先月期にグリューネラント軍がドナウ北岸へ撤退しケルンテン軍が南ゴートイェーク州全土を奪回した事を受けて、両国の政治家は講和会議の開催を決めた。内戦は遂に政治決着が図られるかに思われた。だが内戦は誰もが思いもしなかった方向へと進む事となった。
6月15日未明、第3師団はケルンテン軍による北ゴートイェーク侵攻を阻止するため、ナーベルブルク大橋とその近くに架かる鉄道橋を除くドナウ川に架かる橋全ての爆破を企図し、これを実行へ移した。一方ケルンテン側は講和会議を控えていたためにドナウ渡河の意思は無く、爆破作業の妨害を行わなかった(そもそも、爆破作業に気づいていなかった節がある)。そのため、大した妨害も無しに各橋は爆破された。
だが爆破後に残された鉄道橋を使ってケルンテンの歩兵部隊が渡河を試みてきたため、この鉄道橋も第3師団によって爆破された。この結果、ドナウ川に架かる橋はナーベルブルク大橋のみが残される事となった。
先月期にグリューネラント軍戦線が崩壊し同軍がドナウ北岸へと撤退した事を受けて、硅緑両国の首脳部は内戦の政治的決着を決意し、講和会議の開催が決定された。そしてこの講和会議は早くも16日から、グリューネラント海軍の河川砲艦フリーデン艦上で始まった。この会議へ持ち込まれた両国の講和条件を見てみると、それは以下の様なものであった。
しかし、これらの講和条件は事前に公爵ゴッドハルト2世に知らされることはなく、事後報告の形をとるものとされた。
この様に、両国が示した条件は
と、ほぼ一致していた。
しかし、マインファルケン港の利用について見ると、ケルンテン側が「有償で利用」としているのに対してグリューネラント側は「共有」としか記述していない。グリューネラントは周囲をドイツに囲まれているが、これらの和平合意がなされれば当然ながら同国はドイツと敵対する事となり、体外的な出口はドナウ川とマインファルケンのみとなる。そうした場合、ドナウ川では輸送量が制約されるためマインファルケンが主な積出港となるが、その際にケルンテンへのマージンが必要となれば、グリューネラントの得られる利益は低くなってしまう。
また、グリューネラントの示した第11項も問題であろう。和平成立後はケルンテンが唯一の貿易相手となる恐れが高いにも関わらず、唯一の交易品とも言える地下資源を安価で売却するという条件を自ら示しているのだ。これではケルンテン統治時代と変わらないどころか、独立によって国防などを自力財源で行う事になるため、財政が破綻する事が目に見えている。
これらの条件で和平が行われたとしたら、グリューネラントは名目上の独立国となるが、経済的にはケルンテンに支配されてしまうであろう。一方のケルンテンは、グリューネラント独立を認められない最大の要因であった地下資源の確保が保証され、またグリューネラントという市場が失われないのであれば、実質的には何も問題は無かった。つまり、この停戦交渉は実質的にケルンテンの勝利によって内戦を終結させるというものであった。
だがこの停戦には、さらに大きな問題が2つ存在していた。まず、両国ともこの交渉を、国家元首を無視して実施した事である。そして、ドイツ排除に伴うグリューネラントのドイツ借款返済である。上記の様に、この内容で和平が行われた場合だと、グリューネラントにはその支払能力が全く期待できないのである。
しかし、これらの問題は杞憂に終わる。それは後述する新型爆弾によってケルンテンの首都が国家元首ごと消滅したためである。この事件によってケルンテンは講和会議どころでは無くなり、20日にドナウ川を境として両国とも陸空軍を侵攻させないという暫定的な休戦協定を締結(翌21日より発効)したところで休会となった。
1938年6月15日、グリューネラント国民航空工廠にて修理・改造を施された鹵獲爆撃機B−17が、パンテル軍団本部に併設された飛行場へと移送されてきた。この爆撃機に施された改造とは、グリューネヴァルト国立科学研究所にて開発された「新型爆弾」であった。
この「新型爆弾」とは、たった1発で都市を壊滅させうるという絶大な威力を秘めたものであった。そしてこの超兵器は今月期に使用される予定であった。だがパンテル軍団司令部では、ケルンテン・グリューネラント和平交渉の経過を見守るため、「新型爆弾」の使用を保留する事とした。そのため、B−17はパンテル軍団員ですら接近できないと言う厳重な警戒の下で管理されていた。
しかしクリステル国家元首による「新型爆弾」使用許可を得ていた開発者グループはパンテル軍団司令部の指示を無視し、16日深夜にB−17へ「新型爆弾」を搭載して出撃させた。そして1万メートルという高高度を飛行しながらドナウ川を越え、一路ラヴァンタールへ向け南下していった。
この「新型爆弾」による首都爆撃の情報は、ケルンテン側でも事前に察知していた(と言うより、「新型爆弾」の開発グループが欺瞞のために、「ヴァルデガルトへの爆撃」や「弾道ミサイルによる攻撃」など偽情報と併せてリークしていた節がある)。ケルンテン陸軍は首都管区航空隊とギュルテンシュタイン管区航空隊を首都防空に充てた上に首都周辺へ新型の高射砲を配備するなど、出来うる限りの対策を行っていた。
だが当時の戦闘機では1万メートルの高度にまで達する事は困難であり、また野戦用高射砲では撃墜困難であった。6月17日午前9時18分、ラヴァンタール上空へと達したB−17は「新型爆弾」を投下した。ルーエンザール城直上で発生した火球はケルンテン公、公女、首相そして20万の市民を巻き込んで、ラヴァンタールを文字通り消滅させた。なおB−17はこの直後にケルンテン陸軍により撃墜された。
首都ラヴァンタールの壊滅と国家元首と首相が同時に亡くなった事は、ケルンテンにとって致命的であった。だが偶然にも有力政治家や政府首脳陣はドナウ講和会議や先日暗殺されたハンス・デルネッシュ氏の国葬に出席していたため、その多くが被災を免れていた。そこで生き残った首脳陣は、この時点で存命が確認されている最上位爵位継承者であるゲオルグ・フリードリヒ・グラーフ・フォン・シュタインケラー氏を国家元首代行に定め、旧来の首都であったヴァルデガルトへ首都機能を移転し、同市にて臨時政府を樹立する事とした。そして21日に樹立した臨時政府は以降「ヴァルデガルト政府」と呼ばれる事となる。
またラヴァンタールは政治の中心でと同時にヴァルデガルトに次ぐ産業の中心でもあった。同市が消滅した事によって市内にあった各種工場が消滅したのみではなく、近郊の工業地帯も従業員の被災や輸送路の混乱などで操業停止を余儀なくされていた。特に戦闘機や航空機用発動機そして装甲戦闘猟兵とその装備品の生産を行うゼーヴェリンク社の操業停止はケルンテン陸軍(特に航空隊)にとって致命的とも言える損失であった。
なおグリューネラント政府とヴァルデガルト政府は共に「新型爆弾」投下の実行犯を、これら機材を管理していたパンテル軍団、つまりドイツであると公表した。しかしドイツはこれを否定した。
ドナウにて講和会議が開催されていたその時、国家社会主義労働者党の根拠地であるマインファルケンでは、先月期に暗殺された同党党首ハンス・デルネッシュ氏の国葬が行われていた。またこの国葬は事実上の同党大会でもあり、同大会にてハルカ・デカルト女史が新党首として選任された。
デカルト女史はケルンテン海軍籍を有する軍人であったが、海軍から事実上脱柵し同党へ入党、その後は同党の下部組織「SASA」にて非合法的活動を行い党内での地位を確立して言った人物であった。しかし女史には年齢が被選挙権に達していないという政治家としては致命的な弱点も有していた。
これが、後にケルンテン公国の消滅にまで尾を引く事となるデカルト問題の発端であった。
6月28日、第1師団がオルデンブリュックで再編成中のパンテル軍団を襲撃した。パンテル軍団は再編成中である上に、偶然にも(ドイツ側は「故意」を主張しているが)同部隊へ配備されていたウービルトNr.21アルヌルフが配置転換のために運び出されており、反撃する事すらかなわなかった。そのためパンテル軍団は重装備の大半を放棄した上で、ドイツ領オストマルク州(旧オーストリア)へと撤退した。
なおパンテル軍団は、グリューネラント軍と共に行動してはいるものの同国軍には所属していない。あくまでドイツ軍事顧問団の麾下にある部隊である。これらは「義勇兵」という扱いで正式にはドイツ国家に所属する組織では無いが実質にはドイツ軍である。そして何より「ドイツ国民」に対する襲撃事件であり、ドイツ政府としては到底許容できるものでは無かった。
この事件に対し第1師団長は『再編後の演習における事故』を主張したが、実際にはグリューネラントからドイツの影響力を排除する事が目的であった様だ。しかし現実には再編中の友邦軍を攻撃した事で唯でさえ低い国際的信用は地に落ち、その上ドイツによるグリューネラント攻撃への正当性を与えただけであった。
7月3日、第1師団アルドヘルム・フォン・ドンメス中将は釈明のために首都グレンクローセを訪れたが抗弁は認められず、即日銃殺刑に処された。またドンメス中将の実娘である第205師団長リーゼロッテ・ドンメス少将は累が及ぶことを恐れてか、7月12日に単身ケルンテンへと亡命した。
ドイツ政府は、同国の思惑(グリューネラントによる勝利とそれによるドイツ権益確保)に反し硅緑両国がドナウでの講和会議を行った事に関して、非常な不快感を持っていた。そこで、グリューネラントに対する再戦圧力として6月23日にドイツ軍の動員を開始した。しかしその後、ドイツ・グリューネラント間を揺るがす重大事件が発生した。14.4章にてあげた6月28日の第1師団によるパンテル軍団襲撃事件である。これを受けてドイツは6月29日に硅緑両国境へと軍隊を移動させた。そして7月1日に、外交ルートを通じて硅緑両国へ対して最後通牒を突きつけた。なおケルンテンに対する最後通牒はイタリア王国との連名となっていた。
両国への最後通牒の内容であるが、それは下記の様なものであった。
回答期限は両国とも1938年9月15日午前0時とされていた。
ドイツがパンテル軍団襲撃事件と関係の無いケルンテンに対して最後通牒を行った事に関して違和感を覚える方もいるかと思う。が、これは当のケルンテンがグリューネラントを国家として認めていない以上、その国内(グリューネラント)で発生した事件の責任はケルンテン政府にも及ぶという、ダブルスタンダードとも取られかねない(ドイツはグリューネラントを主権国家として認めている)理由からであった。
なおケルンテン臨時政府(ヴァルデガルト政権)は回答期限を待たずして7月14日に完全拒否、徹底抗戦を表明した。
さらにイタリアでも最後通牒を受けて7月2日に動員を開始。8日にはイタリア海軍がアドリア海で演習を行い、10日にはイタリア海軍によって東西トーテンコプフ島が制圧された。両島はケルンテンの領土であり、これは明確な侵略行為であるが、ケルンテン側は国内の混乱から両島制圧の事実すら認識できていなかった様である。
6月27日、グリューネラント首都グレンクローセに捕らわれていたケルンテン公太子カール・ヴィルヘルムは捕虜を糾合して暴動を企てたが、居合わせた第204師団によって鎮圧された。これによりカール・ヴィルヘルムの身柄はグリューネラント政府の手を離れ、ドイツの軍事顧問である同師団長アドルフ・タッペン緑土陸軍少将(ドイツ陸軍中佐)の保護下に入ることとなった(実質は身柄拘束)。
