨戒艇3号と4号の間に板を渡して連結し、その板の上に15センチ砲を設置していた。しかし双胴船に改造したところで哨戒艇に15センチ砲は過大すぎ、砲撃は全く安定していなかった。逆に要塞砲からの集中砲火を浴び、3号艇と4号艇ともに爆沈した。
 ケルンテン側は投入戦力の大半を失う大損害を受けたが、グリューネラントには全く損害が無いと言う一方的な結果に終わった戦闘であった。なお、ケルンテン海軍は方針を転換してトーテンコプフ諸島に対して攻撃を行わない事としたため、これが最後の西トーテンコプフ島襲撃となった。



13.7.3 第2次マインファルケン港襲撃戦

 グリューネラント海軍は先月に続き、新たに配備された潜水艦1隻と水中用装甲戦闘猟兵2機をもってマインファルケン港を襲撃した。一方、ケルンテン海軍側は先日編成された輸送船団に艦艇の大半を割り振っていたため、湾内で活動を行っていたのは1機の防水型エカテリーナのみであった。
 グリューネラント海軍は2機の水中用装甲戦闘猟兵をもって防水型エカテリーナを前後から挟み撃ちにした。防水型エカテリーナの反撃で1機に損害が出たものの、2機がかりで四肢を切断して無力化する事に成功した。この後、潜水艦は脅威の無くなった湾内で大型貨物船1隻と中型タンカー1隻を撃沈した。

 以上の様に、当月期におけるアドリア海での戦いは、全てグリューネラント海軍の勝利に終わった。



13.8 6月期総括

 グリューネラント軍がドナウ北岸へと撤退し、ケルンテン軍がナーベルブルクを占領した事で、戦線は遂に内戦勃発時の状態にまで指し戻る事となった。だが、グリューネラント側で戦線を構成するものは第3師団のみで、その戦力は勃発時とは比べるべくも無く衰退していた。その戦線は、ドナウという天然の要害によって、何とか支えられていたのであった。またグリューネラント空軍も先月に引き続き主要前線拠点を失ったため壊滅状態となった。ただし第2戦闘航空団だけは、空軍司令部の命によりその戦力の過半数をシュヴァルツヴァッサーへ展開していた事が幸いし、他の航空団と比較すると低い損害に収まっていた。
 しかしケルンテン側も、北ゴートイェーク州内へと侵攻する事がドイツによる直接的な介入の引き金に成りかねないと言う危惧があり、これ以上の進撃へ躊躇があった。

 一方、アドリア海ではグリューネラント海軍が商船の襲撃に成功し、ケルンテンの通商そして燃料事情へ大きな打撃を与えていた。ケルンテン海軍は多くの商船を失った上で哨戒艇を2隻喪失した一方、グリューネラント海軍は喪失艦なしの上に、新たに潜水艦1隻が配備され、潜水艦は3隻となっていた。陸とは正反対に海ではグリューネラントが優勢であったのだ。グリューネラントは、このまま陸上で持久戦を続ける事が出来たならば、通商破壊によってケルンテンを干上がらせる事が出来たかもしれない。だが、グリューネラントに残された時間はもはや無く、持久戦など望むべくも無かった。

 6月14日にはアロイウス・レーヴェンハルト中尉が軍事顧問団を退団した。表向きはグリューネラント軍撤退の引責となっているが、先月期の新型爆弾に関するいざこざや、6月上旬から始まったドイツ軍の動員などを見るに、実際はドイツによるグリューネラントの切捨てと考えて良いであろう。
 この様にグリューネラントは、外交的にも軍事的にも危機的状況に陥ったのだった。

1938年6月期中の兵力推移(近衛騎士団、ヘルツォークトゥン旅団、シュヴァルツ・ガイスト除く)
ケルンテン グリューネラント
期首
残存 Es,Mk,Br,Bf,国際 1,3,204,Pt
再編中 Gs 2,205
期中
壊走 Br(05/25) 204(05/22),205(05/27),2(06/04),1(06/10)204,(06/11),Pt(06/13)
再編完了 Gs(05/21),Br(06/11) 205(05/23),2(05/27),204(06/09),205(06/13)
期末
残存 Es,Mk,Gs,Br,Bf,国際 3,205
再編中 Gs 1,2,204,Pt




参考資料


ネットゲーム95鋼鉄の虹 リアクション
担当マいスター:
あきつ大輔、有賀薫、井草薫、伊豆平成1号、伊豆平成その2、岩清水新一、上原聖、魚住隆喜、川鍋充祢、北神幸、金城首里、鋼鉄山猫乙型、瑚島悠、五代みん、椎冬利、シュタイナー志乃原、大門大、高尾登山、滝川沙夜、竹本柑太、田中桂、千剣弥玲、禾刀郷、早島勝嘉、早瀬陽、速瀬陽、鳩羽青藍、坂東いるか、一二三四郎、藤正まきば、星空めてお、幕張ハルミ、幕張晴己、希、水原静、水無神知宏、みゃあ、睦月たたら、やぶさめひかる、弓月つかさ、劉龍嶺
04月期:
009,011,012,014,015,017,022,023,024,025,026,027,028,030,045,051,053,054,059,060,061,064,070,081,085,086,087,094,095,098,115,118,230,260,313,384,400,401,413,435,436,460,463,464,465,481,512,520,524
05月期:
009,010,012,014,017,022,023,025,026,027,028,030,031,040,041,044,055,059,060,061,063,081,082,083,092,101,102,108,109,111,112,113,116,117,201,230,231,232,264,310,380,401,412,430,431,443,445,450,460,463,464,465,466,480,481,482,492,512,522,523,600,601
06月期:
001,010,014,015,022,024,025,026,027,028,030,031,032,033,035,041,049,061,062,063,064,065,080,081,082,102,114,115,116,120,121,210,211,212,213,230,231,232,240,380,381,382,383,384,401,431,450,451,453,454,455,463,464,481,492,515,520,521,560

ネットゲーム95「鋼鉄の虹」 スターティングマニュアル 遊演体 刊 1994

書籍:
『鋼鉄の虹 装甲戦闘猟兵の哀歌』 水無神知宏 著 富士見書房 刊 1994

雑誌:
『ネットゲームマガジンクリエイター』 通巻40〜51号 遊演体 刊 『ファンロード』 1994年9月号(通巻190号) ラポート 刊

同人誌:
『Wer ist Wer』 片橋正朗 編集・発行 1995
『特攻元帥』 漫画/六鹿文彦 原作/星空めてお 1997
『海軍記』 中欧軍事研究所 発行 2005
『フリーガーハンドブック』 中欧軍事研究所 発行 2007
『陸戦兵器便覧 総集編』 中欧軍事研究所 発行 2007
『装甲戦闘猟兵便覧 総集編』 上下巻 中欧軍事研究所 発行 2010
『ケルンテン・グリューネラント史』 中欧軍事研究所 発行 2010



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1938年1〜3月期編
1938年7月期〜終戦編