雨垂 《4》
「とうとう降って来ちゃったわ・・」
理得は今にも泣き出しそうな空を病室から見上げて呟いた。
窓枠に突いていた手が痛くなったので見てみると、白い掌が赤くなってしまっていた。
最近お腹の重みで腿の付け根が痛くて長いこと立って居るのが辛いので、ついつい別のどこかでお腹を支えるように立ってしまう。
理得はお腹を抱えるようにしてゆっくりと向きを変えると、ベットに向かってそろそろと歩き出した。
「理得」
ベットの端に到着すると、開けてあったドアから声がした。
「お父さん」
理得の嬉しそうな声が、自然と靖男の表情を和らげる。
「元気そうじゃないか?お腹の子供も順調か?」
「うん、私は元気よ、病院にいれば何かあってもすぐに看護婦さんが来てくれるしね。お腹の赤ちゃんも順調で、もう臨月なんだけど、佑子の診察だとまだまだだって・・。でも来月は12月だしあんまり遅いと慌ただしいよね」
「まあ、遅くてもいいじゃないか、お腹の中に赤ん坊がいるのって幸せなんだろうし・・、お前の母さんもお前がお腹にいる時は、幸せそうな顔してた」
「そのお母さんの気持ち分かるよ・・。お腹の中で赤ちゃんが伸びをするとね、私のお腹に当たってキューって突っ張るの、それを上から指で撫でると、段々と引っ込んで元に戻る・・。こんな感じを体験できるのって母親の特権よね」
そう言って笑うと理得はベットに腰をかけた。
靖男に会うのは久しぶりなので、あれもこれもと話すことが沢山あって、理得は思いつく事柄を次々に口に出した。
そして、聞きたかったまりあの様子も聞けて安心した理得は、一呼吸置くと心持ち神妙な顔つきで靖男を見上げた。
「ねえ、お父さん」
「ん?」
「2人きりで話せる機会もこれからそうないだろうし、お願いしたいことがあるんだけど、いいかな?」
靖男は理得の言葉を聞いて、ドアの近くにあった椅子を取りに行き、それに座ると目線を理得に合わせた。
「私がこの子を産んでね、もしも・・、もしも生きられなかったら・・・、この子をお父さんの養子にしてもらえませんか?」
「・・・」
靖男は理得が躊躇いもなくすんなりと発した言葉に耳を疑った。
今までの他愛のない話とまるで同じようにさらりと言われた言葉に、驚きで頭が白くなる。
「だめですか・・」
理得の声は落ち着いている。
靖男は理得の手を取ると、その手をぎゅっと握った。
「そんな事言うな・・理得。お前はこんなに元気じゃないか。お父さんも最初はどうなるかと思ったけど、今のお前はどこから見てもたくましいお母さんだ。きっと大丈夫だから、そんな事言うな・・」
「お父さん・・でも・・」
「そんな約束はお父さんしないぞ・・」
靖男は涙が滲んだ目で理得を見つめると、唇を噛みしめた。
理得はその姿を見て、口をつぐんだ。
こんな事を頼む事がどれだけ靖男を悲しませる事かは理得には重々承知の上だったが、それでも少しずつ未来を託していかなければならない。
それは悲しくて辛い作業だけれど、理得にはやっておかなければならない事柄だった。
ユーリと再会する日が何時なのかは分からないが、その日は確実にやって来る。
彼のメッセージはそう私に教えてくれた。
夢で見た事なのに、空言のような気は最初から無かった。
それが、ユーリの魂からの声だったからか・・、哀しみの混じった声だったからか・・あの一瞬はもう消えてしまったが忘れる事はない。
ユーリは後悔しているのかも知れない、そう思う時もあるけれど、私は良かったと思っている。
少なくともこの子を産むまでは生きられる、その事がわかったのだから・・。
「なあ、理得、もうすぐ21世紀だ。新しい100年が始まる年だ。その時が来たら、何もかもが生まれ変わる、お父さんはそんな気がしてる・・。だから・・一緒に歩こう。お前も生まれ変われるよ・・生きられる・・きっと・・」
「死ぬなんて言わないでくれ、生きることしか考えるな・・な、理得、お願いだ・・」
「分かったわ、お父さん」
理得は靖男の気持ちを思い計って、慈愛の表情を浮かべた。
それからしばらくして、傘をさして帰る靖男の後ろ姿を理得は窓から見送った。
もう辺りは暗くて病院の窓の明かりだけでは靖男の姿はすぐに見えなくなった。
それでも理得はずっと靖男の姿を目で追っていた。
生に向かう命と死に向かう命の両方を抱える理得は、その均衡を狂わせないようにじっと前を見据えていた。