過去 《2》


ニューヨークも寒かったが、東京も思いの外寒いなと、佐伯は飛行機のタラップを降りながら思っていた。
懐かしい日本の空気が、佐伯の呼吸を楽にする。
そして、どこか張りつめていたものがふっとなくなった。
『理得に会える…』
その喜びが体を包む。

佐伯は荷物を受け取ると、タクシーで一度家に戻り、そのタクシーをそのまま待たせたまま、荷物だけを降ろして、自分は再び同じタクシーに乗り込んだ。
「上聖総合病院へ行って下さい」
佐伯はそれだけ言うと、車の後部座席に体を預けた。
コートの右のポケットにはあのベビーリングが入っている。

病院の前でタクシーを降りた佐伯は、病院を見上げた後、ふと足の向く方向を変えた。
坂口拓麻が働いていた花屋の店先で花束を作ってもらう間、佐伯は色とりどりの花に目を向け
『君の命も誰かに繋がっている、きっと…。君の命は無駄ではなかった…』
そう心の中で彼に話しかけていた。
彼もまた救われて欲しい、それは彼の最期に立ち会った佐伯の願いでもあった。

佐伯は花束を受け取ると今度はまっすぐに病院に向かった。
足の運びがどうしても早くなるのを押さえることが出来ない。
心が理得の元へと駆けていく。

理得のいた病室の前で佐伯は立ち止まり、開いているドアから中の様子を伺っていた。
「何かご用ですか?」
日に何度もこの病室を訪れる祐子はそう声を掛けた。

祐子はそれが佐伯だと気が付くと病室を離れ、少し広くなっているスペースに佐伯を案内した。
「休暇で久しぶりに東京に戻って来たものですから、あれ以来、真代さんとも会っていなくて…」
「そうですか…」
「それで、子供は無事に?」
佐伯は気になっていた事柄を真っ先に聞いた。

「ええ、クリスマスの夜に…」
「そうですか、それはよかった。じゃあ、真代さんはもう自宅に?」
佐伯はさっき見た空のベットを思い出しながら、何気なくそう言った。

「理得は…、理得は亡くなりました」
祐子は理得の事をどう伝えるか迷いながらも、佐伯のまっすぐな瞳に真摯に答えようとそう言った。
佐伯は思ってもいなかった祐子の答えに戸惑い、事態が上手く飲み込めないでいた。

「むしろ出産までもった方が奇跡でした。どうしても産みたいっていう気持ちが彼女の命を支えていたんです」
祐子がそう付け加えた事も、どこか遠くで聞こえる。

「ユーリ・マロエフの子供を産んで燃え尽きたんですね…」
佐伯は、そう自分に言い聞かせる事でなんとか自分を保っていた。

「命の力って、不思議だってつくづく思いました。すごく元気でかわいい男の子ですよ、まりあちゃんが代わりに育てるって…」
「彼女なら大丈夫だ」
佐伯は祐子の自分を気遣う明るい声に励まされながらやっとそう答えた。
先程、拓麻に言った言葉がここに繋がっていた事にやはり運命を感じながら…。

佐伯はそこまで聞くと、空になっていた理得のベットに向かった。
ベットに花束を置くと、急に手が軽くなった。

「あの、どちらからいらしたんですか?」
「ニューヨークです、秋からむこうの領事館に勤務しています」
「そうですか、大変ですね」
「いえ…」
祐子の声は優しい。

「もうすぐ21世紀ですね」
何を思ったか、唐突に佐伯が言った。
「ええ、なんか、実感ないですけど…」
祐子が慌てて答える。

「よい21世紀を…」
「よい21世紀を…」
そう言って2人は最後の挨拶をした。

後ほんの数日で21世紀が来る、それは日常の延長に過ぎないが、佐伯にとって理得とその赤ちゃんと歩く大事な未来でもあった。
21世紀になれば、また新しい道が広がるかもしれない…。
20世紀の悲しみを遠ざける為にも、本当は理得に晴れやかな顔で「よい21世紀を…」そう言いたかった。
それがまさかこんな事態になるなんて…佐伯は病院を後にしながら、自分の置かれていた立場を恨めしく思った。

ともかく理得の家に行かなければ…。
佐伯はタクシーを止めると急いで乗り込んだ。
行き先を告げると、佐伯は窓の外に目を向けた。
白い雪が舞い始めていたからだ。

「…この4月に、日本とユーラル共和国の国交が正式に樹立しましたが、これを受けて、今日、午後、ユラール国営航空の旅客機が初めて新東京国際空港に降り立ち、ユーラルの友好使節の子供達50人が日本のお正月を楽しむ為にやって来ました。…」
何気なく流れたタクシーのラジオのニュースが、外を見続ける佐伯の凍った胸の中に広がって、少しずつ暖かい物を流しこんでくる。
ユーラルとの国交樹立後の子供達の交流、賑やかなセレモニー、溢れる笑顔…。
「必ず成し遂げる…」そう言ったユーリ・マロエフの顔が浮かんで消えた。

やっと理得とユーリ・マロエフの2人の願っていた未来が見えてきたのに、その2人はもういないのだ。
その事実がニュースと重なって、いっそう佐伯をやるせなくしていく。

佐伯は外を見続けながら、やっと顔を歪めた。
歪めた顔に涙が滲んだ。

「お帰りなさい、佐伯さん」
そう、白い雪の声が聞こえた。