刹那 《1》
PCの電源を切って、ベットに横になると、龍は眉根を寄せてため息をついた。
「真代さんは順調です」
佐伯からのメールにこう返信するのが辛いわけではない。
実際、理得は多少の息苦しさはあるが、現在の状態は一頃より安定してるし、子供の状態も問題があるわけでもない。
「でも・・これから先は分からない」
ただ、この一言を書けない辛さがあった。
佐伯に大見得切った手前、泣き言なんて書きたくもなかったが、誰かに聞いてもらいたい気持ちが指先に伝わって、キーを打ちたくなってしまう。
その不安を隠しつつ、言えない気持ちを抱えながら過ごす毎日は、拷問に近かった・・。
理得は呼吸が浅くならないように気を付けながら、手先を動かしていた。
小さな靴下を編み始めてまだ数日だか、もともと編み物は得意だったのでもう完成は間近だった。
「沢山作っておかなきゃね・・」
理得は夢中で手を動かしていた。
「理得、あんまり根を詰めちゃダメじゃない。部屋の明かりも付けないで・・」
佑子の声で顔を上げると部屋には夕暮れが広がっていた。
「佑子・・」
「理得が凝り性なのは知ってるけど、編み物は疲れるから、1日1時間が限度よ。分かった?」
「分かったわ」
明るくなった部屋で理得はやっとかぎ針を置いた。
「どうしたの、それ?編み物始めたなんて知らなかったわ」
「ああこれ、頂いたの」
「頂きもの?誰に?」
「えと、ここに入院してる妊婦さんのお母さんよ」
「名前は?」
「あっ、そう言えば聞かなかったわ・・、私ったら・・」
「まあ、いいわ。理得も退屈だろうから少しぐらいはね・・。でも、根詰めたらだめよ、さっきの約束を守ってね」
佑子が部屋を出ていくと、理得は形のほぼ出来た靴下を眺めた。
「これくらい、あなたに残していいよね・・」
理得の呟きが続く。
「あなたには悠という名前しか残さないでおこうと思ってた・・」
「あなたには私とユーリの子供としてじゃない人生を歩いてもらいたいの・・、私はあなたを産むことだけでいい」
それが理得の瞳に写る初めての陰りだった。
翌日の昼間、理得はドアを開け、行き交う人に注意を払っていた。
出来上がった靴下を、毛糸をもらった婦人に見せてお礼を言いたかったのだ。
でも待てもども待てどもそれらしき人を見かける事が出来なかった。
そうやって過ぎた数日後、ひょっこりとかの婦人が理得の部屋を訪れた。
「こんにちは」
「あれからどう?上手く編めた?ちょっと心配になって覗きに来ちゃったわ」
「来てくれたんですか、嬉しいです。見て下さい。もうすぐ2足目が編み終わります」
理得は嬉しそうに出来上がった1足目と仕上がりかかった2足目を見せた。
「まあ、上手ね。ちょっとやり方教えただけなのに、飲み込みが早いわ。でも根を詰めちゃだめよ、疲れるから」
「同じ事先生にも言われましたから、休み休みやってます」
理得はそう言うと手渡された靴下を枕の側に置いた。
「あの、本当にこれ私が頂いてよかったんですか?娘さんが使うんじゃなかったんですか?」
「ああいいのよ、娘はもう飽きちゃって、今は別のことしてるから・・。縫いぐるみ作っててね、もういっぱい」
「そうなんですか・・、じゃあ、もうしばらく貸して下さい。もう少し作っておきたいんです」
「いいわよ、あなたにあげたんだから好きに使ってね」
「あの、私お名前聞くの忘れてて・・、入院してる娘さんにもお礼を言いたくても名前が分からなかったから言えなくて・・あの、教えていただいてもいいですか?」
「そんなお礼なんていいのよ」
「でも・・」
「真代さん、お客さんなんて珍しいですね」
様子を見に来た龍が、理得の部屋の声に加わった。
「あら、こちら先生?お若い先生でいらっしゃるのね・・。じゃあ真代さんまたね、診察に邪魔でしょうから、私はこれで失礼します」
そう言うと婦人はさあっと消えるように部屋を出ていった。
「今の人はお見舞いの人じゃないの?」
「あ、ええ、娘さんが同じお産で入院してるの方なんですが、すっかり私も甘えてしまって・・、編み物教えて頂いたんですよ」
「へ〜小さいくてかわいい靴下ですね。でも分かってますね、疲れないようにして下さい」
龍は理得の掌に収まった靴下に目を細めながらも、注意を怠らなかった。
「はい、分かってます。もう、みんな心配性なんだから・・」
「心配されている内が花ですよ。僕なんて誰も心配してくれない」
「そんな・・、私心配してますよ。マリッジブルーなんですってね」
理得はそう言ってクスッと笑った。
「真代さん、僕がマリッジブルーだなんて誰に聞いたんです。まったくもう、僕の気も知らないで・・」
「先生が私の事心配してくれてるのは佑子から聞いています。でも、私はもういいんです。もう十分です」
理得の何気ない一言に龍は敏感に反応した。
「何がいいんです?何が十分なんですか?僕には真代さんの言ってる意味が分からない」
怒ったような顔と声の龍に、理得は意を決したように話し出した。
「先生・・どの人生も終わる時が来ます。私はこの子をこの世に送り出せるだけで十分です。ユーリから向けられた銃口を見つめた瞬間、一度は死ぬ事を覚悟した私です、それが生き延びて、子供まで授かって、そしてここまで生きられました。だからもういいんです、静かにその時を待ちます」
「その時っていつですか?生きる事を諦めるつもりですか?子供には母親が必要なんですよ。あなたは子供よりユーリ・マロエフを選ぶつもりなんですか?」
「先生・・」
理得は困惑の表情を浮かべた。
その理得の困惑が龍の抱えてた感情に火を付けた。
「どうして今そんなことを口にするんだ・・ヤツに、ユーリにそう言われたのか?生きられないとでも言われたのか!」
理得の肩を押さえながら、龍は声をあらげた。
それはずっと不安で押し込まれた龍の胸の中にあった言葉だった。
理得は目を閉じたまま、されるがままになっていた。
やがて、龍の手が理得から離れ、ベットの上に苦悩のシワを作り出すのを見ると、理得は静かにその手に触れた。
「私はユーリと出会ってしまった。もう戻れない・・。須藤先生と先に会えば良かったね。そうすれば、また違った未来があったかもしれない」
「理得・・、そんなこと・・言わないでくれ。まだ・・遅くない・・」
龍は途切れがちな声を出しながら、理得の手を握り返した。
見つめ合う瞳の中に、哀しみが広がる。
そうこの日、僕が初めて『理得』と呼んだこの日、僕には分かったよ、君は終わらせる人生の為に歩き出したんだ。