父の思い出 |
私の育ったのはsurusumiの山奥で、町中にある高校には自転車で通っていた。帰り道は田圃の中の一本道だ。やがて道は、山の中に入っていく。我が家のある滝ノ谷部落は山木立の中だ。両方から覆いかぶさるような木々のトンネルの中を必死で走り抜ける。 暗い木立のなかをスコンと抜けると法泉寺というお寺があり、その横に2軒の温泉旅館がある。 その内の1軒がわが家である。 その昔、とある僧侶が一夜のお礼にと寺の庭に杖を突き刺したところから硫黄泉がわき出したという言い伝えがあった。泉質は単純硫黄の冷泉である。 わが家は、右手と後方二つの滝に挟まれている。右手の滝は男滝、裏手のなだらかな滝は女滝と呼んでいた。二つの滝はどこかで繋がっていて、そこには二匹の大蛇が住んでいると聞かされていた。お寺の物置にも大きな蛇の主が住んでいて一年で米俵一俵食べてしまうそうである。 だから、私たち子供は決してお寺の物置に入って遊ぶことはなかった。 surusumiで旅館を始める前は、M市で洋服屋をしていた。父や若い衆が地方へオートバイで洋服生地を売って歩いていた。父は商売上手であり、良い男前だった。 surusumiへ来るきっかけは、M市の洋服屋がタバコの火の不始末で全焼してしまったからだ。 その当時父と母は別居していた。そして、家には別の女性がいた。 母は線路を越えた見知らぬ町にいた。学校帰りに子供の足で通えるほどの距離ではあった。 その母が火事の後、近所の泥鰌屋で避難していた私たちを、真っ赤な目をしてタクシーで迎えに来てくれた。 たぶん、その日から父と母はまたやり直すことに決めたのだ。 そして、一から出直すことを決めたとき、候補地は一枚の新聞記事であったという。 その新聞には、surusumiの湯治場は満員につき湯治客お断りという記事があった。母は、「あなたは好きな釣りだけしていてくれればいいから、ここで旅館を私にやらせてほしい。」と父に頼んだ。そうして始まった旅館業である。父も母も火事ですべてを失い、再び一からやり直そうと決心したのは共に40代だった。 surusumiの最初の夜は、親戚の叔父さんの家に泊まった。叔父さんは「狸が出るぞ。」と冷やかして言った。なんだかワクワクした。 次の日バスに乗った。山の中にどんどん入っていき、法泉寺前というバス停で降りた。 バス停から車道を離れ桜並木が続いている。緑の並木道に続くその先に、白壁の塀のあるお寺があった。私たち家族は、旅館が出来るまで、そのお寺の本堂のなかで仮住まいすることになった。 キャンプの自炊生活と同じである。すべてが新しい生活に変わった。 新しい学校。新しい友達。そしてやがて真新しい旅館が出来上がった。 遊びは山のなかで見つけた。たきぎ拾いや野苺とりやワラビとり、ワラビも薪も風呂の焚き付けに使う杉の葉拾いも小遣いになった。近所の子供たちの後をついていってアケビの実を食べたときは感激した。山のなかの小川をいくつも渡り、細い木漏れ日の小道を右に左に曲がり、植林した山を越え林道をわたると見知らぬ部落に出た。大きな道があった。見知らぬ家ばかりだった。 もと来た道をまた帰った。 山は面白かった。 私は宿題はせず、お風呂も気がつくと一ヶ月も入っていなかったりだった。 母は仕事で手一杯で、子供が宿題をしたか風呂に入ったか気遣う余裕はなかった。 山にはたいてい、犬のコロを連れていった。川の中に土色のカエルがいる。私たちはクソガエルと呼んでいたが、そのクソガエルを追いかけるのがコロの気に入った遊びのようだった。水の中でバシャン、ブクブク、バシャン、ブクブクと飽きるまでやっている。コロは山では頼りになる。 私の最初の記憶には、赤ん坊の頃のがある。 いつまでも乳離れしない私は、母に抱かれている。おっぱいから離れない。 父が、母のおっぱいにこわい絵を墨で描く。でも、効きめはない。」 幼稚園も好きではなかった。 そして、ある日突然気がつくと、私は小学生になっていた。クラスの廊下に並んでいる自分を、突然見いだす。自分のクラスと自分の席は知っていたが、なぜそこにいるのか分からなかった。 