7月13日、第204師団は先の対ケルンテン最後通牒に基づき、カール・ヴィルヘルムを奉じて「正統ケルンテン政府」の樹立を宣言、同師団は新公爵をケルンテン首都へと「お連れ」するためにナーベルブルク大橋を渡って南ゴートイェークへと侵攻した。更にグリューネラント軍総司令部は第204師団による休戦違反を承認し、第3・4戦闘航空団へ同師団の支援を命じた。
対するケルンテン軍は第204師団によるカール・ヴィルヘルム保護という主張を事実無根であるとし、ナーベルブルク地域へ展開していたギュルテンシュタイン師団へ第204師団の撃退を命じた。しかしケルンテン軍司令部はこの戦闘が休戦破棄へと発展する事を恐れ、あくまで限定的な戦力投入を命じた。これによりギュルテンシュタイン師団はグリューネラント空軍の攻撃によって多大な損害を被ったが、14日までに第204師団をドナウ北岸へと撃退した。
7月6日、グリューネラント共和国元首クリステル・フォン・フレーネファーネ侯爵夫人は元首からの辞任を決意し、その全権をオスカー・フォン・キルマイヤー首相へと委譲する事とした。今月期に入りドナウ休戦協定締結と第1師団によるパンテル軍団襲撃という、グリューネラントにとって唯一の後ろ盾であるドイツを公然と敵視する事件が立て続けに発生し、その責任を取るためであった。
この元首交代は手続きなどの都合で暫く伏せられ、7月14日に国会でフレーネファーネ侯爵夫人によって、新政府の誕生(先日の選挙結果により、6月15日より第1回グリューネラント国会が開会)に伴う政権の委譲として表明された。なおクリステル・フォン・フレーネファーネ侯爵夫人はこれ以降、歴史の表舞台から完全に姿を消したため、その消息は不明となった。
講和会議開催による停戦が発効中の6月18日未明、北ゴートイェークから飛び立った数機の大型グライダーとその牽引機、そして数機の護衛戦闘機が一路ミッテルケルンテン州のシュペーア&モーデル工房跡地へと飛行していた。途中、ドナウを越えたこところで停戦監視団からの誰何を受けたが、「後方に残された友軍の救出」と答えると、それ以上の追求を受けなかった。また、新型爆弾投下後という明らかにケルンテン側が航空侵入を警戒している時期であるが、何故か邀撃を受ける事なく飛行を続ける事が出来た。
そして目標上空へと達したところで、空挺用装甲戦闘猟兵の降下を行った。これは、破壊工作によって荒れていたシュペーア&モーデル工房跡地の整地を行い、大型グライダーの着陸を可能とするためであった。降下部隊は同地にいたケルンテン部隊を排除後に無事整地を完了し、大型グライダーは同地へと強行着陸を行った。
この様に脆弱な大型グライダーを使ってまで遥か後方での強行着陸が行われた理由であるが、それは先月期の破壊工作で壊走したウービルト部隊シュヴァルツ・ガイストを回収するためであった。この作戦では4機全てを回収する予定であったが、突如同行したドイツ軍事顧問団のレーヴェンハルト中尉の命によって、Nr.44ファフニールのみが回収される事となった。Nr.44ファフニールを搭載した大型グライダーは同地を無事に離陸し、帰路でも邀撃を受ける事無く、無事に北ゴートイェークの前線基地へと運び込まれた。
Nr.44ファフニールはその後、パンテル軍団が旧オーストリアへ撤退した際に同地へと持ち出され、7月7日に再編が完了したパンテル軍団へと配備された。
6月13日に勃発した『ブリクシア解放戦線』によるロムラン市での暴動・州庁舎占拠を重く見たケルンテン政府は、高等軍事会議を通じてブリクシア師団に対し、これを鎮圧する様に命じた。そして6月16日早朝、ブリクシア師団から派遣された鎮圧部隊が、戦車と装甲戦闘猟兵を前面に押し立てて、一斉にロムラン市内へ突入した。
これに対する暴徒たちは、それまで市内各所で犯罪行為を繰り広げていたのだが、鎮圧部隊の突入と共に組織的抵抗もないまま壊走した。鎮圧部隊は圧倒的な勢いで市内を駆け抜け、数時間後には『ブリクシア解放戦線』が立て籠もる州庁舎および警察署を包囲した。またこの後、ブリクシア師団留守部隊も市内へと進攻し、各所で散発的に抵抗する暴徒を鎮圧していった。そして同日中に早くも、州庁舎と警察署を除いて市内の治安は回復された。だが、州庁舎と警察署へ立てこもった『ブリクシア解放戦線』は多くの人質を有していたため、解放戦線と鎮圧部隊によるにらみ合いのまま事態は膠着してしまった。
そして6月18日、夕刻。解放戦線は膠着状態に耐えられなくなったのか、人質の虐殺を開始した。これを見た鎮圧部隊は庁舎内へと突入した。解放戦線の大半は射殺されたが、時既に遅くランズベルグ伯爵以下8名の人質が殺害された上、残りも重傷者ばかりであった。この事件によってブリクシア州政府は官僚の大多数を失い、事実上その機能を失った。
一方ほぼ同時刻に南区で暴動が発生し、兵士が襲われ重傷を負った。鎮圧部隊は銃撃で対応したが暴徒は意に介さずに兵士を襲い、遂には戦車部隊による機銃掃射と蹂躙まで行われたが、暴徒は尚も攻撃を止めなかった。そして最終的に暴徒側の全滅に近い形で事態は鎮圧された。
こうして沈静化したかに見えたブリクシア事情であったが、7月13日、メッチェンヘンデル市にて大規模な暴動が発生し、再度激化したまま当月期を終えた。
6月15日、ドナウ講和会議開催による停戦発動に伴って、国際旅団の一部有志によって停戦監視団が結成された。この組織は中立を標榜し、硅緑どちらかで停戦破りが発生した場合、実力をもってこれを阻止することを目的としていた。だが実際には、構成員の国籍こそケルンテンでは無いものの、ほぼ全員がケルンテン陸軍籍を有していたため、政治的には中立と言いがたい組織であった。また、もとより戦力の乏しい国際旅団から分離した組織であったため、その戦力はごく僅かであった。
これらの要因により、新型爆弾投下、空挺団の強行着陸、第204師団の進攻など大規模な停戦破り阻止する事は出来ず、事実上は無視されたに等しい状況であった。
なおこの停戦監視団は当初、国際連盟の協力を受けて『国連停戦監視団』を名乗る予定であった。しかし、ケルンテン情勢へ不介入を標榜する国際連盟の協力を得る事は出来なかった。そのため、国際連盟から拒絶の回答が届いた今月期末より『国際停戦監視団』と名乗ることになった。
今月期をもって第4戦闘航空団(JG4)が第4爆撃航空団(KG4)へ改編された。この旧第4戦闘航空団は急降下爆撃機で構成された航空団であったが、防諜上の理由から戦闘機部隊である「戦闘」が冠されていた。しかし内戦勃発から1年以上が経過し、旧第4戦闘航空団の実体は広く知られていた。また双発爆撃機の配備も始まり、爆撃航空団としての性格をより強いものとしていた。そこで隊員の士気高揚の目的もあって、戦闘航空団から爆撃航空団への改編が行われた。この際、本来は第1爆撃航空団となるべき所であるが、既に存在する第1戦闘航空団(JG1)との混同を避けるため、航空団番号は戦闘航空団時代の「4」が踏襲される事となった。
またこの改編に併せて麾下飛行隊も主に機種・装備ごとに3個の飛行隊(各飛行隊3個中隊編制)へと改編された。
ヘルツォークトゥン騎兵旅団は、先月期の6月1日に再編成が完了しミッテルケルンテン師団の麾下部隊となっていたが、7月14日をもって独立部隊となった。これによってケルンテン陸軍は戦略単位が1つ増える事となった。
当月期初めに両国海軍で大きな動きがあった。まずケルンテン海軍であるが、第1戦闘艦隊が海上護衛総隊へと改編され、新たに特設護衛艦ブルーメ級の2番艦が編入された。これは、度重なるグリューネラント海軍潜水艦による通商破壊への対抗措置として、沿岸警護重視から船団護衛重視へとその方針を大きく変更した事の査証であった。また当月期末には欧州大戦時に行方不明となっていた水陸両用ウービルトNr.36スキーズブラズニルが発見され、海軍へと復帰している。そしてグリューネラント海軍であるが、アドリア海基地司令が交代し、新たに特設水上機母艦『憂国』が就役した。この様に両海軍とも態勢を変更して今月期に望んでいた。
6月18日深夜、グリューネラント海軍は陸空両面からマインファルケン火力発電所を襲撃する「灼熱の海」作戦を実施した。この作戦へグリューネラント海軍は航空機8機、水中用装甲戦闘猟兵3機、工作部隊(人数不明)という大戦力(海軍としてはだが)を投入していた。しかし、ケルンテン側は作戦の実施を事前に察知しており、陸海軍協同で航空機6機、機動砲艇1隻、防水型エカテリーナ3機という邀撃戦力を用意していた。
数字上の航空戦力はほぼ同等であったが、グリューネラント側の大半が大型機でかつ爆弾を搭載しているのに対して、ケルンテン側は全機が身軽な戦闘機と、その戦力差は圧倒的であった。しかも、ケルンテン側はこれら戦闘機を上空待機させていたのだった。その結果、グリューネラント海軍は3機撃墜、3機大破大損害を出し、火力発電所まで到達できずに撤退した。工作部隊も待ち伏せにあったが、すぐさま撤退したため損害は戦死者1名程度であった。
一方、マインファルケン湾内には発電所攻撃の支援のために、水中用装甲戦闘猟兵3機が侵入していた。しかし、ケルンテン海軍が待ち構えていた。水中聴音機によって侵入を探知したケルンテン海軍は攻撃を仕掛けた。先制攻撃を受けたグリューネラント側は不利を悟り、即座に撤退を行った。しかし、水中用装甲戦闘猟兵1機が防水型エカテリーナ1機に捕まり、格闘戦のために双方ともに浸水が発生して沈没した。
この作戦はグリューネラント側が一方的に損害を受けると言う結果に終わってしまった。しかしながらこの作戦とは別に、ケルンテン海軍が迎撃に出払っている隙をついてグリューネラントの工作員が海軍基地内で破壊工作を行い、航空隊宿舎と海軍技術研究所が破壊された。
この海戦は、シュヴァルツ・ガイストのウービルトを回収するためにグリューネラント海軍が特設水上機母艦「憂国」をパルツイエへ派遣した事によって勃発したものである。この回収作戦は、先に紹介した「灼熱の海」作戦と同時に決行されている。(正確には、ウービルト回収の陽動として7月に予定されていた「灼熱の海」が6月18日に繰り上げられた。)
1938年6月18日深夜、憂国と護衛の魚雷艇1隻はパルツイエ近海へと侵入したが、予定時刻を過ぎてもシュヴァルツ・ガイストが現れないため、憂国は回収を断念して撤退を決意した。ちょうどその時、シュヴァルツ・ガイスト回収作戦を事前察知していたケルンテン海軍(機動砲艇1隻、水雷艇2隻、水中用装甲戦闘猟兵1機)がパルツイエ沖へと到達し、海戦が勃発した。
沖合で警戒していた魚雷艇は憂国を守るため沿岸へと急行したが、途中で機動砲艇に阻止され、砲撃を受けて沈没した。また憂国も水雷艇からの雷撃と水中用装甲戦闘猟兵からの攻撃によって沈没した。
ケルンテン海軍は先月に引き続き海上護衛総隊(特設巡洋艦1隻、特設護衛艦2隻、機動砲艇2隻、哨戒艇1隻)による船団護送を画策していた。しかし、前回の大損害(5隻沈没)から船団への参加希望は少なく、往路で8隻、復路は参加なしであった。そのため、今回は往路参加の商船をスエズまで護衛し、それらに物資を搭載して再びマインファルケンまで引き返すという方法が採られることとなった。なお、1ヶ月近くにもおよぶ航海となるため、哨戒艇と機動砲艇の船体には増加燃料槽としてのドラム缶が装着され、さらに特設巡洋艦には洋上給油装置が追加された。
