慟哭 《3》


靖男のおかげで落ち着きを取り戻した理得に安心して家に帰る途中、夜道を歩きながら、まりあはふと立ち止まって空を見上げた。
すっかり花びらが落ちた桜の木には、もう緑の葉が茂っている。
その枝の間から見る空には、満月が浮かんでいた。

玄関を開けて家の中に入ると、ほっとして体から疲れが出てきた。
コンビニで買ってきた夕食を食べると、お風呂に入り、濡れた髪の毛をタオルで拭きながら階段を上がる。

理得の部屋にドライヤ−を借りに入ると、鏡台の前にあるろうそくに目が止まった。
ろうそくの芯の所が幾分溶けているので、理得が使っていたのだろう。
髪の毛を乾かすと、まりあはろうそくに火をつけてみた。
部屋の電気を消すと、ろうそくの小さな炎は、まるで新しい世界が与えられた様に光を見せつける。

まりあはろうそくに、理得のどんな思い出があるのか知らなかったが、疲れた体にはこの灯りが心地よかった。
ろうそくの灯りを見つめながら、まりあは病院で見た理得の姿を思い出していた。
いつも聡明で、我慢強く、落ち着いていた姉が、ユ−リの死を知った時、一緒に死にたかったと呟く姿はショックだった。
あの時、理得の頭の中にはきっとユ−リという人しかいなかったのだろう。
一緒に死にたいと思うまで愛した人。
自分はどうだろう・・。
成次が死んだら、そう思うだろうか?
一度は一緒に暮らし、子供まで授かった仲だが、まりあには言い切る自信がなかった。
成次との距離が離れた今、この機会にもう一度自分のことや成次のことを見つめ直す必要があるのかも知れないと、ゆらめく灯りを見ながらまりあは思っていた。

午前中の外来が終わると、佑子は気が重くて、ため息ばかりついていた。
昨日、靖男から妊娠の事を理得に告げたと聞いてから、佑子は次に理得に何と告げたらいいか迷い、途方に暮れていたのだ。
嬉しそうに微笑む姿を目の前にして、昨日はさすがに何も言えなかったが、そろそろつわりも始まってしまうので、処置は早くしなくてはならない。
「その子をお腹で育むことは、あなたの命を縮めてしまう」
「たとえ育てる事が出来ても、出産には絶えられない」
「あなたの命を助けるために、あきらめて・・・」
そんな言葉が、浮かんでは消えるが、とても口にする気にはならない。
でも、自分は医者なのだ。
患者の命を助けることが仕事。
佑子は自分にそう言い聞かせると、重い足取りで理得の病室に向かった。

佑子がエレベ−タから下りて廊下を歩いていくと、理得の部屋の前に花束を持った男がいるのが見えた。
近づくとそれが佐伯である事がわかり、佑子の歩く速度は早くなる。
「もう、いらしたんですか?」
振り返った佐伯は、佑子の憮然とした表情に一瞬たじろいたが、すぐに表情を戻すと、落ち着いた声で佑子に答えた。
「いえ、今日は個人的に来ました。・・・お見舞いに来てはいけませんか?もうすぐ面会時間になると思うのですが・・」
そう言われた佑子は腕時計に目をやると、佐伯の顔を見た。
しっかりと佑子を見返す佐伯の目は刑事の鋭さはなく、穏やかな優しさを持っていた。
「・・・そうですか。まだちょっと早いですが、お時間もないでしょうから、どうぞ入ってあげて下さい。ただ、まだあまり長い時間は困ります。それに沢山は喋らせないようにして下さい」
佐伯が軽く頭を下げると、念を押すように佑子の声がした。
「あなたを見ると、理得は思い出さなくてもいい事まで、思い出すかもしれない・・・。それを十分承知の上で会うんですね?」
「ええ、わかっています」
「何かあったら、すぐにナ−スコ−ルして下さい」
佑子はそれだけ言うと医局に帰っていった。

