悲劇 《1》


処置室の前で、龍は長椅子に座って呆然としたまま動こうとしなかった。
この扉の向こうに楓がいると思っても、なんと言ったらいいのか言葉が見つからないままだ。
長い間暮らしてきた兄としての心配はある。
それ以上でもそれ以下でもない気持ちをそのまま楓に投げても、きっと救われない。
その事だけは分かっている。

龍は目を閉じた。
兄弟として楓と暮らした日々を脳裏に思い起こす。
「追いつめたのは俺かもしれない」
楓を哀れむこの気持ちが愛情にすり替わらない事を百も承知で龍は立ち上がって処置室のドアを開けた。

成次は自分の部屋で、虚ろな目をしたままタバコをくわえている。
「一年か・・」
そう呟くと、灰皿にタバコを押しつけて立ち上がった。
「案外短いもんだよなぁ・・、一年なんてすぐ終わっちまう」
成次は歩きながら自分に言い聞かせるように話している。
そして窓際にある引き出しの所まで来ると、一番下の引き出しを開けた。

サバイバルナイフはずいぶん前に護身用に買ったものだが、今でもナイフの表面はツヤツヤして曇りの1つもないままだった。
それをポケットに忍ばせると、ナイフの重みの分だけ安心感が増したような気がした。
成次の気持ちはもうずいぶん前から決まっていたが、それを実行する勇気が無かった。
今もナイフを持っただけで実行する勇気はないのかもしれない。
ただ、何もしない、何も変わらない毎日が怖かった。
それは確実にやってくると言うのに・・。

「理得、一時退院の日が決まったわよ」
佑子はドアを開けると開口一番そう言った。
「本当!佑子ありがとう」
「やったね!お姉ちゃん!」
まりあと手を取り合って喜ぶ姿を、佑子は目を細めて見ている。

「お盆休みの頃だから、ちょっと暑いけど、帰省ラッシュで東京は逆に静かだし、病院も暇だから私も顔出せるしね」
「そうそう聞いたわよ〜、退院のお祝いパ−ティ−やるんだって、もちろん私も呼んでくれるわよね・・」
「そりゃもちろん、佑子先生にはお世話になりましたもの、ご招待させてもらいます」
まりあは深々と頭を下げた。
「お姉ちゃんもやって、やって」
まりあの声に理得も慌てて頭を下げる。

「ホントお姉ちゃんて、ボ−ッとしてるんだから・・」
「ボ−ッとしてて悪かったわね、まったくまりあは調子だけはいいんだから・・」
「あら、そんなこと言っていいの、当日のセッテイングはあたし次第なんだけどなぁ」
「どうせ、飾り付けは拓麻くん担当で、お料理はお店の店長さんに頼むんじゃないの?」
「・・・どうして分かったの?」
「やっぱりそうだ。まりあ、もうちょっとしっかりしてよ・・お姉ちゃん心配で退院出来なくなるかも知れないよ・・」

「アハハハ・・」
佑子はそこまで聞いて笑い出した。
「相変わらず仲の良い姉妹だこと。これだけ元気があれば大丈夫ね」
佑子はそう言って右手を挙げると部屋を後にした、夕方もう一度来ることを心に思いながら・・・。

「理得」
「ああ、佑子、さっきは嬉しい知らせありがとう」
「もう今日も終わりね」
「うん」
「前から聞こうと思っていたんだけど・・」
「何?」
「須藤先生が最近元気がないのは、この間の事が原因だと思うんだけど、あなた達はいったいどうなってるの?」
「・・・佑子」
「理得が言いたくないのはよく分かってるけど、この間みたいなことがまた起こらないとは限らないでしょ?事情ぐらいは知ってないと対処できないのよ」

理得は一旦下げた視線をなかなか戻そうとはしなかった。
長い沈黙が続く。
「理得が喋らなきゃ、須藤先生に聞くだけだけど・・」
佑子の声で、理得はやっと重い口を開いた。

「須藤先生に好きだって言われたのは、逢って間もない頃だった・・」
「それは彼が失踪する前なのね?」
「そう・・」
「私は須藤先生が母親への愛情を私にすり替えてるって言ったの」
「で、ああゆう事になったんだ・・」
「それで、それでも須藤先生はユ−リが忘れられない私を見守りたいって言ってくれて・・・」
「結婚の話を聞いておかしいと思わなかった?」
「すぐに須藤先生から楓さんと両親が決めた事だって聞いた、でも気持ちは自由だから変わらないって言ってた・・」
「それで、楓さんがあなたの所に来たってわけね、やれやれ・・」

「そりゃ人の気持ちは誰にも変えられないけど、あなたに被害が及ぶのは大問題よ。追い打ちをかけるようだけど、須藤先生には注意しなきゃならないわ」
「理得ももっと毅然とした態度とらなきゃ・・。優しいだけじゃダメよ」
「・・うん」
頷く理得の背中を軽く叩いた佑子は、理得の部屋を後にした。