この船団は6月16日にマインファルケンを出港し、無事にスエズまでたどり着く事ができた。だがそれは、単にグリューネラント海軍が復路での襲撃を画策していたためであった。
7月13日、グリューネラント海軍は大胆にもマインファルケン沖で、潜水艦3隻による襲撃を敢行した。しかし、グリューネラント海軍は襲撃直前にして輸送船団を見失ってしまった。結局グリューネラント海軍は船団を再度補足する事ができず撤退した。
だが実はケルンテン海軍側も船団を見失っていた。輸送船団は襲撃を回避したのではなく謎の失踪を遂げていたのだった。結局、この船団がマインファルケンに入港したのは8月10日の事であった。1ヶ月近くもの間に船団がどこで何をしていたのかは、信頼に足る資料が存在していないため、確かではない。
当月期は開始早々から停戦が成立したため、戦闘は殆ど発生していない。大規模(?)な戦闘は、ドイツの意向とも言える第204師団による進攻と、端から停戦とは無縁であった海軍によるものが精々で、ドナウ川の橋梁が破壊された事もあって戦線の移動は発生していない。
しかし、政治的には非常に大きな動きがあった。
第1には先に挙げた停戦締結である。これはグリューネラント3州の名目上独立を前提とした終戦を睨んだ物であるが、グリューネラントによる完全勝利を目論んでいたドイツにとっては到底受容できるものでは無かった。そのため、ケルンテン−ドイツのみならずグリューネラント−ドイツの関係も危機的となり、ドイツによる硅緑両国への最後通牒へと至っている(なおケルンテンに対する最後通牒はイタリアの連名となっている)。
第2には新型爆弾投下によるケルンテン首都壊滅と同国元首の死亡である。これによりケルンテンは致命的な損害を受けたが、何よりも危機的な事は公位継承権第1位であるカール・ヴィルヘルム・ワルトシュタインが事実上ドイツの捕虜となっていた事である。これは国家の正統性すら揺るがしかねない事態であった。またその他に、ブリクシアでは分離独立運動が発生するなど、ケルンテンは分裂の危機に瀕していた。なお当月期には南ゴートイェーク州でもグリューネラント南ゴートイェーク総督によって独立が宣言されたが、硅緑両国から完全に無視されていた(そもそもケルンテン側では独立宣言を認識していなかった節がある)。
この様に当月期は、両国が滅亡へと進み始める第一歩となる月であった。
ケルンテン軍総司令部は当月期の方針として、停戦の維持を基本とした上でドナウラインの保持とグリューネラント軍の南下警戒、そして後方地域での復興作業を行う事とした。だがこれは表向きの理由で、積極策に出なかった真意は、後述するクーデターのためであった様だ。
一方グリューネラント軍総司令部は、対硅戦の即時再開を意図し全師団および航空隊へケルンテンへの一斉侵攻を下令した。だが陸空両軍の各部隊は、この命令を完全に無視していた。
7月15日未明、国際停戦監視団によって企画された『に号作戦』が実行された。この作戦は、航空爆撃および地上砲撃でナーベルブルク大橋を破壊する事によってケルンテン−グリューネラント間での交戦を未然に防ぐという、かなり強引なものであった。しかし、ケルンテン・グリューネラント双方共にこれを阻止する具体的な意図は無く、これに対する抵抗は近辺に駐留する第2師団からの散発的なものだけであった。そのため国際停戦監視団は大きな損害を受けることも無く、ナーベルブルク大橋を橋脚から破壊する事に成功した。
ケルンテンでは以前より、陸軍総司令とその子飼いである参謀たちを中心とする軍閥と、一政党でありながら独自の警察組織(SASA)を有し傍若無人な非合法(脱法?)活動を行う国家社会主義労働者党との間で確執があった。そして7月25日、確執は表立った対立へと発展した。軍閥側が実力行使に出たのだ。
陸軍総司令官派は国家社会主義労働者党党首の拘束を狙って、マインファルケン市街を封鎖してSASA本部を襲撃したが失敗し、初日にして膠着状態となった。
また陸軍総司令官派は同時にヴァルテガルドでも議会および政府施設を占拠した。だが占拠した軍部は標的を国家社会主義労働者党員のみとし、その他の人物は一切拘束しない事とした。そして国家社会主義労働者党員は全てマインファルケンへ移動していたため、ヴァルテガルドでは誰も拘束されなかった。そのため施設を占拠された政府の人員は堂々と正面から施設を出て、別の建物へ政庁を移転した。当然ながら政府はこの非合法措置を支持せず、陸軍総司令官派は政府とも対立する事となった。
そして26日、機能を回復したエステンド方面のラジオ中継施設を通じて、封鎖されたマインファルケンへ先の選挙結果が報じられた。それは、国家社会主義労働者党が第一党となり、同党党首が首相に選出されたというものであった。これを知った同党党首ハルカ・デカルトは、封鎖されたSASA本部内から以下の声明を発表した。
だがこの声明に対して、ヴァルデガルトの政府では大きな反発が出た。クーデターには関与していない高等軍事会議の解散が盛り込まれていたためである。ヴァルデガルト側はこれを、国家社会主義労働者党による一党独裁への動きと見なしたのである。これが事実上のヴァルデガルト政権とマインファルケン政権との分裂の発端であった。
更に正確な日付は不明であるが7月下旬に、ラヴァンタールにてゴットハルト・ワルトシュタインの落胤を自称するユリアーヌス・ワルトシュタインが正統ケルンテン政府樹立を宣言した。この宣言は軍部およびヴァルデガルト・マインファルケン両政権から黙殺され、また政権としての実績も正統性を示すものも無かったが、何故か貴族および市民から絶大な支持を受けていた。
結局この事件は膠着したまま、来月期への持ち越しとなった。
7月15日、グリューネラントでは左派議員の命を受けた軍人によって内務局および外務局の制圧および閣僚の拘束が決行された。「八月政変」と呼ばれる政治混乱の勃発であった。だが、首相を初めとする内務局の閣僚は事前にこの動きを察知し脱出しており、また外務長官も外遊に出て不在であった。そのため、政府要人を誰一人として拘束できず、政変劇は初歩からつまずく事となった。
続いて左派は国会の開会と同時に、憲兵を「警護のため」と称して議場へと入れ、左派にとって都合の悪い議員たちを次々と拘束していった。そして議員の減らされた国会では、まず国会議長の選出が行われ、左派の議員がこれに選出された。勢いづいた左派は、続いて首相と外務長官の解任を発議し、これを強行採決しようとした。だがここで、非左派議員から(現時点では)国会に閣僚人事権が無い事が指摘された。このため左派は、まず翌日に閣僚人事権を盛り込んだ憲法案を可決し、その後再び閣僚の解任を行う事とした。だが左派のこうした行いは、非左派議員の怒りを買う事となった。
翌日、国会ではまず従来の憲法試案と左派の提出した修正案が審議されたが、左派への反感から国家元首が大きな権力を有する従来案が議決され、更には非左派議員たちによって同日施行された。
政変に失敗した左派ではあるが、左派と共産党が(多数の議員が拘束された現時点での)最大勢力である事に違いは無かった。巻き返しを狙った左派は自勢力から外務長官代行を立てる事を動議し、長官不在時のみという制限を設けられたものの、これを決議する事に成功した。そして更なる巻き返しを図らんと軍事委員会の発足を動議した8月12日、近郊で演習を行っていた第1師団が突如、国会および政庁と軍総司令部のあるシュヴァルテンシュテベルン城を占拠した。第1師団によるクーデターの勃発である。第1師団は議長を含む国会議員と残っていた官僚そして総司令官を拘束したが、政変勃発時に脱出していた首相および閣僚は拘束出来ないでいた。
同師団長の出した声明によれば、このクーデターは売国奴から国体を護るためとの事であった。だがこの声明は単なる建前で、実際は自分たちへ課せられる予定の、パンテル軍団襲撃事件での処分(銃殺)への反発であると見られている(7月期の「パンテル軍団襲撃事件」参照)。
なお第1師団は1日にして首都を制圧したが、その内部では早くもクーデター派と反クーデター派とで分裂が始まっていた。
そして8月14日、八月政変を逃れてクリステル侯女の個人山荘へと逃れていた首相をはじめとする情報長官、戦時長官、主計局長ら高級官僚らは、正統政府としてラジオを通じ下記の声明を発表した。
なお後述する「第205師団による原油供給停止」は、結果としてゼネストを行った事になるため、第205師団のこの行動は(一時的であるにせよ)黙認される事となった。
7月15日、先日の襲撃事件でオストマルク州(旧オーストリア)へ退避していたドイツ義勇軍パンテル軍団はこの日、SS−VT(親衛隊執行部隊)麾下のSS連隊パンテルとして再編成された。またSS−VT自体もドイツ国防陸軍総司令部の下に編入された。これは、グリューネラント側からドイツに対して敵対行動をとってきたため、もはや「グリューネラント独立のための義勇軍」である必要が無くなったためである。なお同じくして、空挺人形団もドイツ国防空軍所属となった。
7月29日になるとSS連隊パンテルはグリューネラント軍総司令部に対してウービルトNr.21アルヌルフの返還もしくは軍総司令部首脳、クリステル前国家元首他28名の引き渡しを要求した。グリューネラント軍総司令部はウービルトNr.21アルヌルフの返還を認めたが、その直後に配備先の第205師団で強奪事件が発生した。だがその翌日に強奪されたウービルトNr.21アルヌルフはSS連隊パンテルによって発見・鹵獲された。そのため、ウービルトNr.21アルヌルフの返還は果たされたものと見なされ、これ以上の関係悪化にまでは発展しなかった。
7月31日、前日のミュンヘン協定を受け、ドイツ軍がチェコスロバキア領ズデーテンラントへ進駐軍し交戦の無いままにこれをドイツへと併合した。これによりグリューネラントと国境を接する国はドイツとケルンテンのみとなった。事実上、グリューネラントはドイツによって包囲されたのであった。
8月4日未明にはグレンクローセにあった軍事顧問団本部がグリューネラントの極右テロリストに襲撃された。これを機にドイツ軍事顧問団はグリューネラントからの完全撤退を決定した。また同時に、新型爆弾の開発者がSS連隊パンテルによって身柄保護された。
「正統ケルンテン政府」を名乗る第204師団は、再びケルンテン首都ラヴァンタールまで移動する事を目的とした「ジルバーシュトライプ作戦」を発動した。7月29日よりグリューネラント国内での移動を開始し、そして8月1日にはナーベルブルクを橋頭堡として確保するため、この地点でのドナウ川強行渡河を決行した。だが渡河地点の南岸にはミッテルケルンテン師団とヘルツォークトゥン騎兵旅団が展開していた。そしてこの両部隊は第204師団の渡河を阻止するため、攻撃を開始した。
グリューネラント軍総司令部はこの作戦を追認して陸・空軍全部隊での支援を下令したが、第204師団を除く全師団と第1戦闘航空団は命令を無視し、この戦闘に参加しなかった。一方のケルンテン陸軍総司令部は全航空隊へ地上支援と阻止爆撃を下令し、こちらは全部隊が戦闘へと参加した。そのため、狭い戦域の割に大規模な航空戦が発生した。