ドアをノックすると、「どうぞ」と声がした。
「佐伯さん・・」
佐伯が目をやると、思っていたより元気そうな理得が、ベットに横になっていた。
「真代さん、どうも・・・、今日は妹さんか誰かお見えになってないんですか?」
佐伯は持っていた花束を、サイドテ−ブルに置きながら、少し緊張した様子で言った。
「きれいな・・お花・・、どうも・・ありがとうございます・・、まりあは・・買い物に・・行ってます・・」
佐伯は切れ切れに話す理得の顔を見つめながら、懐かしさで胸がいっぱいになった。

「すみません、まだ話すのは辛そうですね、大変だったら返事はしなくてもいいですから・・」
理得は佐伯の言葉を聞いて、頷いた。
佐伯はベットの横にある椅子に座ると、ゆっくりと話し始めた。

「実は今日、あなたに渡す物があって来たんです」
「これをあなたに渡すことが、いいのか悪いのか正直迷いましたが、しかし、これはあなたが持っているべき物だと思っています」
そういいながら、佐伯はポケットからシルバ−に光るライタ−と、一枚の写真を取りだした。
理得の目は、その見覚えのあるライタ−に釘付けになった。
理得の口が「あっ」と言う形のまま、止まっている。
「真代さん、手を出せますか?」
佐伯の声に理得は微かに震える手を差し出した。
佐伯は理得の手を取ると、ライタ−を掌に置き、両手で包み込むようにそれを握らせた。
理得は握りしめた手を胸元に引き寄せると、目を閉じた。
その閉じた目から流れ落ちる涙を見ながら、佐伯は静かに眠っていたユ−リの姿を思った。
きっと今彼女は、同じ姿を見ているのだろう・・・。

「ありがとう・・・、ございます・・・」
しばらくして震える声で理得はお礼を言った。
「僕が持っていても、それにはいい思い出がありませんから・・・」
佐伯は優しい口調でそう言うと、こう付け加えた。
「それに、まだ渡す物があります・・」
そう言うと、佐伯は持っていた写真を理得に見せた。
「これは・・・」
「ユ−リ・マロエフの家族です。今は遺影になってしまった・・・、幸せの薄い家族でした」
「こんな小さな子供まで・・・」
佐伯のそう言う声も、どこか震えている。

理得は佐伯の言葉を聞きながら、写真から視線を外せないでいた。
ホテルで会った父親、ユ−リが手にかけた弟、料理が得意と言っていた母親、パイロットの夢を持つオムル、歌が上手なリン。
父親以外は初めて見るユ−リの家族だった。
きっとユ−リがいつも持っていた物だろう、家族のことを思って、どんな気持ちでこれを見ていたのだろうか?
ユ−リの思いは紙の歪みとなって、写真に刻み込まれているようだった。
理得の瞳からは再び涙がこぼれた。

佐伯は理得の枕元に写真を置くと、椅子から立ち上がって、陽射しを遮るためにカ−テンを閉めた。
「それを持ち出すのは、刑事としては許されないことかもしれません。・・・しかし、・・・彼の姿を目の前にしたら、彼の持ち物を探し、あなたに届ける事を優先させてしまった」
「これでは、刑事失格ですね、ですから、他の事は刑事としてきちんとやります。もう少しあなたの体力が戻ったら、事情聴取はさせてもらいます。いいですね」
佐伯の口調はいつものそれだった。
理得は黙って佐伯の顔を見ると、頷いた。
その顔を見た佐伯は、やっと安心したような表情を見せ、深い微笑みを理得に向けた。

佐伯が帰った後、佐伯の残した写真を見ながら、理得は心の中で話しかけてみた。
「ユ−リ、家族のみんなに会えた?私に生きる希望を残してくれてありがとう」
「私はあなたの分身を、必ず生み出してみせる。何があっても産んでみせる。だから無事に全てが終わるように私を見守っていて・・」
「ずっと愛しているわ、この愛はあなたがいなくても変わらない、たとえ何があっても変わらない」
理得の閉じた目の中で、ユ−リが微笑んでいる。

「理得・・・」
不意に自分をそう呼ぶ声で、理得は目を開けた。
聞こえるはずもない声が、写真の中からそう話しかけていた。
しかしその時理得は、佑子の苦悩も、これからの試練も、自分の体の事も、何一つ知らないままだった。