刹那 《2》
理得は編み上げた靴下を見つめながら、今し方部屋を出ていった佑子の言葉を思い返していた。
「入院してる妊婦の中で、縫いぐるみを沢山作っているような人は居ないわよ」
確かに佑子はそう言った。
「編み物してた妊婦さんもいないわ」
「本当に?」
理得の言葉にも佑子は首を振るばかりで、「思い当たる人はいないわ」ともう一度告げた。
理得の胸に小さな黒い塊が生まれて、少しずつ増殖を始める。
それじゃあ、あの人は誰?
嘘を言ったのは何故?
この階に入院している全ての妊婦の部屋をひとつひとつ回って、かの人を捜したい衝動に理得は駆られた。
あのにこやかな笑顔も、トルコキキョウを手渡した理由も、毛糸玉を持ってきた事も、何もかもが本当なのに今はその確信が持てない。
母親がいない自分に神様が少しの間手を差し伸べてくれたのだろうか?
もうじき消えてしまう自分を哀れんでくれたのだろうか?
そんなことを頭の中でいくら考えても答えが出るわけもなく、ただ時間だけが虚しく過ぎていく。
『もう会えないのかもしれない・・』
理得は漠然とそう思った。
『いや、もう一度会いたい』そう強く念じれば会えるかもしれない。
会わなければいけない、会わなければ・・、何かがそう気持ちを急き立てる。
『私にはまだ知らなければならない事があるの?、・・これ以上何を私に求める、私には残された時間がないのに・・』
理得は掌の上にある悠の靴下を握りしめた。
「神崎先生、真代さんをもう一度手術しましょう」
「須藤先生、何言ってるんですか」
「だから手術ですよ、真代さんの・・真代さんの心臓を生き返らせる手術をしましょう、執刀は僕がしますから」
神崎は龍の気色だった目の色を見て、大きなため息をついた。
「カルテを持ち帰って検討した結果がこれですか?あれを見てそう結論が出たわけですか?須藤先生いくらあなたが心臓の専門でも、あの怪我で妊婦のそれも臨月に入った妊婦の心臓を手術出来ると本当に思っているんですか?」
「カルテなんてどうだっていい、僕がやれば大丈夫です。きっと成功して見せます。だから・・」
「だから・・どうするんです。須藤先生しっかりして下さい、少し変ですよ」
そう言って龍の肩を掴んだ神崎は、怪訝そうな顔をした。
掴まれた肩の力に龍は急に戸惑いの表情を浮かべた。
「僕はだた・・、僕は・・」
「いいですか、真代さんはここまで持った方が奇跡です。後はもう石橋先生に任せて、成り行きを見守るしか僕達に出来ることはありません、そうでしょう」
龍は神崎の口元を見つめ、『奇跡・成り行き・見守る・ありません』の言葉が出る度に段々と目の色を曇らせた。
「手術は無理だ。それは須藤先生、あなたが一番よく分かっているはずです」
神崎が静かにそう言うと、龍はやっと神崎と視線を合わせ、そしてゆっくりと大きな瞬きをした。
「目が覚めましたか?」
龍は神崎の優しさのこもった声に諭されるように頷いた。
「あなたのように若くて未来有望な医者は、得てして希望を夢見がちです。それを向上心として持つのはいい、ただ闇雲に走ってはいけない。僕たち医者が判断を謝っては取り返しがつかないんです。今の真代さんにとって一番大事なのは無事に出産する事、それが本人の希望です。その為に彼女は生きている。それを叶えるのが須藤先生あなたのやるべき事じゃないですか・・、その先はまた考えましょう、今はその時じゃない」
『その先はない』
龍は心の中で呟いた。
『たぶん、その先はないんだ・・理得にも、僕にも、現実の世界では・・ない』
龍は神崎に一礼すると、医局を後にした。
病院の屋上は木枯らしが吹いて人影もない。
「現世でないなら・・」
龍は不意に口から出た言葉に魔力を感じた。
『このままヤツに手渡すぐらいなら、理得、僕は君の後を追うよ・・そうすれば僕も対等だ。君の手を取る事が出来る。君がヤツを選んで、たとえそれが終わりのない苦しみを生むことになっても君を見ていられるならそれでいい・・・。理得・・君と一緒の世界にいられるなら荊の道もいとわない』
そう気持ちが固まると気持ちがなんだか落ち着いた。
一度は理得の愛が欲しくて子供のように苛立ち、そして見守る愛に目覚め満足もしてた、でもそれもこれも君が生きていたからだ。
生きている希望があったから、ずっとそう信じていられた。
それが無くなった今、それがたとえ過った道でも僕は行く。
・・君は哀しみに満ちた目で僕を見るだろうか?それとも怒るだろうか?
追いかけて来た僕を笑うだろうか・・。
どれでもいい。
君にまた会えるならば・・。