浮氷 《4》


『理得、理得…』
私の耳元で呼ぶ声がする。
もっと眠っていたいのに…、でも私はこの声の主を知っている。
忘れることなんて出来ないこの声に、私の閉ざされた神経が少しずつ目を覚ます。

『ユーリ…目が開けられないの…口も動かない…』
暗闇の頭の中でそう意識だけを飛ばす。
『ああ、理得、やっと答えてくれたね。今はいいんだよ、体が起きなくても、こうして意識が伝えられれば十分だ。俺は、ずいぶん長いこと、こうやって呼んでいたんだよ…。君に伝えなきゃならないことがあるんだ…』
ユーリの声が聞こえ出すと、私の掌に指が重なる感触がした。

『もうじき約束の日が来るんだ。約束した事を覚えてる?』
『ええ』
『約束といっても俺からの一方的なものだったけど…』
『そうでもないわ、でもあれ以来夢にも出てくれなくて、ちょっと寂しかった…』
『理得が生きている時間は、生きてる者と分かち合わなければいけない、そうだろう。だから俺は見守っていた』
ユーリの声はどこまでも静かだ。

『あなたはあの時言ったわ、キスをした瞬間に…。<悠が産まれたら君を迎えに来る、約束だ>って…』
『俺は君の溢れる想いに意識を飛ばしてしまった…。理得、君にはそれは残酷だっただろうに…悠と一緒に歩めない未来が分かってしまったのだからね』

『ユーリ、私はいいのよ。あの時あなたに助けてもらった命だと思っているもの…。こうしてお腹の中の悠とも短い間だけど過ごせたし…。ただ、この子がいつか知るだろう私達の事を、ちゃんと受け止めてくれるかどうか、それが心配よ』
『理得…』
『悠は私達を恨むでしょうね、きっと…』

『理得、本心を言ってごらん…、本当の気持ちはどこにある?』
『本心?』
『そう、どこにある?』
『…』
『隠さないで…』
『…』
『俺に出会わなければよかった。拘わらなければよかった。そうは思わない?』
『そんなことない!どうしてそんな事言うのユーリ。あなたに会わなければ私は誰とも繋がらずにずっと独りだった。大勢の中で満たされたフリをして、でもいつも孤独できっと仕事だけに没頭する毎日だった』
『じゃあ、悠との繋がりは?』
『悠の命だってあなたが半分与えたものだわ…、あなたと会わなければ私には何も残らなかった…』
『それから?』
『それからって、ユーリ私に何を言わせたいの?』
ユーリの執拗な問いかけに理得は困惑した。

どうしてこんな事聞くのだろう?それも今この時に?

『吐き出せるものは全て吐き出してしまえ、理得。温かい涙を流せるのは今のうちしかない。ここに気持ちを残せば君は俺と手を繋いでも、どこにも行くことは出来ない。俺がそうだったように…』
『ユーリ…』
『俺は君をこの手に抱けばそれでもう気持ちの整理がつくんだ。悠も事は心配でも、君を抱けばそれも救われる…でも君は違うだろう、君は母親だ…』
『だけど…それは…』
『いいんだよ、理得、気持ちを吐き出して…俺は大丈夫だから…』
そこまで聞くとやっと瞼の裏側にユーリの優しい顔が浮かんだ。
涙が溢れるような感触が頬を伝う。

『…ずっとお母さんでいたかった…、ユーリ、そうよあの子の母親でずっと生きて、あの子の大きくなる様をこの手で感じたかった…、ずっとずっと…、ユーリ、あなたと会えた事は決して間違っていなかったけど、ああ、出来るならこの子の側にいていつまでも生きていたい…』
『そう、君は母親だ、理得…そしてそれを奪ったのは俺だ。あの銃口の先にいたのは俺だ…、君を撃ったのは俺だ…』
『やめて、ユーリ…』
『理得…でもそれが事実だ』
ユーリの声は真剣だった。

『あなたは私から悠を奪う人』
『そうだ…』
『私の運命を狂わせた人』
『そうだ…』
理得は息が詰まりそうになった。
心が二つに張り裂けそうな気がする。

自分の中のドロドロとした部分がユーリの手で切り開かれていく。
理得は頭を空っぽにして、全ての煩悩を振り払うべく、ユーリとの問答を続けた。

『理得、ごめん、辛い思いさせて…』
理得の涙が枯れ果てた頃、ユーリはゆっくりと理得に口づけた。

『でも生を失うって事をしっかり分かって欲しかった。もう2度と戻ることが出来ない、その温もりに触れることも出来ないんだ…。それが分かった上で君と手を取りたい。死して苦しむ事の無いように、だからこそ、今苦しんで欲しいんだ』

唇の冷たい感触が理得の破壊寸前の心を呼び戻していた。
『ユーリ…来て…』
理得は近づいたユーリに口づけを返した。
ユーリの黒々とした瞳から、涙がこぼれる。
『分かったわ…。悠はきっと私達だけの子どもじゃない、今ふっとそんな気がしたの…。生まれるべくしてある存在、彼はきっとこの先生きていく人達に必要なんだと、そう思った。だから私が独り占め出来ない。ユーリ、大丈夫よ、私独りよがりにはならない、ちゃんとあの子を見守るわ、あなたと一緒に…』
理得の寝顔にやっと穏やかな慈愛のこもった表情が浮かんだ。

『君には最後の成すべき事が待っている』
『ユーリ…』
『その手に永遠の温もりを感じておいで、意識のあるその手でその体で、悠をちゃんと感じておいで…、さあ目を開けて…理得』
理得の閉じた瞼がピクピクと動く。
静かだった細胞が少しでずつ活動を始める。

最初に見たのはまりあの姿だった。
機械の明かりだけが光る部屋でまりあは袖机にもたれて眠っていた。

今日がいつなのかも分からない。
でも理得には最後となる朝がもうそこまで来ていた。