飛翔 《3》


「僕はずっと、おまえに会いたかった…」
龍はユーリの墓標に向かって、ポツリポツリと話を始めた。

「死んでしまって実態のない幻影でありながら、おまえはずっと僕の近くにいた…。
それにどれほど怯え、苦しめられたかしれない。
が、それでもどこか共感する所もあって、親近感も少しだがあったように思う…」
龍は理得と出逢ってからの毎日を思い出しながら言葉を繋いでいた。

「おまえがいない事で、僕はおまえの後釜に座ろうとしたんだが、結局、最後まで僕は理得の愛を得られなかった。
だから、死んでなお高尚な愛で理得と繋がっていたおまえに、嫉妬もあった、恨みもした…。
それなのに、こうして手の中の降る雪に、僕は今、静かだ…」
そう言いながら、龍は自分の広げた手を見つめた。
ふわりと舞う雪は、龍の手の中に落ちても消えようとしない。
きっと、これから千年も二千年もこの雪は変わらずに、こうして白き姿で大地に積もり、儚げな世界を覆うのだろう。

「彼女はいつでも真摯で、その奥底には慈愛を秘め、いつも大きな物で包まれていた…。
その一方で、胸には蒼い蝋燭の炎を燃やし、その炎で自分をも溶かしていた…それは、まるで、その炎で燃え尽きる事を望んでいるかのようだった。
静かに、息を潜め…。
僕は、その全てが、おまえがもたらしているものだと、最後の最後に知ったんだ…」
龍はゆっくりとそう言うと、一呼吸置いた。

「だから…」
視線を墓標に戻した龍はその先を見上げる。

「理得は幸せだったんだ…、それは僕だからこそ判る」
そこには寄り添う2人が見えるようだった。

「僕は今日、ここに眠る君にお別れが言いたい…、そう彼と眠る君に…」
龍は日本で見つけようとしなかった理得の死を、この地で、やっと認めようとしていた。

「さようなら、理得…」
龍のグレーがかった瞳から涙が零れた。
理得の幸せを見届けた今、それは自然に流れ落ちていた。

「涙を流せるのは、こんなにも自然で、こんなにも清々しいことなんだね…」
龍は優しい気持ちのまま、ユーリの他の家族にも手を合わせて、その場所を離れた。

それから龍は、端の方から墓標の雪を払って、ひとつひとつ丹念に見て歩いた。
そこに眠る魂のひとつひとつに手を合わせ、心を込めながら…。

気持の区切りがついた今、自分の探す物は後1つ。
龍は産まれたての赤ん坊の気持ちを取り戻すべく、母を捜していた。

「さすがに寒いな…」
どのくらい歩き回っただろうか。
寒さを感じた龍は腕に手をやり、時間を確認した。

「もう、こんな時間か…」
タクシーの運転手との待ち合わせ時間を考えると、そろそろ下に向かわなければならない。
龍は足を速め、待ち合わせの場所に向かった。
朝来た道は覚えている。

龍はその帰り道、足を滑らせないよう用心していたが、やはり何度か足を取られ、その度に地面に手をついて、我が身を守っていた。
だが、最後の急な下り坂を下りると、気が抜けたのか、龍は何もない場所で、足を滑らせ、地べたに手をついた。
「やれやれ…」
顔には苦笑いが浮かぶ。
だが、その時、運命の歯車は大きく動いた。

立ち上がろうと顔を上げた瞬間、それは突然目に入ってきた。
英字ばかりの墓標の中、1つの墓標の下の方に明らかに形の違う文字が見えたのだ。

龍は吸い寄せられるように、その場所に向かった。
そしてうっすらと積もった雪を撫で落とすと、そこに探していた文字を見つけた。
「お母さん…?」
龍はそう言うと、じっとその墓標の文字を凝視した。
余りの突然に、信じられない思いだった。
そして、頭の中で1字1字を比べながら、龍は逸る気持ちを抑えていた。

「お母さん!」

長い時間の後、やっと、龍の安堵の混じった声がそう呼んだ。
日本語で書かれた加納倫子という文字を指でなぞると、冷たかった指先が温かく感じる。
決して上手とは言えないその文字は、ちゃんとした加工がされている訳でもなく、先のとがった物で誰かが彫ったようだった。

「リュウです、お母さん、僕です。ちゃんと会いに来ましたよ。お母さんがくれたラブレターを手に…。
でも僕は嬉しい、こんなに早く会えるとは思っていなかったから…あぁ…」
龍の胸は湧き上がる喜びで満ちていた。
余りに嬉しすぎて、じっとしているのが我慢出来なくて、その場をグルグルと歩き回った。

「お母さんの姿、ちゃんと見てみたい。下の方も雪を払うから待っていて…」
興奮が少し冷めると、龍はまるで宝物を掘り当てたかのように、墓標の土台の墓石に積もる雪も丁寧に払い始めた。

そして、墓石の裏側に回ると、そこにある雪をかきだして、下の土が見えるようにした。
龍はもう夢中だった。

と、その土の間からビニールの先が、ちょっとだけ地面に顔を出していた。
「ゴミか…」
龍はそう言って、そのゴミを取り払おうと、手に持ったビニールの端を引っ張り上げた。
でも長い間埋まっていたのだろう、それはなかなか地中から出てこなかった。
近くに落ちていた棒を拾って、地面を掘ると、思いの外ビニールは深く埋まっていた。

「はぁ…やっとだ…」
龍が手にしたビニールは袋状になっていた。
土で汚れているので、中身は見えないが、手に重さを感じた龍がその袋を逆さまにしてみると、中から小さな金属が落ちてきた。
どうもそれはペンダントヘッドで、写真が入るロケットのようだった。

龍は手袋を外し、そっとそれに手を掛けた。
中には小さな写真が2枚入っていた。
1人は赤ん坊、1人は若い男だった。
写真の裏にはブルーのペンで字が書いてある。
赤ん坊には「リュウ」、そしてもう1人の写真の裏には「ビクトル・マロエフ」の文字があった。

龍は考えていた。
これはきっと母の持ち物だったに違いない。
赤ん坊は僕。
では、もう1人の若い男は?
「僕の父親なのか…マロエフ…、この名前は…、この名前は聞いた記憶がある」
龍は墓標を見上げた。
「まさか…」

「きっとこの辺りでは良くある名前なんだ…、顔だって、顔だって…」
龍はその若い男を、以前インターネットで見たユーリ・マロエフの父、ビクトル・マロエフに重ねていた。
そして少しずつその周辺にあった記事を思い出す。
「日本に留学経験があって、その為に日本語は堪能…」
龍がその記事を思い出すのに時間はかからなかった。

同じ墓地、日本語の文字、同じ名前…
「そんな…」
龍は明るかった目の前が、暗く閉ざされていくような気がした。

「僕たちは繋がっている…」
それは、その意味がやっと龍にも理解できた瞬間だった。