奇跡《1》


ヒンヤリとした静寂の中に理得は立っていた。
廻りを見渡しても、漆黒の闇が続くだけだったが、不思議に怖さは無かった。
気が付くと右手には小さなろうそくが1本、ユラユラと小さな明かりを灯していた。
ろうそくの明かりを見ていると、理得の気持ちは穏やかになり、安らぎを覚えていく。
どのくらいたったであろう、ふっと顔を上げた瞬間、理得は遙か彼方に自分と同じ様な小さな明かりを見つけた。
戸惑う理得。
しかし、理得はその明かりに吸い寄せられるように歩き出した。

「石橋先生、ここにいらしたんですか?ずいぶん探しました。外科の神崎先生がお呼びです。先ほど急患で入った患者さんに妊娠反応が出たので、一応、先生の確認をお願いしたいそうです」
「ごめんなさいね、今、難産を克服してホッと一息ついてたとこなの」
屋上の出口に向かいながら、佑子は自分を呼びに来た看護婦にいつもと同じ笑顔を向けた。

集中治療室にいるという神崎の元へ、心なしか歩調を早めて歩いていくと、神崎は丁度部屋から出て、医局に向かおうとしている所だった。
「神崎先生」
佑子が呼び止めると、神崎は手術後なのか、少し疲れた表情で振り返った。
「ああ、石橋先生、お待ちしていました。今し方手術は無事終わったんですが、手術前の検査で、妊娠の陽性反応が出ましてね。一応先生に確認してもらおうと思いまして・・・」
神崎はそこまで言うと、何か思ったらしく佑子にこんな質問をした。
「石橋先生は神様を信じますか?」
「えっ」
佑子は医者である神崎の口から神様と言う言葉を聞いて、そう言ったまま不思議そうに神崎の次の言葉を待った。
「実は今この中で眠っている患者なんですが、ライフルで心臓を撃たれて瀕死の状態でした。まあ、今もその状態に変わりありませんが、でも手術を執刀した僕でさえ助からないと思うほどでした。でも彼女は生きている。何が彼女を生かしているのか・・・・ちょっと外科医としては信じられない・・・奇跡としか言いようがない」
「先生・・・私は神様も奇跡も信じますよ。私は産科医ですから・・・」
そう言い終わると、佑子は神崎と共に集中治療室の中に入っていった。

「理得?」
佑子はベットで眠る患者の顔を見て顔色を失った。
そこには数時間前に誕生日を祝った理得の姿があった。
「石橋先生大丈夫ですか・・・」
蒼白な顔をした佑子を見て、神崎もそれが佑子の知り合いだと分かったらしく、何も言えず立ちつくしていたが、後ろを向くと静かに部屋の外に出ていった。

佑子は理得の枕もとに立つと、理得の血の気の失せた頬を優しく撫でて呟いた。
「理得・・・・どうしたの・・・・なぜ・・・」
佑子の頬をゆっくりと涙が落ちてゆく。
「理得・・・お腹に・・赤ちゃんがいるのよ・・・」
佑子は理得の手を握りしめるが何の反応もない。
「戻ってくるのよ・・理得・・・死んじゃだめよ・・・」
「理得・・・理得・・・」
佑子の声がだんだん小さくなると、佑子の嗚咽は人工呼吸器の規則正しい音にかき消されていった。

どのくらい歩いただろう、理得は誰かに呼ばれたような気がして立ち止まった。
彼方に見えた明かりはずいぶん近くなっている。
あの明かりの元に歩いていきたい気持ちは変わらないが、自分を呼ぶ声にも何処か心が惹かれていた。
目をつぶって耳を澄ませてみる。
「理得」
確かにそう呼んでいる、懐かしい声だ、でもどこか悲しげな声。
それが佑子の声だと気が付いた理得は、困惑した。
ユ−リが待っていると思って、あの微かな明かりを目指してきたのに、佑子の声は自分を呼んでいる。
「ユ−リ・・・」
名前を呼ぶだけで、理得は涙が溢れた。
「貴方に会いたい・・・」
理得は今まで押さえてきた感情を、口に出して言ってみた。
「理得」
今度は、別の声がした。
「理得、戻るんだ、まだ来ちゃいけない・・・、俺はずっと側にいる、だから戻るんだ」
それは静かな声だったが、理得には忘れることのない声だった。
「ユ−リ、何処にいるの。ユ−リ!」
理得は泣きながら叫んだ。
「どうして、どうして私を1人にするの?ユ−リ・・・」
「君は1人じゃない。君のお腹に新しい命が宿っている」
「新しい命?」
「そうだ、君と俺の子供だ」
「子供・・・・」
ユ−リの声は理得の心に直接響いて来る。
理得はそっとお腹に手を当てて、心を落ち着けた。
「トクットクッ」
理得の体に小さな鼓動が響く。
「私は戻らなきゃいけないのね・・・、ユ−リ、戻らなきゃ」
理得はもう一つの明かりに向かって、そう呟いた。

理得が目を開けると、佑子が立っていた。
まりあの顔も見える。
理得は微かに微笑むとまた眠りに中に落ちていった。

もう少し眠りたい、もう少し、理得は心の中でそうくり返した。
もう少し夢の中でユ−リに会いたい。