亡くなった伯母へ・・・(2001.10.30)
昨日は東京へ行ってきた。前からこの日しかないと思ってはいたのだが、なかなか夫に言い出すことができず、その前日に思い切って言ったので、結局突然に行く形になってしまったのだ。
目的は、先月亡くなった伯母の位牌の前に花を供えることだった。
9月23日、秋分の日に伯母は亡くなった。その2日前、21日に私は伯母を見舞いに東京へ行くつもりで家を出た。ところが用宗の線路で倒木事故があり、JRが不通になっていたために乗る予定の新幹線には間に合わないので、あきらめてしまったのだ。(「日々のつぶやき」にも書いた)
もしかして、もう伯母には会えないかもしれない。そんな思いにとりつかれて、私は泣きたい気持ちになり、しばらく駅のまわりをうろうろと歩いたのだが、どうしようもなかった。この日は行くなということかもしれない。と思い直して自分を納得させた。
24日にあらためて見舞いに行くことにしていた。しかし、結局間に合わなかった。
――なんで、よりによって倒木事故なんて。そんなの、聞いたこともない。あの日、私を足止めしたものはいったい何だったのか。なぜ、私を伯母に会わせてくれなかったのだろうか。
これも運命だったのかと無理矢理思うことにして、23日、すぐに東京へ向かった。
21日に行けなかったので花を送ろうと思ったのだが、24日に行くからその時でいいかと思い、結局花を伯母に贈ることはできなかった。
私はそのことがどうしても心残りで、せめて四十九日の前にもう一度東京へ行って、伯母に花を…と思っていたのだ。
都庁のすぐそばにある伯母のマンションまでは、新宿駅から歩いて10分もかからない。駅の改札口から小田急百貨店へ向かう途中に小さな花やさんがあり、そこで花束を作ってもらう。ふんばつしてデルフィニウムやバラをたくさん入れ、薄いブルーと薄いピンクでシックに、伯母が好きそうに華やかにまとめてもらった。
フリーでライターの仕事をしていて、この日は夜6時に仕事がはいっているという従弟が迎えてくれる。先月の伯母のお葬式の翌日から、休むこともできないで仕事に突っ走っている。伯母が亡くなって、いろいろな手続きをしなければならないのだが、それも多くは進められないでいるのだ。
伯母が亡くなる前はどうしても仕事をセーブしなければならず、大きな仕事もしていたが、結局断らざるをえなくなってしまった。ひとりでやっている以上、断ったらもうあとの保証はない。なので彼も必死だというのがわかる。気楽な面もあるだろうが、たいへんなことの方が多いのではないか。
これまで東京へ遊びに行っても、彼とゆっくり話をする時間はあまりなかった。会うこと自体、少ない。サッカーマガジンの記者をしていたときに私が子どもたちを連れて編集部の見学をさせてもらった時以来…だろうか?ゆっくり時間を取って話ができたのは。
伯母と従弟は母一人子一人で、父親は彼が10歳になる直前に亡くなってしまった。当時は名古屋に住んでいたが、いったん実家(私の母の実家でもある)へ戻り、その後浜松へ。従弟は大学以降東京暮らし、そして伯母も数年前から東京へ移っていたのだ。
浜松に住んでいた時、私はこの伯母の家に下宿して高校へ通った。従弟との3人暮らしだった。…しかし、今だから書けることだが、私はこの伯母が怖くて、従弟と話をしたのかどうかも覚えていない。一緒に暮らして、伯母の性格が初めてわかったのだ。ものすごく干渉され、実の親よりも厳しく伯母は私を叱った。高校生の小娘(私)の日記を読んで、私を「コワイ子だ」と母に言ったそうだ。恐る恐る話しかけても、無視されることさえあった。
明るく、話のわかるおばさんだと思っていた私の認識はひっくり返り、学校が終わっても伯母の家へ帰るのが怖くて、部活がない日は街をぶらぶら歩いて時間をつぶしたものだ。そして、毎週土曜日には、学校が終わると直接実家へ帰った。しかし、母にも伯母のことは言えなくなっていった。何か話せば、母がまたそのことを伯母に言うからだ。母はもちろんそんなつもりで伯母に言ったのではないが、伯母は私が母になんでもしゃべる、とそのことがまた気に入らなくてますます私を怒るのだった。――そのことがあったので、私は母にも言えなくなったのだ。
結局伯母の家には1年しかいられず、私は学校の近くの下宿屋さんに移った。その下宿屋さんはいろんな高校の子たちが集まっていて、晩ごはんは毎日食堂にみんな集まって食べた。楽しい2年間で、私はこの下宿屋さんで過ごしたことで、救われたと思う。
しかし、そんなふうに一緒に過ごした時間というのはやはり貴重で、伯母はその後、会えば何かと私を頼りにするようなことを口にしてくれた。
