奇跡 《2》


佐伯は薄暗くて、長い廊下を歩いていた。
佐伯の後ろには、ウラノフ副書記長が、数人の男たちに囲まれながら歩いている。
霊安室の前までくると、ウラノフは回りの男たちに、ここで待つ様に目配せをした。

ドアノブに手をかけたウラノフに向かって、佐伯は静かに話しかけた。
「私も、ご一緒します」
流暢な英語でそう言った佐伯の声に、ウラノフは振り返ると、佐伯の眼差しを見つめながら言った。
「ミスタ−佐伯、私はただ彼に私の妻を助けて貰ったお礼を言いたいだけです。貴方が仕事に熱心な気持ちはよく分かるが、私も1人で彼と話がしたい・・。それに彼はもう犯罪者では無い」
ウラノフの言葉にしばらく考えていた佐伯は、霊安室の扉を見ながら、答えた。
「分かりました、どうぞ・・」
佐伯の言葉に促されるように、ウラノフは扉の中に消えていった。

10分ほどして、ウラノフは霊安室から出てきた。
「ミスタ−佐伯、どうもありがとう。ところで、貴方も我が国の重大な事態をご存じだと思う。私は飛行機の準備が出来次第、明日にでもユ−ラルに帰国します。出来れば彼も連れて帰りたい。この国の警察の事も色々あると思うが、スム−ズに全てが終わるように手配してもらいたい」
「そのことは上司からも、連絡を受けています。司法解剖も手配済みなので、ご帰国までには終わらせます」
「そうですか・・」
そう言うとウラノフは佐伯に握手を求めるように、右手を出した。
その手を握り返した佐伯は、薄暗い廊下を帰っていくウラノフを見送って、霊安室の扉に向き直った。
この扉の向こうに彼がいる。
佐伯はその重い扉を複雑な思いで開けた。

ユ−リは静かに横たわっていた。
ろうそくのぼんやりとした暖かい灯りが、何故か今の彼には、ふさわしいような気がする。
「ユ−リ・マロエフ・・・お前に会いたかった、お前と話がしたかった、少しここにいてもいいか?」
佐伯は物言わぬユ−リに、尋ねた。
「お前は、何を見ていたんだ。いつから心を偽ってきた。何故真代さんを・・・」
そこまで言うと佐伯は、両手をぎゅっと握りしめて、天を仰いだ。
涙が零れそうだった。

捜査を進めなければ、詳しいことは分からないが、状況からユ−リが理得を撃ったことは明白だ。
理得の側に落ちていたタイマ−の残骸と、海に落ちて死んでいた女の様子から見て、理得の胸の前にタイマ−が置かれていたことも分かっている。
しかも、ユ−リは理得を愛していた。
「なんて、残酷な・・・」
佐伯はぽつりと言った。
「もう少し、俺が早く気が付いていれば・・・・ユ−リ・マロエフ・・・すまない」
そして少し震えて、絞り出すような声が霊安室に響いた。

しばらくして、佐伯はユ−リの上着のポケットや、ズボンのポケットに手を入れて、何かを探し始めた。
そして、一つのポケットから見覚えのあるライタ−とマロエフ家の写真を見つけた。
それを見つめていた佐伯は、自分のコ−トのポケットにそれらをしまい、ユ−リに顔を向けた。
「ユ−リ・マロエフ、真代さんを呼ばないでくれ・・・、彼女だけでも助けたい」
最後にそう言い残すと佐伯は霊安室を後にした。

佐伯はポケットに入っているライタ−を握りしめながら、理得のいる集中治療室に向かった。
中浦次長からもウラノフ氏を案内したらすぐに戻るように言われていたし、こんな行為が刑事として許されないことはよく分かっているが、理得の安否を確かめなければ気持ちが落ち着かなかった。
佐伯が集中治療室のドアの前で立っていると、中から1人の女医が出てきた。
顔を見合わせた二人は、お互いに驚いた様な表情をしたが、すぐに真顔になって、話し始めた。
「あの、確か真代さんのお友達の方でしたよね・・」
「ええ、ここで産科の医者をやっています。貴方は確か理得の後をつけていた刑事さん・・」
そう佑子に言われた佐伯は、ばつの悪そうな顔をしたが今はそんな場合ではない。

「で、どうなんですか真代さんの容体は?」
「予断を許さない状態のまま変わりありません」
「そうですか・・」
佐伯の落胆した声に、佑子の表情も曇った。
「いったいどうして、こんな事になったんですか?何故、理得が撃たれなきゃならないんですか?撃ったのは誰なんですか?」
佑子の矢継ぎ早の質問に、佐伯は一瞬答えに窮したが、佑子の真剣な表情を見て、捜査に関わらない事だけ話すことにした。
「八景島でテロがありまして、それの巻き添えになったんです。撃ったのはユ−リ・マロエフという男で、今霊安室で眠っています」
「ユ−リ・マロエフ・・・?日本の人ではないんですか?」
「ええ、ある国の工作員です」
そこまで聞いた佑子は顔色を失った。

「まさか・・その人って、まさか・・そんな、理得を撃った人は・・・」
「真代さんから何か聞いていたんですか?」
佐伯は刑事の顔になって、佑子に質問する。
「いえ、話は何となく、理得はその人を忘れられなかったようです・・」
「本当にその人に撃たれたんですか?」
「そうです、でも彼女は胸の前にあった爆弾のタイマ−を止める為に撃たれたんです。タイマ−が壊されなければ、どんなことになっていたか、小さな子供たちが沢山犠牲になったかも知れません」
「なんて、むごい・・」
佑子は理得が彼のことを愛しているのが何となく分かっていただけに、身を切られるように辛かった。

「真代さんのおかげで、救われたんです」
呟くように言った佐伯の言葉に、佑子は悲しげに答えた。
「でも、理得のお腹にも小さな命がいるんです・・、父親はその人なんですね・・・」
佐伯はその言葉を聞いて、顔を上げた。
「多分そうだと思います・・」
しんと静まり返った廊下に、佐伯の声が響いた。

二人とも何も言わないまま、重苦しい時間だけが過ぎていく。
「ご家族の方には、もう・・」
佐伯の問いかけに、佑子は口を開いた。
「お父さんは再婚していて、まりあちゃんは今富さんの田舎に一緒に行くって今朝退院しました。たしか秋田だって言ってました、でも連絡先は知らないんです、理得の手帳でもあれば分かるんですけど・・・」
「そうですか、たぶん真代さんの手帳は警察の方にあると思います。では、署に帰って私の方で調べて連絡します」
佐伯はそう言って、佑子に会釈すると帰っていった。
佑子はその後ろ姿を見つめながら、理得の事を考えていた。
そして考えれば考えるほど、理得の苦しみや悲しみが波のように襲ってくるのだった。