だが、連隊数にして倍以上の敵と戦闘しながらの渡河はやはり無謀であった。多大な損害を受けた第204師団は渡河を断念し、シュヴァルツヴァッサー近郊まで後退する事を決定した。が、まさにその時、ケルンテン側の行っていた阻止爆撃がケルンテン公爵(ただし、ケルンテン側はこれを認めず)カール・ヴィルヘルイム・ワルトシュタインのいた天幕を直撃した。カール・ヴィルヘルイムは一命を取り留めたものの重傷であった。
なお「正統ケルンテン政府」はこの後、ケルンテン国内への移動をケルンテン軍が阻止した事を理由に、ケルンテン国外で政府を設置する事とした。
8月2日、シュヴァルツヴァッサーに駐屯していた第205師団は同市の油田を武力制圧し、原油供給を停止させた。これは昨日の第204師団侵攻(「15.5 ジルバーシュトライプ作戦」参照)を受けて、強制的に停戦を維持するために第205師団が独自に行った行動であった。
この独善的な行動は同市労働者を中心に、激しい反発を呼んだ。そして第205師団は彼らから激しい抗議デモと徹底したサボタージュを受ける事となった。
だが8月14日、状況に変化が訪れた。クーデターを脱した首相らが、ラジオを通じてゼネラルストライキを呼びかけたためだ。これにより第205師団の行動は、ゼネストへの協力であるとして「黙認」される事となったのだ。しかし労働者達の怒りは収まらず、同市はいつ暴動が起きてもおかしくない状況であった。
ケルンテン陸軍総司令部は、先日の最後通牒を受けてドイツの侵攻を予測し、ミッテルケルンテン−南ゴートイェーク州境のグロイスター山脈を要塞化する事を決定した。そのため各師団は、ドナウ川南岸の警戒と要塞化工事を持ち回りで行う事となった。工事はクランツ峠では8月7日〜14日にかけてミッテルケルンテン師団が、ランツェレ峠では7月25〜8月2日にかけて国際旅団が、8月9〜14日にかけてヘルツォークトゥン旅団がそれぞれ実施したが、セメントなどの資材が不足していたため、進捗ははかばかしく無かった。また残されている文書ではクランツ峠の工事を「要塞建築」と、ランツェレ峠の工事を「野戦築城工事」と記録されている。どうやら、クランツ峠側がより重要視されていた様だ。
なお、南ゴートイェーク州は防衛作戦に適さないという軍事上の理由があるとは言え同州の放棄を前提としたこの要塞化は、ケルンテン国内(特に南ゴートイェーク州)で非難されていた。またそもそもドイツから見ると、この要塞を迂回してギュルテンシュタイン州とエステンド州へ直接の侵攻が可能なため、果たして要塞としてどこまで戦略上の意義があるのかも疑問であった。
当月期の海軍事情であるが、グリューネラント側で大きな動きがあった。トーテンコプフ島のグリューネラント海軍がドイツ国防海軍へと編入されたのだ。一部では反乱騒ぎもあったが、反乱兵達もドイツ海軍への編入そのものには反対しなかったため、結局は全てがドイツ海軍のものとなり基地名も新たに「ドイツ海軍アドリア基地」とされ、部隊名も「アドリア部隊」とされた。またこれに伴って、ドイツ海軍仕様の潜水艦UZB型が配備されるなど、戦力も増強された。
ケルンテン海軍でもブルーメ級特設護衛艦アルラウネ、モルゲンロートが新たに就役したが、新たに増強されたドイツ海軍とマインファルケン沖を遊弋するイタリア艦隊の前には蟷螂の斧に等しかった。またケルンテン海軍はマインファルケン基地の外部接触を断った上で、ハルカ・デカルト政府の不支持とハルカ・デカルトを脱走兵(デカルト女史は海軍籍を持っていた)として指名手配する事を表明した。
7月18日、ケルンテン海軍は先日復帰したNr.36スキーズブラズニルを利用して、マインファルケン沖のイタリア艦隊を秘密裏に襲撃した。この襲撃ではイタリア戦艦の撃沈を目標としていたが、搭乗員が大型艦に不慣れであったため目測を誤り、駆逐艦アントニオ・ダ・ノリを撃沈、重巡フューメを中破させたにとどまった。
翌朝、イタリア艦隊は損傷した重巡フューメを護衛の駆逐艦2隻と共に撤退させ、また補給艦2隻も襲撃を避けるために重巡洋艦1隻、駆逐艦2隻の護衛を付けて西トーテンコプフ島沖にまで後退させた。これにより、マインファルケン沖のイタリア艦隊は、戦艦コンテ・ディ・カブール、重巡洋艦ザラ、ポーラ、ナヴィガトリ級駆逐艦4隻となった。イタリア海軍はこの沈没事件をケルンテン海軍によるものと見たが、襲撃そのものを認識する事が出来なかったため、とりあえず「事故」としてうやむやとなった。
7月20日、イタリア戦艦コンテ・ディ・カブールの上でケルンテン海軍とイタリア海軍との交渉が行われていたが、そこへ突然ケルンテン陸軍の戦闘機が現れ、戦艦を銃撃するという事件が発生した。だがこの攻撃はケルンテン政府・陸海軍の意思によるものでは無く、パイロット個人による独断であった。このパイロットは着陸したところで軍に拘束され、軍事裁判により懲罰大隊送りとなった。
先日の「沈没事故」とは異なり、ケルンテン軍である事を明確に示した軍用機からの攻撃であるため、これはケルンテン−イタリア間での開戦理由ともなり得る重大事件であった。しかし、あくまで個人的な行動であり犯人は重罰に処された事、そして死傷者が発生しなかった事を理由として手打ちとなった。
当月期は先月期に続き停戦が維持されていたため、戦線の移動は発生していない。しかしながら、両国の内情に目を向けてみると、四分五裂の窮状であった。
まずケルンテンから見てみると、政権を名乗る組織が3つも発生している状況であった。それぞれの政権とその支持層をまとめると、次の様になる。
政権 | 支持層 |
カール政権 | ドイツ、ケルンテン海軍 |
ユリアーヌス政権 | 一般市民、貴族 |
ヴァルデガルト政権 | ケルンテン陸軍 |
カール政権は第204師団(実質ドイツ)が打ち立てた政権であるため当然ドイツが支持していたが、ケルンテン海軍もカール・ヴィルヘルムを公爵位の正統継承者であるとしてこれを支持していた。もっともこれは表向きの理由で、単に反ハルカ・デカルトという理由で支持していた様だ。
ユリアーヌス政権は廃墟となったラヴァンタールに突如として現れたが、正統性が不明であるとしてヴァルデガルト政権と軍部からはほぼ無視された状態であった。しかし、何故か貴族と一般市民からは絶大な支持を受けていた。
ヴァルデガルト政権は高等軍事会議を有し、選挙によって選出された政権である事を理由に、ケルンテン陸軍から支持を受けていた。だが実際には高等軍事会議の所在するヴァルデガルトと、首相の所在するマインファルケンとで分裂状態で、マインファルケンでは陸軍総司令派がクーデターを起こしていた。
また軍部を見てみると、総司令官が中途半端なクーデターを起こしたことで一気に求心力を失っていったが、各師団はとりあえず命令に従っていた。だが、S&M工房の壊滅とラヴァンタール崩壊および近郊工業地帯での操業停止が影響し、(特に航空隊の)補給・整備状況は急速に悪化していった。またイタリア艦隊がアドリア海を事実上封鎖したため、ケルンテンでは海外からの物資獲得も滞っていた。
次にグリューネラントを見てみると、政治面では(政変劇はあったが)議会の開催や憲法の制定・施行が行われたものの、第1師団によるクーデターで議会および政府機能は完全に停止してしまった。
また軍部を見ると、先にあげた第1師団のクーデターに続いて第205師団がシュヴァルツヴァッサーを制圧するなど各部隊が総司令部を無視して行動しており、軍隊としての統率が全くとられていない状況であった。これに加えて海軍の実戦部隊は全てドイツ海軍へと編入され、第204師団は実質的にドイツ軍として行動するなど、早くもドイツへの併合が始まっていた。そして、各部隊の補給状況も、ドイツからの供給停止や油田制圧などの影響で、(ドイツより補給を受けた第204師団を除いて)非常に悪いものであった。
四分五裂となった硅緑両国であるが、双方とも事態打開に向けて動き出した。ケルンテンでは当事者間での話し合いによる解決が図られたのに対し、グリューネラントでは武力鎮圧が行われるなど、その解決法は双方で異なったものとなった。が、双方とも国家存亡の危機に対しては何ら手を打てない状況であった。
8月14日深夜から15日未明にかけて、イタリア艦隊がマインファルケン湾内へと突入する動きを見せていたが、それが突如反転し西トーテンコプフ島沖へと引き返して行った。ケルンテン軍はこのイタリア艦隊の動きが理解できず訝しんだが、16日になってその理由が判明した。イタリアの報道機関がケルンテン首相ハルカ・デカルトより「イタリアによるケルンテン全土の保護領化を認める」という内容の親書(デカルト親書)が届けられたと報じたのである。イタリア艦隊はケルンテン海軍と交戦するまでも無いと判断し、反転したのであった。この明確な売国行為に対してケルンテン国内は激昂し臨時政府は益々支持を失った。
またクーデターを起こした陸軍総司令部と各部隊の関係であるが、各師団長は表面上総司令部の意向に従っていたが、実情は総司令部を完全に無視していた。そして総司令部側の17日にヘルツォークトゥン騎兵旅団への補給を停止するなど、陸軍内部では総司令部と各部隊とで完全に反目していた。
一方の海軍であるが、こちらもハルカ・デカルトを指名手配した上層部と高等軍事会議を支持する部隊側とで反目状態であった。しかし高等軍事会議のとりなしもあって、海軍総司令退任と地中海艦隊司令交代が行われた。この結果、海軍は反クーデターで一本化され、ハルカ・デカルトの指名手配も取り下げられた。
一方のクーデター部隊であるが、情勢不利を察した隊員や将校が相次いで原隊復帰してしまい、15日の時点でマインファルケンに僅か2個中隊を残すのみとなった。
8月16日、首相側の呼びかけに応じてマインファルケンへ集まった『クーデター鎮圧部隊』および海軍によるクーデター部隊への攻撃が開始された。しかし統合された指揮系統を持たない鎮圧部隊は攻めあぐね、逆に撃退されて状況は膠着してしまった。
18日、陸軍総司令官がクーデター部隊を訪れた。総司令は、政府・軍内部そして何より世論での支持を得られなかった事から首相の拘束を諦め、議会での首相弾劾へと方針を切り替えた。その夜、陸軍総司令官は単身で包囲下の国家社会主義労働者党施設へと赴き、そこでデカルト首相との密談を行った。その密談内容は明らかにされていないが、この結果として首相と陸軍総司令官は『クーデター鎮圧部隊』と『クーデター部隊』による『警護』を受けてヴァルデガルトへと赴く事となった。また、国家社会主義労働者党がゴットハルト2世公とその御落胤を保護しているという主張は『無かった』事とされた。こうして、ケルンテンで発生したクーデターは終結となった。
20日、ハルカ・デカルトと陸軍総司令官がヴァルデガルトへ到着した。この際、シュタインケラー国家元首代行が自ら彼女を出迎え、正式にケルンテン首相として承認した。この時点では、国家社会主義労働者党とヴァルデガルト政府双方に和解の意図があった様だ。
首相となったデカルトを交えて21日夜半から22日早朝にかけて、徹夜での高等軍事会議が行われた。なおデカルトはクーデター発生の際に高等軍事会議の解散を宣言していたが、これは緊急避難のための措置であったとされ、その宣言は撤回された。会議ではまず陸軍総司令官の『勇退』が決議され、後任として現エステンド師団長が選任された。続いてドイツからの最後通牒への返答が議論された。会議は拒否派と受諾派とで割れたが、最終的にドイツとの戦争になっても拒絶すべしとの世論が重視され、拒否が決議された。
また17日に前総司令によるヘルツォークトゥン騎兵旅団への補給差し止め命令は、新総司令によって23日に解除された。
