慟哭 《2》


靖男は焦る気持ちを抑えながら、それでも他の人たちと比べると明らかに早足で、雑踏の中を歩いていた。
交差点の所で信号待ちをしていると、靖男の前にいた女性が抱いていた赤ん坊が、靖男の顔を見てニッコリと笑った。
思わず靖男も微笑み返す。
信号が変わった。
靖男はまた厳しい顔で、前を向いて歩き始めた。

「もしもし・・・、上聖総合病院の石橋と申しますが、佐伯刑事をお願いしたいんですが・・・」
佑子が受話器を持ったまま窓の外に目をやると、もう夕暮れがそこまで来ていた。
「もしもし・・、佐伯ですが・・」
「上聖総合病院の石橋ですが、理得の・・、真代理得の意識が戻りましたので、一応ご連絡しようと思いまして・・・・」
「そうですか、それはよかった。で、真代さんは元気ですか?」
「それが・・・・」
佑子の沈黙を、佐伯は不安な思いで待った。
「・・・実は、理得、取り乱して、・・今は薬で眠っています」
「なぜ?」
「私が・・彼は死んだと言ったからです・・・」
「そうですか・・」
佐伯は受話器を握りながら、理得の取り乱す姿を思って、目を閉じた。

「・・・あの、理得にまだあの事件の話を聞くんでしょうか?」
佑子はやっと佐伯にそう切り出した。
今度は佐伯が沈黙する。
「・・・今すぐは無理でしょうが、いずれは聞くことになると思います」
「・・それは・・・主治医として許可できません、止めてもらえませんか?」
「石橋先生、お気持ちは分かりますが、全てを知っているのは、彼女しかいないんです。・・それは出来ません」
「あなたは知らないから、・・あんな理得を私は見たことがありません。・・まだこれから辛いことばかりなんです、・・・もうこれ以上、何で理得ばかり苦しめるんですか?」
「・・・申し訳ないが、あなたが医者であるように、私も刑事なんです・・・」
佐伯の言葉に、佑子は為す術を失った。

「理得は幸せだったんでしょうか・・・・」
長い沈黙の後、佑子はぽつりと呟いた。
「・・・決して長い間ではなかったが、真代さんの中には常に彼がいました。そしてその彼を見失わないように、いつも伸ばせるだけ手を伸ばしていた。そう感じていたから私は真代さんを追ったんです。出来れば、彼を掴む前に、その手を引き上げてあげたかった・・」

電話を切った後、佑子は短いやり取りの間に、佐伯の想いを感じたような気がしていた。
きっと彼もまた、自分と同じような逃げれない場所に立っているのだろう。
佑子は立ち上がると、理得の待つ病室に向かった。

「どう?様子は」
「さっきから、うわごとばかり言って・・・」
「なんて?」
「『ユ−リ』って・・」
佑子とまりあは顔を見合わせた。
「ユ−リって人、お姉ちゃんを撃ったんでしょ・・。でも、好きだったんだよねお姉ちゃんのこと・・、私にも優しかった・・・、なのに人も殺してる」
「どれが本当なんだろう・・・」
まりあの問いかけに、佑子は答えられなかった。
理得を愛して、理得を撃った男。
それ以外の答えを知っているのは、うわごとで名前を呼ぶ、理得だけだった。


「理得、愛しい理得、泣かないで、ここにいるよ・・・、ずっとここにいるから・・・」
そう言って、誰かが口づけた。
「ずっと一緒にいよう・・」
頭の中で、そのフレ−ズだけがくり返される。
ユ−リが目を閉じて息絶える姿が、スロ−モ−ションのように写る。

「ユ−リ・・、待って・・」
そう言って、大きく息をした理得は、目を開けた。
理得の瞳は、目の前にいる佑子とまりあを通り過ぎて、宙をさまよっている。

「理得!しっかりして!」
「お姉ちゃん!」
佑子の声も、まりあの声も理得の耳には届かなかった。
二人が途方に暮れていると、ドアが開く音がして靖男が入ってきた。

「遅くなりました・・」
佑子とまりあは靖男の顔を見て、何故かほっとした。
もう自分たちではどうすることもできないことを、目の前の理得を見て何となく感じていたからだろうか。
靖男もそんな二人の様子を見て、ただならない事が起きた事を感じていた。
理得は虚ろな目をしたままだ。

「すみません、ちょっと・・」
佑子は靖男を部屋の外に連れ出すと、今までのいきさつを話した。
「こんな事お願いするのはどうかと思うんですが、同性の私たちじゃだめなような気がするんです・・・、理得と話してもらえますか?」
靖男はふっと微笑むと、頷いた。
「こんなだめな父親ですが、それでも何かの役に立つかもしれません・・・」
靖男が理得の側に座ると、佑子とまりあは部屋の外に出た。

「理得・・」
靖男はまるで小さな子供の頭を撫でるように、理得に触れた。
「久しぶりだなぁ、・・でもないか、いつもはもっと会わないかぁ、・・はは、でも父さんはお前にまた会えて嬉しいよ」
「・・ずいぶんと泣いたそうじゃないか、・・お前、いつも我慢強いから、まりあびっくりしていただろう・・」
無反応の理得を見ながら靖男は話を続ける。

「そんなに好きだったのか・・、お前を撃った男を・・、父さんは恨んだぞその男を、他の誰かを助けるためでも・・、お前は私の娘だ、かけがえのない大事な娘だよ・・」
「でも、こうしてまたお前に会えたのは、彼のおかげかな・・・、父さんはそんな気がするんだ、彼がお前を生かしてくれた・・・・彼の為にもお前は生きなければ、それが彼の望む事じゃないのか?」
理得はようやく靖男の方に顔を向けた。
「何のために・・・」
「ユ−リ・・・、いないのに・・・」
理得はポツリ、ポツリとやっと聞き取れるぐらいの声で喋り始めた。
靖男はそんな理得を見ながら、少し考えた末に言った。

「おまえのお腹に赤ん坊がいる」
その瞬間、理得の定まらなかった視線が、靖男の目を捕らえた。
「うそ・・・」
「本当だ」
理得はお腹に手を当てて、もう一度靖男を見た。
やがて、理得の瞳から大粒の涙がこぼれた。

「ユ−リ・・・、言った事・・・、本当だった・・・」
理得の言葉を聞いて、不思議そうな顔をする靖男に理得は続けた。
「夢の中・・・、教えてくれた・・・、でも・・・、夢だから・・・、きっと・・・、本当じゃない・・・、思ってた・・・」
「うれしい・・・」
「お父さん・・・、ありがとう・・・」
理得は、肩で息をしながら、いつもの慈愛のこもった微笑を浮かべた。
その微笑を見る靖男の心境は複雑だった。
そう言ってしまったものの、裕子から妊娠を続ける事が、死を意味すると聞いていた事を忘れていたわけではない。

だが、靖男は理得が目覚めたと聞いたときから、覚悟ができていたような気がした。
そう、娘の名前をガブリエルから取った時点で、運命は決まっていたのかもしれない。
理得は一度言い出したら聞かない、それもよくわかっている。
きっと理得は何があっても、この自分の中の小さな命を守るだろう、愛した男の忘れ形見を・・。
靖男は理得の手をとると、何も言わず自分の両手で握り締めた。
今このひと時だけでも、理得に幸せを与えたかった。
幸せが薄い娘に、それが父親として出来る最後の思いやりだったのかもしれない。