激流 《3》
「もしもし・・・、もしもし・・・龍・・・」
龍は取るだけ取ってベットの上で握りしめていた受話器を、ゆっくりと耳に当てると、はっきりとしない頭で楓の声を聞いた。
「もしもし・・・楓か・・・こんな時間に連絡しなくても・・・まだ8時じゃないか・・・」
「龍、世間ではもう朝なのよ・・・、お休みのところ悪いんだけど、急を要する事態になっちゃって・・・、例の件に付いてなんだけど・・」
「どうしたんだ・・・何か分かったのか?」
楓の声の調子が幾分高いのを気にしながら、龍は早急に頭を覚醒していく。
「それが・・・」
「まりあさんと仲良くなったのはいいんだけど、付き合ってた男との別れ話を私が話しつけることになっちゃって・・・、でもその男けっこうワルで、さっき連絡したら、凄まれちゃって・・で、ただじゃダメだって・・」
「金か?」
「そう」
「いくらだ?」
「100万」
「俺が払うのか?」
「だって、私持ってないもの・・・、その位、龍にとっては何て事ないでしょ、それにさ・・、龍、お金要求するような男って、使えると思わない?」
「・・・・」
「だから、お金で解決できるって事よ・・・、その男、まりあさんとだいぶ付き合っていたみたいだから、きっと龍の知りたい事も知ってると思うんだけど・・・・」
「・・・わかった」
「連絡先を教えてくれ・・、・・・ああ、俺の方で話をつける」
龍は一旦受話器を置くと、楓から教えられた番号を押した。
指定された喫茶店で、窓際に座ってる男は1人しかいなかった。
「今富成次さん・・」
龍はテ−ブルの横に立って、声を掛けた。
成次は声の主をじろっと見ると、ふてくされた様に返事をした。
「ああ、そうだ、てめぇが代理人か?」
「ご丁寧に、代理人まで用意するとはねぇ・・・、で、金は用意できたのか?」
龍は成次と向かい合う様に座ると、内ポケットから、袋を出して、テ−ブルの上に置いた。
「たしか・・100万でしたよね・・・どうぞ・・・これで真代さんの事は忘れて下さい」
「フフ、さあ、どうかな・・・、でもよ・・・まりあもスゴイよな・・・こんな代理人さんが付いてるんじゃ・・」
成次は足を組んで、タバコに火をつけた。
そんな成次の様子を見ていた龍は、ポケットからもう一つの札束の入った袋を取り出すと、テ−ブルにポンと投げた。
「これもあげましょう・・・ただし、交換条件がある。真代さんのお姉さんの事を教えて欲しい」
成次は袋の中身を確かめると、口笛を鳴らして、笑い声を上げた。
「これは、これは・・・あんた何物だ」
「誰だっていい。あんたは金が欲しい、俺は情報が欲しい、ただそれだけだ」
「それとも止めるか?」
「へへっ、こんな美味しい話、誰が止めるかよ」
「あの、まりあの姉ちゃんは、気取ってて、・・そうだ、携帯も持ってなかった、嘘っぽいんだとさ、・・・俺にはわからねぇよ、こんな便利な物使わねぇなんて・・・」
「でもよ、あの姉ちゃん裏では結構やってたみたいで、警察が回りをウロウロしてた」
「それはいつ頃の話だ」
「今年の初め頃だ・・・、2月だったかな、俺があの家にいたら、警察が踏み込んできて、・・俺、刑事に拳銃突きつけられたんだぜ・・」
「誰かと間違えたみたいだった・・・きっとあの男と間違えたんだ」
龍の肩がピクンと動く。
「男って・・」
「警察に指名手配されてた男さ・・・きっとあの家にいたんだ。ライタ−がソファ−にあって、・・とっさに俺の物として預かったんだ・・・チッ、金づるになるはずだったのに・・・」
「そのライタ−はどうしたんだ」
「それがまりあが持ち出して、それっきり・・・まっ今となってはどうでもいいことだけどよ」
「けど笑っちゃうよな・・、あのお堅いお姉ちゃんが、指名手配犯とおつき合いしてたなんて・・・、後で新聞で知ったんだけどよぉ、ただの指名手配犯じゃなかったんだぜ」