一方の国会であるが、上院は新型爆弾による議員の多数死亡などの影響で開院されず、非常措置として下院のみでの決議が行われる事となった。ただし、その下院も出席数はたったの12という状況であった。この国会によって、前首相の置き土産である国家総動員法が議決され、当月中に施行された。
ケルンテンは対ドイツ戦争へと大きく舵を切ったのであった。
新公爵を宣言したユリアーヌス・ワルトシュタインの正統ケルンテン政府であるが、今月期も舞踏会を催すのみで、具体的な施策は何も行わなかった。にもかかわらず、国民から絶大な支持を受けていた。
9月1日、第204師団に捕らわれていたカール・ヴィルヘルム・ワルトシュタインが同師団から脱出した。カール・ヴィルヘルムはヴァルデガルト政権にもユリアーヌス政権にも無視された存在であったためケルンテン公国の表舞台には現れず、そのまましばらく消息を絶つ事となった。
これにより第204師団は「正統ケルンテン政府」である根拠を失ったが、硅独開戦を目前に控えたこの時期となっては、もはや意味の無い事であった。
15日、中央政庁を占拠していた第1師団は、首都グレンクローセへ通ずる主要幹線を爆破し、篭城の構えを採った。これに対しグレンクローセ近郊へと達した第2師団、第3師団、第205師団の一部部隊、そして第1師団の反クーデター派による鎮圧部隊がグレンクローセ近郊へと集結を始めていた。そして鎮圧部隊はクーデター部隊に対して20日までの期限を設けて投降を呼びかけた。だがこの投降勧告は、鎮圧作戦のための欺瞞であった。なお第204師団は既に事実上のドイツ軍部隊(師団長がドイツ軍籍を持つ)であったため、鎮圧作戦へは参加していなかった。
17日夜、第1戦闘航空団と第3戦闘航空団による空爆と共に、空挺人形団が政庁のあるシュバルテンシュテルベン城周辺へと降下を行った。また同時に地上部隊も首都内部へと一斉に雪崩れ込んできた。通告よりも早い鎮圧作戦の開始であった。クーデター部隊は堅固な城に立てこもっているとは言え、現有グリューネラント軍のほぼ全力に当たる戦力へは抗しきれず、夜明け前には鎮圧された。この作戦で総司令部へ軟禁されていた陸軍総司令は空挺部隊によって救助され、第1師団長は反クーデター派の同師団員によって殺害された。また議会では第2師団員によって親ドイツ派議員が殺害される事件が発生していた。
そして19日から20日にかけて、第1師団の佐官以上は全員銃殺刑に処され、尉官以下は身柄を拘束された。また油田を制圧した第205師団長も背任を理由として解任された。これによりグリューネラント共和国上層部はキルマイヤー首相ら親ドイツ……いやドイツ容認派が掌握する事となった。
8月15日、第205師団はクーデター鎮圧のため一部部隊をグレンクローセへと差し向けたが、戦力の大半はシュヴァルツヴァッサーへ残したまま、引き続き油田を制圧していた。このクーデター鎮圧部隊派遣は、第205師団が総司令官を救出し、総司令官を抱きこむ事によって油田制圧の正当化を図ったものであった。しかし思惑に反して総司令官は他部隊によって救出された。
そしてクーデター鎮圧により機能を回復した総司令部は、反ドイツ派である第205師団長を解任し、新たに親ドイツ派の人物を同師団長へと任命した。この際、新師団長派と旧師団長派との間で市街戦が勃発したが、旧師団長派が同市を脱出した事で、混乱は収束した。
親ドイツ派が第205師団を掌握した事により油田の封鎖は解除され、第204師団への補給も再開された。なお油田制圧は旧師団長の責とされ、第205師団への処分は不問となった。
9月8日、キルマイヤー首相はドイツに対して最後通牒の受諾を表明し、9日にこれを公表した。そして同日、全軍へ動員および武装の解除を通達した。事実上のグリューネラント共和国の消滅(チェリンク州は保護国として残るが)、そして事実上の硅緑内戦終戦であった。
11日にはドイツ進駐軍の第1陣として、SS連隊パンテルが北ゴートイェークへと移動した。そして14日には旧グリューネラント共和国国民陸軍第204国民突撃師団がドイツ陸軍中欧軍集団第14軍第16装甲軍団へと編入され、正式にドイツ軍となった。
9月1日、グリューネラント軍は総司令官の作戦に基づき、第2、第3師団を渡河させて南ゴートイェークへの侵攻を開始した。しかしこの侵攻作戦は、ドイツに対して独立戦争継続の示すための政治的なポーズに過ぎなかった。そのためグリューネラント軍総司令は第2、第3師団がドナウ南岸へ展開していたエステンド師団、ブラウフリューゲル師団によって侵攻を阻止されると、翌日には撤退命令を下した。
この戦闘で第2師団は第4爆撃航空団の支援を受けて渡河を試みたがブラウフリューゲル師団からの阻止攻撃が激しく、対岸上陸を果たせないまま多大な損害を被ったため渡河を断念した。一方の第3師団は第1、2、3戦闘航空団の支援を受けて渡河に成功したものの、進撃路上に展開するエステンド師団を突破する事ができず、逆にウービルトNr.9チュルヴィングによる反撃で損害を被った。なおケルンテン陸軍航空隊は渡河してきた第3師団に対して航空阻止攻撃を行ったが、さしたる効果をあげられなかった。
第3師団は翌日の撤退命令を受けてドナウ北岸へと撤退したが、ケルンテン軍側に戦火を拡大する意図が無かったため、追撃戦は発生しなかった。
第4爆撃航空団は第3戦闘航空団との共同によって南ゴートイェークの広域爆撃を断続的に実施した。この広域爆撃は主に3つの作戦によって構成されていたが、それらは目標地域や作戦日時が異なるのみで、目的は主要な都市・幹線・橋梁を爆撃しケルンテン軍の補給を阻害すると言う事で一致していた。
この中でも、8月15日に実施されたロックシュタイン爆撃、17日に実施されたナーベルブルク爆撃、21日に実施されたアルトリンゲン爆撃は大規模なもので、各都市は大きな被害を受けた。だがケルンテン軍はこの時点で既に対ドイツ戦に備えてグロイスター山脈の要塞化を行い、事実上は南ゴートイェーク州を放棄していたため、目的である補給の阻害は達成できなかった。
なおこの時期のケルンテン陸軍航空隊であるが、グリューネラントとの休戦は有効であると考えた一方、新たに対ドイツ戦が始まる事を警戒し警戒空域を南ゴートイェーク−ミッテルケルンテン州境付近にまで後退させていた。そのため、グリューネラント空軍の広域爆撃に対して有効な邀撃を行うことができなかった。
当月期のケルンテン海軍であるが、政治情勢でもふれた様に総司令官の退任と地中海艦隊司令の交代によって、事実上の別組織となっていた。だがそれ以上に、この後で照会する2つの海戦によってケルンテン海軍は壊滅状態となった。
また元グリューネラント海軍であったドイツ海軍アドリア部隊であるが、グリューネラント政府が最後通牒を受け入れた事、そしてアドリア部隊が停戦後も一貫してケルンテンに対する攻撃を行っていた事がドイツ本国から評価され、9月10日をもって司令がドイツ人からグリューネラント人へと交代した。
また時を同じくしてイタリア艦隊もマインファルケン沖の封鎖艦隊を戦艦2隻、重巡洋艦4隻、駆逐艦12隻と、ほぼイタリア海軍の全力と呼べる規模へと拡大させた。
ドイツ・イタリアによるケルンテン包囲網の完成であった。
この海戦は、1938年8月14日深夜からイタリア艦隊がマインファルケン湾内への突入を開始した事を受けて、事前に協闘を約束していたドイツ海軍アドリア部隊がマインファルケン湾内に侵入した事によって発生したものである。なお、イタリア艦隊は直前にデカルト親書を受け取った事によって突入を回避している。
15日早朝、グリューネラント海軍は潜水艦7隻と水中用装甲戦闘猟兵2機を4波に別けてマインファルケン湾内へと侵入させた。このうち、先行して侵入した第1,2波の3隻は湾口へと向かうケルンテン海軍の戦艦ベハーゲンを発見した。ちょうどベハーゲンは、突入してくる(予定であった)イタリア艦隊を迎え撃つべく整備され、湾外へと出撃しているところであった。しかし間が悪く、ベハーゲン艦橋では政治情勢でもふれた艦隊司令の地位を巡る内紛が発生し、周囲への警戒が十分に行われない状況であった。3隻の潜水艦は計6本の魚雷を発射し、少なくとも3本がベハーゲンに命中した。これは戦艦と云えども艦齢が30年を超える老朽艦に耐えうるダメージでは無く、ベハーゲンは被雷後数分で沈没した。
この海戦は、第4次マインファルケン港襲撃戦と同一の襲撃作戦によって発生したものであるが、戦闘参加艦艇が第4次とは全く別個のものであるため、独立した異なる海戦として紹介させていただく。
ドイツ海軍の第1,2波が撤退した後も、マインファルケン湾内にはドイツ海軍の潜水艦4隻と水中用装甲戦闘猟兵2機が潜伏を続けていた。しかし、ケルンテン海軍は湾内に脅威はないと判断し、16日正午より市街部に展開するクーデター部隊に対して特設巡洋艦1隻、ブルーメ級護衛艦4隻、機動砲艇1隻による砲撃を開始した。なお、湾外のイタリア艦隊に対する警戒として湾口部には機動砲艇3隻が配置されていた。しかし、この中で潜水艦を警戒していたのは護衛艦1隻のみであった。そのため、ドイツ海軍潜水艦はケルンテン海軍に気付かれる事なく雷撃位置に遷移し、瞬く間に特設巡洋艦1隻、護衛艦4隻を撃沈した。なお対潜警戒を行っていた1隻のみは被雷寸前に反撃を行い、潜水艦1隻を損傷させた。この潜水艦は戦闘終了後に何とか湾外まで脱出したが浮力を失ったため、浅瀬に乗り上げた後に自爆処理が行われた。
また、潜水艦の雷撃と同時に2機の水中用装甲戦闘猟兵も機動砲艇を撃沈した。続いて湾口部から駆けつけてきた機動砲艇1隻を格闘戦で撃沈した。残る機動砲艇2隻に対しても攻撃を試みたが、両艇は巧みな操艇でこれをかわした。しかし、両艇は攻撃をかわすのに精一杯で、反撃を行うことができなかった。
この海戦はドイツ側が引き上げた事によって終了した。ケルンテン海軍は7隻もの戦闘艦艇を失い、この海戦で実質的に壊滅してしまった。さらにその後、ケルンテン海軍は交戦を放棄して武装解除してしまったため、当海戦が最後の海戦となった。
ケルンテン国内の混乱は、クーデター派の更迭、ヴァルデガルトとマインファルケンの(表面的な)和解、軍部によるヴァルデガルト政権の支持、そしてカール・ヴィルヘルムの失踪によって一応の収束をみた。なおユリアーヌスによる正統ケルンテン政府は変わらず国民から高い支持を得ていたが、政治的には全くの無力であった。だが対外的にはドイツ・イタリアによる包囲網の完成と、対外政策の失敗による国際的に孤立するという危機的状況に瀕しており、また対ドイツ・イタリアとの開戦の目前へと迫っていた。ケルンテン公国の命運は、もはや風前の灯であった。
一方のグリューネラントはクーデターの鎮圧と軍上層部から反ドイツ派を更迭した事で、親ドイツ(諦観も多分にあるが)派によって統一された。これにより9月8日にはドイツからの最後通牒の受諾を表明し、グリューネラント共和国は事実上消滅する事となった(一応、グレンクローセ周辺は「保護国」としてグリューネラントの名が残ったが、主権の殆どを失ったため国家の態を成していなかった)。
この様に、思いがけない外圧によってグリューネラントが消滅したため、硅緑内戦は当月期を持って事実上終結した。だがこれは、新たな戦争の始まりにすぎなかった。
