雨垂 《3》


「理得ちょっと付き合ってくれる・・」
佑子にそう言われて、理得は病室を後にした。
ナースステーションの横の新生児室では、丁度お披露目の時間で、小さなベットで眠る産まれたての赤ちゃんがガラス越しに眠っているのが見える。
それを見つめる家族の輪と少し離れた場所から佑子と理得も新しい命を見つめていた。

「どの子も可愛いわね」
佑子の声に理得も優しげに微笑んだ。
「理得もとうとう数字の上では臨月に入ったわけだから、もう何時産まれてもおかしくはないわね。ただ、発育状況は相変わらず1ヶ月遅れだし、実際の所、産まれるのは来月かなぁとは思ってるの」
「まだ、胃の辺りが楽になった感じはないでしょ?」
「うん、まだ」
「そっか・・」
佑子は理得のせり出したお腹を撫でながら、努めて穏やかに話していた。

「あっ、今あくびした女の子ね、難産だったのよ。お母さん泣かせでね、なかなか出てこなかったの・・。ふふ、でも、そんなことも知らないで、あんなに元気そうでよかったわ」
「理得、あなたの赤ちゃんも私が取り上げて、ここにお披露目させてね。そして、こうやって、2人で眺めましょう」
「佑子・・」
「一番前の、一番目立つ所に並べてあげるからね、あなたの赤ちゃん」
白衣のポケットに手を入れて、ガラスを見つめながらそう言う佑子に、理得は胸が熱くなる思いだった。

「佑子、ありがとう。あなたには感謝仕切れないほど感謝してる」
「何言ってるの、感謝されるのはまだまだ先よ。赤ちゃんの顔を見るまでは、私も気が抜けないし、須藤先生だって安眠できないわ。そうそう、須藤先生と言えば最近ちょっと変よ、理得もそう思うでしょ?」
「そうかしら?」
「そうよ。口数も少ないし、病院に居残る事も多くなったし、暇さえあれば資料と格闘してる」
「そう言われてみると、ここんとこ病室に来る回数が増えたような気がする・・。あれは気のせいじゃなかったのね」
「まあ、須藤先生は男だし、自分の結婚のマリッジブルーって事も無いだろうから、きっと理得の事心配してるのよ」
「今度会ったら、お礼言っとかなきゃ・・」
「そうね、言ってあげて、少しはほっとすると思うわ。じゃあ、私はそろそろ医局に戻るね、午後の診察が始まるから・・」

佑子が去った後も、理得は天使の眠る姿を眺めていた。
産まれたてでしわくちゃの顔の子もいれば、目鼻立ちのはっきりとした子もいる。
『この子はどんな顔だろう?』
お腹の中で頻繁に動く我が子の顔を理得が一生懸命考えても、頭に浮かぶのはユーリの顔だけだった。
『あなたのお父さんほどのハンサムで無くて良いからね。でも、これってプレッシャーかしら?』
理得は満面の笑みを浮かべて、自分のお腹を見つめた。

「あの、このお花使って頂けません?」
不意な声で、理得はにやけていた顔をあわてて戻すと、振り向いた。
そこには50代に手が届きそうな婦人が白地に紫の縁があるトルコキキョウの花を持って立っていた。
「お見舞いに頂いたんだけど、花瓶がいっぱいで入らないの。よかったらもらって下さる?」
「頂いていいんですか?」
「ええ、どうぞ。あなたの部屋で咲いていてくれると思うと私も嬉しいし、なによりだわ」
「ありがとうございます。それじゃあ遠慮なく頂きますね」
理得は花を受け取ると、柔らかな微笑みを浮かべて婦人を見た。

「あなたももうすぐ出産を迎えるのかしら。安産でいい赤ちゃんが授かりますように・・」
理得は母親のいない寂しさゆえ、この婦人の言葉が何時にも増して嬉しかった。

「娘さんのお産でこちらにいらっしゃるんですか?」
「ええ、まあ・・」
「そうですか、私も安産になるように祈ってますね」
「ありがとう」

理得は病室に戻ると、花瓶に今もらったばかりの花を生けた。
まりあが病院に来られないので、花を飾るのも久しぶりだった。
外は木枯らしが吹き初めていたが、病室は暖房が効いていて春のように暖かだ。
その病室で花瓶の中とはいえ、息づく命があるのは、理得にとってなによりの励みだった。

妊婦になってから、昼寝は欠かせなくなった理得だが、今日は眠れそうもない。
さっきから何度時計を見ても、針が進むのが遅くて、ため息ばかり出てしまう。
「お父さん、約束忘れてないかしら?」
靖男がまりあの様子を見に行ったついでに、病院にも帰りに寄るからとまりあから聞いていた日にちが今日だったのだ。
今は他の家庭の父親だが、それでも自分の父親であることも変わりない。
血のつながりを恨んだ事もあったが、今はわだかまりも消えてしまった。

人にはそれぞれ選ばなければならない道がある。
どの道を行くかは自分で決めるべき道が・・・。
たとえそれが荊の道でも、前に進まなければ明日は見えない。