刹那 《3》
龍は仮面を被った紳士のごとく、何事も無かったように振る舞った。
ゆったりと穏やかで、今までのカツカツとした感じもなくどこまでも静かだ。
それは楓に対してもそうだった。
楓はその微妙な違いに最初は戸惑ったが、やっと龍が自分の方を向いてくれたと思い素直に喜んだ。
理得は自分に向けられる龍の笑顔を見るにつけ、どう受け取っていいものかと思っていた。
あの日見せた哀しみに満ちた瞳は本物だった、なのに今はその影すら残っていない。
気持ちを吹っ切ってくれたのか?
それとも何かあったのか?
それを龍に直接問いただす術もなく、ただ理得に出来るのは龍のグレーがかった瞳の奥を覗き込むだけだった。
『悠の事もあるし・・』
思わずため息がでてしまう・・。
龍にもまた時を見て悠の事を話さなければならないと理得は思っていた。
自分がいなくなった後、悠の力になってくれる人は多ければ多い程いいからだ。
あの笑顔のままの龍ならばこんなに心強い事はないけれど、果たして信じていいのだろうか?
「真代さん、もう移動は車椅子にしましょうか」
「車椅子ですか?」
「そうですよ、お腹が大きいので少し窮屈ですが、歩くよりは楽でしょうから・・。看護婦に大きめの車椅子用意させますから、これからは移動にそれを使って下さい。それと移動は誰か呼んで後ろを押してもらうようにして下さい、自分では無理ですからね。なんなら僕がつきっきりでもいいですが・・」
そう言って龍は笑った。
「もうすぐ予定日ですね」
龍は理得の手を取って脈を診ながら時計に目を移した。
「ええそうです。でも佑子はまだまだだって言ってました。胃の辺りが楽になってきたのも最近ですし、お腹が張ることもそう頻繁でもないので」
理得の返事を聞きながら、時間が来るまで龍はそのままの姿勢で間を保つ。
「じゃあ産まれるのは12月かな?もしかすると21世紀かも知れませんね。でも僕の結婚式までには産まれてもらわないと落ち着いて式に出られないなぁ」
理得の手を離し、顔を上げた龍はそう言って立ち上がった。
「先生の結婚式って1月の6日でしたよね」
「そうです」
そう言ったきり2人の視線は交差した。
こんな話を平然と交わす状態では無いことはお互いに分かっているのに、どちらもそれを破ろうとしない。
『出席したい』とも『出席して下さい』との社交辞令も言えずただ見つめ合うだけだ。
その沈黙の中、先に口を開いたのは理得だった。
「先生の結婚式の前に私きっと産みますから大丈夫です。安心して結婚式を挙げて下さい」
「そうですか、母親がそう言うなら間違いないです。でも真代さんの場合何も手助けを出来ません、その事は石橋先生から聞いてますよね」
「はい。帝王切開も出来ない、陣痛促進剤も使えない、・・そうですよね」
「そうです、どれも心臓に負担がかかるのでダメです。自然分娩で真代さんの力だけで産む事になります、覚悟して下さい」
「覚悟は出来てます。大丈夫です」
「そうですか、覚悟は出来ているんですね」
「はい」
「僕も覚悟は出来ています」
「先生もですか?」
「そうですよ」
「・・・」
理得が龍の言葉を飲み込んだ時、龍は深い笑みを残して理得の部屋を後にした。
龍の白い後ろ姿は、理得の質問を完全に拒否しているように見えた。
「何だろう・・・」
言いようのない不安が理得を包んだ。
「覚悟って・・」
龍の覚悟は考えようによってはいくらでもあるように思えたが、龍の言う覚悟が本当は何なのか理得には計り知れなかった。
その晩、理得は寝付きが悪く、いつまでたっても眠りに落ちなかった。
しばらくベットの中にいたが、どうにもじっとしていられなくて起きあがると、ユーリのライターを手に取った。
そしてそれを手にしたまま、ゆっくりと床に立つと、窓際にそろそろと歩いた。
カーテンを開けると静寂が広がっていた。
冬の夜は清らかで透明だ。
青白い月明かりだけの世界は神秘的な感じさえ漂わす。
理得は視線を落とし、手の中のユーリを見つめた。
銀色は月を受け、もうひとつの月になって理得を照らす。
「ユーリ・・」
その声で部屋の隅でずっと理得を見守っていたユーリが動いた。
と、同時にもう1人の影が理得の前に立った。
「私に会いたい・・そう思ってくれるのね・・。でもそれはあなたには重荷かもしれない・・・」
その影はゆっくりと闇の世界から姿を現した。