悲劇 《3》


「それじゃあ、後でね」
佑子に見送られて理得はまりあと共にタクシ−に乗り込んだ。
もう二度と戻ることはないと思っていた家に帰れる幸せに理得は胸を熱くしながら、窓から見える風景に目を凝らしていた。
懐かし街並み、懐かしい匂い。
東京で暮らしてきた思い出の全てがあの家にはある。
頻繁に動くお腹の子供を気遣いながら、理得は思い出の中に浸っていた。
あの家はユ−リとの思い出の場所でもあるのだ。

タクシ−の音がすると、拓麻は玄関のドアを勢いよく開けて外に出た。
まりあと共に降り立った理得に拓麻は笑顔で手を差し伸べた。
理得の驚いた顔がすぐに笑顔に変わった。
それがまりあの恋人だとすぐに気が付いたからだ。

「初めまして、まりあの姉の理得です。あなたが坂口くん?」
「はい、坂口拓麻です。お姉さん美人ですね・・。とても妊婦さんには見えないです」
緊張した口調の拓麻に、まりあは苦笑している。
「え〜と、挨拶は後でいいから、とにかく中に入ろうよ」
「そうね、今日は楽しみだわ。坂口くんには聞きたいことがいっぱいあるのよ・・」
「え〜そうなんですか!」
理得の言葉に一層緊張した様子の拓麻は荷物を持ちながらすっとんきょうな声を上げている。
理得は白い門に手を掛けて、懐かしい我が家を見上げた。

「うわ〜綺麗!」
居間に続くドアを開けるとテ−ブルの上の花々が理得を迎えてくれた。
決して豪華ではないけれど、淡いピンクの色を主にしたそのアレンジメントはほっとした優しさを理得に向けてくれている。
目を凝らすと、部屋のあちこちに小さな花が生けてあった。
「ありがとう、坂口くん」
「俺、こんな事ぐらいしか出来ないから・・喜んでもらえて良かったです」
大きな体を丸めるようにして頭を掻いている拓麻に、理得は内心ほっとしていた。
まりあが選んだ相手は安心してまりあを預けられる相手だと知ることが出来たし、それを伝える時間もまだ自分には残されている。
「お料理も豪華よ。なんたって店長のお手製だもの」
「まりあ〜!」
3人の笑い声は和やかな雰囲気のまま、夕暮れが近づいても絶える事がなかった。

「今晩は・・、お邪魔します」
「は〜い!佑子?上がって・・、今手が放せないの・・」
「理得?・・何やってるの?」
「佑子先生、いいところに来てくれた。お姉ちゃんに座っているように言って下さい。さっきから手伝ってくれるのはいいんだけど、もうハラハラしちゃってこっちの準備が進まないの・・」
「何言ってんの・・、お姉ちゃん見てられないのよ、その手つきじゃ」
「理得、駄目よ無理しちゃ・・、って言っても無理よね・・でも今日だけよ、明日からはおとなしくしてなきゃ病院に戻すからね。それよりほらそこの若い男の子が困ってるわよ、かわいそうに女二人に圧倒されて・・君がまりあちゃんの恋人かな?私が理得の主治医の石橋です。おのろけはまりあちゃんから聞いてます、よろしくね」
「あっ、はい、あの坂口と言います。女の兄弟ってみんなこうなんですか?俺ちょっとビックリしてます」
女ばかりが増えていく中で、拓麻は身の置き所がなくなりそうになりながら心持ち小さい声で答えた。
「坂口くん、後で殿方も増えると思うから安心してね」
佑子は硬くなっている拓麻を微笑ましく見ながら付け足した。

約束の時間が来たが佐伯も龍もまだ顔を見せない。
どちらも突発的に何が起こっても仕方ない仕事だし、先方からも先に始めていてくれて構わないからと言われていたので、4人は先に祝杯をあげた。
理得はオレンジジュ−スを飲みながら、志保の遺影に目を向けた。
帰ってきてすぐに手を合わせた志保の遺影も喜んでいてくれるように見える。
「そう言えば、お父さんは今日は来ないの?」
「誘ったんだけど、賑やかな席は苦手だって・・、でも落ち着いたら来てくれるって言ってた」
「そうか・・」
佑子はそう言うと理得のお腹に目をやり、目立ってきた膨らみをさすった。
「おじいちゃんにももうすぐ会えるよ。初孫だもの、うんとお祝いしてもらわなきゃね」

「あの、俺も触っていいですか?」
拓麻は理得から了解をもらうと、恐々理得のお腹に手をあてた。
「あっ!今のそうですか・・、まただ、・・・動いてる」
拓麻は興奮しながらも目を閉じて、自分の手に全神経を集めて命の存在を確かめている。
「なんか不思議です。俺もこうやっておふくろのお腹にいたんですね」
「そうよ、みんなこうして命をつないで来たの」
「俺、この子が愛おしいです。今日初めてお姉さんに会って、この子に会って、なんか心が洗われたような気がしてます。実は俺、お姉さんの事まりあから聞いて、正直どうなんだろうと思っていました」
「ちょっと拓麻・・」
「どこかに嘘っぽい物を感じてたんです。工作員との恋愛なんて、ちょっとしたアバンチュ−ルな気持ちじゃなかったのかって・・。でも命ってそんな簡単な気持ちじゃつなげない、つないじゃいけない物だってお姉さんを見ていてそう思いました」
「ありがとう」
拓麻の真っ直ぐな目に、理得はお礼を言った。
姉として理得は嬉しかった。
彼ならもしもの時もまりあを任せられる、そう思うと理得の気持ちも楽になるような気がした。

まだ来ていない佐伯と龍がそれぞれ電話で連絡を入れてきた。
後30分ほどで到着するという。
「ビ−ル足りなくないですか?俺買って来ます」
「私も一緒に行って来ま〜す」
まりあと拓麻は連れだって外に出ていった。
家から一歩出ると夜だと言うのに涼しさのかけらもない、蒸し暑い熱帯夜だ。
坂道を下った所で、後ろから声を掛けられて、まりあが振り向いた。
「久しぶりだな」
「・・・成次」
まりあは拓麻の手をぎゅっと握ったまま、呆然と立ちつくしていた。