悲劇 《2》
「ただいま・・」
「お帰りなさい、龍。外は暑かったでしょ、シャワ−でも浴びてさっぱりしたら?その間におつまみ作っておくから・・」
エプロン姿の楓はどこから見ても初々しい新妻だった。
週末にはこうして龍のマンションに来て、二人で過ごすようになってこれで2回目だ。
あれ以来特に変わった事はない、楓が記憶を無くした事以外は。
龍はあの日、処置室の向こうにいる楓に素直な気持ちをうち明ける筈だった。
これ以上壊れていく楓を見ていられない。
楓だって分かっているはずだ。
これ以上続けても苦しむだけで、得る物は何もない事を。
「俺達は別々の人生を生きよう」
そう言うつもりだったのに・・いや、そう言わなければ楓を助けられないと思っていた。
ところが、目の前にいる楓は別人だった。
そこにいた楓は病院の娘でもなく、利口で計算高い女でもなく、龍の妹でもなかった。
「龍、探したのよ、沢山探したの・・会えて良かった。でもここはなんか怖い・・早く家に帰りたい・・」
「楓?」
「龍、家に帰りたい・・」
怯える目で龍を見る目つきは本物だ。
自分の腕にすがる楓に龍は戸惑った。
これは演技なのか?それとも・・。
「楓、よく聞いて欲しい。楓は今日何故ここに来たの?」
「えっ、龍に会いに来たのよ・・だって私は龍の奥さんだし・・ここは龍がお勤めしてる病院でしょ?」
「楓は僕の奥さんなの?」
「そうよ」
「それじゃ、その腕の傷はどうしたの?」
「ああこれさっきから痛いの、どうしたのかしら・・、それに龍に会いに来たのにどうしてベットで寝てたのかしら?」
「・・・」
言葉を失って楓を見つめる龍。
その龍を不思議そうに見る楓。
明らかに二人の空気は違っていた。
廊下に響く靴音が近づいて来る。
「ガラッ!」
勢い良く空いたドアの向こうに須藤の両親が立っていた。
「楓」
「楓、大丈夫なの?」
「・・あなた達は誰?」
振り向いた龍の背中に隠れるようにして答えた楓の声に、皆が息を呑んだ。
「龍、この人達誰なの?」
「いやだ楓、お母さんよ・・、あなたのお母さんじゃないの・・」
「お母さん?」
「そうよ、この人はお父さんよ、分からないの?」
「私、知らないわ・・・」
「龍、これはいったいどう言うことなの?」
「康子止めなさい・・龍、ちょっと外に出よう・・」
仁は泣き出した康子を抱きかかえる様にして部屋の外に出ていった。
「楓、ごめん、すぐに戻るからちょっとここで待っていてくれる・・」
「早くしてね・・、終わったら帰ろうね、龍」
部屋の外では仁が龍を待っていた。
「一過性の記憶喪失か?」
「僕にもよく分かりませんが、記憶障害は確かの様です」
「お前のことは覚えているようだが・・」
「・・僕の奥さんだって言ってました」
「そうか・・、ともかく連れて帰ろう、家の病院に入院させて検査しなければ・・、ここの後の手続きはお前に任せるからな」
「分かりました、僕も後で行きますから・・」
龍は楓の部屋に戻ると、点滴の針を静かに抜いて絆創膏で小さな赤い点を塞いだ。
「これで大丈夫・・・、楓、僕はまだ仕事があるから、今さっき来た人たちと先に帰っていてくれる・・・、すぐに後で行くから・・」
「いやよ!龍と一緒じゃなきゃいや!」
「楓、いいか、あの人達はお前の両親で、保護者だ。お前の事を心配してる。楓は少し記憶がなくなっているみたいだけど、大丈夫すぐに治るから、あの人達の言うことを聞いてくれないか」
「龍も心配してるの?怖いことしない?」
「ああ、心配してるし、怖いこともしない」
「すぐに後から来る?」
「すぐ行くよ、約束だ」
龍が出した小指に自分の小指を絡ませて、楓はやっと安心した表情を浮かべた。
廊下で待つ両親に目配せすると、龍は楓を抱え上げて廊下を歩きだした。
首に腕を巻き付けてくる楓の柔らかな感触も、何故か違って感じたのは気のせいなのだろうか?
車に乗ってからも不安そうに自分を見る楓の表情が、龍の心に重く影を落としていく。
あれから検査を重ねても記憶の一部が抜け落ちた意外、楓の異常は見つからなかった。
日常生活の細かい事は覚えているのに、人間関係に関しては龍以外の人は全て忘れてしまっているのだ。
すっかり自分を龍の妻だと思っている楓は、龍のマンションで暮らすと言い張ったが、誰もいない部屋で一人でいるのは許可できないと言う龍の意見で、週末だけは二人で過ごすことになった。
楓は龍の言うことには素直に従った。
慣れない両親の元で平日を過ごし、嬉しそうに自分との週末を過ごす楓を、龍は突き放すことが出来ないでいた。
「どうしてこんな事に・・・」
自分に寄り添って眠る楓を見ながら、そう呟かずにはいられなかった。