入学式という出来事が欠落していた。 そして、学校にも行きたがらなかった。行って来ます。と家を出るのだろうが、途中で帰ってきてしまうのだ。母は、そのたびに学校まで連れていき、教室の先生に私を手渡してくれる。そこまでしてくれれば、私は学校にいることが出来た。 立派な登校拒否児だった。 そんな子供が、surusumiの山奥に住むようになると、急に生き返った。 旅館建設は、まづ山を崩し平地にするところから始まった。傾斜のある山の斜面を人足が、クワとシャベルで旅館の建つ敷地の広さまで広げるのだ。父も母も姉も弟も家族全員で土方仕事だ。 10時と3時のお茶の時間は、自転車でコッペパンを買いに行く。 自転車に乗れるようになったのも、この頃だ。自転車練習の相棒は、お寺の敷地にある湯治場のエッちゃんだ。エッちゃんは一つ年下だが、湯治場の娘ではない。 いたずら小僧に「親なしっ子」とはやされると、追いかけて石を投げるような、勝ち気な女の子だった。エッちゃんはいつも醒めていて、人を小馬鹿にしたところがある。だから、子供会の集まりでも「エッちゃんは、こうだけど良くないと思います。」とか「エッちゃんは、こうで、だから止めてほしいと思います。」とか標的にされるところがあった。おとなしい私であったが、「あんまり言うと、エッちゃんがかわいそうだと思います。」と言ったことがあった。 エッちゃんは、あとで「クニコさんが、世界中で一番好き。」と言った。 「遊ぼう。」と誘うと「きいてくる。」と小母さんに話しにいき、そのうち「いいって。」と戻ってきた。 いつも一発で「遊ぼう。」とは言わなかった。 一日はたっぷりとあり、一学期も長く、一年はなかなか終わらなかった。 旅館に、お客様が来てくれるようになると、子供たちが交替で風呂焚きに行く。風呂場の焚き口は外にあり、薪を上から釜の口に入れるのだ。腰を下ろし、ぱちぱち燃える薪のそばで本を読むのは楽しい。 少し大きくなると、毎朝交替で風呂掃除をした。何年もしてから、風呂の湯は電気で循環して沸かすようになった。旅館の仲居さん。当時は女中さんと呼んでいたが、いつも二人くらいいた。八重ちゃんとかおとよさんだ。三人に増えたり、一人に減ったりしたが、人手が足りないと、いつでも手伝いにかりだされた。宴会の料理運びに後かたづけ、酢の物のキュウリの輪切りにフライも揚げた。高校生くらいからトイレ掃除が私の仕事になった。 母は苦労した人で家人と従業員を区別しないところがあった。もらい物もみんな同じように分けて食べた。自分がされて嫌だったことはしては駄目だと言った。 山奥のわが家は、夏は涼しく、冬は冷えびえとして寒かった。冬はしもやけで手も足も赤くふくれていた。 父は毎日魚釣りに忙しかった。父の釣りは、趣味と実益をかねていて、釣ってきた魚はお客様の食材になった。 「僕にかなう人はいないだに。」と大変な釣り天狗であった。鮎など100匹200匹と釣ってくる。その鮎を焼き、塩焼きや甘露煮にする。釣ってくるまでは父の仕事で、その後は母の仕事になった。毎日あんまりたくさん釣ってくると、しまいには母はいやがり父のいないところでは、「またこんなに釣ってきて。」と顔をしかめていた。 父の釣り友達に、金太郎さんというおじいさんがいた。釣り師には、梅干しのおにぎりは禁物だった。「今日はなあんにも釣れなかった。釣れないのは道理じゃん。金太郎さんがおにぎりをくれたけど、なあに、梅干しが入っているじゃん。釣れるわけがないじゃん。」と苦笑い。「金太郎さんがくれたおにぎりがまずくて。塩味がなあんにもしなくて美味しくないじゃん。まずくて、まずくて。こんなの食えんって向こうに放ったら、そのうちそのおにぎりが目の前をプカプカ。金太郎さんがこーんな。」と目を見張ってみせる。そして自分は知らんぷりという顔をする。 父は一人で行くのは好まない人で、誰か友達を誘った。誰もいないときは「クックちゃん行くかい。」と私を誘う。後年、姉弟も同じ思い出を持っていることを知った。昔はオートバイだった。オートバイの後ろは釣り道具。