浮氷 《3》


「メリークリスマス!佐伯さん」
そう言って、部屋を出て行く誰もが佐伯の肩を叩いていく。

「ふぅ…」
誰もいなくなった部屋で佐伯が最後の書類を仕上げた時は、もう何処の家でも楽しいイブの宴が済んだであろう時間だった。
「もうこんな時間か…」
腕時計に目を落とし、佐伯はやっと立ち上がった。

「もう、サンタクロースが来ちゃいますよ」
見ると警備のマイケルが部屋の鍵を扉の所でクルクル回しながら微笑んでいた。
「ああ、ごめん、もう出るよ。明日久しぶりに日本に帰るものだから、ちょっといろいろ片づけていたんだ」

「ミスター佐伯、仕事もいいけど、今日ぐらいガールフレンドとデートしても神様は怒らないと思いますよ」
「残念ながらデートする相手がいないんだ」
「じゃあ、日本に?だから必死で仕事片づけていた?」
「まあ、そういう事にしておこう…、じゃあ、メリークリスマス!」
今度は佐伯がマイケルの肩を叩いた。

明日の便で日本に向かうと、日付変更線のせいで26日になってしまう。
それは分かってはいたが、仕事の関係上これがギリギリの線だったのだから、理得もきっと一日遅れのクリスマスを許してくれるだろう。

明日、理得に会える。
龍からのメールではまだ子供は産まれていないようだし、理得自身も元気なようだから、面会するのにも特に問題はないだろう。
そう思うと今夜はなんだか眠れない気がした。
どうせ明日の飛行機の退屈な時間を眠ることに充てればいいのだ。
眠らないこの町のクリスマス・イブを楽しもう。
佐伯は部屋の明かりを消して、グラスを傾け、窓の外に広がるイルミネーションの輝きに乾杯した。

トロリとした熱い液体を喉に3回ほど通すと、佐伯は引き出しから小さな箱を取り出した。
その箱の蓋を開けると小さなリングが光っていた。
ベビーリングと呼ばれる赤ちゃんへのファーストプレゼントは、ヨーロッパが起源だそうだが、この際どこが始めたのでもいい。
このリングに込められた「すくすくと健康に育つように」「災難を避け幸せをよぶ」という想いが気に入ったのだから。

「お父様ですか?予定日はいつですか?」
最初、宝石店で眺めていた時にこう聞かれて、佐伯は答えに困ってしまい、しどろもどろになった事を思い出していた。
「たぶん今年中には産まれると思います。もう予定日はとっくに過ぎているので…」
やっとそれだけ言うと額にはうっすらと汗をかいていた。

「じゃあ、トルコ石ですね。こちらになります。日本の方ですか?お土産でお持ちになる?そうですか、ではもしお子さんが産まれるのが来年になっても、東京の支店の方で交換致しますので、その時はこの書類とお買いあげの品物を一緒に東京のお店の方にお持ち下さい」
店員はそうにこやかに言って、佐伯を送り出した。
「ハッピー・エンジェル!」
最後にもう一度佐伯の後ろから、あの店員の声がした。

「ハッピー・エンジェル…」
佐伯は口に出して呟いてみた。
そうだ、この指輪の持ち主はハッピー・エンジェルにならなければならない。
あのような最後を迎えたユーリ・マロエフの為にも、試練を耐えてきた理得の為にも…。


翌朝、佐伯はスーツケースを持って外に出た。
さすがに昨日少ししか寝てないので、頭がガンガンとしてきたが、それも空港までと我慢した。
予約を空港のカウンターに言い出せば、それで全てが済むはずだった。

「佐伯様、大変申し訳ありません。こちらの手違いで、どうもチケットがダブルブッキングされていたようです」
「それで?」
「大変申し訳ありません。この便はもういっぱいでして、佐伯様にはこちらの夜の便をご用意させて頂くことになります」
「夜?」
「大変申し訳ありません。クリスマスで混み合っておりますので…」

佐伯はすまなそうな案内係の顔を見て仕方なく待合室の椅子に座った。
「日本に着くのがまた延びるか…」
そう思ってみても、どうすることも出来ない。
佐伯は瞼を閉じて、飛行機の中で貪るはずの心地よい眠りを先に体験する事にした。

佐伯が空港に向かっている途中、佐伯のいなくなった部屋のパソコンには、メールが届いていた。
メールボックスの中にはたった1行だけの短い文が開けられることもなく眠っている。

「赤ん坊が産まれました。男の子です。名前は真代悠。でも、理得はこの手からすり抜けてしまった…。龍」