1938年10月期はケルンテン・ドイツ間の戦争であるため、もはや硅緑内戦の範疇を越えているが内戦がもたらした結末であるため、あえて紹介させて頂く。
この硅独戦争は、硅緑両国が硅緑内戦の終戦処理に失敗したため両国に対してドイツから最期通牒が突きつけられ、それをケルンテンが黙殺したために勃発した戦争である。
なお当研究所では、ギュルテンシュタイン師団、ブリクシア師団、第204師団についての硅独戦争における戦闘記録を入手できていない。そのため、これらについて十分な記述が出来ないことを、予めお詫びしておく。
ヴァルデガルト政権は最後通牒への回答を行わず、期限切れを持って戦争へと突入する事を決意した。そして高等軍事会議では開戦準備のために当月期予算の6割を軍事費とする事が決議された。が、国家予算の約15%がイギリスへの空母建造発注に使われるなど、目前に迫った対ドイツ戦争に備えたものとは考えづらい予算配分となっていた。更にヴァルデガルト政権は開戦前からスイス経由で国外へ脱出し、イギリスにての亡命政権樹立を計画していた。表向きには対ドイツ抗戦を訴えていたが、実際には国土防衛は不可能であると考えていた様だ。
またケルンテン軍総司令部は先月期からの計画に沿って、南ゴートイェーク州を放棄した上でミッテルケルンテン州を中心に防備を固める作戦を各師団へ下令した。しかしブリクシア師団は命令を無視してブリクシア州へと引き上げてしまった。これによりケルンテン軍の布陣は、ギュルテンシュタイン州にギュルテンシュタイン師団とヘルツォークトゥン旅団、南ゴートイェーク−ミッテルケルンテン州境にミッテルケルンテン師団とブラウフリューゲル師団、ミッテルケルンテン−エステンド州境にエステンド師団、そしてブリクシア州に対イタリア警戒として国際旅団を配する形となった。少ない戦力を分散配置する形となってしまったが、これは国境の大半がドイツと接しているため、ドイツ軍の進撃方向を特定出来なかった為の様である。
一方のユリアーヌス政権であるが、やはり具体的な政策は何も無かった。しかし対ドイツ戦争におけるケルンテンの勝利は確実であると宣言していたため、背後では何らかの動きがあったのかもしれない。しかし、それを裏付ける史料は残されていないため、その内容は不明である。またこれは、単なる現実逃避であった可能性も捨てきれない。
先月期末に解体が決定したグリューネラント共和国軍であるが、第204師団に続いて第205師団もドイツ軍へと編入される事が決定した。また第2師団は独自判断によってケルンテン軍への攻撃を企図していたが、ドイツ軍へ編入された訳ではなかった。そのためドイツからは暫定的に義勇民兵という扱いを受けたが、行動如何によっては反逆として処断される恐れがあった。その他の第1、3師団は解散して師団員は復員したが、第1師団の将校は先の取り決めにより処刑された。
ドイツ軍はケルンテン侵攻にあたって、南ゴートイェークとミッテルケルンテンを確実に保持しつつケルンテンの野戦軍を壊滅させるという目標をもっていた。そしてこれを達成するため、グロイスクー山地の左右から5個師団を、南ゴートイェークへは10個師団を投入し、一挙にケルンテン軍を包囲・圧殺する事を方針としていた。
なお、ドイツ陸軍の投入戦力は下記となっていた。
イタリアもケルンテンへの最後通牒をドイツと連名で行っていたが、期限切れと同時の開戦は見送っていた。だが何時でも介入できるように、国境周辺へヴェローナ、トレント、シエナ、ベルガモ、アリエテ、トリエステの6個師団を展開した。また以前よりマインファルケン沖へ派遣されていた艦隊も引き続きトーテンコプフ島近海を遊弋していた。
9月15日午前0時、最後通牒の回答期限切れと同時にドイツ軍は各方面で一斉にケルンテン国内への侵攻を開始した。硅独戦争の勃発であった。
ドイツ軍は当初の計画通りに南ゴートイェークへ10個師団、グロイスター山地へ5個師団を進撃させた。要塞化されたグロイスター山地にはミッテルケルンテン師団とブラウフリューゲル師団が布陣していたが、両師団は開戦初日にして早くも分断されてしまった。
またドイツ第27師団はエステンド師団と交戦し、エステンド師団の右翼部を包囲した。
しかし一方、ギュルテンシュタイン州へ配置されていたヘルツォークトゥン旅団はケルンテナーアルプスを踏破して、逆にドイツのバイエルンへと進撃していった。これにはドイツ軍も意表をつかれたが、すぐさまニュルンベルクにあった予備の第13軍団に対して、同旅団の追討を命じた。
17日、ミッテルケルンテン師団とブラウフリューゲル師団は合流するための行動を開始したが、ミッテルケルンテン師団は3個師団からの包囲攻撃を受け大損害を被った。一方ブラウフリューゲル師団はドイツ軍から包囲を受けながらも強行的に北上していった。
エステンド師団はドイツ軍第27師団に大打撃を与えて包囲された部隊を救出しつつ、ヴァルテガルト方面へと移動した。
一方、ドイツ領内へ進撃したヘルツォークトゥン旅団は、ドイツ第13軍団の攻撃を受け大損害を被った。
19日、ケルンテン軍は6個師団による包囲下にあるミッテルケルンテン師団を救出するため、エステンド師団、ギュルテンシュタイン師団、近衛騎士団をミッテルケルンテン州内へ移動させ、ミッテルケルンテン師団が閉じ込められているヴュルムヘラーを目指した。しかし、ドイツ軍に阻まれ、どの部隊もミッテルケルンテン師団と連絡する事が出来なかった。
また19日未明、SS連隊パンテル連隊長が暗殺され、翌20日未明には、配属されていたウービルト・アルヌルフが何者かに奪われた。この一連の事件によってSS連隊パンテルはその戦闘力を大幅に減殺された。そのため、4個師団による包囲下のまま鉱山街道を北上してきたブラウフリューゲル師団との戦闘で、SS連隊パンテルは大きな損害を被りツィグレーエまで後退する事となった。
21日、ケルンテン陸軍総司令部は進撃してきたドイツ軍から首都ヴァルデガルトを防衛するため、エステンド師団、ギュルテンシュタイン師団、近衛騎士団を同市周辺へと配置した。ヴァルデガルト防衛戦の開始であった。だがこれにより、ミッテルケルンテン師団は見捨てられる事となった。そして22日、ミッテルケルンテン師団は「全滅」した。
またヘルツオークトゥン旅団も同日、ドイツ第13軍団によって包囲・殲滅された。
これによってケルンテン軍は1.5個師団を失った。
23日、北進を続けたブラウフリューゲル師団はついにシュヴァルツヴァッサーにまで到達し、油田の破壊活動を開始した。これにより、ケルンテン軍による油田破壊を憂慮したドイツ軍は、ジルヴァ占領に当たっていた第16装甲軍団を新たにブラウフリューゲル師団撃滅へと差し向ける事とした。
またドイツ軍は一挙にケルンテン軍を殲滅するため、予備戦力であった第13軍団のケルンテン侵攻を決定した。 第13軍団はケルンテナーアルプスを突破してギュルテンシュタイン州へ突入し、国際旅団を包囲攻撃した。
こうした状況の中、ブリクシア師団長カール・ヨーゼフ・フォン・フィヒトナー将軍は、ロムラン市において、ブリクシア州の分離独立を宣言した。
25日、事態の推移を見守っていたイタリアは、ブリクシアの独立宣言を受けて、ケルンテン国内の自国権益の保護と治安維持のため、4個師団をブリクシアに侵攻させ、さらには2個師団をもってブラウフリューゲル州の制圧に乗り出した。ブリクシアでは小競り合いが続いたが、形勢は明らかにブリクシア国軍(旧ブリクシア師団とブリクシア解放戦線との合同部隊)にとって不利であった。
ドイツ軍の第20自動車化師団はすでにエステンド州深く浸透していたのだが、イタリアの動きを受けて、とりあえず「エーリヒハオトヒューゲル」の権益を確保するため、一個自動車化連隊を現地に派遣し、26日午後に1個連隊を突入させた。
ヴァルデガルトの防衛を行っていたケルンテン軍は如何ともしがたい現状を鑑み、遂にヴァルデガルトの放棄を決定し東西への脱出をはかった。西への脱出を狙ったギュルテンシュタイン師団、近衛騎士団はドイツ軍に行く手を阻まれたが、東への脱出をはかったエステンド師団は包囲環の左翼を形成する第27師団を撃退して、ブーヘンドルフヘの突破に成功した。
27日、第204師団、第205師団、第2師団、SS連隊パンテルという旧グリューネラント軍部隊によって包囲攻撃を受けていたブラウフリューゲル師団は、一矢報いるため最後の突撃を敢行し、全滅した。
5個師団の包囲下に置かれたギュルテンシュタイン師団と近衛騎士団は、ウービルトによる反撃でドイツ第1軽師団を「全滅」させた。
また国際旅団はギュルテンシュタイン師団、近衛騎士団と合流すべく第13軍団と交戦しながら南下を続けた。
29日、エステンド師団によるラヴァンタール防衛戦が始まった。
近衛騎士団とギュルテンシュタイン師団は、リッターシュトラーセを西進し、ウービルトによる反撃でドイツ第4師団を「全滅」させた。
10月1日、状況が一変した。今まで何故か航空機や車両の投入と手控えていたドイツ軍が、突如これらの近代兵器を戦線へ投入したのだ。そして逆にケルンテン、ドイツ両軍が装甲戦闘猟兵の戦線投入を中止したのだ。これらの不可解な動きについては、信頼にたる資料が残されていないため不明である。
だがこの変化は劇的であった、元々戦力の乏しかった国際旅団は同日中に全滅し、またエステンド師団もラヴァンタールを放棄した。ギュルテンシュ夕イン師団は、ギルドゥーツ城に追い込まれて、籠城戦を展開することとなった。
10月3日、もはや見込みなしと判断したエステンド師団はドイツ軍への降伏を申し入れ、即日武装解除した。またブリクシアでもほぼ全州をイタリア軍が制圧した。
10月5日、ケルンテン陸軍総司令部はここで最後の決断をした。ドイツ軍の前線部隊が本格的に戦闘力を取り戻すその前に、各部隊を解散しゲリラとしての抵抗運動によって、ドイツと戦う事を決定したのである。戦略の大転換というより、事実上の敗北であった。とは言うものの、この時点でケルンテンに残された戦闘部隊はギュルテンシュタイン師団と近衛騎士団のみであり、かつ篭城中の師団に地下潜伏は無理な話なため、結局は近衛騎士団が地下に潜伏したのみであった。
またブリクシア国軍も、組継的な抵抗をあきらめて、ゲリラとなって州内各地に身を隠した。
10月10日、ギルドゥーツ城に立てこもっていた最後のケルンテン正規軍部隊であるギュルテンシュタイン師団が降伏した。これによって、ケルンテン軍は事実上消滅した。これによってケルンテンにおける組織的戦闘は終結した。ケルンテン軍は文字どおり壊威したのであった。
グロイスターではクランツ峠を中心とする北部グロイスター要塞にてブラウフリューゲル師団が、ランツェレ峠を中心とする南部グロイスター要塞にてミッテルケルンテン師団がそれぞれ防衛を担当していた。
15日、最後通牒への回答期限切れと同時に、ドイツ軍は北部グロイスター要塞へバイエルン側から第1軽師団と第3軽師団を、南部グロイスター要塞へ旧オーストリアから第28師団と第2山岳人形師団を進撃させた。「グロイスターの戦い」である。そして同日中に早くもブラウフリューゲル師団は第3軽師団によって東西へ分断され、ミッテルケルンテン師団も第28師団によって南北へ分断された。
17日、ブラウフリューゲル師団は合流するため東進しドイツ軍を撃退しつつブリューネルまで移動した。これによって分断部隊との合流に成功したが、第3山岳人形師団、第31師団、第4師団、第8師団、旧緑土第204師団、第13自動車化師団、第20自動車化師団によって完全な包囲下へ置かれる事となった。