(あんなに私をいじめたくせに…)という思いがあったのは事実だが、いろんな話をしてくれるようになれば、私の気持ちもほぐれてきていた。そして結婚して子どもが生まれてからは、子どもたちのことも本当にかわいがってくれた。こうへいが生まれたときは、母が帰ったあと1週間くらいの間、手伝いに来て世話をしてくれたものだ。…今思えばそれが最後だったのだろうか、伯母が焼津へ来て泊まって行ったのは。
伯母は日本人形を作り、手先がとても器用だった。何かにつけていろんなものを作ってくれた。人形だったり、子どもの服だったり、壁掛けの飾り物だったり、置物だったり。「人形教室を開けばいいのに、もったいない。」と私は伯母によく言ったものだ。そういう話もよそから来たようだが、なにしろ伯母は気性が激しいので、人とうまく長く付き合っていくというのが苦手みたいだった。もしかしたら親しくなろうとしすぎるのかもしれない。人づきあいが苦手というわけではなく、親しくつきあっていたかと思うと、何かをきっかけに「二度と会いたくない」というような関係に変わってしまうのだ。そんなことの繰り返しだった。
親戚一同が集まるときには先に立ってどんどん事を進めてしまい、思い通りに動かないと怒られて、みんなこの伯母にはいろいろ悩まされた。しかし今となってはもう、そんなこともあったねぇと話せることになりつつある。伯母は伯母で、私たちがわかってくれない、とはがゆく思っていたのかもしれない。
昨日、従弟といろいろ話をするうちに、彼自身も母親との関係のことで切実なものを抱えていたということを感じた。性格的に、伯母と従弟はまったく違う。従弟は穏やかで怒っても内に秘めてしまうタイプ。感情をあらわにするほうではない。淡々としている。亡くなった伯父がそうだった。
伯母はすぐにカーっとなり、黙っていられない人だった。とにかくその場で白黒はっきりさせないと気がすまない、という人だった。私くらいの年で夫を亡くし、まさに女手一つで息子を育て、癌に侵されてからも本当によくがんばったと思う。精神的にもつらかっただろうなぁと従弟の話を聞いてあらためて思った。癌を宣告されたとき、余命3ヶ月と言われたそうだ。しかし、それから3年あまり。その間に天国も地獄も味わった、と従弟は言っていた。もしかしたらもっとよくなるチャンスは何度かあったのだ、と。しかし伯母は自分でそれを退けてしまった。…それも運命だ、と。
昨日は時間もいつもより余裕があったので、ふだんなかなかゆっくり話すことができないこともあれこれ話すことができた。それだけでも行ってよかったと思った。従弟の今後のことも根掘り葉掘り…というわけではないが、聞いてきた。書くことである程度生活ができるようになったのだから、伯母も安心していることだろう。雑誌の記事の感想を言ったり、本もよかったよ、と感想を言うと伯母はとても喜んでくれた。彼の仕事は私にとっても興味深いものなので、これからもっともっとがんばっていいものを書いてもらいたいと願っている。
伯母が亡くなってからというもの、日々の生活が忙しくて伯母のことを考えてぼーっと過ごす時間もなかなか取れなかった。仕事中にふとそのことばかり考えてしまい、涙がじわーっと出てきてしまうこともあったが、こんな顔ではお客さんに会えない、と少しの間車を止めて気持ちを入れ替えたりしたものだ。
9月のあの日に私を東京へ行かせなかったのは、もしかしたら伯母だったのかもしれない、とあとで思った。
あの日無理をして東京へ行っても日帰り、それも早く帰らないといけないのだから、もうすぐ確実に東京へ来なければいけない日が来るのだから、と伯母がそうしてくれたのではないかと思えてきたのだ。…無理して来なくてもいいよ、というふうに伯母がしてくれたのでは、と。
22日に従姉が東京へ行き、結局伯母を看取ることになった。その少し前に行っていた伯母(従姉の母親)と一緒に、いろいろ後始末をしてくれていた。
伯母は「24日にYoshikoが来るって言ってた。」と、もう意識がはっきりしているのかいないのかわからないような状態で言ったそうだ。私は24日に行くことなど伯母に言ってなかったのだが、もしかしたら私が行くのを待っていてくれたのかもしれない、と思うとまた心が痛む。
「もしかしたらもっと早く召されていたのかもしれない命が、あなたが来るのを待つことで、そこまでながらえたのでは…」とある人が言ってくれたことで、私は少し救われた。
伯母に花をあげることができなかった、最後に私がしてあげられるのはそれだけだ、という思いも、自分勝手な思い込みだとは思う。しかし気がすむようにさせてもらって、今、家族にも感謝している。