雨垂 《1》


カ−テンの隙間からあの門の外を何度覗いただろう。
誰かが自分に会うために来てくれると思うとやはり嬉しい。
まりあはすぐに飲み物を入れられるように用意をし、龍が買って来てくれると言っていたケ−キの為にとっておきのケ−キ皿を2枚そっと手に取った。

玄関のチャイムが鳴って、まりあがドアを開けると、髪の毛に細かい雨粒を付けた龍が立っていた。
「須藤先生、いらっしゃいませ、あれ?雨ですか・・」
「うん、降ってきたよ・・、今日はこれから沢山降るみたいだ」
「そうですか。さ、中へそうぞ・・」
そう促されて靴を脱いだ龍は、まりあの後に続いた。

「これ、約束のケ−キ、美味しいかどうかは分からないけど・・」
「ありがとうございます。ケ−キは久しぶりだから嬉しいなぁ」
まりあは龍から小さな箱を受け取ると、大切そうに両手で包んだ。

まりあが紅茶を入れてる間、龍はソファ−に座って部屋の中をゆっくりと見渡した。
前回来たときは、初めてと言うこともあって余裕もなく、落ち着かないまま過ごしたが、今回はさすがに心を配る余裕がある。
「それはお姉ちゃんの好みなの・・」
観葉植物に目をやっていた龍に、トレ−を持ったままのまりあが声を掛けた。
「私はダメ、枯らさないようにするのがやっとなんです」
カップとお皿を並べ終えたまりあはそういって苦笑した。

「調子はどうかな?」
龍はカップに口を付けて、穏やかにそう尋ねた。
「はい、以前より食欲もあるし、夜もよく寝られます。だた・・」
「ただ?」
「あの家の白い門から先に1人で出るのがやっぱりまだ怖くて・・」
「無理しなくてもいいんだよ。嫌だとか、怖いことはしなくていいんだから・・。心の病気は目で見えない分、傷の深さとか、広さとかが分からないだけで、病んでいる事は他の病気と変わらないんだから・・」
「でも、先生、私早くお姉ちゃんの所に行きたい。私だけ、ヌクヌクとした安全な場所にいるのが辛いんです」
まりあの声は熱を帯びている。
「抜け出したい気持ちはあるのに、体が言うこと利かないなんて・・」
「心の病気はそういうものなんだ。でもさっきも言ったけど無理はいけない。ゆっくりと時間を掛けなきゃ・・・」
「ゆっくりと待つ時間があるんですか?」
「えっ?」
まりあの質問の意味が龍にはすぐに理解できなかった。

「お姉ちゃん、病院に戻る2,3日前に、独り言ばかり言いながら、家の中の片づけをしてました。それが今考えると私にいろいろと場所を教えてたんじゃないかと思うんです」
龍はまりあの顔を見ながら黙ったまま聞いている。
「お姉ちゃんは頭がいい人です。きっと自分の事もちゃんと分かっていると思う」
「それは・・」
「2階の部屋もきちんとして病院に戻ったし・・、あんまり綺麗過ぎて部屋に入るのも躊躇する位なんです・・・」

「部屋を・・見せてもらってもいいですか・・?」
しばらく考えていた龍はポツリとそう漏らした。
まりあの伏せられた瞳がその声に反応してゆっくりと開く。

階段を上りきるとまりあは理得の部屋のドアを開けて頷いた。
それを見て龍は緊張した面もちで最初の一歩を踏み出した。
ほんのりと柔らかな匂いのする理得の部屋は、まりあが言うようにきちんと整頓され、どこにも乱れた様子がなかった。
理得の生きてる証がここにはない・・。
そう思うと龍は机の引き出しを開け、本棚の本をかき回したい衝動に駆られた。

「須藤先生・・?」
雨音だけが響く部屋で掌を握りしめていた龍に、後ろからまりあの声が届いた。
「ああ、すいません。もういいです、戻りましょう」
全身に虚脱感を感じながら階段を下りると、龍はまりあに声を掛けた。
「じゃあ、僕はこれでお邪魔します」

カバンに手を掛けた龍は、ふと目線の先にある写真に目を留めた。
理得の母親らしき女性と、坂口拓麻の姿がそこにあった。

「こちらはお母さんですか?」
龍はカバンに掛けた手を外すと、写真の前に立った。
「そうです」
「坂口君にも謝らなくては・・」
「それは以前いらしたときにして下さいましたから・・」
まりあはそう言ったが、龍は手を合わせて頭を下げた。
坂口拓麻を刺した相手があの今富成次だと知った驚きは今も忘れない。
ユ−リマロエフの事を知りたかったとはいえ、あの男に大金を渡してしまった事実は消えないのだ。
その事が事件と直接関係が無いとはいえ、龍にはどこか後ろめたさが残っていた。

「まりあちゃんは家の中ばかりにいるから、物事を深く考え過ぎちゃうんじゃないかな」
玄関で靴を履きながら龍はワザと軽くそう言った。
「そうかも知れません、お姉ちゃんの事もきっと私の気の回しすぎです。先生も気にしないで下さいね、先生まで落ち込ませちゃったみたいで私心配になっちゃって・・」
「大丈夫ですよ。女性の部屋に入るなんてあんまり経験ないものですから、緊張しただけです。僕の方こそ部屋を見せて欲しいだなんてぶしつけな事お願いしちゃって恐縮してます」
「それに・・、きっと拓麻君が貴方を見守って助けてくれますよ」
龍はまりあの明るい声にほっとしながら付け加えた。

「それは分かってます。お姉ちゃんが教えてくれました」
「真代さんが?」
「ええ、お姉ちゃん見た夢の中でそう言われたって教えてくれたんです」
「夢の中・・、誰が教えてくれたんでしょう?お母さんですか?」
「いえ、ユ−リです。ユ−リ・マロエフ、ご存じですよね?」
「え、ああ、少しは・・」
「お姉ちゃんの夢の中に彼が出てきて、拓麻はいつも私の側にいてくれるって言ってくれたそうです。まあ夢の話ですからほんとかどうかは分からないけど、すごく嬉しくて、私泣いちゃいました」
「そうですか・・」
その後何と返答したか龍は覚えていなかった。
『夢の中・・』ただ、その言葉だけが頭の中で渦巻いていた。