浮氷 《2》


「お父さん」
理得の部屋の前の長いすにいた靖男は、まりあのその声で顔を上げた。
「ああ、まりあ…、お前に会うのは久しぶりだなぁ…。どうだ、その後体の調子は?」
廊下が暗いせいか、靖男の顔色は見て取れない。

「あ、うん、まだちょっと1人で外に出られないけど、それ以外は大丈夫よ、体は何ともない」
まりあはそんな父親を気遣ってか、にっこり笑うと明るい声で答えた。

「…そうか、それを聞いて安心した」
靖男はそう聞くと薄い笑顔を少し作ったが、すぐにまた元の表情に戻ってしまった。

「お姉ちゃん、どうだった?祐子先生から話し聞いた?」
「ああ、さっき聞いた。理得は、最初にここで会った時と同じようだったよ」
「まだ、眠ってる?」
「…」
靖男は微かに頷いた。

「なあ、まりあ、理得と赤ん坊はこれからどうなるんだろう?理得は眠ったままで、赤ん坊はその理得のお腹の中なんだぞ…。陣痛が始まったら、いきむ事さえ出来ないんだ、あの体で本当に産めるのか?母親になれるのか?生きられるのか?」
「お父さん…」
まりあは父親の震える肩をそっと抱いた。
いつからこの父はこんなに小さくなってしまったのだろう。
昔、全てを捨てて出て行った時に見た背中はあんなに大きくて、何も寄せ付けない頑強なものだったはずなのに…。

まりあは靖男の肩に頭を付けて、寂しげな廊下を見つめた。
この冷たくて長い廊下の先に希望の光は舞い降りるのだろうか。
『明日が来るのが恐い…』
まりあは理得が倒れてから初めてそう思った。

祐子は気がつくとため息をついていた。
カルテを見ても、外の景色を見ても、自分の爪の先を見てもため息が出てしまう。
これから先どうなるのか?どうすればいいのか?
そんな事さえ祐子にも分からなかった。
「最善を尽くします」
理得の父親の前で、こう言ったものの、それが意味するものを祐子は考えたくなかった。

最善の道なんて何処にあるというのだ。
もしもの時は理得のお腹を切開する、それが最善か…。
いいや、もっと別の道があるはずだ。

とにかく陣痛が先か、理得の意識が戻るのが先か、今はその時間との戦いが分かれ道を選ぶ。
なんとしても理得を起こして意識のある中で自然分娩させ、後は須藤先生に委ねる。
どうしてもこの道を行かせなければ、理得を失ってしまう…。

「あのまま病院にいてくれたら…」
この現状の元である須藤龍を祐子は問いつめて罵ってやりたかった。
「この手紙さえ無ければ…」
祐子は手帳に挟んであった一枚のメモを取り出した。


親愛なる祐子へ

私はこれから須藤先生とある場所に出かけます
この時期に何故?
貴方はそう思うでしょうが、彼を救うにはもうこれが最後のチャンスなのです
知っていたでしょうか?
彼はユーリと似ています
最初会った時はその瞳の中にユーリが生きてると思った程です

この今にも消えそうな体でどこまで出来るか分からないけど
私はユーリを救う為に挑みたい…そんな気持ちなのです

それで、もし、この事で私の命が危なくなったら、その時は迷わず新しい命を守って下さい
そして私を彼の元に行かせて下さい
残された赤ちゃんが心配で心残りはありますが、私とユーリの子供です
きっと未来を切り開いて強く生きていくと信じています

ここまで書いたら雨が落ちてきました
もうすぐこの雨も雪になるんですね…
ああ、もう一度私も雪が見たかった…

最後にお願いです、祐子、何があっても誰も責めないで…
結果はどうあれ、これが運命であり輪廻であると思ってるから

理得


祐子は頬を流れる熱いものを掌で拭った。
でも、拭っても拭っても止まらないその源が重くて、ついにはメガネを取って両手でその源を押さえつけた。
それでもどうにも止まらない…

外は今にも雪になりそうな雲が広がる、そんなクリスマス・イブの夕闇が近づいていた。