過去 《3》
龍が患者さんだった人のお通夜から帰ってきた。
行く前もそうだったけど、帰って来てからもどうも雰囲気がいつもの龍と違っている感じがしてしょうがない。
自分の看ていた患者さんが死んだのだ、平常心でいられないのは当然だと思うけど、それにしても何だろう?
呼んでも1度で反応しないし、食事もただ出された物を口に運んでいるふうにしか見えない。
会話も上の空で、さっきから相づちばかりうっている。
「亡くなった方はどんな方なの?」
龍の話を聞いてあげることで、少しでも龍の気持ちが軽くなればと思い、私は思いきってコーヒーを飲んでいる龍にそう聞いた。
龍はいきなり切り出した私の質問によほど驚いたのだろう、ジッと私の顔を見つめたまま口を開こうとしない。
「若い人だったの?」
「…」
「女の人?」
「…」
「もしかしたら、あの前に家にカルテを持ってきていた、あの心臓に×があった…」
「…その話は止めてくれないか!」
そう声を荒げた龍の声は震えているようだった。
「ごめんなさい…、私…」
私はどうやら聞いてはいけない事を聞いてしまったらしい。
「ああ、ごめん、ちょっと疲れているんだ…」
龍はそう言って席を立つと、「ちょっと出かけてくる…」と車の鍵を持って出て行った。
部屋に残されたのはコーヒーの匂いだけ。
そのほろ苦さが胸の内側からチクチクと私を刺す。
私は彼と対等ではない。
以前から心の底に溜まっていた不安の分だけ、私は一歩下がった所にいる。
今までそれに触れないようにしていたのは私、目を閉じていたのは私。
私は自分を守る為に恐い物から逃れている。
それが今の私の場所を作ってしまった。
龍しかいない箱の中で暮らすこの生活が自然だとは思わない、けれども外は恐い。
外は私が私を取り戻すきっかけを作ってしまいそうだから…。
でも本当に恐れているのはそうじゃないことも私は知っている。
自分が変わることによって、龍が変わる事、それが恐いのだ。
だからもし記憶が戻っても、それで龍が変わるなら私は記憶のないままで彼に接するだろう。
もしも手首の傷が封印を解く鍵になるなら、私は喜んで新しい傷を自分でその上に付けるだろう。
龍が変わって、彼が私の側からいなくなったら…それは私の破滅を意味する。
私は守りたい、この生活を、ずっと…。
それから毎日、結婚式の招待状をじっと見つめる私は、最期の砦を守るのに必死だった。
だから気が付かなかったのかもしれない。
サインはあった。
佐伯と言う人の訪問。
それに対する龍の居留守。
「会いたくないから、僕が居ても取り次がないでくれないか…」
その言葉に何かしらあるとは思ったが、それも年の瀬の気ぜわしさに流してしまった。
そして21世紀はあっけなく訪れた。
時間という形のなさはこういったイベントには本当は向かないのだろう、1秒の重みは思った程でもなかったし、実際そうなっても実感は全然湧かなかった。
が、龍にシャンペンのグラスを渡して、小さく乾杯することが出来た事で私は満足して、TV画面の喧騒も気にならず、逆にこれで嫌な事は全部終わるんだ、私には未来があると気持ちは切り替えられた気がした。
お酒が入ったせいで、それからすぐに私は眠くなって、寝室に向かった。
元旦から病院はお休みだから、朝はゆっくりすると龍に言われていて、私はぐっすりと眠った。
起きたのはお昼を回っていただろうか?
「龍?どこ?出かけたの?」
家の中のどこにも龍の気配がしなかったので、玄関を見に行くと彼の靴がなかった。
車の鍵もない。
「用事でも出来たのかしら?」
この時、私はまだ事の重大さに気が付いていなかった。
2001年、元旦、私はまだ幸せの上にいた。