激流 《2》


まりあの携帯の番号を書いた紙を、指先でもてあそびながら、楓は龍に今日の収穫について報告しようかどうか、迷っていた。
自分に会った時の龍の様子がいつもと違っていたことは、すぐに分かったが、それを問いただす勇気は楓には無かった。
昔からそうだった。
龍が本当の兄ではないと知った時、まだ小さかった楓は、そのショックを恐怖として体の中に植え付けてしまって、それから楓は龍の存在をどうしたらいいか、自分でも持て余していたから・・。
龍が兄なのか、男なのか、ずっとその問題から逃げていた。

「この居酒屋で働いている、真代まりあと言う女性に近づいて、彼女のお姉さんの事について、色々聞き出してくれないか」
そう言って、店の住所と名前の書いてあるメモを渡したときの龍の顔を思い出すと、楓は自分の頭を軽く叩いて、首を横に振ってため息をついた。
楓はしばらく持っていた紙を机の上に放り出すと、床の上で転がってカシャカシャと音を漏らしているヘッドホンを耳にあて、フロ−リングの床に寝そべったまま、天井のトップライトから見える星の瞬きを見つめていた。


「妙に馴れ馴れしかったな、あの男」
「えっ」
「お前が坂口って呼んでた男だよ」
「ああ、坂口君ね。坂口君にあのお店紹介してもらったのよ、だから・・・、それだけよ・・」
「ふ〜ん・・」
「あたし、お風呂入ってくるね・・」
まりあは着替えを持つと、成次の後ろをすり抜ける様にして、風呂場に向かった。

この胸の痛みは何?
何故涙が出るのだろうか?
どうしたらいい・・・。
まりあは、湯船の中に身を沈めながら、しゃくりあげた。
成次の口から出た『坂口』と言う言葉が、まりあの全身を稲妻のように駆け抜け、皮肉にもまりあの意識を目覚めさせた。
『坂口拓麻が好き』それは、ずっと胸の奥にしまっていた事だった。

『成次とはもう一緒にいられない』
まりあにも、これからどうしたらいいのか、全く見当はつかなかったが、ただ漠然とそう思っていた。

次の日も楓はまりあの働く居酒屋に顔を出した。
「昨日はどうもありがとう」
楓は小さな紙袋をまりあに手渡すと、そう言って帰ろうとした。
「えっ、あっ、どうもわざわざすいません、あの・・、楓さん、今日は寄っていかないんですか?」
「うん、友達も来ないし、1人じゃつまらないから・・」
「今日、私、早めにバイト終わりにしようと思ってるんですけど、少しお茶でも飲みませんか?」
もうじき坂口が来る時間だった。
まりあは店長に許可を取ると、いつもより早くバイトを切り上げた。

楓にしてみれば、こんな絶好のチャンスはない。

コ−ヒ−を頼んで、向かい合った二人は、明るい所でお互いの姿をちゃんと見て、どちらともなく微笑んだ。
「なんだか似てない私たち・・」
「ホント」
「歳もあまり違わないし、髪型も同じだし・・、私は兄が1人いるんだけど、まりあさん兄弟いるの?」
「姉が1人・・・でも今病院にいるから、家にいるのは私だけなんです」
「まあ、それは・・・お姉さん大変なのね・・でも、家に1人って・・・ご両親は?」
「母は私が高校の時に亡くなって、父は再婚しました」
「ごめんなさい、・・・私ってどうしてこう、ぶしつけなのかしら・・」
「いえ、いいんです。もう昔の事ですし、それにこうやってお茶飲むの久しぶりで、なんだか嬉しいんです」
楓もなんだかまりあと話をするのが楽しかった。

まりあは楓と話しながら、楓なら自分がどうすればいいのか相談に乗ってくれそうな気がして、その話すきっかけを探していた。
「楓さんは好きな人います?」
楓がコ−ヒ−のカップをテ−ブルに置くと、まりあは思い切ってそう尋ねた。
あまりの突然の質問に楓は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに表情を戻すと、神妙な顔つきのまりあに向かって答えた。
「今は別にいないけど・・・・」
「そうですか・・・、あのこんな事、まだあまりおつき合いのない楓さんに話してもいいのか・・・ご迷惑かもしれないんですが、聞いてもらえますか?」
「いいわよ、私で良ければいくらでも話して・・」

