※1富士川が山間部から加島(富士)平野に出たところに「雁堤」(かりがねつつみ)が築かれている。
「雁堤」は洪水氾濫を治め、新田を開墾するために富士川の流路を安定させる扇状の施設である。
扇頂地点に「出し」を、下流には「備前堤」(横堤)や「柳堤」、「雁堤」(本堤)を築造した。
一連の施設は古郡氏3代 (中里村に住む古郡孫太夫重高、孫太夫重政<駿州代官に任用される>、文右衛門重年)
によって元和7(1621)年に着手され、改良を加えながら延宝2(1674)年に完成した。
この堤防を高いところから見ると「雁」の姿に似ていることから「雁堤」の名がつけられた。
※2五貫文は、銭5,000文=1両1分=米1石2斗5升≒3.12俵≒187.5kg。
当時、3.12俵を生産できた面積は、平年並みで1,25反(375坪)
駿河府中(江戸初期50万石、江戸末期・明治初期70万石)
※3加島平野の村々は富士川の洲にできた村です。加島という名称は島の集まりとも、河の中の島だったからともいいます。
鎌倉時代から加島郷と呼んでいた。
また、吾妻鏡が賀島としていることから、喜びの島、あるいは豊かな島という意味があり、カジマとしたという説があります。
※4田子浦村は明治22年3月1日前田邑・柳島邑・川成島邑・宮島邑・五貫島邑・中丸邑・田子邑・鮫島邑の8ヵ邑が合併してできた村です。奈良時代からこの付近を田子浦として呼んでいたので村の名にしたのです。
田子とは、塩を作るときの垂籠(たご)から田子になったものであろうという説があります。
■江戸初期、金:銀:銭の公定相場
○慶長14年(1609) 小判一両=四分=十六朱=銀50匁=銭4000文=銭4貫文 (このころの銭は渡来銭)
一年間に一人が生きていくには米一石(150kg)を必要とした。
○幕末には価値が下がり、元禄13年(1700) 金1両=銀60匁=銭4000文(元禄の改鋳の直後)
このころの相場は日々変わっていました。
■「米1石」「米1合」を生産する面積
1反は1人食べる一年分の米1石、1坪は1食1合とし一日分(3合)の米を生産できた面積です。
大化の改新(645年)の時に、米1石(150kg=2.5俵)を生産する面積を1反と定めた。
それを360(当時の暦は1年360日)で分割した単位が1坪です(太閤検地により300分割に変更)。
1反=5間×60間=300坪 1俵は約4斗で約60kg
加島5,000石ということは人口5,000人いたと推測できる。加賀100万石は100万人の人口と推測される。
ちなみに、江戸時代の66国の総石高はおよそ1,850万石と言われている。
五貫文の年貢が低いとみるか、否かは別にして、いかに厳しい土地であったかわかるであろう。
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