計略 《4》


「楓さん・・・」
楓は名前を呼ばれると、月明かりの差し込む窓に背に向けて、理得をまっすぐに見据える位置に立った。
「こんな時間にごめんなさい。でももう自分でもどうしようもないの・・」
「どうしようもないって?」
「あなたが羨ましいの・・、あなたが邪魔なの・・、あなたを憎む気持ちが止まらないの・・」
楓は抑揚のない淡々とした声で静かにそう答えた。

「私は龍と結婚するわ。それがもうすぐ叶うの・・、でもね、龍が好きなのは私じゃない・・・知ってるでしょ」
理得は楓の尋常じゃない様子に戸惑いを覚えながらも、なんとか楓の気持ちを落ち着かせようと言葉を繋いだ。
「楓さん、私はこんな体だしいつまで生きられるか分からない身です。須藤先生はきっと私のこんな状況に同情してくれているんです。ちゃんと向き合えばきっと心を開いてくれると思います」
「フッ、そんな事言っても駄目よ。同情じゃないことはあなたが一番よく分かってるでしょ」
「あなたが生きていれば、ううん死んだって龍の気持ちはあなたから離れない。きっと私は形だけの妻になって、この気持ちを持ち続けるんだわ・・」

楓が後ろに回していた手を理得の前に差し出すと、メスの先がキラリと光った。
「綺麗でしょ・・。家にあったのを借りてきたのよ」
「ねえ、どうやったら龍を振り向かせる事ができるの?同じ女なのになぜ私じゃ駄目なの・・」
そう言って近づいてくる楓の表情が、逆光で理得には見えない。

「楓さん、止めて・・」
理得は前を向きながら布団の中で急いでナ−スコ−ルのボタンを探し,震える手で躊躇いがちにそれを押した。

「どうかしましたか?」
看護婦の声が静かな部屋に響くと、まるでそれが合図だったかのように楓は持っていたメスで自分の手首を切った。
床にメスが落ちた金属音が響く。
楓は手首から滴る血を理得に見せると、体の向きを変え、微笑みながらその場に崩れていった。
「キャ−!!」
理得の悲鳴は、月明かりの部屋を一瞬にして暗闇に誘う。

理得の悲鳴を聞いてあわてて駆けつけた看護婦は、部屋の明かりをつけるとベットの上にあるおびただしい血痕に声を失った。
最初、青ざめた顔の理得に目をやったが、すぐに床に倒れてる楓を見つけてその体を抱え込んだ。
手首から流れる血は、ドクドクと音が聞こえるように流れている。

「急いで下さい」
当直医と連れだって戻ってきた看護婦は医者の指示に従って止血をし、後から来た他の看護婦と一緒にストレッチャ−に楓を乗せると慌ただしく部屋を出ていった。
騒ぎを聞いて他の部屋の患者が見に来る中、理得は血で染まったベットに取り残されたままだった。

「理得、大丈夫?」
30分ほどして、看護婦からの連絡で家にいた祐子がやってきた。
「これはいったい・・・どうしたの?」
理得のベットを一目見るなり、祐子は顔を曇らせた。
「すぐに取り替えてあげるから待っててね」
そういってきびすを返そうとした祐子の手を理得の手が掴んだ。
祐子はすがるように自分を見る理得の手を握り返すと優しい笑顔で頷いた。

「もう大丈夫、理得に怪我がなくてよかったよ。でも理得の部屋で手首切るなんて、いったいどこの女なの?困ったものね・・幸い、命の別状はないそうだけど・・理得は誰だか知ってるの?」
祐子は軽い気持ちで聞いたのだが、理得の表情は硬いまま動こうとしない。
「どうしたの?」
「須藤先生の・・・」
「須藤君がどうかしたの?」
「須藤先生の妹さんなの・・・」
「えっ、まさかそんな、だって今度結婚するんでしょ・・、それがなぜ・・」
「・・・」
「須藤先生ももうじき来るわ。さっきここにくる途中で、一応連絡したら理得が心配だから来るっていってたから・・」
「ややこしい事になりそうね」
祐子は喋ろうとしない理得を見て、ため息をついた。

やっと手の空いた看護婦が理得のベットや部屋を片づけに来ると、祐子はそっと部屋を出て、廊下で龍を待った。
暫くすると早足の音と共に龍がやってきた。
「石橋先生、真代さんの様子はどうですか?」
「理得は大丈夫よ。でも大丈夫じゃないのはあなたの妹さんよ」
「妹?ですか・・」
「理得の部屋で手首を切ったわ。すぐに処置したから命に別状はないけどね」
「今日は理得に会わないで、妹さんの所に行ってあげなさい」
祐子は呆然とする龍の背中をポンと叩くと、龍を廊下に残したまま理得の待つ部屋に戻っていった。