子供は一人しか連れていけない。別にえこひいきしてもらった訳でもなさそうだった。 オートバイのハンドルの後ろに私は座る。ガタガタ道だとそのうちお腹が痛くなる。 父はそれでも出来るだけそうっと走ってくれるのだが、たいていお腹が痛くなった。 浜は潮の香りがし、曲がりくねった松の枝に、浜ぼうふうが砂の上をはっている。何もすることはないのだが、父の横にすわり、波が寄せては返すさまを一日飽きもせず眺めている。 「今日はなあんにも食わん。」またしばらくして「なあんにも食わん。」と言う。 「ほおれ、かかったぞ。」とニコニコ顔。他愛ない言葉のやりとり。「クックちゃん、今日はもう止め。帰るじゃん。」そして、さっききた浜をまたサクサク帰る。 一人の子供に一人の大人が真剣に向き合うことは、子供には大変重要だと思える。そして、子供と大人が向き合う時間の密度の違いは不思議である。 大人の時間は駆け足だが、子供の時間は亀のようにのろい。子供は、大人が自分だけを見つめて話してくれたことって、一生忘れないで心のアルバムにしまっていたりする。 父の思い出は、縁側でサツマイモをすりこぎ棒でつぶし、香ばしく炒った米糠になにやら加え美味しそうな釣り餌をを作っている上機嫌な姿がある。器用に投網も編んだ。昔話に作り話が得意だった。小さい頃、夏は外で夕涼みをしながら、父の「おはなし」を聞いた。近所の子供も混じって「おはなし」を聞いた。 寝るときは、みんな一緒だった。 寒い冬、「ぽっつんしてやるぞ。」と父が言う。4人の子供が左右から一斉に暖かい父の足の間に冷たい足をつっこむ。そして「おはなし」をせがむ。父が「おはなし」を始める。昔話や泣かせる話が得意だった。上手な語り方で、私たちは涙をこらえて聞いている。真っ先に泣き出すのは2番目の姉だ。父は「ふみこが泣いたからもうおしまい。」まだあ、まだあとせがんでも、もうおしまいだ。 大人になった姉が言った。「泣くともうおしまいって言われるから、我慢していたんだけど。」いつも「ワァーッ」と泣き出した。 その「ぽっつん」も「おはなし」も、新しい旅館が建ってから、おしまいになってしまった。 父たちは帳場で、私たちは子供部屋でと別々になったからだ。 二つの滝に囲まれ、昔家族が力を合わせて造った旧館は、今では湿気と白蟻にやられ、もう補修をするどころではない。山の上に増築した木造2階建ての客室は、天上の板ははがれ、雨が降れば雨漏りはし、まるでお化け屋敷だ。 小さな女の子が、「たかーい。」と見上げた男滝は、水量は落ち、流れ落ちる石や砂で川底も高くなって、昔のようではない。以前の滝は夏でも暗く、杉木立の道は薄紫のシャガの花が咲き水草の良い匂いがした。冬にはその水草につららが垂れ下がった。 今のご住職が参拝の便利なように道を広げ、お寺の本堂の増築のために裏山を伐採した。 そのため滝のお不動さまの位置が変わった。以前は風の中に立っていたのに、今は滝の横の暗い岩の中に納まっている。 こんな場所は嫌いだと、滝のご神霊はもう住んではおられない気がする。 「ほら、滝を見てきてごらん、素晴らしいよ。」と母が言う。小さな女の子は走って見に行く。 雨が降った後の滝は、しぶきが風に乗って流れてくる。 見事で壮観だった。青龍が天に昇るほどの勢いがあった。 水は冷たく、長く滝の中に入っていられなかった。 見上げると、茂る木立の中に白い天上が見えた。 昨年父が亡くなりました。我が儘な人で母にずいぶん苦労をかけました。また一方無骨な愛し方で私たち子供に接してくれました。 部屋の片隅に父の形見の日記帳が段ボールいっぱいあります。 山奥の旅館の親父のつれづれ日記です。 いつか飼い犬の獅子丸を主人公に、小説を書きたいという夢が書かれていました。 一周忌を前に、父の思い出をつづりたいとパソコンに向かっています。拙い文章だし、何人の方の目に留まるかも分かりません。でも、きっと父だけはあの世で喜んでいるに違いないと思っています。 文章を書くのが好きなのは、お父さんゆづりなんだよ。 聞いているかなあ。 1999/9/12 |