「それはどういう意味なんだ」
成次は龍の反応を楽しみながら、勿体付けるように口を開いた。
「工作員さ・・、その男、日本人じゃないんだぜ」
「・・・・・」
「全く間抜けさ、あげくの果てに、そいつに撃たれちまうなんて・・・」
龍は目の前で成次が喋っている事を、すぐには理解できなかった。
「その男の名前覚えてるか?」
「新聞に載ってた顔は覚えてるけど、・・・モンタ−ジュとよく似てたんだよ、その男、・・・名前は覚えてないなぁ」
しばらく考え込んでいた龍は、何かを思いついたように顔を上げて、成次の顔を見た。
「じゃあ、彼女のお腹の中の子供の父親は・・・その男だって言うのか!」
「へへっ、俺は手出してないっすよ、・・・そうねえ、他に男いた風もなかったから・・・・たぶんそうでしょうね」
成次は相変わらずニヤニヤしながら龍を見ている。
「俺が知ってるのはこれくらい・・・、こんなもんでいいっすか・・」
「じゃ、俺はこれで・・・、これ、ありがたく頂きます」
無言のままの龍を後目に、成次は二つの紙袋をポケットに終うと、悠々と外に出ていった。
「嘘だ・・・」
「命まで賭けて守ろうとしてる・・・それが・・・自分を撃った男の子供だって・・」
龍は虚ろな目で、独り言をくり返しながら、握りしめた手を震わせていた。
「まりあ、今日はご機嫌じゃない」
「えっ、ちょっといいことがあったんだ・・」
「何?お姉ちゃんにも教えてよ・・」
「あのね、好きな人ができたの・・・」
「・・・・・」
「ごめんね、びっくりした?成次とは別れる事にしたの・・・。ずっと自分の気持ちごまかしてきたけど、もうダメ・・・、それで昨日、その彼から告白されちゃって・・・、嬉しかった」
「それで、今富さんは、承知してくれたの?」
理得は成次の事を思うと、少し心配になった。
「・・・うん、たぶん。友達が話しつけてくれて、朝、連絡したら、もう家に帰っても大丈夫だって言ってたから・・」
「まりあ、昨日家に帰らなかったの?」
「・・・実は、彼の、あっ、彼、坂口拓麻って言うんだけど、彼の家に泊まったの・・・。でも彼、自分は隣の部屋の友達の所で寝て・・・・、今時珍しい人でしょ・・」
「・・・そう、・・・まりあが幸せなら、お姉ちゃんそれでいいけど・・・」
「大丈夫、きっと彼を見たら、お姉ちゃん安心すると思うよ」
理得は、まりあのこぼれるような笑顔に安心したように微笑んだ。
今ところつわりの兆候もなく、穏やかな気持ちでいられるこの生活が理得の幸せだった。
佑子がエコ−で見せてくれた赤ちゃんは、まだまだ小さかったけど、実際に目で見ると何となく母親としての実感が沸いてきて、羊水の中で漂う命を感じることができた。
「ユ−リ、私はあなたをいつでも感じる事ができる。それは風だったり、花の匂いだったり、この子だったりするけど、でもあなたはいつも側にいてくれる。・・・だから幸せよ」
理得は、佐伯から渡されたライタ−を見ながら、そう話しかけていた。
「ガタッ」
ドアが開く音で、視線を移した理得の目に、龍の姿が映った。
もう、後30分ほどで消灯になるのに、こんな時間に龍の姿を見るのは今まではなかった事だ。
「須藤先生、どうかなさったんですか?」
蛍光灯の光で、よりいっそう青い顔の龍は、理得の質問には答えずに、理得の持っているライタ−を凝視していた。
「須藤先生?」
「・・・・」
「・・・あの、一度、私、先生とお話しようと思っていました。先生のお母さんもきっと須藤先生の誕生を喜んで、きっと先生の事、愛していたと思います。きっと事情があって・・」
「僕を慰めてくれるんですか?」
「あの・・」
龍はドアを閉めると、理得の側まで来て、その腕を掴んだ。
理得は、自分の腕を掴む龍の力の強さに驚きながら、グレ−がかった龍の瞳の中に冷たい物を見ていた。