浮氷 《1》
街はクリスマス・イブを迎えて、ジングルベルが賑やかに鳴り響き、クリスマスツリーのイルミネーションはきらめきを増していた。
まりあは迎えに来た龍の車の後部座席で、その様子を別世界の出来事のように感じていた。
聞こえるはずの音も聞こえない。
見えるはずの彩も色あせていた。
「須藤先生…」
まりあは重い沈黙を破って、やっとそれだけ言うとため息をついた。
そして今度は自分に言い聞かすように呟いた。
「私は知らない事が多すぎる…」
その声を聞いていた龍は、信号待ちで止まると、運転席の窓から見える花屋の店先に飾ってある十字架を見つめ、同じようにため息をついた。
「知らない方がいい事だってある…」
龍の重く沈んだ声は、回りの喧騒にかき消されてしまうほど小さい。
「その答えはもういいです。お姉ちゃんとの事を聞いた時も、楓さんとの事を聞いた時も、結局ははぐらかされたままで、そして今度もまた、話してはくれないんですね」
「…」
「答えて下さい。どうして、お姉ちゃんはあんなに急に具合が悪くなったんです?私、祐子先生から聞きました、須藤先生とお姉ちゃんが一緒だったって…」
「僕がお姉さんをあんな風にしてしまったと思ってるの?」
龍はアクセルを踏む足に力を込めながら、自分のお腹にも力を入れて声を出した。
「そうです」
まりあはきっぱりと答えた。
「そうだよね、皆そう思うだろう、なのになぜ石橋先生は僕を担当から外さないんだろう…、僕は怪しすぎる犯人なのに…」
「それは外さないんじゃなくて、外せないからじゃないですか?お姉ちゃんを助けられるのはもう須藤先生しかいないって、祐子先生がこぼしてましたから…。今は安定してるけど、いつ陣痛が来るか判らない状態だって…、それでもし御産が始まったら、もう止められないから祐子先生はその時はお姉ちゃんとの約束で、子供を守ることを優先するって、だからお姉ちゃんの命は須藤先生に託すって、そう言ってました」
「僕にはその資格がない…」
「やっぱり、先生がお姉ちゃんの命を縮めたのね…どうしてです?」
龍は携帯の着信がない事を確かめると、車を街中から外れた公園の側に止めた。
「病院からの呼び出しはない、ま、ここなら呼び出しがあっても5分もあれば駆けつけられるから、安心だけど…」
「話してくれる気になりました?先生」
「それはどうだろう、さっきも言ったろう、知らない方がいい事だってあるって…、ただ…」
「ただ…?」
「あの時僕は悪魔に魅入られていたんだ。でも今は正気で、君のお姉さんの命をなんとしても助けようと思ってる、それだけは信じてくれないか?」
龍はハンドルを握ったまま、今にも泣き出しそうな空を凝視していた。
「もう消えてしまったけど、お姉ちゃんの首筋にあったキスマークは先生が付けたものなんですね?」
「…」
「先生は楓さんという婚約者がいながら、お姉ちゃんも愛してた。だから楓さんがお姉ちゃんの病室であんな事してしまった、そうでしょう?」
「それはちょっと違う、まりあちゃん、僕が愛していたのは君のお姉さん1人だけだ。楓との結婚は楓と僕の養父母が決めたことで、僕の意志ではない」
「そう、ずっと僕は理得を愛していた。だから、たとえ結婚しても、ずっと理得を守っていくつもりだった」
「だって、楓さんはどうするの?お姉ちゃんとの事知ってるんでしょう?」
「楓はあの事件以来、記憶を無くしている、理得の事を何も覚えていないんだ。それに今は僕との生活に満足してるし、楽しんでもいる、ならば記憶がない方が幸せだと思わないか」
「どこが幸せなの?愛されてないのに結婚して、それのどこが幸せなの?」
「しょうがない、それが楓の望みだから…」
「なんですって…!」
まりあは後部座席から降りると運転席のドアを開けた。
「出なさいよ!」
まりあは龍の胸ぐらを掴みそうな勢いだ。
龍は促されて車から降りるとまりあと向き合い、「だから言ったろ、知らない方がいい事だってあるって…」とグレーがかった瞳を投げかけた。
ピシャ!
乾いた音が辺りに響いた。
「もっと殴ってくれないか、まりあちゃん…誰も僕を責めないから…僕はもっと責められなければならない…君からも、石橋先生からも、佐伯刑事からも、楓からも、理得からも、そしてユーリ・マロエフからも…」
まりあは龍の涙を見て、ハッとして、手を下げた。
「まりあちゃん、僕は何処に向かえばいいんだろう?教えてくれないか?理得を失ったらどうすればいい?僕は空中分解を起こす飛行機のようにバラバラだ…」