飛翔 《2》
「久しぶりですね、私の事、覚えています?」
裕子は軽い会釈をした楓に向かって、柔らかい笑顔を向けた。
「あ、はい、私がここで倒れた後、手当して下さった先生ですよね、その節はありがとうございました。私、あの時、ちゃんと御礼を言いましたでしょうか?ただ、恐かった事だけしか覚えて無くて…」
「いいんですよ、あなたにあの時、そんな余裕が無いことはちゃんと分かっていましたから…」
「石橋先生、今日はお時間取らせてすいません。で、電話でお話した件ですが、どうぞよろしくお願いします」
佐伯は同席することになった楓をチラッと見て、裕子に話を切り出した。
「理得が逝ってもう2週間…、佐伯さん、時が経つのは早いですね…」
「そうですね…」
2人はそう言いながら、昨年の再会を思い出していた。
裕子は医者らしく毅然に話し、佐伯は刑事らしく気丈にその話を聞いた、あの再会の場を…。
でも、その感傷も一時の事だった。
『良い21世紀を…』
そう言い合って、前を向いて歩き出した事も、この2人は忘れる事がなかった。
「あ、そうそう、さっき悠くんが検診とお年玉もらいに病院に来たのよ。まりあちゃんも少しは落ち着いたみたいだけど、『子育ては大変です!』って言ってましたよ」
「そうですか、悠くん順調に育ってるんですね。よかった」
「あ、佐伯さんが悠くんにプレゼントしたベビーリングも見せてもらったわ、まりあちゃんは悠くんのお守りとして大事にするって…」
「お守りですか…、それは嬉しいな、僕にも彼を手助けする何かが出来て…」
楓はじっと裕子と佐伯の話を聞いている。
「お墓参りに明日行こうかと思ってるんです。僕はまだお墓の方に行ってなくて…」
「じゃあ、私も一緒に行こうかしら…、今年はまだ行ってないから…」
「あの…、その理得さんて方は龍の患者さんだった人ですか?」
話に割って入った楓には、思い当たる事があった。
「そうですね、須藤先生にも担当して頂いてました…」
「確か…、クリスマスの夜に亡くなって…、心臓に何か不具合があった方ですよね?」
「そうです…、だから須藤先生の助けが必要だったんです」
「それだけですか?」
「それだけって?」
「患者と主治医としての関係だけだったんですか?」
「それ以外に何かあると思いますか?」
「たぶん…、そう、何かあったはずです」
裕子と楓の落ち着いた話のやりとりが続く。
今度は佐伯が黙って話を聞いている。
「あなたは知らないの?理得の事」
裕子はまっすぐ楓を見ると、問いかけた。
「私?ですか…」
「そう、あなた…」
「…」
楓はじっと考える。
「分からない…でも、私、きっと知ってるんですね…」
「そうなの、あなたは知ってるのよ、理得の事…、そして何かあったこともね」
楓は家にあったカルテを思い出していた。
沢山のカルテ…
それを見る時の寂しそうな龍の顔…
その裏にあったであろう苦悩…
「恋愛感情…ですか?龍と理得さんの間にあったのは…」
「そうねぇ…、理得はそうじゃなかったと思うけど、須藤先生にはあったと思いますよ、恋愛感情」
「じゃあ、片思いだったんですね…」
楓は裕子の言葉を淡々と受け止めていた。
「楓さんはどう?片思いでも恋愛感情があったと知って、心中穏やかじゃないんじゃない?」
「そうですね、私という婚約者がいるのに、浮気してたのだから、それはちょっと…、でも、もう相手の方は亡くなっている方だし、終わったことですから…、それより今は龍の事が心配で…」
「そっか…」
裕子はそう言うと席を立って、窓に向かって歩いた。
その姿を楓が無心の目で追う。
「今のあなたなら大丈夫かな…、話しても…、無くした記憶の欠片、…っていうか記憶を無くす原因…」
「…」
「受け止められる?きっと痛いよ…あなたが痛い…」
楓は裕子の問いかけに頷いていた。
その頷きを見て、裕子は佐伯を見た。
佐伯も裕子に同意していた。
ここから長い物語が始まった。
理得とユーリの出会いは佐伯が話した。
そして、理得の傷の理由とユーリの死は一幕の終わり。
理得と龍の出会いは裕子が話した。
この時、楓の手首の傷の理由を佐伯も初めて知ったのだった。
そして、理得の死と悠の誕生は二幕の終わり。
佐伯はさらに龍の失踪と残された手紙の事、そこから知り得た龍の母と父の事を話した。
「僕はこれを最後にしたい」
全てを話し終わると佐伯は言った。
「もう幕を下ろしたいんだ…、そして皆を安らかに眠らせてあげたい…」