だがブラウフリューゲル師団はこの包囲をものともせずに北進を行い、ついには包囲網を突破して22日にロックシュタインへと達した。ブラウフリューゲル師団は尚も歩みを止めず、23日にはついにシュヴァルツヴァッサーにまで到達し、油田の破壊活動を開始した。これにより、ケルンテン軍による油田破壊を憂慮したドイツ軍は、ジルヴァ占領に当たっていた第16装甲軍団の第2装甲師団とSS装甲連隊アドルフ・ヒトラーを新たにブラウフリューゲル師団撃滅へと差し向ける事とした。
25日、ジルヴァを南下した第2装甲師団とSS装甲連隊アドルフ・ヒトラー、南ゴートイェークを北上した旧緑土第2師団、旧緑土第204師団、旧緑土第205師団、SS連隊パンテルはブラウフリューゲル師団を包囲し、ここに「シュヴァルツヴァッサーの戦い」が始まった。これまでドイツ軍による包囲網を突破し続けたブラウフリューゲル師団であったが、機動力を発揮できない状況では戦力を圧殺されていく一方であった。そして27日、最期を覚悟したブラウフリューゲル師団は、一矢報いるため最後の突撃を敢行し、全滅した。
ミッテルケルンテン師団はランツェレ峠を中心として南部グロイスター要塞の防衛にあたっていたが、ここへ開戦と同時に旧オーストリアからドイツ軍第28師団と第2山岳人形師団が襲撃してきた。そして同日中に早くもミッテルケルンテン師団は、第28師団によって南北へ分断されてしまった。
17日になってミッテルケルンテン師団は分断部隊と合流するためにミッテルケルンテン州内へと後退した。これによって同師団はヴュルムヘラーにて合流に成功したが、第3軽師団、第7師団、第31師団、第3山岳人形師団、第2山岳人形師団、第28師団によって周囲を完全に包囲される事となった。
19日になるとケルンテン陸軍総司令部はミッテルケルンテン師団救出へ部隊を差し向けたが包囲を打ち破る事が出来ず、身って留ケルン師団は完全に閉じられた包囲環の中で圧殺されつつあった。
そして22日、第2山岳猟兵師団に配備されていたウービルトNr.44ファフニールの攻撃によってミッテルケルンテン師団は軍事的な意味では無く文字通り「全滅」した。この戦闘で師団の記録も全て失われてしまったため詳細は不明だが、生存者は数名程度であった様である。到底常識では考えられない事態であるが、真相を知っているファフニールの搭乗者はこの戦闘のショックによってか廃人となってしまったため、詳しいことは一切不明である。
9月15日、ギュルテンシュタイン州の北西部にあるドイツ・スイスとの国境付近へ配置されていたヘルツォークトゥン旅団はドイツ首都ベルリン攻略を目標に掲げ、ケルンテナーアルプスを踏破して逆にドイツのバイエルンへと進撃していった。この無謀でしかない行動は、同旅団が囮となる事で一般市民がスイスへと脱出する避難路を確保するためであった。
これにはドイツ軍も意表をつかれ国境で同旅団を撃退する事に失敗した。たが、すぐさまニュルンベルクにあった予備の第13軍団に対して、同旅団の追討を命じた。ドイツ第13軍団は即座に全戦力である第14師団、第44師団、及びSS連隊ゲルマニアを差し向けた。
9月17日ドイツ領内へ進撃したヘルツォークトゥン旅団は、ドイツ第13軍団と遭遇し戦闘に突入した。同旅団の士気は非常に高かったが多勢に無勢であり第13軍団を突破できず、逆に包囲されつつあった。同旅団は包囲を脱するため南東方向へと移動を続けたが、包囲の圧力に耐え切れず22日に殲滅された。
国際旅団は当初、イタリア軍の侵攻を警戒してブリクシア州南部の国境地域へ配置されていた。だが19日、ドイツへ侵出したヘルツォークトゥン旅団を捕捉したドイツ陸軍第13軍団がギュルテンシュタイン州国境付近にまで達した事、そして当初はギュルテンシュタイン州に配されていたギュルテンシュタイン師団がミッテルケルンテン州へ移動したため、ギュルテンシュタイン州内に戦力の空白が生じていたことを受けて、国際旅団はギュルテンシュタイン州へと移動した。
そして23日、ドイツ陸軍第13軍団の第14師団、第44師団、SS連隊ゲルマニアはケルンテナーアルプスを踏破してギュルテンシュタイン州内へと侵攻し、戦力の劣る国際旅団を包囲した。27日、国際旅団はギュルテンシュタイン師団、近衛騎士団と合流すべく南下を図ったが、包囲を脱する事ができなかった。
10月1日、ドイツ軍は大量の航空戦力を投入し、総攻撃を仕掛けてきた。包囲下にあって損耗していた国際旅団はこれに耐え切れず、同日中に全滅した。
21日、ヴァルデガルトにまで差し迫ったドイツ軍に対応するため、ケルンテン陸軍総司令部はミッテルケルンテン師団の救出を諦め、エステンド師団、ギュルテンシュタイン師団、近衛騎士団を同市防衛へと差し向けた。「ヴァルデガルト防衛戦」の開始である。
だが、22日にミッテルケルンテン師団が壊滅したため、同師団を包囲していた部隊もヴァルデガルト方面へと転進してきた。エステンド師団は単独で第31師団、第7師団、第3軽師団、第28師団、第3山岳猟兵師団、第2山岳猟兵師団を食い止める激戦を繰り広げたが、数に勝るドイツ軍は第1軽師団と第27師団を延伸し、ヴァルデガルトを包囲していった。
25日、ヴァルデガルトの防衛を行っていた、エステンド師団、ギュルテンシュタイン師団、近衛騎士団は如何ともしがたい現状を鑑み、遂にヴァルデガルトの放棄を決定し脱出をはかった。エステンド方面への脱出を図ったエステンド師団は第27師団を撃退して、26日にはブーヘンドルフへと脱した。一方ギュルテンシュタイン方面への脱出を図ったギュルテンシュタイン師団と近衛騎士団であるが、第31師団と第1軽師団に阻まれ、包囲を脱する事ができなかった。
27日、5個師団の包囲下に置かれたギュルテンシュタイン師団と近衛騎士団は、遂に切り札を使用した。ウービルトNr.60グレイプニルである。先日のファフニールに違わぬ戦闘力を発揮したグレイプニルは第1軽師団を文字通り全滅させたが、今回も搭乗者は廃人となってしまった。だがこれによって血路を開く事に成功したギュルテンシュタイン師団と近衛騎士団は、リッターシュトラウセを西進して包囲を脱出した。
これによってヴァルデガルトは陥落した。しかしドイツは、統治能力を失っていたヴァルデガルト政権に戦略的価値を見出せなかったため、同市は制圧されず終戦まで放置されていた。
ヴァルデガルトからの脱出をはかったエステンド師団は包囲環の左翼を形成する第27師団を撃退して、ブーヘンドルフヘの突破に成功した。そして27日、エステンドの象徴とも言えるラヴァンタールを守るため、同市へと到達した。なお同市はユリアーヌス政権の所在地であったが、同師団にこれを守る意志はなく(と言うよりも、同政権の存在を認識していなかった節すらあった)、単に自分達の故郷を守ろうとしただけの様である。
29日、ラヴァンタール近郊においてエステンド師団と、ドイツ陸軍第13自動車化師団、第2山岳猟兵師団、第3山岳猟兵師団、イタリア陸軍トリエステ師団が激突した。「ラヴァンタール防衛戦」の始まりである。エステンド師団はこれらの部隊によって包囲を受けた状態であったが全ての攻撃をはね除け、トリエステ師団に対しては逆襲によって打撃を与えた。
だが10月1日、状況が一変した。今まで何故か航空機や車両の投入と手控えていたドイツ軍が、突如これらの近代兵器を戦線へ投入したのだ。いままで奮戦していたエステンド師団も、このダメ押しとも言えるドイツ軍の戦力投入に抗しきれず、ラヴァンタールの放棄を決定した。同師団は何とか落ち延びたものの、包囲から脱する事は出来なかった。
そして10月3日、もはや見込みなしと判断したエステンド師団はドイツ軍への降伏を申し入れ、即日武装解除した。
29日、包囲を脱した近衛騎士団とギュルテンシュタイン師団は、リッターシュトラーセを西進した。ドイツ軍は西進するケルンテン軍の頭を抑えるため、ギュルテンシュタイン州にいた第4師団を単独で向かわせていた。そして両者はディンツブルクで激突した。
ケルンテン側はこの戦いに、文字通り切り札となったウービルトNr.8バルバロッサを投入し、またもや第4師団を「全滅」させた。なおこの際の搭乗者は陸軍総司令官を「勇退」して、近衛騎士団司令に就任していたフォン・ベンツェンベルク元帥であった。
この連続する師団『(文字通りの)全滅』という異常事態に、ドイツ中欧軍集団の司令部は、完全なパニックに陥った。
だが、ケルンテンの勇戦もここまでであった。10月1日になると、ドイツ軍が航空機や車両の一斉投入を行ってきたのであった。近衛騎士団とギュルテンシュタイン師団はギルドゥーツにまで到達していたがこの猛攻に耐えきれなかった。そしてギュルテンシュ夕イン師団は、ギルドゥーツ城に追い込まれて籠城戦を展開することとなった。
5日、近衛騎士団は組織的抵抗を諦めたものの降伏は拒み地下へ潜伏した。
そして10日、最期まで組織的抵抗を続けていたギュルテンシュタイン師団がドイツ軍へ降伏した。
ブリクシア師団は開戦当初から陸軍総司令部の意向を無視してカルテナー峠に布陣し、そのまま一切動こうとしなかった。
21日、ブリクシア師団が動きを見せた。だがそれはミッテルケルンテンでの戦闘に参加する為ではなかった。ブリクシア師団は戦力を二分すると、一隊をブリクシアの州都ロムランへと移動させたのだ。
そして23日午前10時、事態が急変した。ブリクシア師団長カール・ヨーゼフ・フォン・フィヒトナーがロムラン市において、ブリクシア州の分離独立を宣言したのであった。そしてブリクシア師団はこれまで敵対関係にあったブリクシア解放戦線と和解し、両者を併合して新たにブリクシア国軍の設立を宣言した。だがフィヒトナーの独立宣言には「ケルンテンがかつての栄光を取り戻すまで」とあった。ここにケルンテン人であると考えるブリクシア師団側とブリクシア人であると考える解放戦線側との齟齬が見て取られる。
25日、事態の推移を見守っていたイタリアはブリクシアの独立宣言を受けて、ケルンテン国内のイタリア系住民の保護(ブリクシア州とブラウフリューゲル州にはイタリア系住民が多数いた)と治安維持のため、ついにケルンテンへの進駐を決定した。そしてブリクシアとの国境へ配置していたヴェローナ、トレント、シエナ、ベルガモの4個師団をブリクシア州内へと移動させた。
一方、ブリクシア国軍は戦力を4分割して、ギュルテンシュタインとの境界にある「カルテナー峠」、南方にある「グラネッグ基地」、北方にあるにある遺跡「巨人の積木」、そして首都「ロムラン」といった要所の防衛に当たらせていた。北方へ兵力の半数を貼り付けていたのはドイツを警戒してのことであったが、実際にはドイツ・イタリア間の密約によりドイツがブリクシアまで侵攻する事はなく、死兵となっていた。そして、南方のグラネッグ基地も兵力が過少であり、イタリア軍がその守備部隊を無視したため、やはり死兵となってしまっていた。
9月26日、グラネッグ基地を無視したヴェローナ、トレント、シエナ、ベルガモの各師団は一気にロムランを目指した。イタリア軍はヴェローナ、トレント両師団をロムラン正面へと向かわせると共に、シエナ・ベルガモ両師団はロムランを迂回させ北側から挟撃を行うか、あるいはカルテナー峠と巨人の積木の部隊への対応を行う動きを見せた。ブリクシア軍のロムラン守備隊はこれを察知し、正面部隊の進行を遅らせるためにロムラン南方にて先制攻撃を行った。この戦闘はブリクシア側にとって予測されていたものであり、その場所には予め多数の罠が仕掛けられていた。ブリクシア軍はこれら罠とゲリラ戦術を組み合わせてイタリア軍に出血を強いる事に成功した。