まりあは自分が今成次と一緒にいる事と、今までの成次との事、そして坂口の事を話した。
「成次って男と別れればいいじゃない」
「でも、そう簡単にはいかないんです。成次がこの事を知ったら、坂口君に何するか分からない」
「だって、このままじゃ、何も進まないわよ」
「それはそうなんですけど・・・」
「いいわ。私が何とかしてあげる。成次って人に話をつければいいんでしょ」
「・・・」
「大丈夫、うまくいくわよ」
楓はまりあから成次の携帯の番号を聞くと、手帳に書き留めた。

「今、彼は何処?」
「たぶん家にいると思います。今日出掛けないって言ってたし・・」
「そう・・・、じゃ善は急げね、まりあさんはお店に戻ってて・・・後で連絡するから・・」
「・・・・」
「心配しないで、・・・さ早く行って」

まりあが席を立つと、楓は早速、成次に電話した。
「もしもし・・」
「もしもし・・」
「あんた誰?」
「私はまりあさんの友だちよ、あなた今富さんね」
「あん、まりあの友達・・・その友達が何の用だ・・」
「私回りくどい事がキライなの、だから単刀直入に言うわね、まりあさんあなたと別れたがってるのよ・・、だから別れてあげて」
「は?」
「あなたの事もう好きじゃないんですって」
「・・・」
「男なら男らしく別れてあげなさい」
「てめぇ、俺をおちょくってるのか!」
「全然」
「まりあを出せ」
「今いないわ・・たぶん今日は帰らないと思うし・・・また連絡するから、考えといてね」
楓はそれだけ言うと、成次のわめく声にウンザリしながら電話を切った。

「ふう、やっかいな事になっちゃった」
小さくため息をつくと、楓はまりあの携帯に連絡した。
「あっ、まりあさん、今ね、別れてくれって連絡しておいたから、・・・えっ、うん、なんか言ってたわね、でも今晩一晩経てば、落ち着くと思うし、また明日連絡してみるから、・・・そうだ、今日は帰らないで、携帯の電源も切って・・・坂口君と上手くやってね」
楓は龍から頼まれた事が棚上げになってしまった事を頭の隅っこで思い出したが、まあ、まりあとの親密な関係が築けた事で自分の中では満足だった。

楓から連絡を受けたまりあは、店の前でうろうろしていた。
「帰るなって言われても、・・・どうしたら」

「真代さん」
まりあは後ろから名前を呼ばれて、慌てて振り向いた。
「坂口君!どうしたの?」
「どうしたって、聞きたいのは俺の方ですよ、今日は仕事じゃないんですか?」
「えっ、ええ、今日は早じまいしたの・・・、坂口君こそ、今日は遅いのね」
「今日は店長が具合悪くなっちゃって、残業でした」
「そう、大変だったのね」
「真代さん、ここでなにしてたんですか?」
「あの、別に何って訳でもなくて・・、帰ろうかなっと思って・・・」
「それじゃ俺とデ−トしませんか?」
まりあは目の前で、頭をかきながら、そう言って自分を見る坂口を見つめた。

「さあ、行きましょう、・・・何処がいいですか?カラオケ行きましょうか?」
まりあは坂口に腕を掴まれて、歩き出した。
人通りのある道から、横道に入ると、今までの喧騒が嘘のように静かになった。
「ここ近道なんっすよ、・・・すいません強引に誘っちゃって・・・でも俺・・」
「あの、俺・・・こんなチャンス二度とないかもと思うと緊張するんですけど・・・、俺、真代さんが好きなんです」
まりあは坂口の言葉で立ち止まった。
「俺、こんなんですけど真代さんの事、大事にしますから・・・俺と付き合ってくれませんか?」
「・・・・」
「ダメですか」
まりあは目に涙を浮かべると、坂口の胸に頭をもたれさせた。

坂口はまりあを両手で抱きしめると、しばらくそうしていたが、まりあの顔を覗き込むとその唇に軽く触れた。
まりあは顔を上げて、正面から坂口を見ると、頬にお返しのキスをして、胸に飛び込んだ。
「私も好き」
まりあは坂口の耳元でそう呟いた。

「さあ、カラオケ行きましょう。真代さん」
「あっと、もう真代さんじゃないよね。まりあさんだ」
二人は手を繋ぐと、寄り添って歩き始めた。


成次はまりあの帰らない部屋で、酒を飲み、楓の挑発するような声を思い出して、グラスを床に投げつけた。

「まりあ、お前は俺の物だ・・・」
成次は薄ら笑いを浮かべていたが、その感情は、内面で冷たく増幅されていった。