別離 《4》


佐伯はワ−プロで書かれた味気ない辞令を何度も読み返してみたが、その字面の表面ばかりが目に入るだけで、後一ヶ月もない程に迫っている渡米の期日が人ごとのような気がしていた。
正直言って今日本を離れたくない。
自分がいてどうこうなる訳でもないのだろうが、それでも何かあったときには理得の力になりたい。
佐伯は珍しくため息をもらして、その紙をたたんでポケットにしまった。

「今日は妹さんも一緒ですか?」
「はい。まりあはカウンセリングを受けに来ました」
「そうですか・・・」
「須藤先生、お礼が遅くなりましたがまりあの事ありがとうございました。ずっと側にいてくれてまりあも心強かったと思います」
「いえ、僕は何も・・、結局彼を助ける事も出来なくて・・・」
龍は診察を終わったばかりの理得に向き合いながら、まだ若い青年の最後を思い出して目を伏せた。

「僕は仕事柄、人の死に関わることが多いですが、その度に落ち込んでしまってね。性格的に医者に向いてないのかな?って時々思います」
龍は寂しそうにそう言って笑った。
理得は黙って聞いている。

「患者を助けられた時は神の如く、助けられなかった時は死神の如く、きっと僕らはそんな風に思われているのかな?」
いつになく弱気の龍は看護婦が席を外すとポツリと呟いた。
「須藤先生・・」
理得の声で顔を上げた龍は、理得の顔を見てハッとした。
そこには聖母が佇んでいた。

「先生、そんなに自分を傷つけないで下さい。人の死を悼む気持ちを持つ事は人間として当然な事です。そしてそんな先生だからこそ私は安心して自分の事を任せられるんですから・・」
「安心して任せられる・・、僕に、ですか?」
「はい」
理得の言葉に迷いは無かった。
「僕にとってもあなたは安心できる人です、真代さん。・・いつも僕はあなたに助けられる。これじゃどっちが医者か分からない」
龍は心に暖かい物が流れるような感覚の中にいた。
「真代さんは不思議な人ですね・・・」
理得はその言葉を聞きながら、ゆっくりと微笑みを広げていた。

「まりあ、どうだった」
「うん・・」
理得は病院からの帰り道しばらく歩こうとまりあを誘った。
「先生は大丈夫だって言ってくれたけど、・・でも、怖い・・」
「何が怖いの・・」
「何もかもが・・」
まりあは迷子の子供のように怯えていた。

「生きる事の意味が見いだせない・・、生きていく自信がない・・、失うばかりで・・、何もない・・」
「まりあ・・」
理得は白い顔のままのまりあの手をぎゅっと握った。
「昨日ね、お姉ちゃん夢を見たの。ユ−リが側に来てくれて、あなたに伝えてくれって言ったわ」
「私に・・」
「坂口拓麻は出会ったことを後悔なんかしていない。いつも見守っていると・・」
「・・・・」
「まりあ・・」
「わぁぁぁっ・・・」
まりあは理得にすがると自分のいる場所も忘れて泣いた。
その姿を往来を行き交う人たちが不思議そうに眺める。

流れ落ちる涙の数だけ心が軽くなるなら、体中の水分を涙に変えよう。
愛しい妹よ、思い切り泣いてごらん、我が胸で我が手の中で・・。
あなたには未来がある、夢もある、あなただけでも幸せに・・それが私の願い・・。
砂時計の砂が落ちる前に、あなたに伝えたいことが沢山ある。
あなたに託さなければならない未来も・・。

9月も半ばを過ぎると吹いてくる風の中に秋の気配がした。
季節は正直なもので、夜になると次第に虫の声が増えてくる。
龍は落ち着いた雰囲気の店のカウンタ−で、独りグラスを傾けていた。
待ち人は遅れているようだ。
約束の時間をもう30分も過ぎている。
彼に会うのは久しぶりだ。
話の内容は聞かなかったが、理得の事だろうと察しは付いている。
彼と自分との共通点は彼女しかないからだ。

「同じ物をくれないか」
龍はバ−テンダ−に空になったグラスを差し出した。
「飲み過ぎてしまいましたか・・」
その声で振り向くと、いつの間にか龍の後ろに佐伯が立っていた。