しかしながら、兵員数で劣るブリクシア軍は攻撃を持続する事ができず、27日にはヴェローナ、トレント両師団がロムランへと到達した。そこへ迂回を行っていたシエナ、ベルガモ両師団も加わり、ロムランは完全に包囲された。
9月28日、ブリクシア側で重大な事件が発生した。この日の朝、理由は不明であるがブリクシア国軍兵士によるブリクシア解放戦線指揮官暗殺未遂事件が発生したのだ。この事件にブリクシア解放戦線側は激怒し、ブリクシア国軍と手を切った上で逆に国軍本部への襲撃を行った。この混乱に乗じてイタリア軍も攻撃を行った。ロムラン守備隊は駆けつけた他部隊の援護を受けて、ロムランからの脱出を行うだけで精一杯であった。
そして29日にはヴェローナ、トレント両師団を持ってロムラン制圧を完了し、30日にはベルガモ師団がカルテナー峠を制圧した。ブリクシア国軍は鍾乳洞にこもって抗戦を続けていたが、もはや大勢は決していた。
10月3日、ブリクシアのほぼ全域がイタリア軍によって制圧された。5日、ブリクシア国軍もケルンテン軍と同じく組継的な抵抗をあきらめて、ゲリラとなって州内各地に身を隠した。
かくしてブリクシア独立戦争は、2週間ほどで終結した。
旧グリューネラント軍であった第2師団、第204師団、第205師団そして(正式にはグリューネラント軍では無いが)SS装甲連隊パンテルは、開戦後にドナウを渡河し、一気に南ゴートイェークを南下していった。そして早くも17日には第204師団がブラウフリューゲル師団への包囲環に加わった。
19日、包囲を突破したブラウフリューゲル師団に対して、第204師団、第205師団、SS装甲連隊パンテルが再度包囲を試みた。だがこの日の未明、SS連隊パンテル連隊長が暗殺され、翌20日未明には、配属されていたウービルト・アルヌルフが強奪される事件が発生した。この一連の事件によってSS連隊パンテルはその戦闘力を大幅に減殺された。そのため、SS連隊パンテルはブラウフリューゲル師団との戦闘で大きな損害を被りツィグレーエまで後退する事となった。これによりブラウフリューゲル師団に対する包囲が崩れ、またしても突破されてしまった。以降、第2師団、第204師団、第205師団、SS装甲連隊パンテルはブラウフリューゲル師団を追いかけて北上を続けたが追いつけず、ブラウフリューゲル師団のシュヴァルツヴァッサー制圧を許す事となった。
25日、ジルヴァを南下した第2装甲師団とSS装甲連隊アドルフ・ヒトラー、南ゴートイェークを北上した第2師団、第204師団、第205師団、SS連隊パンテルはブラウフリューゲル師団を包囲し殲滅戦を開始した。そして27日までにこれを殲滅した。
この戦いの後、損耗していた第204師団とSS連隊パンテルはジルヴァへと北上し、同地の制圧にあたった。また義勇軍として参戦していた第2師団は解散した。第205師団のみが再びケルンテンと戦うために南下したが、戦域到達前に戦闘は終結した。
こうして、旧グリューネラント軍の戦いは終結した。
ケルンテン海軍であるが、現状でイタリア艦隊とドイツ海軍アドリア部隊へ対抗する事は不可能だと判断し、艦艇を放棄して陸路スイスへ脱出を計画していた。
一方ドイツ海軍アドリア部隊(旧グリューネラント海軍)であるが、こちらも戦争の結果は見えたと考えたのか、研究成果などを確保ため、ケルンテン海軍接収のための部隊を残して他は全て本国へと撤退していった。
また圧倒的戦力を誇るイタリア海軍は、本国からの命令があるまでトーテンコプフ近海で遊弋していた。
こうした中、9月28日にマインファルケンがイタリア陸軍に占領された事を受けて、ケルンテン海軍はベハーゲン海軍基地の放棄を決断した。そして海軍は29日に、基地施設の破壊した上で陸路脱出した。
なおこの脱出の際に、武装状態の水中用装甲戦闘猟兵2機が秘密裏に出撃した。そして30日未明、トーテンコプフ島沖にてイタリア戦艦コンテ・ディ・カブールが爆発・沈没したが、これはこの水中用装甲戦闘猟兵によるものと思われる。しかし、ケルンテン海軍は既に基地を放棄していたため記録は残されておらず、また2機の水中用装甲戦闘猟兵も行方不明となったため、詳細は不明である。
10月3日正午、イタリア艦隊とドイツ海軍がベハーゲン基地へと入港し、同基地を接収した。これによって、ケルンテン、グリューネラント、ドイツ、イタリアを巻き込んだアドリア海での戦いは終結した。
分裂状態にあったケルンテンの政治情勢であるが、遂に対外戦争へと突入した事によってどの様な変化があったのかを、ここでは見ていきたい。
微妙な関係が続いていたヴァルデガルト政権と国会社会主義労働者党との関係であるが、ここに至って遂に決裂した。首相弾劾が議会へ提出され、圧倒的多数を持って可決されたのだ。これによって、デカルト女史は首相、高等軍事会議員、下院議員の資格を剥奪された。そして新首相には民主党党首のクンツ氏が選出された。ただしこの時点でクンツ氏は国外にいたため、パツァーク氏が首相代行として同時に選任された。
だがデカルト女史は、15日の時点で議会の解散を宣言していた。そのため、首相弾劾決議は無効であると主張している。だがデカルト女史は正式な解散手続きを行わず、宣言後すぐにマインファルケンへと移動した。そのため、議会解散宣言に実効性は無いものと考えられる。
これにより、ケルンテン公国では首相を自認する人物が2名並立する事となりヴァルデガルト政権とマインファルケン政権は完全に分裂する事となった。
ヴァルデガルトが陥落した事で、シュタインケラー元首代行をはじめとするヴァルデガルトの政治家は大半がドイツに捕えられ、後に投獄もしくは処刑された。だが命を永らえた政治家もいた。クンツ首相をはじめとする、開戦前から国外にいた政治家たちである。彼らは硅独戦争によるケルンテン公国滅亡は避けられないと考え、予め国外での亡命政権樹立工作を行っていたのであった。この工作は折りも良くイギリスにてドイツ容認派であったチェンバレン首相が暗殺され、反ドイツ派であるチャーチルが首相に就任したため、英国にての亡命政権が認められる事となった。
10月14日、デカルト女史はケルンテン公国首相として、ローマにおいてドイツ=イタリア同盟軍に対する降伏文書に調印した。
また同時にケルンテンとドイツ=イタリアとの講和条約(ローマ条約)の調印も行われた。この条約の内容は、ブリクシア州とブラウフリューゲル州をイタリア領とし、その他のケルンテン領とドイツ領とする事で、ケルンテンを分割するというものであった。
ただ条約であれば当然ながら議会での批准が必要となる。この批准をどの様に行ったのかは不明であるが、恐らく拘束されていたヴァルデガルトの議員たちによって形式上の批准が行われたものと思われる。
英仏はヴァルデガルト政権を正統政府とし、クンツ氏こそがケルンテン公国首相であると認めていたが、デカルト女史が「首相」としてローマ条約へ署名した事に対しては異を唱えなかった。これには、ケルンテン問題は解決済みであるとしてドイツ側との摩擦をこれ以上大きくしたくないという両国政府の意図があった様だ。なおイギリスの首相は反ドイツ派のチャーチル氏へと交代していたが、彼の政権基盤はまだ十分ではなかったため、この時点での外交的冒険は避けたかった様だ。
かくして硅独戦争は終結し、「ケルンテン公国」という国家は、イギリスにて樹立された亡命政権を残して、地球上から姿を消した。また「グリューネラント共和国」もグレンクローセ周辺がグリューネラント領として残された他は全てドイツ領として占領され、僅かな領土を残すのみとなった。またその国家も、主権が大きく制限された「保護国」とされ、「名前」のみが残った状態であった。
ケルンテン・グリューネラントの両国とも事実上消滅した事を受けて、硅緑内戦は曖昧模糊としたまま事実上終結した。本章では、この内戦がもたらしたものを改めて見て見たい。
硅緑内戦は主にケルンテン、グリューネラントそしてドイツの3国による利権が激突した戦いであった。そこでまずはこの3国の関係を見直してみたい。まず内戦勃発に至った主な理由であるが
が挙げられる。つまり、経済と民族自決が理由であった。
そしてこの内戦による各国の得失を見てみよう。
まずケルンテンであるが、20万を超える死者と国土の全てを失った。政治家を中心として一部の者が国外へと脱出して亡命政権を打ち立てたものの、その中には公位継承権を持つものが誰もいないという、正統性に疑問の残るものであった。つまり、ほぼ全てを失った。
グリューネラントは内戦中に(一部の例外を除いて)国内が戦場にならなかったため人的損害は大きくなく、また「独立」を得たため、一見は当初の目的を果たしたように思える。だが、経済の基盤であった天然資源を有する地域(同時に重工業地域でもある)をドイツに併合されたため、経済的には独立前よりも困窮する事態であり、「経済的独立」を果たせないどころか戦前よりも悪化していた。そしてその「独立」も、主権を大幅に制限された保護国としてのものであったため、単なる名目でしかなかった。グリューネラントもやはりほぼ全てを失ったと言って良いであろう。
一方、この一連の騒乱での勝利者となったドイツが得たものを見てみると、
などであり、逆に失ったものは精々硅独戦争での人的損害程度と、ほとんど見られない。特にドイツ本国では産出しない銅・タングステン・石油などを手に入れたことは、同国にとって最大の利益であった。これらケルンテン・グリューネラントから得たものが、後の第二次世界大戦におけるドイツの大躍進を直接的に支える事となった。もっとも、これが「良い事」であったのかどうかは、意見の分かれる所だと思われる。
そして何より、この騒乱で最も得をした国は上記3国の何れでもないイタリアであろう。なにしろ戦艦1隻と駆逐艦1隻を引き換えとして「未回収のイタリア」であったブリクシアとブラウフリューゲルを手にしたのであるから。
多数の新型爆弾が使用され、有史以来の大惨事となった第2次世界大戦は、1947年1月に日本が降伏した事によって終結した。だがこれは、従来とは様相の異なる新たな戦争「冷戦」の始まりでもあった。
1947年、国際連合によってケルンテンとグリューネラントはドナウ川を国境として独立が認められた。が、グリューネラントは戦前の共産勢力容認政策を引きずったまま、1948年に共産政権が発足した。この事によって、ケルンテン・グリューネラント両国は東西冷戦の最前線となった。ケルンテンは資本主義のショウウィンドゥとなり、莫大な資本が投下された。これによってケルンテンは急速な復興を遂げ、世界の注目を集める事となった。一方グリューネラントは、最前線として軍事基地化が進み、多くのソ連軍が駐留するソ連の衛星国家となった。このため両国の交流は、途絶えたままであった。
1990年、冷戦構造に大きな変化が現れた。グリューネラント書記長の発言によって42年間閉ざされたままとなっていたナーベルブルク大橋が開放されたのだ。この日ついに、52年前のドナウ休戦協定は正式に停戦協定として両国政府によって締結され、同時に両国間の国交が回復された。
これにより、硅緑内戦は正式な終戦を迎えた。