別離 《2》


玄関のベルが鳴った。
理得がゆっくりとした動作でドアを開けると佐伯が立っていた。
「こんにちは」
理得の声に佐伯は挨拶を返して頭を下げた。

「まだ事件のことで何かあるんでしょうか?」
理得は塞ぎがちなまりあを気遣ってか、比較的小さな声でそう聞いた。
「いえ、もう事情聴取も終わりましたし、後は起訴されて裁判になるまでは特にないと思います」
「そうですか・・、じゃあ?」
「真代さん、体調がよければ少しその辺を歩きませんか?」
理得は佐伯の言葉を聞いて、佐伯の瞳を覗いた。

「ちょっと待っていて下さい」
理得はまりあの様子を見て二言三言話しかけると再び玄関に戻った。
「お待たせしました」
理得は底の低いサンダルを履くとたっぷりとしたワンピ−スのまま外に出た。
その理得の姿を見て佐伯が目を細めた。
「もうすっかりお母さんですね」
「佐伯さん一緒に歩くの恥ずかしいですか?」
理得の問いに佐伯は笑いながら首を振った。

門を出てしばらく歩くと公園が見える。
その緑の木陰のベンチに座ると佐伯はやっと落ち着いて話し始めた。

「今まで捜査の事で刑事としていろいろお話はしましたが、少し個人的にお話ししたい事もあるので、今日はお邪魔しました」
理得は遠くを見つめながら話す佐伯の横顔を澄んだ目で見ている。
「妹さんはどうですか?まあ、あんな事があったばかりですから、元気ではないでしょうが・・」
「まりあは・・・泣いてばかりいます。食欲もないし、夜もあまり眠ってはいないようです。私の体の事を思ってかあまり困らせる様な事も言わないんです。私は逆にそれが心配です。本当は一度心の中をさらけ出した方がいいと思うんです。だから佑子に、あっ、この場合は石橋先生ですね。石橋先生に相談して診療内科のカウンセリングをしてもらおうかといま思っているところです」
「そうですか。目の前であんな事があったのでPTSD(心的外傷後ストレス症候群)になっても仕方がないです。それならばきちんと治療を受けた方がいいかもしれない」
理得は佐伯の言葉に頷いた。

「それで・・この事は裁判が始まればいずれ判る事ですが、今富成次は実はもう余命があまりありません」
「えっ」
「本人が病気だと言うので一応警察の方で病院の検査を受けさせましたが、病院の結果はやはり本人が言うように肝硬変でした。しかも状態が非常に悪くてもう持っても後一年と言うところです。今富は一人で死ぬのが怖くて、妹さんに側にいてもらいたかったと言ってました」
「・・・」
「やったことは許されないが、ヤツも苦しかったんでしょう・・」
「そうなんですか・・」
理得はそう言うと目を閉じた。
理得の体中に持って行きようのないやるせなさが広がる。

「すいません、こんな話で・・、でももう僕にも時間が無いかもしれないので・・」
理得はそう言った佐伯に声も出せずに驚いた顔を向けた。
「あ、いや、別に命がどうこうする訳じゃあありません。いい方が悪かったですね」
「驚かさないで下さい」
苦笑する佐伯に理得は安堵した。

「実は移動の話がありまして、秋にでもニュ−ヨ−クの領事館に行くことになるかもしれないんです。上司からは英語力を買われての移動だとは言われてるんですが、実は体のいい追い出しだと僕は思っています」
「追い出しですか?」
「この事は真代さんにはお話ししてなかったんですが、前にユ−ラルに行った時に気になることがありましてね、その件に関して僕がいろいろ調べてる事がどうも上の方に知られたらしいんです」
「気になる・・事ですか?」
ユ−ラルと聞いて理得は心中穏やかではなかった。

「ユ−リ・マロエフが埋葬されている墓地に行った時に同じ墓地の片隅で日本語の名前を見たんです。しかもその文字は後から誰かが先の尖ったもので彫ったかのようになっていました。長いこと諸外国から閉鎖されていた国です。いったいどうやって彼女がユ−ラルに入ったのか?目的は?死んだ理由は?誰が彼女の名前を日本語で彫ったのか?・・そんなことを考えたらつい熱が入ってしまって。・・もっと慎重にするべきだったのかもしれません。国交が樹立したばかりで上層部の方が敏感になってまして、それで問題を引き起こすかも知れない事を調べている僕が目障りなんですよ」
「彼女・・・その亡くなった方は女性の方だったんですか?」
「そうです。名前は加納倫子となってました」
「加納倫子さん、ユ−リと同じユ−ラルで眠っているんですね。家族の方とかもいらっしゃると思うし、調べて連絡してあげたいですよね」
佐伯はそう言って自分を見る理得に言いようのない優しさと安らぎを感じていた。

理得は全てを受け入れてくれる、母なる大地と同じように・・・、疲れた体を休ませてくれる大きな白い羽根を持ち、そっと包んでくれる。
佐伯の瞳は理得から離れなかった。
理得を愛おしく思ったのはいつからだろう?
ユ−リ・マロエフとの繋がりを確信した時だっただろうか、理得の瞳に強い意志を感じた時だっただろうか・・・いずれにしてももうずいぶん前のような気がする。
ユ−リ・マロエフが亡くなって、龍が現れて、とうとうここまで理得に対して自分は何も意志表示をしてこなかった。
『このまま日本を離れる事になったら、次に会えるのはクリスマスシ−ズンまでないだろう』
そう思うと佐伯の心は揺れた。
その揺れる気持ちを悟られないように、佐伯は少しずつ理得の先に見える向日葵の花に視線を移していった。